この世界には、猫が棲んでいる
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この世界には、猫が棲んでいる
通勤途中の歩道で突然眩暈に襲われた。よろよろと足元もおぼつかない僕に道行く人の目は冷淡だ。一様に迷惑そうな顔をしている。僕はどうにか街路樹に手を押し付けしばらく休むことにした。世界が回る。目の前が真っ暗になる。動悸が酷い。やっとのことで僕は街路樹に背中を預けることが出来た。そのまま目を閉じた。
どれくらい時間が経っただろう、或いは意識を失っていたかもしれない。ようやく眩暈が落ち着いてくると、
「やれやれ。何人もこちらに来たが、気を失わない人間はキミが初めてだ」そんな声が聞こえた。眩暈が治ってきたとはいえ、未だに視界がぼんやりしていたし、人々の声が鉄を切る硬質な音のような酷い耳鳴りが遠ざかって行くようになりやがて聞こえなくなった。そんな僕に先ほど聞こえた声で誰かが話しかけてきた。不思議とこの声だけははっきりと聞こえた。
「こっちだこっち、上を見ろ」言われた通りまだはっきりしない視線を一層暗く見える街路樹の枝に向けた。そこには影に溶け込むような黒猫がいた。
「猫?」
「いかにも。キミはこちらの世界に来たんだ」
「え、どこに?」
「私たちの世界にだ」先程から目が回復していないのか訳の分からないものがチラつく。
「キミたちの世界?それはいいことなの?」
「キミ次第だな。周りの音を聴いてみろ」先程はそんな余裕がなかったが、僕は黒猫に言われた通り耳を澄ませて。車の走る排気音、人々の歩く足音。いつも通りだ。
「いつも通りだけど」
「では視界はどうかな?」と黒猫。そう言われてみれば何かが変だ。あらゆる建物や看板に書かれていたものが、まるで解き放たれた猛獣が僕の視界に襲いくるような衝撃だ。
「文字が、読めない」読めないどころか意味が分からない。
「キミがどうなるか楽しみだよ。ではまたな人間」と言って黒猫は去って行った。
「待ってくれ」と言ったつもりだが自分が出した音は全くの無音だった。
とりあえず出勤しなくちゃと会社に行ったが、周囲の人達が何を言っているのか理解できない。おまけにこちらも全く声が出ない。
なんとか周りに伝えようと身振り手振りで伝えようとしたが、間違って伝わったようで、僕は喋れなくなり、耳が聞こえなくなったと伝わってしまった。同僚が部長の所へ僕を連れて行き説明した。部長は何か言ったようだが僕は分からないという素振りをしていると、筆談ならできると思ったのだろう、文字を書いて見せられた。が、それすら意味が分からない。どうしたものかと思っている様子をみせたあと、部長が同僚に何かを伝え、同僚が僕の手を引きどこかへ連れて行こうとした。僕はされるがままに身を任せた。
数十分後、僕は精神科の病院にいた。同僚も一緒だ。予約なしの飛び込みなので、結構な時間待たされ呼び出された。同僚が代理で説明したが、精神科の医者も困惑を隠せなかった。診察?なのかジェスチャーで声を出してみてとか自分の言ったことが聞こえるかとか、この文字は読めるかとか色々と試された。結局何一つ通じることなく過度のストレスということに収まったようだ。帰りには診断書を持たされた。会社に戻ると、やはり同僚が部長に経緯を伝え、同僚はカレンダーを使ったジェスチャーで一ヶ月の休職ということを僕に伝えているようだ、そして今日はそのまま帰るよう言われたようだった。
僕はそのまま家に帰る気になれず朝黒猫にあった場所へと向かった。黒猫はいなかった。天気もいいし公園でも行こうと僕は呑気にそう思い歩みを向けた。公園は新緑の緑に染まっていた。スーツを脱ぎ公園の芝に寝転んで目を瞑っていると、生暖かい風が新緑の香りを運んできた。ぼくは眠気に襲われたが、そんな時こちらに近づいてくる話し声が聞こえた。僕は治ったんだと思いその場で素早く身体を起こすとそこには猫が二匹言葉を交わしていた。
