表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

竜と人が暮らすアステリア王国の物語

婚約破棄された令嬢は、山奥で千歳の老竜に拾われました

作者: みき
掲載日:2026/08/24

 エレナ・フォルティスが婚約を破棄されたのは、十八歳の誕生日を三日後にひかえた春のことだった。


 王都の広い広間で、婚約者だった青年は、まるで用意してきた言葉を読むように言った。


「エレナ。君との婚約は、今日で終わりにしたい」


 周りには、彼の友人や貴族の子どもたちがいた。誰も声を出さなかったが、何人かは興味深そうにこちらを見ている。


 エレナはしばらく何も言えなかった。


「……理由を聞いてもよろしいですか」


「君は悪くない。ただ、僕たちは合わなかった。それだけだ」


 その言葉が、一番こたえた。


 悪くないのに、選ばれなかった。


 怒ることもできず、泣くこともできず、エレナはただ頭を下げた。


「わかりました」


 それだけ言って、彼女は広間を出た。


 次の日、エレナは王都を去った。


 実家へ帰れば、家族は受け入れてくれただろう。父も母も、娘を責める人ではない。


 それでも帰れなかった。


 大きな失敗をしたわけでもないのに、家へ戻る自分がひどく小さく思えたからだ。


 だからエレナは、王都から北へ向かう乗合馬車に乗った。


 行き先は決めていなかった。


 ただ、誰も自分を知らない場所へ行きたかった。


     


 三日後。


 エレナは山の中で迷っていた。


「……どうして、こうなったのかしら」


 自分でもよくわからなかった。


 小さな村で馬車を降り、宿を探して歩いていたはずだった。ところが、道をまちがえ、そのまま森へ入り、気がつけば日が落ち始めていた。


 王都育ちの令嬢が、一人で山を歩く。


 どう考えても、いい考えではない。


「落ち着いて。まずは道を探さないと」


 そう言いながらも、足は痛く、くつは泥だらけだった。


 しばらく歩いたころ、木々の向こうに大きな岩山が見えた。


 そして、その下に大きな穴があった。


「洞くつ……?」


 雨が降りそうだった。


 外で夜をこすよりはましだと思い、エレナは中へ入った。


 洞くつの中は思ったより広かった。入口から少し進むと、天井の高い空間が広がっている。


 そして、その真ん中に――。


 山のようなものがあった。


「……え?」


 山が動いた。


 大きな金色の目が開いた。


「ひっ」


 エレナはその場で固まった。


 それは山ではなかった。


 竜だった。


 銀色のうろこに包まれた、見上げるほど大きな竜。頭だけでも馬車より大きい。


 竜はゆっくりと顔を上げた。


『人か』


 低い声が洞くつにひびいた。


 エレナは声も出なかった。


『珍しいな。ここまで人が来るのは久しぶりだ』


「……た、食べないでください」


 ようやく出た言葉が、それだった。


 竜はしばらくエレナを見つめた。


『食べぬ』


「本当に?」


『お前はずいぶん失礼な人間だな』


「す、すみません」


 エレナは反射的に頭を下げた。


 竜は大きく息をはいた。


『それで、何をしに来た』


「道に迷いました」


『なるほど』


「雨も降りそうだったので、少しだけここにいさせてもらえたらと……」


『好きにしろ』


「ありがとうございます」


 エレナはほっとして、洞くつのはしに座った。


 その直後だった。


 ぐうううう。


 大きな音がした。


 エレナは顔を赤くした。


 竜がこちらを見る。


『腹が減っているのか』


「……少し」


『少しには聞こえなかったが』


 竜は前足を動かした。


 その向こうには、大きな木の実や干した肉が積んであった。


『食べてよい』


「いいんですか?」


『人間一人が食べたところで減りはせぬ』


 エレナは何度も礼を言ってから、木の実を一つ取った。


 見たことのない赤い実だったが、かじると甘かった。


「おいしい……」


『そうか』


 それから、少しだけ会話をした。


 竜の名前はグラウス。


 この山に長く住んでいるという。


「長くって、どれくらいですか?」


『千年ほどだ』


 エレナは木の実を落としかけた。


「千年?」


『おそらくな。途中から数えるのをやめた』


 千年。


 エレナには想像もできなかった。


「じゃあ、アステリア王国ができる前から?」


『あったぞ。今とはずいぶん違ったがな』


「共生盟約が結ばれた時も?」


『見ていた』


 エレナは思わず身を乗り出した。


 人と竜が共に生きるきっかけとなった、三百年前の約束。


 学校では何度も習った。


「本当に?」


『人間は、竜が何でも知っていると思いすぎだ』


「でも、三百年前ですよ」


『私にとっては、それほど昔ではない』


 エレナは笑った。


 婚約がなくなってから、初めて自然に笑った気がした。


     


