婚約破棄された令嬢は、山奥で千歳の老竜に拾われました
エレナ・フォルティスが婚約を破棄されたのは、十八歳の誕生日を三日後にひかえた春のことだった。
王都の広い広間で、婚約者だった青年は、まるで用意してきた言葉を読むように言った。
「エレナ。君との婚約は、今日で終わりにしたい」
周りには、彼の友人や貴族の子どもたちがいた。誰も声を出さなかったが、何人かは興味深そうにこちらを見ている。
エレナはしばらく何も言えなかった。
「……理由を聞いてもよろしいですか」
「君は悪くない。ただ、僕たちは合わなかった。それだけだ」
その言葉が、一番こたえた。
悪くないのに、選ばれなかった。
怒ることもできず、泣くこともできず、エレナはただ頭を下げた。
「わかりました」
それだけ言って、彼女は広間を出た。
次の日、エレナは王都を去った。
実家へ帰れば、家族は受け入れてくれただろう。父も母も、娘を責める人ではない。
それでも帰れなかった。
大きな失敗をしたわけでもないのに、家へ戻る自分がひどく小さく思えたからだ。
だからエレナは、王都から北へ向かう乗合馬車に乗った。
行き先は決めていなかった。
ただ、誰も自分を知らない場所へ行きたかった。
三日後。
エレナは山の中で迷っていた。
「……どうして、こうなったのかしら」
自分でもよくわからなかった。
小さな村で馬車を降り、宿を探して歩いていたはずだった。ところが、道をまちがえ、そのまま森へ入り、気がつけば日が落ち始めていた。
王都育ちの令嬢が、一人で山を歩く。
どう考えても、いい考えではない。
「落ち着いて。まずは道を探さないと」
そう言いながらも、足は痛く、くつは泥だらけだった。
しばらく歩いたころ、木々の向こうに大きな岩山が見えた。
そして、その下に大きな穴があった。
「洞くつ……?」
雨が降りそうだった。
外で夜をこすよりはましだと思い、エレナは中へ入った。
洞くつの中は思ったより広かった。入口から少し進むと、天井の高い空間が広がっている。
そして、その真ん中に――。
山のようなものがあった。
「……え?」
山が動いた。
大きな金色の目が開いた。
「ひっ」
エレナはその場で固まった。
それは山ではなかった。
竜だった。
銀色のうろこに包まれた、見上げるほど大きな竜。頭だけでも馬車より大きい。
竜はゆっくりと顔を上げた。
『人か』
低い声が洞くつにひびいた。
エレナは声も出なかった。
『珍しいな。ここまで人が来るのは久しぶりだ』
「……た、食べないでください」
ようやく出た言葉が、それだった。
竜はしばらくエレナを見つめた。
『食べぬ』
「本当に?」
『お前はずいぶん失礼な人間だな』
「す、すみません」
エレナは反射的に頭を下げた。
竜は大きく息をはいた。
『それで、何をしに来た』
「道に迷いました」
『なるほど』
「雨も降りそうだったので、少しだけここにいさせてもらえたらと……」
『好きにしろ』
「ありがとうございます」
エレナはほっとして、洞くつのはしに座った。
その直後だった。
ぐうううう。
大きな音がした。
エレナは顔を赤くした。
竜がこちらを見る。
『腹が減っているのか』
「……少し」
『少しには聞こえなかったが』
竜は前足を動かした。
その向こうには、大きな木の実や干した肉が積んであった。
『食べてよい』
「いいんですか?」
『人間一人が食べたところで減りはせぬ』
エレナは何度も礼を言ってから、木の実を一つ取った。
見たことのない赤い実だったが、かじると甘かった。
「おいしい……」
『そうか』
それから、少しだけ会話をした。
竜の名前はグラウス。
この山に長く住んでいるという。
「長くって、どれくらいですか?」
『千年ほどだ』
エレナは木の実を落としかけた。
「千年?」
『おそらくな。途中から数えるのをやめた』
千年。
エレナには想像もできなかった。
「じゃあ、アステリア王国ができる前から?」
『あったぞ。今とはずいぶん違ったがな』
「共生盟約が結ばれた時も?」
『見ていた』
エレナは思わず身を乗り出した。
人と竜が共に生きるきっかけとなった、三百年前の約束。
学校では何度も習った。
「本当に?」
『人間は、竜が何でも知っていると思いすぎだ』
「でも、三百年前ですよ」
『私にとっては、それほど昔ではない』
エレナは笑った。
婚約がなくなってから、初めて自然に笑った気がした。
その夜、雨は激しく降った。
エレナは洞くつのすみで毛布にくるまり、火のそばに座っていた。
グラウスはまた眠っている。
けれど、エレナは眠れなかった。
雨の音を聞いていると、王都でのことが頭に浮かぶ。
あの広間。
周りの目。
婚約者の言葉。
悪くないのに、選ばれなかった。
「……情けないな」
『何がだ』
突然、声がした。
エレナは顔を上げた。
「起きていたんですか」
『竜は人間ほど深く眠らぬ』
「そうなんですね」
『それで、何が情けない』
エレナは少し迷った。
けれど、千年生きた竜なら、知らない人に話すよりもずっと気が楽な気がした。
「婚約を破棄されたんです」
『こんやく』
