第9話 現実の輪郭
その日、私は大学の正門を出たところで、松岡さんを見た。
見た、と認識した瞬間に、少しだけ歩幅が乱れた。
向こうもこちらに気づいていない。だから、まだ何も起きていない。起きていないのに、内側だけが先に反応する。
松岡さんは一人ではなかった。
五十代くらいの男性と並んで歩いている。スーツ姿。手には資料の入った封筒。話し方は真面目で、歩幅は揃っていて、どちらも急いでいるようには見えないのに、仕事の時間の歩き方だった。
私は立ち止まらず、そのまま人の流れに合わせて歩いた。
松岡さんは少し横顔を見せた。店で見る顔と同じはずなのに、少し違って見える。静かで、落ち着いていて、でも今ここでは完全に「社会人」の顔をしていた。
当たり前だ、と思う。
この人は三十九歳で、出版社の編集者だ。
私と話している時間だけでできているわけではない。
理解している。
前から知っていた。
でも、目の前で見ると輪郭が変わる。
私は今、大学の建物の前にいて、リュックを肩にかけた学生だ。講義ノートが入っていて、午後のゼミで使った資料がそのまま突っ込まれている。今日の夜はバイトで、明日の一限は眠いだろうなと、さっきまでそんなことを考えていた。
向こうは違う。
資料を持って、大人の男と並んで歩き、たぶん会議か打ち合わせを終えた帰りで、言葉の一つ一つに責任が乗る世界を生きている。
その差が、急に見えた。
見えてしまった、というほうが正しいかもしれない。
私たちは精神の速度では会話できる。
でも、社会の時間は違う。
私はそう理解した。
そして、その理解は少し痛い。
痛い、というより、熱のある場所に急に冷たい現実が触れた感じに近い。
傷ついたわけではない。
でも、楽観的な部分が少しだけ削られる。
松岡さんはそのまま通り過ぎ、私は振り返らなかった。振り返るのは変だし、何より、自分のほうが見ていたことを自覚しすぎる気がしたからだ。
ただ、大学の正門を抜けたあとも、その背中の輪郭だけがしばらく頭に残った。
その夜、書店のレジに立ちながら、私は昼の光景を何度も思い出していた。
別に特別な場面ではない。
社会人が仕事をしていただけだ。
大学の前で出版社の人間が教授や研究者と会っていても、何の不思議もない。
でも、見たあとでは変わるものがある。
私はレジ横のモニターを見つめながら、昼の松岡さんの表情を反芻していた。店で見せる静けさではなく、仕事の文脈の中に置かれた静けさ。少しだけ硬く、少しだけ遠い顔。
私はその顔を知らなかったわけではない。
知っていたはずだ。
ただ、言葉で理解していたものが、映像として入ってきた。
それだけだ。
でも、人はときどき「それだけ」でかなり揺れる。
「こんばんは」
自動ドアの音と一緒に、声がした。
私は顔を上げた。
松岡さんだった。
昼のあとに、夜の書店でまた会う。その偶然は、少しだけ出来すぎている気もした。でも実際には、彼は定期的にここへ来るし、私はここで働いている。起きるべくして起きた再会でもある。
「こんばんは」
私はそう返した。声は落ち着いていたと思う。少なくとも外から見れば。
でも内側では、昼の光景がまだ残っている。だから今の彼の顔も、少し違って見えた。
松岡さんは店長に挨拶をし、新刊台を確認し、しばらく棚を見た。その動きはいつも通りだった。丁寧で、急がず、でも無駄がない。
私は会計をしながら考える。
この人は同じ人間だ。
大学の前にいた社会人の顔も、今の本屋にいる顔も、どちらも松岡太一さんだ。
なのに、私の中で二つの映像がまだうまく重なっていない。
それはたぶん、私の都合だ。
私は自分に都合のいい距離で、この人を理解したがっていたのかもしれない。
精神的に対等な相手。
話が通じる人。
特別な対話者。
全部本当だ。
でも、それだけではない。
この人は、私の外側にある重い現実も背負っている。
客足が少し落ちたところで、松岡さんがレジに本を持ってきた。
「今日は大学の近くにいらしたんですね」
私がそう言うと、松岡さんはほんの少しだけ動きを止めた。
「……見られていましたか」
「たまたまです」
「そうですか」
「教授と打ち合わせですか」
「ええ。共著の企画で」
私は頷いた。
その答えは自然だった。でも、その自然さが少しだけ距離を持っていた。つまり、昼のあの場面はやはり仕事の場で、私はそこに属していない。
「仕事の顔でしたね」
私が言うと、松岡さんはわずかに目を細めた。