「ん、この人間やたらとこっちを見てないか?」
「そういうものでしょ?人間って猫好きが多いらしいから」僕はひょっとしたらこちらの言葉も届くかもしれないと思い勇気を出して話しかけてみた。
「やあ、こんにちは」
「お前、俺たちの言葉がわかるのか?」猫は警戒しながらそう言った。
「そうなんだ。眩暈がして気づいたらこうなってた」
「そうなの?あなたが私たちと話せると言ったのってクロ様?」
「名前はわからないけど、確かに黒猫だったよ。特に猫さんと話せるとは言われてない。ただこちらの世界に来たんだとは言われたけど」僕がそう言うと猫は警戒を解いて、
「困ってるんだよ。人間の言葉が分からなくなっちゃったんだ」
「そりゃそうだ。お前はこちらの世界に入っちまったんだから」
「こちら側ってどう言うことなんだい?」
「俺にも分からんよ、ただ稀にいるみたいだぞ。お前みたいにこちらの世界に来る人間が」
「その人達はどうなったんだい?」
「俺も実際会うのは初めてだから分からん。
今日は集会があるからお前も来てみるか?」
「行って大丈夫?」
「多分」
「多分って、襲われたりしない?」
「お前、俺たちをなんだと思ってるんだ、人間や猪じゃあるまいし、そりゃ喧嘩っ早い奴はいるだろうけど、静かにしてれば大丈夫だろう」
「じゃあ行ってみようかな」
「決めたようだな。じゃあ俺が迎えにきてやるよ。ここでいいよな?近くなんだ」
「ありがとう、やっぱり夜?」
「昼過ぎだよ。報酬としてなんか食べ物くれないか?」
「しっかりしてるなあ」僕は持って来た弁当からおかずを少し分けた。猫たちは食べるとすぐどこかへ去ってしまった。
昼過ぎ、さっきの猫が約束通り迎えに来た。
「なんだお前、ずっとここにいたのか?」
「街に溢れてる人間の言葉が怖くてさ、情けないだろう」
「そういうもんか。じゃ行こうか。すぐそこの茂みだよ」言われるまま猫に着いていくと薄暗い緑色の中に二十匹ほどの猫が集まっていた。様々な色の猫達だ。親子もいた。猫たちは僕を見るなり逃げようとしたが、
「コイツは大丈夫。こちら側だ」と連れて来てくれた猫が言うと、今度は興味津々こちらに話しかけてきた。
「人間、抱っこしてー」仔猫達が足元をぐるぐる回る。
「どうやってこちらに来たんだ?」僕は圧倒されてしまい、
「あの、新参者ですが宜しくお願いします。どうやってこちら側に来たのか僕にもさっぱりわかりません、眩暈がした後にはこちらに来ていました」と真面目に答えていた。
「挨拶から入るなんてできた人間だ」
「シッ、クロ様よ」その言葉通り、深緑の影からクロ様が現れた。
「やあ人間、どうやら皆と仲良くなったみたいだな」
「キミはリーダー的な存在だったんだね」
「おい、お前。クロ様になんて口の利き方をするんだ。いいかクロ様はな」クロ様は言葉を制すると、
「いいんだ。彼は特別だよ」
「はあ、クロ様がそう仰るんでしたら。コイツはそんなに特別なんですかい?」
「ああ、そうだ。この世界にこんなに早く馴染んだ人間は初めてだ。それにしても人間と呼び続けるのもなんだね。キミたちはひとりひとりを区別する言葉があるんだろう?」
「次元大介と申します。大介と呼んでください」
「よろしく大介。改めて歓迎するよ。ああそんなに畏まらなくていい、私のことはクロでいいよ」周りの猫達がざわついた。
「それじゃあ遠慮なく。クロ、この集会はなんの集会なんだい」
「ああ、周期的に行うちょっとした注意喚起さ。例えば、人間に注意した方がいいとかね。以前は石を投げる程度だったんだけど、刃物を使う人間もいるから。どうも最近被害が多い気がする。それに猪や熊なんかも町に降りて来てる。そういったことを皆に伝えようと思ってね」