「結婚する約束です」
『それくらいは知っている』
「すみません」
グラウスは少し顔を近づけた。
『それで?』
「相手に、合わないと言われました」
『そうか』
「それだけですか?」
『他に何を言えばよい』
「もっと、何かありませんか。ひどい男だとか、見る目がないとか」
『私はその男を知らぬ』
「……それはそうですね」
エレナは少し笑った。
グラウスは続けた。
『お前は、その男と結婚したかったのか』
「それは……」
すぐには答えられなかった。
子どものころから決まっていた婚約だった。
いつか彼と結婚する。
それが普通だと思っていた。
『好きだったのか』
「嫌いではありませんでした」
『好きだったのか』
同じことを聞かれた。
エレナは黙った。
「……わかりません」
『ならば、失ったのは男ではないのかもしれんな』
「え?」
『お前が失ったと思っているのは、これからそうなると思っていた未来ではないのか』
エレナは顔を上げた。
『人間は、まだ起きていないことまで自分の物にしたがる』
「……千年生きた竜らしいことを言いますね」
『今思いついた』
「えっ」
『私は別に賢者ではない』
思わずエレナは声を出して笑った。
洞くつに自分の笑い声がひびいた。
その夜、エレナはよく眠った。
翌朝。
雨はやんでいた。
「ありがとうございました。そろそろ村へ戻ります」
『そうか』
エレナは荷物を持った。
けれど、洞くつの入口まで行ったところで止まった。
「……あの」
『何だ』
「村は、どちらでしょう」
『知らぬ』
「え?」
『人間の村など何十年も見ていない』
エレナは頭を抱えた。
「そんな……」
『空から探せばすぐだ』
「空?」
グラウスが立ち上がった。
大きな体が動くだけで、洞くつの中に風が起きた。
『乗れ』
「乗る?」
『背中に』
エレナは固まった。
「私が?」
『他に誰がいる』
「でも、竜に乗るなんて……」
『嫌なら歩け』
「乗ります」
即答だった。
グラウスは洞くつの外へ出た。
朝の光を受けて、銀色のうろこがまぶしく光る。
エレナは何とか背中へよじ登った。
『落ちるなよ』
「ちょっと待ってください。心の準備が――」
翼が開いた。
「きゃあああああ!」
次の瞬間、体が空へ持ち上がった。
風が顔に当たる。
山が下へ遠ざかっていく。
エレナは必死にグラウスの背にしがみついた。
「高い! 高いです!」
『空なのだから当然だ』
「もう少し低く!」
『木にぶつかる』
「それは困ります!」
やがて、恐ろしさよりも景色の美しさが勝った。
どこまでも続く森。
朝日を受ける山。
遠くに小さな村が見える。
さらにその向こうには街道があり、もっと遠くには王都へ続く平原が広がっていた。
「……きれい」
エレナは思わずつぶやいた。
昨日まで、世界はひどく狭いと思っていた。
王都。
家。
婚約者。
自分の未来。
それが全部だった。
けれど空から見ると、世界はあまりにも広かった。
知らない村がある。
知らない山がある。
知らない道が、地平線の向こうまで続いている。
『あれが村ではないか』
「たぶんそうです」
『では下りるぞ』
「やさしくお願いします!」
グラウスは村の少し外に下りた。
地面に足がついた時、エレナはしばらく立てなかった。
『弱いな、人間は』
「初めて竜に乗ったんです!」
『私は初めて人を乗せたが平気だったぞ』
「比べないでください」
エレナは笑った。
そして、ふとさびしくなった。
「グラウスは、これからもあの山に?」
『そのつもりだ』
「一人で?」
『一頭で、だ』
「さびしくありませんか」
グラウスは少し考えた。
『時々な』
意外な答えだった。
エレナは村の方を見る。
それから、山を見る。
もう一度グラウスを見る。
「また会いに行ってもいいですか」
『好きにしろ』
「それ、昨日も言いましたね」
『便利な言葉だからな』
エレナは笑った。
「では、また来ます」
『迷子にならずにな』
それから半年後。
山のふもとの小さな村に、新しい家ができた。
住んでいるのは、王都から来た若い女性だった。
名前はエレナ。
村では、読み書きのできない人の手紙を書いたり、商人の帳面を手伝ったりして暮らしている。
貴族の娘だったことを知る者は少ない。
婚約を破棄されたことを知る者は、もっと少なかった。
エレナ自身も、もうあまり話さなくなった。
春のある日。
彼女は大きなかごを持って山道を歩いていた。
「グラウスー!」
山の上から、大きな銀色の頭がのぞいた。
『今日は遅かったな』
「村のおばあさんの手紙を書いていたんです」
『そうか』
「パンを持ってきました」
『またか』
「嫌なら持って帰りますよ」
『嫌とは言っていない』
エレナは笑いながら洞くつへ入った。
あの日失った未来は、まだ戻ってこない。
たぶん、もう戻ることもない。
けれど、それでよかった。
未来は一つではなかったのだ。
王都の広間で終わったと思った人生は、山の中で、千年生きた一頭の竜に出会って、もう一度始まった。
そして今日も、竜と人が暮らすアステリア王国のどこかで、誰かの新しい一日が始まっている。




