技師
雪解けには、まだしばらく時間がかかりそうだった。
それでもヴァルディア領を包む空気は、少しずつではあるが確実に変わり始めている。
宿場の周辺には市場が生まれ、街道には小規模ながら商隊の姿も戻りつつあり、少し前まで人影すらまばらだった頃と比べれば、その違いは誰の目にも明らかだった。
もっとも、本格的な交易が戻ったわけではない。
雪はまだ街道のあちこちに残り、昼間に気温が上がれば溶けた雪で道は泥濘み、夜になれば今度はそれが凍り付く。
荷車の車輪が沈み込み、立ち往生する場所も多く、商人たちにとって決して楽な道ではなかった。
それでも、完全に人と物の流れが止まっていた頃よりは遥かに良い。
そして人が動き始めれば、今まで見えていなかった問題も浮かび上がってくる。
その日の宿場市場では、何人かの商人たちが焚き火を囲みながら、疲れた顔で街道の状況について話していた。
「北側はまだ酷いな。古い橋は使えないし、迂回路も泥だらけだ。昨日なんか車輪が半分埋まったぞ」
湯気の立つ椀を抱えた商人がぼやくと、隣に座っていた男も苦い顔で頷いた。
「こっちは車軸が折れた。荷を半分降ろして、ようやくここまで来たんだ」
「冬が明けるまでは仕方ねぇさ。今の時期に通れるだけでもマシだろ」
誰かが諦めたように言うと、周囲からも似たような声が上がる。
街道そのものは、以前と比べればかなり使えるようになった。
盗賊の数も減り、兵士が巡回するようになったことで安全性も上がっている。
だが今度は、そこを走る荷車の方が問題になっていた。
商人たちが使っている荷車の多くは、何年も修理を繰り返しながら使われてきた古いものだった。
木製の車輪は細く、車軸も傷んでおり、荷台には必要以上に重い木材が使われている。
それでも乾いた道なら何とか走ることができるが、雪や泥に覆われた街道では、そのわずかな欠点がすぐに故障へ繋がってしまう。
長く戦乱が続いてきたこともあり、商人たちも荷車を改良する余裕などなかった。
壊れたら直し、また壊れれば継ぎ足して使う。
それが当たり前になっていた。
「まあ、こんなもんだろ」
一人の商人が肩を竦めた、その時だった。
「仕方なくない!!」
突然響いた怒鳴り声に、焚き火を囲んでいた商人たちはもちろん、近くの露店商まで一斉に振り返った。
そこに立っていたのは、二十代半ばほどの若い男だった。
ぼさぼさの黒髪に、油染みのついた古い外套。旅人にしては荷物が少なく、職人にしては身なりがあまりにも酷い。
痩せた身体をしているが、その目だけは妙に鋭く、目の前の荷車を睨み付けるように見ていた。
男は商人たちの視線など気にすることなく、一台の荷車へ歩み寄ると、車輪を指差した。
「何だ、この構造は! 車輪が細すぎるだろ! こんなので雪道や泥道を走ったら沈むに決まってる!」
商人たちは呆気に取られたが、男は止まらない。
今度はそのまま荷車の下へ潜り込み、外套が泥に汚れることすら気にせず、車軸を何度も叩いて状態を確かめ始めた。
「うわ、最悪だ……。軸も弱いし、位置まで前すぎる。これじゃ荷重が馬に掛かりすぎるだろ。誰だよ、こんな作りにしたの」
「……何だ、あいつ」
近くにいた露店商が小声で呟く。
別の男も、不審そうに眉をひそめた。
「知らん。また変なのが流れてきたんじゃないか?」
そんな声も聞こえていたはずだが、男はまったく気にしていなかった。
荷車の下から這い出ると、今度は荷台を叩きながら木材の厚みを確かめ、ますます不満そうな顔になる。
「荷台も重すぎる。こんなに厚い板を使う必要あるか? 荷物を運ぶための荷車が、自分の重さで馬を潰してどうするんだよ」
そこへ、市場の巡回をしていたリゼがやってきた。