「そうなんだ」
「私のできる範囲だけになってしまうけど。他の地域にも私みたいな存在はいると思う」
「ところでクロ。僕みたいな人は他にはいないのかい?」
「ん、いたよ。私は長く生きているが、キミ以外には数人見た」
「その人たちはどうなった?」
「私が知っている限り、殆どは気が狂ってしまったみたいだね。もう一人はいつの間にかいなくなっていた。だいたい居場所はわかるが」
「元に戻ったのか?」
「そんなこと聞いてどうするんだい?私にもこの世界から戻る方法は分からないよ。言ったろ?それはキミ次第だと」
集会が終わると何匹かの猫達が僕の足元に止まった。
「お前は俺たちに酷いことをしないよな?」
「ああ、そんなつもりはないよ。お世話になることも多いだろうし、こちらこそ仲良くしてくれると嬉しいな」
「あのクロ様がお認めになった人間だもの、信じましょう?」
「俺たちも大介って呼んでもいいか?」
「勿論いいよ、こっちも何かあったら力になりたい。猫さん達が危険に遭うのは僕の望む所じゃないしね。それに僕には他に頼れる相手がいない」
「そうよね。大介は人間の言葉が分からなくなっちゃったのよね?」
「うん、でもどうやって生活してたかは覚えてるから、言葉以外はなんとかなりそうかな。しばらくは様子見するよ」
とは言ったものの、帰りに寄ったスーパーで札の意味が分からない。幸いなのは無人レジだったことだ。人から値段を言われても分からないが、幸い数字は同じ形を探せばなんとかなる。そう考えているうちに僕の後ろには列ができていた。これには焦ったが僕は試行錯誤しながらなんとか買い物ができた。出て行く時に足を引っ掛けられ僕は派手に転んだ。それを見ていた人たちの顔は笑っていた。
そんな思いをしてまで買い物に行ったのは僕に家族ができたからだ。クロの提案で二匹の子連れの猫を家で保護することになった。だが家はぺット禁制のアパートだ。禁制とはいえ、犬や猫を飼っている住人は少なくないのが幸いだ。老夫婦が道楽でやってるアパートなのでルールは緩いのだ。仔猫たちには「騒ぐのは禁止」と伝えたが、聞くわけがなかった。母猫からも言ってもらったのだが、やはり仔猫というのははしゃぐものだ。仕方がない。
「大介おしっこしたい」
「え?」困った僕は、一応猫を服の中に隠して外へ出て、そこでおしっこをさせた。明日になったら必要なものを買ってこなければ。できるだろうか、いややるしかない。母猫のご飯は鰹節ご飯で我慢してもらった。猫たちは僕に寄り添って眠った。
翌日仕事もない僕は早速近所のホームセンターに向かい、猫の絵が描いてある商品を使用法を絵から想像して買い込んだ。帰るとアパートの塀の上にクロがいた。
「苦労してるみたいだね」
「うん。でも賑やかでいいよ」
「やっぱりキミに任せて正解だったようだ。実はもう一匹仔猫がいたんだけど、人間の子どもに蹴り殺されたんだ。それくらい物騒なんだよ」
「子どもが?」
「ああ、残酷だよね。勿論キミを責めてる訳じゃない。一般的な話だよ。私たちにも争いはあるが命までは取らない」
「ごめん、そう言われてもなんて言ったらいいか」
「そういうものなんだ。仕方ないさ。人間の世界だってそうだろう?それにキミひとりが人間の業を背負うことはできない。それじゃあそろそろ私は行くよ」
「うん、様子を見に来てくれてありがとう」クロが去るのを見ていた。クロは僕がちょっと目を離した間に姿を消していた。そのあと僕は猫たちが家で最低限生活できるように買ってきたものを広げた。
「大介、私たちのために色々用意してくれて本当にありがとう。大変だったでしょう?」