「書店では仕事をしていないように聞こえます」
「してますけど、少し違う」
「何が」
「肩書きが前に出ていた感じです」
松岡さんは少し黙った。
私はレシートを渡しながら、その沈黙を待つ。こういうとき、急がせないほうがいいことを私は知っている。
「……それは、そうかもしれません」
彼は静かに言った。
「大学の先生相手だと、どうしても立場が前に出ます」
「でしょうね」
「社会の中で話すというのは、そういうことでもあるので」
私はその言葉を聞いて、少しだけ胸の奥が静かになる。
そうだ。
社会の中で話すというのは、そういうことだ。
対等な精神だけで成立する世界ではない。
年齢も、肩書きも、所属も、全部が会話に混ざる。
「私とは、少し違いますね」
気づいたらそう言っていた。
松岡さんはすぐには答えなかった。
「違いますね」
その肯定は、やさしくも残酷でもあった。
否定しない。ごまかさない。
でも、その分だけ事実がそのまま残る。
「やっぱり」
私は自分でも驚くくらい淡々と返した。たぶん、そのほうが安全だったからだ。感情を先に出すと、形が崩れる。
「昼に見たとき、少し現実だと思いました」
「現実」
「ええ。松岡さんには、私の知らない時間がちゃんとあるんだなと」
言ってから、自分の言葉の温度に気づく。
かなり個人的だ。
でも松岡さんは、変に引かなかった。
「ありますよ」
「知ってます」
「でも、見えると違う?」
私は少しだけ笑った。
「ずるいですね」
「何がですか」
「聞き返し方」
「編集者なので」
そのいつもの逃げ方に、私は少しだけ救われる。全部を重くしないための言葉として。
「違います」
私は言う。
「知識として知ってるのと、目で見るのは違う」
松岡さんは静かに頷いた。
「そうですね」
「たぶん、私のほうが勝手に忘れてたんです」
「何を」
「年齢差とか、社会の時間とか」
そこまで言うと、レジの空気が少しだけ変わった。
私はそれを感じる。
いま触れたのは、これまで何度も言及してきた“正しい距離”そのものだ。
でも、もう引っ込める気はなかった。
「昼の松岡さん、ちゃんと大人でした」
私が言うと、彼は少し困ったように笑った。
「かなり複雑な評価ですね」
「褒めてます」
「そうは聞こえません」
「半分くらいは」
その返しに、彼も少し笑った。
でも笑いのあと、すぐに真面目な顔に戻る。
「早坂さん」
「はい」
「それを見て、どう思いましたか」
私は息を少しだけ止めた。
いい質問だと思う。
逃げにくいし、でも必要だ。
認識する。
理解する。
感情を出す。
その順番でいくしかない。
「先に思ったのは」
私はレジ台の端に指を置きながら言う。
「やっぱり遠いな、でした」
松岡さんは黙っている。
「精神の話をしてると忘れそうになるけど、現実には遠い」
「ええ」
「少し、嫌でした」
そこまで言ってから、私は自分の声が思っていたより静かなことに気づく。もっと感情的になるかと思った。でも実際には、まず理解が先に来た。その理解のあとに、ようやく感情が追いついた。
「でも、同時に」
「同時に?」
「だから松岡さんが慎重なのも、もっとわかりました」
松岡さんは少しだけ視線を落とした。
「それは、あまり嬉しくない理解かもしれません」
「そうですね」
私は正直に言った。
「嬉しくはないです」
彼は少しだけ苦笑した。
「でしょうね」
「でも、納得はしました」
「納得」
「はい。松岡さんが一人で距離を決めようとしたことも、仕事とか社会の輪郭を先に見ることも、たぶんそういう現実がいつも見えてるからなんだなと」
私はそこで一度、呼吸を整えた。
「私は、会話の中だと忘れそうになるんです」
「何を」
「松岡さんが、私より二十年先の現実を生きてること」
その言い方は正確ではない気もした。二十年先、というのは単純化しすぎている。でも、感覚としては近かった。
松岡さんはすぐには否定しなかった。
「……それは、少しあります」
「少し、ですか」
「かなり、かもしれません」
私はその答えに少しだけ笑った。
正直なのは、この人の良いところでもあり、困るところでもある。
「私は」
松岡さんが静かに続けた。
「早坂さんと話していると、ときどきその差を忘れそうになります」
私は顔を上げた。
その言葉は、思っていたより深かった。
「でも、忘れていいわけではない」
「はい」
「だから、何度も見直す」