人だかりができているのを見つけ、何事かと近付いてくる。
「何の騒ぎですか」
その声に男が勢いよく振り返った。
そして、まるで待っていたとでもいうように叫んだ。
「技術軽視です!」
あまりにも予想外の返答に、リゼは一瞬言葉を失う。
「……何ですって?」
「だから、この荷車ですよ!」
男は勢いよく車輪を叩く。
「こんな構造で泥道を走らせてるんです。車輪は細いし、軸は弱いし、重量配分までおかしい。これじゃ壊してくださいって言ってるようなものでしょう!」
さすがに荷車の持ち主だった商人も腹を立てたらしく、声を荒らげた。
「さっきから何なんだ、お前は! ちゃんとここまで走ってきただろうが!」
すると男は、その言葉がよほど気に入らなかったのか、本気で顔をしかめた。
「動けばいいって問題じゃない!」
「何だと?」
「途中で何回止まった!?」
「……二回だ」
「車輪は?」
「一回外れたが……」
「ほら見ろ!」
男は勝ち誇るどころか、さらに腹を立てた。
「それを普通は壊れたって言うんだよ! なんでそれで『動いてる』判定なんだ!」
周囲から思わず笑い声が漏れた。
商人も言い返せず、気まずそうに顔を逸らす。
だが男は構わず話を続けた。
「車輪幅をもう少し広げれば泥に沈みにくくなる。荷台も軽くできるし、車軸の位置を変えれば馬への負担も減らせる。それだけでも走れる距離は変わるし、積める荷物だって増やせる」
言い方こそ乱暴だったが、その内容は思いつきで話しているようには聞こえなかった。
先ほどまで呆れていた商人たちも、次第に黙って男の話を聞き始める。
そこへ、騒ぎを聞きつけたレオたちが市場へやってきた。
レオの隣にはガイゼルが付き、その後ろにはエルクとバルドもいる。
人だかりの少し手前で足を止めたレオが、状況を確認するようにリゼへ尋ねた。
「何があった?」
リゼは少し困ったような表情を浮かべ、荷車の横に立つ男へ視線を向ける。
「荷車に怒っています」
「……荷車に?」
レオが怪訝そうに眉を寄せた、その時だった。
男がレオたちの存在に気付き、何のためらいもなく真っ直ぐ歩いてくる。
すぐにガイゼルが一歩前へ出た。
「止まれ」
低く鋭い声だったが、男はほとんど気にした様子もなく、ガイゼルの横からレオを覗き込むように見た。
「お前がここの領主か?」
そのあまりにも遠慮のない物言いに、周囲の兵士たちがざわついた。
ガイゼルの眉もぴくりと動く。
普通なら、その場で取り押さえられてもおかしくない。
だがレオは特に怒ることもなく答えた。
「今は領主代理だ」
「なら、この荷車をどうにかしろ!」
市場の空気が一瞬止まった。
エルクが額へ手を当て、ガイゼルの表情はさらに険しくなる。
それでも男自身は、自分が無礼なことを言っているという自覚すらないらしい。
レオは少しの間だけ男を見つめ、それから静かに尋ねた。
「名前は?」
「ノア」
男は即答した。
「技師だ」
エルクが眉を上げる。
「技師?」
「ああ」
ノアは振り返り、問題の荷車を指差した。
「この領地、道そのものは前より良くなってる。宿もあるし、市場もできてる。なのに肝心の荷車がこんな状態じゃ、流通は伸びない」
その言葉を聞いた瞬間、レオの目つきがわずかに変わった。
ノアはそれに気付くこともなく話し続ける。
「車輪が細いから泥に沈むし、軸も弱い。荷台は重すぎるし、重量配分も悪いから馬に余計な負担が掛かってる。だから故障も増えるし、一日に進める距離も短くなる」
そこで一度荷車を見上げ、大きく息を吐く。
「全部、無駄だ」
市場にいた商人たちは黙っていた。
実際、荷車の故障は最近になって目立つ問題になり始めている。