「いや、僕の方こそここにいてくれてありがとう。キミたちがいなかったら今頃気が狂っていたかもしれない、お互い様さ」
「さてと、僕はちょっと出掛けてくるよ」
「ちょっと大丈夫?あなたは普通じゃないのよ?」
「今の自分が何が出来て何が出来ないか確かめてこなきゃ」
「まあ、そう言うのなら止めないけど。帰って来てね」
「大丈夫。そんなに遠くまでいかないから。それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。無理しちゃダメよ」
僕は背中越しに手を振り、街へ出かけた。電車には乗れた。目が見えて、音だけでも聞こえればなんとかなるものだ。電車の音、街の喧騒は相変わらずだった。ただやはり人の言葉がわからない。そんなことを考えて歩いていると、大柄な男と肩がぶつかった。
「ってえな」僕は手を合わせて謝ったが、男は僕の襟を掴んで、
「痛えって言ってんだろ」口がきけないことをジェスチャーで伝えようとしたが、許してくれそうもない。僕は殴られその場に頽れた。そして男が財布を奪おうとして来たので、僕は必死に抵抗した。僕は悲鳴をあげたが、如何せん声にならない。男はさらに数発蹴りを入れてくる。僕はなんとしても財布だけは守らなければと亀のように丸まった。しばらくして拳の雨が止み立ち去る音が聞こえた。顔を上げると男は周囲の人たちに何か言いながらどこかへ行ってしまった。僕はなんとか呼吸を整え自販機の所まで這って行った。道行く人はそんな僕をチラチラと見るだけで足早に通り過ぎて行った。以前の僕だってそうしたにちがいない。
僕は自販機で買えるだけのお金を入れ、冷たそうなイメージのする青いボタンを押し手に入れたコーヒー缶で両頬を冷やしながら、建物の隅に座ってぼんやりと街を見ていた。知らない顔、知らない言葉が風のように僕を通り過ぎては消えていった。
帰るなり、猫たちは顔を腫らした僕を心配して足元に寄ってきた。
「その怪我どうしたの」
「ちょっと転んでね。冷やしておけば大丈夫だよ」
「そう、ならいいのだけど」
「じゃあ、ご飯にしようか」僕は多めに作って冷やしておいた母猫用のご飯を少し小皿に盛って出してあげた。母猫は満足そうに食べた。食べ終えると身体を横たえ仔猫たちにミルクを与えていた。このまま治らずにこちらの世界にいられたらどんなにいいだろうと考えていた。
深夜、外でタバコを吸っているとクロが闇の中から現れた。僕はタバコの火をを消した。
「気にしなくて良いのに。ところで今日は何をしていたんだい?」
「街へ行ってみたよ。酷い目にあったけど」
「その怪我のことかい?」
「それもそうだけど、なんていうかこれだけ同族がいるのに僕の味方はいないってことがわかった」
「それは貴重な体験だね」
「元の世界には他人との繋がりがな買ったんだね。そもそも人が言葉を持っていなかった時代はどうやって生きていたんだろう」すると黒は笑いながら、
「私もそこまで長生きじゃないからそれは答えられないな。私に言えることがあるとしたら、考えることさ。所詮私たちは現象に過ぎない。そう考えればキミの本当に大切にしたいものが見えてくるんじゃないか?」クロはそう言うと僕の本質を見抜くような視線でじっと僕の目を見て続けた。
「正解を求めない。それも一つの生き方だと思うよ。とにかくいろんな経験をしてよく考えることさ」そう言い残すとクロは再び暗闇の中に姿を消した。
翌日、身体のあちこちが痛み出した。医者に行くのも面倒だ。猫の世話を終えるとご飯も食べずにベッドに横たわった。猫たちは心配してくれているようで、一日僕から離れなかった。仔猫たちは僕の顔を挟んで、母猫は僕の腕を枕にして眠っていた。猫たちに釣られるようにして午睡を貪った。
夕飯を済ますと仔猫たちが、