それはたぶん、この人の誠実さそのものだった。気分や勢いで距離を縮めるのではなく、現実に耐えられる形かどうかを何度も確かめる。
私はそのことを理解する。
理解すると、少しだけ苦しい。
でも同時に、信頼も深くなる。
厄介だ、と思う。
「……松岡さんは、面倒ですね」
私がそう言うと、彼は少しだけ笑った。
「今さらですね」
「今さらです」
「でも、そういう早坂さんも十分面倒です」
「知ってます」
短い笑いが落ちる。
その笑いは、救いでもあり、少しだけ和解でもある気がした。現実の輪郭を見てしまったあとでも、まだこうして言葉を交わせるという確認。
そのあと、店内に客が二人続けて入ってきた。文庫を一冊と、週刊誌を二冊。私は会計をしながら、意識の端で松岡さんが棚の前に戻るのを感じていた。
仕事の時間が戻る。
それは少しありがたかった。
深い話のあとに、すぐに現実の作業が入ると、人は少しだけ呼吸を整えられる。ずっと向き合ったままだと、関係はときどき必要以上に濃くなる。
会計が一段落すると、松岡さんがまたレジに来た。追加で一冊持っている。地方自治の新書だった。
「増えてますけど」
「話した分だけ、何か買わないとまずい気がして」
「その理屈、たまに雑ですよね」
「便利なので」
私は思わず少し笑ってしまった。
さっきまでの空気が、少しだけやわらぐ。
「早坂さん」
松岡さんが本を差し出しながら言う。
「はい」
「昼のことを言ってくれて、よかったです」
私はバーコードを通す手を止めそうになった。
「そうですか」
「ええ。黙って距離を取られるより、言葉にされたほうがわかるので」
その返しは、少し意外で、でもすぐに腑に落ちた。
この人はたぶん、沈黙を選ぶことも多いけれど、本質的には言葉で整理したい人なのだ。だから、こちらが言葉にした現実を、逃げずに受け取ることができる。
「私も、そのほうがいいです」
私はそう言った。
「わからないまま変えられるの、好きじゃないので」
「知っています」
その一言で、私は少しだけ黙る。
知っています。
この人は、そういうふうに言う。
重くしすぎず、でも軽くもしないで。
「ただ」
松岡さんが続ける。
「今日みたいに現実の輪郭が濃くなると、たぶん少し痛いですね」
「はい」
「私もです」
その「私も」が、思っていたより深く残った。
同じ痛みではないだろう。
でも、同じ場面で互いに何かが削られたことは、たぶん事実だった。
私はその事実を認識する。
理解する。
そのあとで、少しだけ安心する。
一人で感じているわけではないとわかるだけで、人は少し楽になる。
閉店が近づき、店内の照明が少しだけ静かな色に見える頃、松岡さんは帰る支度をした。
「では、また」
彼が言う。
「はい」
私は少し迷ってから、言った。
「松岡さん」
「はい」
「今日、昼に見たとき」
「ええ」
「少し遠いと思ったけど」
そこまで言って、一度止まる。
認識はできている。
理解もしている。
でも、感情を言葉にするのはやっぱり少し難しい。
「でも、夜にここで会ったら、少し戻りました」
松岡さんは何も言わなかった。
私は続ける。
「同じ人だって、ちゃんとわかったので」
それはたぶん、かなり率直な言い方だった。
松岡さんはしばらく私を見て、それからほんの少しだけ表情を緩めた。
「それは、よかったです」
「はい」
「戻りすぎない程度に、でお願いします」
私は少しだけ笑った。
「面倒ですね」
「そうですね」
「でも、たぶんそのくらいがちょうどいいです」
松岡さんも少し笑った。
それだけだった。
でも、その短いやりとりの中に、今日一日の理解がきちんと収まった気がした。
遠い。
でも、完全に遠いわけではない。
現実は重い。
でも、重いから消えるわけでもない。
そういう種類の確認。
松岡さんは軽く会釈して店を出ていった。自動ドアが開き、夜の空気が一瞬だけ流れ込む。私は今度はその背中を追わなかった。
追わなくても、もう昼の映像だけではないからだ。
大学の前にいた社会人の顔と、書店に立つ対話者の顔が、ようやく同じ輪郭に重なり始めている。
私はレジの中で静かに息を吐いた。
理解する。
現実を引き受ける。
それでも感情が消えないなら、たぶんそれは少し本物に近い。
私は今、そういう段階に入っている。
まだ恋だと言い切るには早い。
でも、ただの知的好奇心や安心だけでは、もう説明できない。
この人は遠い。
そして、その遠さごと気になってしまう。
それがたぶん、今日の結論だった。