街道が使えるようになったことで通行量が増え、その分だけ車輪や車軸の破損も増えていた。つい数日前には、途中で車輪が折れた商隊が、どうしても運べなくなった荷の一部を捨てたばかりだった。
レオはそんな状況を思い出しながら、ノアへ尋ねる。
「直せるのか?」
「当たり前だ」
ノアは間髪入れずに答えた。
そこに迷いはまったくなかった。
「今より軽くできる。泥にも沈みにくくできるし、同じ馬を使ってもっと多くの荷を運べる。壊れにくくすることだってできる」
そう話しているうちに、ノアの目が次第に輝き始める。
「今の荷車は改善できるところだらけなんだよ。少し構造を変えるだけでも、かなり違う」
荷車一台を前に、ここまで熱くなれる人間は珍しい。
普通なら気にも留めないような部分を見て、本気で腹を立て、本気で改善しようとしている。
その熱量は、少し異様ですらあった。
バルドが酒瓶を揺らしながら、楽しそうに笑う。
「また随分と濃いのが来たな」
エルクも呆れたようにため息を吐いた。
「最近、こういう人材ばかり流れてきませんか……」
一方、ガイゼルは警戒を解かず、レオへ低い声を向ける。
「若様。口では何とでも言えます。腕が確かな者かどうかは、まだ分かりませんぞ」
その言葉にレオは答えず、改めてノアを見る。
ぼさぼさの髪に、油と泥で汚れた服。
礼儀もなく、領主代理を前にしているという自覚も薄い。
どう見ても、まともな場所で長く働いてきた人間には見えなかった。
だが、荷車を見ている時の目だけは違う。
どこが悪く、どう変えれば良くなるのか。
その結果、何が変わるのか。
すでに頭の中には、改善した姿まで見えているようだった。
レオは少し考えたあと、静かに口を開く。
「ノア」
「何だ?」
「一台、好きに直してみろ」
一瞬、ノアの表情が固まった。
「……いいのか?」
「ああ。ただし、口で言った通りになるか実際に見せろ」
レオが近くに停められた荷車へ視線を向けると、ノアはしばらく黙ってその顔を見ていた。
どうせ相手にされないと思っていたのかもしれない。
だが次の瞬間、その表情が一気に明るくなる。
「分かってるじゃないか!」
子供のような笑顔だった。
ガイゼルが深いため息を吐き、エルクも頭を抱える。その隣では、バルドだけが楽しそうに笑っている。
そんな三人を気にすることもなく、レオは市場の向こうへ続く街道へ目を向けた。
橋を直し、街道を守り、宿場を作った。
そこに市場が生まれたことで、人と物は少しずつ動き始めている。
ならば次に必要なのは、その流れをさらに遠くへ運ぶ手段なのかもしれない。
どれほど道を整えても、その上を走るものが変わらなければ、いつか限界が来る。
そう考えながらレオが再びノアを見ると、本人はすでに荷車へ戻っていた。
先ほどまで言い争っていた商人を捕まえ、今度は車輪の寸法を測り始めている。
「この車輪、直径はいくつだ?」
「知らねぇよ!」
「じゃあ測る。あと荷台も一回外すぞ」
「待て待て待て! 勝手に解体するな!」
再び市場に騒がしい声が響き、周囲から笑いが起こった。
その光景を眺めながら、レオもわずかに口元を緩める。
止まりかけていた辺境には、少しずつ人が集まり始めていた。
商人も、流民も、兵士も、そして時には、どこにも居場所を見つけられなかった妙な才能まで流れ着く。
街道脇では、溶け始めた雪が細い水となって流れている。
まだ春には遠い。
それでも、冬の終わりと共に動き始めたヴァルディア領へ、また一人、新しい人間が加わろうとしていた。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