「大介ー、大介は大介じゃないの?ジゲンってなにー?」
「ああ、それは苗字と言ってね、家の名前。僕で言うと次元さん家の大介さんって言う意味だよ。僕のお父さんが次元大介っていうテレビのキャラクターが大好きでさ、家の名前が次元だったから大介って名前になったんだ。意味はないよ」
「テレビってこのおっきい板?キャダクラーは?この人?」テレビには夕方のニュースが流れている。
「その人は、そうテレビに映ってる人のことだよ」僕は面倒になってそうズルをした。
「なんで人間には家の名前と名前があるの?僕にはないよ」
「そういえば私もないわ。名前」
「ああ、それは付ける人がいないからじゃないかな?でもクロは皆クロ様って呼んでるよね?」
「クロ様はいつの間にか皆がそう呼ぶようになったのよ。私の母も言ってたわ。でも理由は聞いたことがないのよ」
「そうなんだ。僕は皆がつけたのかと思ってたよ」
「そんな恐れ多いことできないわ。どれだけ長く生きてると思ってるのよ?」
「ええ、私が仔猫だった頃からお姿もお声も何も変わらないのよ?」
「そうなんだ」僕はクロと言う存在が分からなくなった。
傷が良くなって来たある日、僕は親子と公園へ出かけた。仔猫たちはいずれ独り立ちしなければならないのだ。家にいても良いと僕は言ったのだが、母猫がそれを許さなかったのだ。母猫は野生での生活の仕方を細々教え込んだ。
「そんなに厳しくしなくてもいいんじゃない?」
「大介あなたははっきり言って甘いわ。野生の猫にとって生きることがどれだけ大変なことか分かってない」僕には何も言えなかった。
仔猫たちはどんどん逞しくなっていった。知識としては知っていたが猫の世界にも厳しい掟がある。縄張り争い、外敵の脅威、外敵と言っても特に笑顔で近づいてくる人間には絶対気を許さないことを僕や通して母猫はきつく言い聞かせた。二匹はどちらもオス猫。いずれは遠くへ行ってしまうのだろう。
そんなある日。あのクロが僕のアパートの近所で血まみれになってヨロヨロと歩いているのを見つけた。
「や、やあ大介」と言ってクロはその身体を横たえた。僕はそのまま事切れたように見えた。そんなクロを抱き上げると駅の方へ走った。確か動物病院があったはずだ。そこへ入るなり、僕は懇願する顔で必死にクロの姿を看護師に見せた。看護師は僕が喋れないことを察したのか、すぐにクロを預かってくれた。どれくらいの時が経っただろう、クロを預かってくれた看護師が笑顔でケージに入れられたまま眠っているクロを連れて来てくれた。僕は涙が溢れそうになった。どうやらクロは一命を取り留めたらしい。医師の説明は分からなかった。そのことを身振りで伝えると三日程入院して、その後自宅で面倒を見るようにとのことだった。
三日間が一年にも感じた。少し大人びてきた仔猫たちと母猫三匹に迎えにいってくると伝え、動物病院へ向かった。ところが、クロは昨夜脱走してしまったようだった。僕はお金だけ払って家に帰った。クロ様と暮らせると楽しみにしていた三匹は肩を落としていた。
あれから一週間が過ぎようとする頃、僕はいつものように道路でタバコを吸っていた。タバコの煙が雲に覆われた闇の中に寂しそうに消えていった。僕はため息を一つこぼした。そんな時だ、聞き覚えのある声に上から呼びかけられた。
「やあ大介、あの時はありがとう」
「クロ、大丈夫なのか?脱走したって」
「ああ、この通り元通りさ」
「何があったんだ?」
「事故に巻き込まれたんだ。あれは避けようがなかった」
「うちの猫たちも心配していたよ。勿論公園の皆も」
「すまない、流石にあの怪我では姿を消すしかなかった。皆にも謝るつもりだ」そう言うクロの身体はまるで何事もなかったかのように元の艶のある毛並みをした黒猫に戻っていた。
