第9話:次なる劇薬
地下の喧騒を離れたゼクスは、身に纏う空気を物理的に歪めていた。
胸元で鈍く光る銀の護符が、周囲の光を屈折させ、認識を阻害する術式を展開している。これにより、通行人の目には彼の姿が「どこにでもいる、目立たない街の住人」としてしか映らない。史上最高の魔導具師としての名声も、貴族たちからの畏怖も、この薄暗い光の膜一枚で遮断されていた。
王都の目抜き通りを歩けば、そこかしこに銀色の箱が鎮座している。かつては活気に溢れていた市場の主役は、今や新鮮な野菜や巧緻な工芸品ではなく、銀貨一枚で引ける不確かな運命へと移り変わっていた。
「……皆さん、実に見事に毒されていますね」
ゼクスは、自身の口元が愉悦に歪むのを自覚しながら、街の様子を観察していた。
広場の隅では、一人の冒険者が空になったポーションの瓶を愛おしそうに磨いている。別の場所では、なけなしの銀貨を握りしめた若者が、箱の前で天に祈りを捧げていた。特等の魔杖が排出され、一人の少年が伯爵との契約という法外な利益を掴み取った事実は、この街に住む者たちの日常を根底から破壊し尽くしていた。
ゼクスは路地を抜け、貴族街と商業区が交差する大通りへと足を向けた。
そこで彼の足を止めたのは、最高級の香油や化粧水を扱う老舗の店先だった。豪奢な馬車から降り立った貴族の令嬢たちが、眉を顰めながら店主と問答を繰り返している。
「ですから、その雪精の雫は既に在庫がございませんの。北方の精霊の加護が薄れたせいで、入荷の目処すら立っておらず……」
「たかが肌のくすみを消す程度のものに、なぜ金貨三枚も払わねばならないの? しかも手に入らないなんて。来週の夜会、私はこの顔で出席しろと言うのかしら」
令嬢の苛立ち混じりの声が、大通りに響く。
その傍らでは、ボロ布を纏った少女が、店のショーケース越しに眩いばかりの紅を、羨望と絶望が入り混じった瞳で見つめていた。
ゼクスはその光景を、物理的な術式の構成を眺めるかのような冷徹な視線で切り取った。
美。
それは、この世界の秩序において、魔法の才能と同じくらい残酷な格差をもたらす要素だ。
「なるほど、美貌の独占ですか。……これほど純粋で、理不尽な欲求を私は見逃していましたね」
ゼクスは護符の出力を調整し、自身の存在感を消したまま店の周囲を一周した。
この世界において、美しさを維持するための魔導具や薬品は、そのすべてが一点物の芸術品に近い。高い魔力定着率を求められ、制作には熟練の職人が月単位の時間を費やす。結果として、それは一握りの貴族しか触れることのできない「特権」となっていた。
だが、ゼクスにはその理が、あまりに古臭く、非効率な回路に見えた。
「公爵様や保守派の老人たちは、身分制度の崩壊を恐れていますが……。次は、より根源的な選民意識に火をつけてあげましょうか」
ゼクスは空中に透明な指を走らせるように、頭の中で次なる術式の原盤を描き始めた。
一等の景品には、王家すら羨むような、一瞬で肌の質感を書き換える究極の美容薬を。
二等には、髪に永遠の輝きを与える魔導の香油を。
そして三等には、どんな平民の娘でも、一晩だけは王女の如き美しさを纏える魔法の化粧水を。
「銀貨一枚。それだけで、醜いアヒルが白鳥の羽を手に入れるチャンスが得られる。……女たちの執念は、あるいはあの魔導師たちの探究心よりも、はるかに質の高い熱狂を生み出すかもしれません」
ゼクスは護符を外し、工房へと続く裏道へと消えた。
彼の脳裏には、すでに次なる箱の仕様が完璧に組み上げられていた。
ただの石ころや枯れ枝といった外れが、美しさを求める者たちの絶望をどれほど深く彩るか。そして、たった一枚の銀貨で永遠の美を掴み取った者が現れた時、王都の秩序はさらなる混沌へと突き落とされる。
「皆さん、準備はいいですか。次は、鏡を見るのが怖くなるほどの奇跡を、安価に提供してあげますよ」
工房の扉を開けるゼクスの背中に、市場の喧騒が追いすがってきた。
だがその声は、もはや彼には心地よい摩擦音にしか聞こえなかった。
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