 その夜、雨は激しく降った。


 エレナは洞くつのすみで毛布にくるまり、火のそばに座っていた。


 グラウスはまた眠っている。


 けれど、エレナは眠れなかった。


 雨の音を聞いていると、王都でのことが頭に浮かぶ。


 あの広間。


 周りの目。


 婚約者の言葉。


 悪くないのに、選ばれなかった。


「……情けないな」


『何がだ』


 突然、声がした。


 エレナは顔を上げた。


「起きていたんですか」


『竜は人間ほど深く眠らぬ』


「そうなんですね」


『それで、何が情けない』


 エレナは少し迷った。


 けれど、千年生きた竜なら、知らない人に話すよりもずっと気が楽な気がした。


「婚約を破棄されたんです」


『こんやく』


「結婚する約束です」


『それくらいは知っている』


「すみません」


 グラウスは少し顔を近づけた。


『それで?』


「相手に、合わないと言われました」


『そうか』


「それだけですか?」


『他に何を言えばよい』


「もっと、何かありませんか。ひどい男だとか、見る目がないとか」


『私はその男を知らぬ』


「……それはそうですね」


 エレナは少し笑った。


 グラウスは続けた。


『お前は、その男と結婚したかったのか』


「それは……」


 すぐには答えられなかった。


 子どものころから決まっていた婚約だった。


 いつか彼と結婚する。


 それが普通だと思っていた。


『好きだったのか』


「嫌いではありませんでした」


『好きだったのか』


 同じことを聞かれた。


 エレナは黙った。


「……わかりません」


『ならば、失ったのは男ではないのかもしれんな』


「え?」


『お前が失ったと思っているのは、これからそうなると思っていた未来ではないのか』


 エレナは顔を上げた。


『人間は、まだ起きていないことまで自分の物にしたがる』


「……千年生きた竜らしいことを言いますね」


『今思いついた』


「えっ」


『私は別に賢者ではない』


 思わずエレナは声を出して笑った。


 洞くつに自分の笑い声がひびいた。


 その夜、エレナはよく眠った。


     


 翌朝。


 雨はやんでいた。


「ありがとうございました。そろそろ村へ戻ります」


『そうか』


 エレナは荷物を持った。


 けれど、洞くつの入口まで行ったところで止まった。


「……あの」


『何だ』


「村は、どちらでしょう」


『知らぬ』


「え?」


『人間の村など何十年も見ていない』


 エレナは頭を抱えた。


「そんな……」


『空から探せばすぐだ』


「空?」


 グラウスが立ち上がった。


 大きな体が動くだけで、洞くつの中に風が起きた。


『乗れ』


「乗る?」


『背中に』


 エレナは固まった。


「私が?」


『他に誰がいる』


「でも、竜に乗るなんて……」


『嫌なら歩け』


「乗ります」


 即答だった。


 グラウスは洞くつの外へ出た。


 朝の光を受けて、銀色のうろこがまぶしく光る。


 エレナは何とか背中へよじ登った。


『落ちるなよ』


「ちょっと待ってください。心の準備が――」


 翼が開いた。


「きゃあああああ!」


 次の瞬間、体が空へ持ち上がった。


 風が顔に当たる。


 山が下へ遠ざかっていく。


 エレナは必死にグラウスの背にしがみついた。


「高い! 高いです!」


『空なのだから当然だ』


「もう少し低く!」


『木にぶつかる』


「それは困ります!」


 やがて、恐ろしさよりも景色の美しさが勝った。


 どこまでも続く森。


 朝日を受ける山。


 遠くに小さな村が見える。


 さらにその向こうには街道があり、もっと遠くには王都へ続く平原が広がっていた。


「……きれい」


 エレナは思わずつぶやいた。


 昨日まで、世界はひどく狭いと思っていた。


 王都。


 家。


 婚約者。


 自分の未来。


 それが全部だった。


 けれど空から見ると、世界はあまりにも広かった。


 知らない村がある。


 知らない山がある。


 知らない道が、地平線の向こうまで続いている。


『あれが村ではないか』


「たぶんそうです」


『では下りるぞ』


「やさしくお願いします!」


 グラウスは村の少し外に下りた。


 地面に足がついた時、エレナはしばらく立てなかった。


『弱いな、人間は』


「初めて竜に乗ったんです!」


『私は初めて人を乗せたが平気だったぞ』


「比べないでください」


 エレナは笑った。


 そして、ふとさびしくなった。


「グラウスは、これからもあの山に?」


『そのつもりだ』


「一人で?」


『一頭で、だ』


「さびしくありませんか」


 グラウスは少し考えた。


『時々な』


 意外な答えだった。


 エレナは村の方を見る。


 それから、山を見る。


 もう一度グラウスを見る。


「また会いに行ってもいいですか」


『好きにしろ』


「それ、昨日も言いましたね」


『便利な言葉だからな』


 エレナは笑った。


「では、また来ます」


『迷子にならずにな』


     


 それから半年後。


 山のふもとの小さな村に、新しい家ができた。


 住んでいるのは、王都から来た若い女性だった。


 名前はエレナ。


 村では、読み書きのできない人の手紙を書いたり、商人の帳面を手伝ったりして暮らしている。


 貴族の娘だったことを知る者は少ない。


 婚約を破棄されたことを知る者は、もっと少なかった。


 エレナ自身も、もうあまり話さなくなった。


 春のある日。


 彼女は大きなかごを持って山道を歩いていた。


「グラウスー!」


 山の上から、大きな銀色の頭がのぞいた。


『今日は遅かったな』


「村のおばあさんの手紙を書いていたんです」


『そうか』


「パンを持ってきました」


『またか』


「嫌なら持って帰りますよ」


『嫌とは言っていない』


 エレナは笑いながら洞くつへ入った。


 あの日失った未来は、まだ戻ってこない。


 たぶん、もう戻ることもない。


 けれど、それでよかった。


 未来は一つではなかったのだ。


 王都の広間で終わったと思った人生は、山の中で、千年生きた一頭の竜に出会って、もう一度始まった。


 そして今日も、竜と人が暮らすアステリア王国のどこかで、誰かの新しい一日が始まっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