「随分というか何もなかったみたいだ。キミは一体?」
「そりゃあれだけおとなしくしていればね。心配かけたようだね」
「そりゃあの怪我で脱走したと聞かされれば誰だって心配するよ。せめて家の三匹くらいにはあってやってくれないか」
「悪いがそれは出来ない。明日集会で会うことにしよう。今日はキミにお礼をと思って来たんだ。本当にありがとう」と言って去ろうとした。
「なんで三匹と会ってやれないんだい?」僕はクロは呼び止め用としたが、クロは振り向きもせず暗闇に消えた。
翌日の集会に三匹を連れて出かけた。相変わらず集会所は深々とした緑の中、完全に人間の世界と隔絶した場所に感じた。クロは事故について語らなかった。集会後僕はクロの所は行き事故のことを言わなくていいのかと訊いた。
「あんなことは猫にとっては日常茶飯事だからね、それに避けられる物でもないし」
「意外と冷たいんだね。せめて道路にとびだすなくらいは言ったほうが良かったんじゃないか?」
「私の場合は完全に巻き込まれたものだったけど、猫が事故に遭うのはだいたいは喧嘩して逃げたり追いかけたりした時だから気をつけようもないんだよ。猫だって馬鹿じゃない。自分から人間の乗り物の危険性は知っているよ」
「そうか。それにしてもキミは治るのが早かったね?死んでてもおかしくない怪我だったぞ」
「ん?そうかい?」
「どれだけ心配したと思ってるんだよ。もう会えないんじゃないかと思ったくらいだ」
「私はあの程度の傷なら休めば治るよ」僕はまた少しクロが怖くなった。
「元気になったんならそれでいいんだ」と言葉を濁した。
「そうそう、大介。キミはこちらに残った人間に興味ないかい?気が狂ってしまった人間には合いようがないけど」
「ああ、そのことはいつか聴かせてもらいたかったんだ。その人が今どんな生活をしてるのか気にはなっていた。会えるのかい?」
「そんな所だろうと思っていたんだ。会えるよ。ただ、あの人間が前にいた場所に居てくれればだけど」
「正直会ってみたい」
「それじゃあ、明日にでも行ってみようか?
大丈夫、ちょっと君とはタイプが違うけど、こちらの世界に相応しい人間さ、決まりだね。一応酒と私が入れるくらいのバッグを持って来てくれ」
次の日、僕は少しいい値段のスコッチとバッグを持って出かけようとした所にクロが迎えにきてくれた。
「いよいよだね。すごく緊張してるよ」
「大丈夫だと言ったろ。では行こう」駅前まで来ると隣町行きのバスを見つけるようにクロに言われたが、これが一苦労。普段バスなんか使わないからだ。数字は似ている文字を見つければいいが、言葉となると話は別だ。ターミナルで僕は身振り手振り隣町へのバスを訊いて回った。数人に無視された、たまたまクロを気に入ってくれたお婆さんが丁寧に教えてくれた。どうやら同じバスのようで、郊外へ向かうものだった。バスに乗ろうとすると、
「大介、バッグに私を入れてくれ」とクロに言われ、見るからにケージとか嫌いそうだもんなと合点がいった。
クロと隣町へ降り立つと、僕はお婆さんにお礼のお辞儀をし、クロがケンゴと呼ぶ人物の元へと向かった。クロによるとケンゴさんはホームレスらしい。見つかるのか?と不安な顔をしている僕を見透かすように、
「健吾は昼間には行動しない。大丈夫見つかるよ。彼はこの町が好きだから」
郊外の町の商店街はすっかりくたびれていた。シャッターが開いているのは、学生が好みそうな店ばかりだ。学校が近くにあるのだろう。そんな商店街の閉じられ、絵なのか文字なのかわからないシャッターに健吾さんは背を向けて眠っていた。
「やあ、健吾」とクロが話しかけると、健吾さんは眠そうな顔で、
「ああ、クロ。久しぶり」と言った。
「こちらは健吾、キミの先輩にあたる人間だよ。で、健吾こっちは大介。最近こちら側に来たんだ」
