第12話:幸福な完敗
アステリアの王都は、もはや眠ることを忘れていた。
夜を照らすのは魔導灯の淡い光ではない。中央広場から立ち上る、数万人の欲望が摩擦して生じる、肌を焼くような熱気だ。
ゼクス魔導工房の最深部。壁一面を埋め尽くす受像水晶には、深夜にもかかわらず広場を埋め尽くす群衆が映し出されている。その中心に鎮座する銀の箱、運命分配機は、もはや無機質な鉄の塊ではなく、人々の魂を吸い上げる巨大な祭壇のようだった。
「実に不条理だ。高潔さを誇る貴族様たちが、代理人の衛兵を盾にして、銀貨1枚の奇跡を求めて列に割り込んでいる」
ゼクスは椅子に深く腰掛け、手元の演算盤を操作して、社交界の深部を流れる情報を眺めた。
事の発端は、数時間前に排出された一等の景品だ。
脂肪を喰らう神の布地。
着用しているだけで体内の余分な脂肪を魔力へと変換し、理想の肢体を維持するばかりか、周囲の人間を魅了するオーラを放つ魔導衣。
歳月を洗い流す芳醇な木風呂。
ヒノキの香りを魔導的に再現し、湯船に浸かるだけで肌の老化を魔力的に洗浄する、ゼクスの記憶にある異国の英知を詰め込んだ癒やしの極致。
それらは生存には何の影響も与えない。腹が膨れるわけでも、魔物と戦う力が増すわけでもない。だが、王都の女性たちにとって、それはあらゆる軍勢よりも恐ろしい兵器として機能し始めていた。
受像水晶の向こう側では、豪奢な馬車から降りた夫人が、並んでいた衛兵を激しく叱り飛ばしている。
「まだなの。隣の侯爵夫人があの洗浄液で髪を光らせているのよ。私がこのくすんだ肌のまま、明日の夜会に出席できると思っているの」
土地も名誉も、今は二の次だった。銀貨1枚を投じて一等を引き当てれば、社交界の序列を一瞬で飛び越え、女王の如き君臨が可能となる。その理不尽な逆転劇が、保守的な彼らの理性を焼き切っていた。
そして、その狂乱の頂点に君臨するのが、特等のレシピだ。
この製法を独占すれば、一国の美容利権を永遠に支配できる。王都の経済は、もはや小麦や鉄の流通といった重みではなく、たった一つのレシピという軸に偏り、歪み始めていた。
商会同士の権利買収合戦も、いよいよ限界に達している。
ゼクスがモニターを指先で弾くと、巨大な商会同士が、まだ排出もされていない特等の権利を巡って、白金貨数千枚単位の契約書を交わし合っている様子が記録されていた。莫大な資産が、たった一つの製法という夢を担保に動き、王都の財政そのものが一人の魔導具師の指先に懸かっていた。
その時、工房の重厚な防壁が、暴力的なまでの衝撃と共に開放された。
「ゼクス。今すぐこの悪趣味な装置を止めろ」
現れたのは、シルヴェルド公爵だった。
一国の重鎮として常に冷静沈着であったはずの彼の姿は、今や見る影もなく荒れ果てている。外套を裏表逆に着たまま、必死の形相でゼクスを睨みつけていた。
「おや、公爵様。随分とお急ぎのご様子で。奥様に頼まれて、代わりに並びに来られたのですか」
「ふざけるな。私の妻だけではない。王都中の貴婦人たちが、あの一等の服や風呂セットを手に入れるために、先祖代々の家宝や領地の権利まで売り払って銀貨に変えているんだぞ」
公爵はゼクスの机を叩き、顔を真っ赤にして叫んだ。
「街の商店は店主が広場に向かったせいで閉まったままだ。職人も農民も、汗を流して働くより、銀貨1枚で人生を上がる夢に酔いしれている。お前が価値を書き換えたせいで、この国が、王都の秩序が、物理的に崩壊しようとしているんだぞ」
公爵の絶叫に対し、ゼクスはゆっくりと椅子を回転させた。その瞳には、かつてないほどの愉悦と、そして奇妙な静寂が宿っていた。
「公爵様。認めましょう。私の完敗です」
「何」
「私は計算を誤りました。異世界人としての私の合理性は、この世界の人間が持つ執着という非論理的な変数を、あまりにも過小評価していた。論理的に考えれば、明日のパンの方がよほど大事なはずでしょう。ですが彼らは、鏡に映る一瞬の輝きのために、全財産を投げ出すことすら厭わない」
ゼクスは立ち上がり、空中を舞う青白い術式の光を一つ、手で握り潰した。
「生存に不要なはずの美が、生存本能以上の爆発的な熱量を生んだ。私の組み上げた理の中にすら、これほど理不尽で、美しい熱量は存在していませんでしたよ。……ええ、私の完敗です」
「負けを認めたのなら、今すぐ止めろ。これ以上この泡が膨らめば、本当に取り返しがつかなくなる」
公爵の制止を無視し、ゼクスは壁一面の受像水晶を見据えた。
その時、全てのモニターが同期し、一つの光景を映し出した。
中央広場。
数万人の喧騒が、一瞬で凍りついた。
運命分配機の取り出し口から、これまでのどの景品とも違う、黄金色を帯びた虹色の光が溢れ出していた。
機械の駆動音が止まり、王都の空気を震わせるような、清廉な鐘の音が響き渡る。
「……おや」
ゼクスが静かに呟く。
モニター越しでも分かる。そこに現れたのは、たった一枚の羊皮紙だ。
広場にいた全ての者が、その紙を見つめて息を呑んだ。
特等、美容品全種の永久製法。
ついに、この狂乱に終止符を打つはずの、そして新たな支配を約束する絶対的な権利が排出されたのだ。
それを手にしたのは、泥にまみれた冒険者でも、震える貧困層でもなかった。
王都最大の商会が送り込んだ、冷徹な目をした代理人の男だ。彼はその紙を掲げ、周囲を威圧するように立ち尽くす。
「さあ、公爵様。ついに答えが出ましたよ」
ゼクスは椅子に座り直し、最高に楽しそうに目を細めた。
レシピという名の種火が、王都という名の油に投げ込まれた。
熱狂の第二幕が、今この瞬間に始まったのだ。
「理が崩壊したその先に、一体どんな景色が待っているのか。……最後まで見届けようではありませんか、公爵様」
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