「初めまして健吾さん。次元大介と申します。これお口に合うかどうか」とスコッチを渡した。健吾は豪快に笑いながら、
「次元大介?嘘だろ?ほんとにそんな名前の奴いるの?ああ、失礼だったね。手土産までもらったのにそう言っちゃダメだよな、じゃあ吞もうか」と言った。
「え?昼から?」
「何言ってんだよ。こんなに嬉しい日に呑まないなんて酒にもキミにも失礼だろう?」
「そ、それもそうですね。僕もこうやって呑むのは久しぶりなんで戸惑ってしまいました。呑みましょう」
「気が合ったようで何よりだ。私は呑めないから散歩してくるよ」クロは去っていった。
「健吾はスコッチを一気に煽った。
「美味い!やっぱりいいな。酒は。じゃあ、今度はキミの番だ」
「それじゃ、遠慮なく」サラリーマン時代には考えられなかった昼からスコッチ。僕は見た目、香り、舌触り、喉越しを通して味わった。
「これは美味い!」
「なんだキミ、味もわからないのに買ったのか?まあ、オススメですって言われるのも俺は嫌だからいいか、はははっ」健吾はとにかく明るかった。二人ともいい具合に酔っ払ってくると、健吾さんは突然神妙な顔をして、
「で、大介はどうするつもりなんだ?」
「ええ、その事で今日伺ったのですが、健吾さんはどうしてこちらに残ったんです?そもそも選べるんですか?クロは僕次第だって言ってましたけど」
「そうか、それならそうなんだろう。実は俺もよく分かってないんだ。どうして自分がこちら側に残ったのか。その辺の記憶が曖昧なんだよ。あまりクロを信用しない方がいいぜ。アレは猫じゃない」
「ええ、人智を超えたものだと言うのはなんとなく感じてます」
夕刻家に猫を預かってることを説明して、再会の約束をし健吾さんと別れ、いつの間にか僕の側に来ていたクロとバスで地元へ帰った。
「今日は楽しめたかい?」
「ああ、良い人だったね。また会いに行くよ。勿論酒を持ってね」
「ああ、健吾も喜ぶだろう。では私はここで」と街中で別れた。
「おかえりー、大介ー」と仔猫たち。
「お帰りなさい」と母猫も安心したように迎えてくれた。僕は急いで猫たちのご飯を用意してトイレも掃除した。そうしてる間にも仔猫たちは僕の背中に乗ってきたり、足元を駆け回ったりしていた。そしてそれを見守る母猫。僕の心は間違いなく猫たちに支えられていた。情が映ると言うのはこう言うことなのだろう。
「あまりクロを信用するな、か」僕は既に僕に寄り添って寝ている猫たちに聞こえないように健吾さんの言葉を口にし眠りについた。
「大介、一体何してるんだい」その声が後ろから聞こえてきた時僕は文字通り顔を真っ青にしていたにちがいない。僕はクロを一日尾行していたのだ。夕方になって僕のアパートの近所の角を曲がったところで追っていたはずのクロが陽炎ののようにすうっと消えた瞬間後ろから声をかけられたのだ。僕はこれまでの経緯を正直に話した。
「キミが気になるから一日見張ってたんだ」
「酔狂だね。で、私の行動はどこかおかしかったかい?私はてっきりキミが道に迷ったんじゃないかとこの辺まで来ただけだよ」クロにそう言われた瞬間耳鳴りがし視界がぼやけたが、クロがそう言うのならそうなのだろうと言う気持ちになった。
次の日、いつものように子猫の訓練を見ている所に茶虎の猫がやってきた。
「大介!大変だクロ様が喧嘩を」
「相手は?』
「どこからか流れてきた若い雄だ」
「クロは負けないよ。大丈夫落ち着いて。それにしてもクロの縄張りにくるなんて可哀想な猫だな」
「何言ってんだ。クロ様は俺が子猫の頃から
ここのボスなんだぞ?あんな若い猫に仕掛けられたら一溜まりもないって」
「僕はその若い猫が心配だよ」茶虎があまりにもしつこいので親子を連れて見に行ってみると、そこには立っているのもやっとの若い猫がいた。クロは命まで取らない。それどころか若い猫に温情をかけて、住む場所やら餌が手に入りやすい場所やらを教えていた。その一方で若い猫は頷くのがやっとだった。
「な、大丈夫だったろ?」
「し、信じられねえ。あんな若い猫と殺り合って傷一つ負ってないなんて」おそらくは傷は負ったのだろうが治ってしまったのだろう。僕はさほど驚かなかった。
そうこうしているうちに僕の休職の期限が迫ってきていた。夜、いつものように道に出てタバコを吸っていると、また闇の中からクロが現れて言った。
「大介、キミの休みももうすぐ終わるね」
「そうなんだよね」
「それで、どうするかは決まったのかい?」
「どうにもこうにも僕に選べるのかい?」
「キミは誤解しているようだ。もう少し焦った方がいい。言ってしまうけど、決断まであと数日だ。こんな中途半端な生活がいつまでも続くと思ってたのかい?考える時間を三日あげる。そろそろどちらにするか決めてもらわないとね。三日後に会いに来るよ」クロは突き放すように闇に消えた。
そこから三日間は僕にとっては思い出したくもない時間だった。あっという間だった気もするし、とてつもなく長い時間のようにも感じた。人間の世界、猫たちとの世界。僕にはどちらも残酷さは変わらないと思えた。戻れば人との繋がりを取り戻せる。が、あの無関心の中、温もりを知ってしまった僕に耐えられるだろうか?あとわずかでこの温もりを捨てなくてはいけないのか?それは嫌だ。それに生活もなんとかなっている。僕が求めているのは一体?形だけとは言え生まれたままの姿なのか?姿は違うとは言えど温もりのある世界か?でも言葉さえ通じ合えれば人間の世界も温もりがないとも言い切れない。クロはあれ以来現れない。こんなことを相談できる相手がいない。僕なんて結局は世界に一つあるちっぽけな現象に過ぎない。だけどあの温もりは捨てたくない。その時は人間の世界から逃げることしか頭になかった。
約束の日は待ってはくれない。決断を迫られた僕は街に逃げた。兎に角クロに見つからなければどこでもよかった。できるだけ人目のある所へ、そうすればクロが何者だろうと何も手出しは出来まい。
「やれやれ、無駄だと分からないかな?」なんとクロは僕の影の中から現れた。僕は周囲を見回した。他の人はこの異常な光景を何も思わないのかと。しかしどうもクロは他の人には見えていないらしい。僕だけが相変わらず冷ややかな目で見られていた。
「決意はできたかい?できたら私の目を見るんだ」決断なんかできていない僕が目を泳がせている瞬間クロは今度は僕の目の前に現れた。途端に視線を外せなくなった。たちまち僕は真っ暗な世界に、或いは世界の狭間というべき場所に引き込まれた。なんとそこにいたのはクロではなく僕だった。僕はもう一人の僕の目を見ていた。困惑が広がる。どちらがどちらの目を見ているのかが最早わからなくなっていた。境界が曖昧になる。僕は言う、どちらの僕が言ったのかはわからない。
「キミはどちらを選ぶ?」その問いを投げかけられた瞬間僕は強い眩暈に襲われた。家に残してきた猫たちが頭に浮かんだ。親子と暮らしたい。その後も次々と映像が脳裏を横切る。会社で同僚たちと談笑している僕の姿、街で酷い目にあったこと、傷だらけのクロ、愛しい家族たち、愛らしい仲間たち、どちらの出来事も頭に次々に浮かび上がった。クロ助けてくれクロ!そしてその場で気を失った。
どれくらい意識を失っていたんだろう。僕はちゃんと選べたのだろうか?そんなことを考えて立ち上がると足元に温もりを感じた。黒猫が体を僕の足に身体を擦り付けている。
「…ュース…す」と言う言葉が雑踏に塗れて聞こえた刹那僕は気づいた。
ああ、そうか……。
了
読了後の余韻を楽しんでください。




