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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第8話 言わないまま近づく

雨の翌日、空は妙に澄んでいた。

 昨日までの湿った空気が一度洗い流されて、春にしては少し冷たい光だけが残っている。こういう日は、世界が少しだけ輪郭を持ちすぎる。建物の角も、通りを歩く人の影も、見なくていいものまで目に入る気がした。


私は大学の講義を終えてから、そのまま書店のアルバイトに入った。レジに立ち、雑誌を整え、取り置きの確認をしながら、頭の片隅で昨日のことを反芻している自分に気づく。


企画の話じゃなくても、話していい。

 私は確かにそう言った。


あれは言い過ぎだっただろうか、と一度考える。

 でも、すぐに違うと思う。

 必要だった。少なくとも、あの時点では。


松岡さんは何でも自分の中で整理しようとする。距離も、感情も、仕事も、たぶん疲れも。そうやって破綻しないようにしているのだろうけれど、整理できるものばかりではない。そういうものまで全部一人で抱えると、人はいつか言葉の外側で壊れる。


私はそれを、知っている気がする。

 自分の性質としてなのか、これまで見てきた人たちの記憶としてなのか、うまく切り分けられないけれど。


午後六時過ぎ、自動ドアが開いた音で私は顔を上げた。

 松岡さんだった。


それを認識した瞬間、内側で何かが少しだけ先走る。驚くほどではない。もう何度も経験している。でも、無視もできない程度には、身体が先に反応する。


来た。


ただその事実だけが、思っているよりはっきりと私の中に入ってくる。


「こんばんは」


松岡さんが言う。


「こんばんは」


私の返事は普段通りだったと思う。けれど、たぶん少しだけやわらかい。自分でそうわかるくらいには。


松岡さんは店長と短く話したあと、しばらく棚を見ていた。私はレジからその横顔を視界の端で追いながら、昨日と何か変わった様子があるかを無意識に探していることに気づく。


疲れているか。

 眠れているか。

 昨日の言葉をどう受け取ったか。


そこまで考えて、私は少しだけ眉を寄せた。

 かなり気にしている。


こういうとき、自分の感情は後から追いつく。先にあるのは事実の認識だ。私は松岡さんの状態を知りたいと思っている。しかも、ただの知的好奇心ではなく、もっと個人的な理由で。


その理由にまだ名前はつけない。

 でも、もう名前がないふりもしにくくなっている。


松岡さんがレジに持ってきたのは、薄い新書だった。


「今日は軽いですね」


私が本を受け取ると、彼は少し笑った。


「軽い本も読みます」


「読めるんですね」


「ずいぶん信用がない」


「重いものばかり抱えていそうなので」


「抱えていますよ」


さらっと言われて、私は一瞬だけ言葉を失う。

 こういうとき、この人はずるい。重いことを重く言わない。だから聞き流せるようでいて、実際には残る。


「……自覚あるんですね」


「あります」


「なら少し減らしてください」


「努力します」


「前もそれ聞きました」


「覚えていますか」


「印象に残ることは覚えます」


その会話のあと、松岡さんは少しだけ視線を落とした。レジ台の上に置かれた自分の指先を見るような、短い沈黙。


「昨日のことですが」


彼が言う。

 私は顔を上げた。


「はい」


「ありがとうございます」


また、その言い方だった。短くて、まっすぐで、余計な装飾がない。


「まだ言いますか」


「大事なことなので」


「そうですか」


「ええ」


私はレシートを渡しながら、少しだけ視線を逸らした。真正面から受けると、言葉が重い。


「別に、すごいことを言ったわけじゃないです」


「そういうところです」


「何がですか」


「自分がしたことを、あまり大げさにしない」


私は少しだけ困った。

 それはたぶん、褒め言葉なのだろう。でも、そうやって見られると落ち着かない。評価されるのが嫌なわけではない。ただ、見えてほしい部分と、見えすぎると困る部分がある。


「松岡さんも人のこと言えないでしょう」


「私は大げさにしないというより、整理してしまうので」


「似たようなものです」


「そうかもしれません」


そこで会話は一度切れた。客が一人来て、雑誌を会計する。スポーツ誌一冊。ポイントカードなし。袋不要。

 手は機械的に動く。でも意識の一部は、さっきの「ありがとうございます」に引っかかったままだった。


昨日の言葉は、思っていたより彼の中に残っているらしい。

 そのことが、静かにうれしい。


私はその感情をすぐには恋と呼ばない。

 でも、その他大勢には向かない種類の温度だとは、もうわかる。


客が途切れると、松岡さんはレジ横に立ったまま言った。


「少しだけ、話せますか」


「仕事中ですけど」


「知っています」


「でも追い返しません」


「それは助かります」


私は少しだけ笑った。松岡さんも笑う。

 その自然さが、逆に少し危ういと思う。関係が自然に進むときほど、人は後から境界線を失いやすい。

 でも、今はまだ大丈夫だとも思う。少なくとも、この人がいる限り、全部が崩れる方向には行かない気がしている。

 それ自体がもう、かなりの信頼なのだろうけれど。


「昨日の質問の続きではないんですが」


松岡さんが言った。


「自分を信頼しているか、の」


「ああ」


「少し考えました」


私は何も言わずに彼を見る。

 聞く体勢になる、というのはある。相手が話そうと決めたとき、それを遮らずに受ける姿勢。私は昔から、そういう癖がある。


「昔は、もっと簡単だったんです」


彼は静かに言った。


「何がですか」


「自分が正しいと思ったことを、そのままやることが」


「若かったから」


「それもあります」


「他には」


「責任の総量が少なかった」


私は少しだけ息を止めた。

 責任の総量。

 その言い方が、ひどく松岡さんらしいと思う。感情や重圧を、そういう数値化しそうな言葉で言うところが。


「年齢を重ねると、背負うものが増える」


「ええ。会社も、人間関係も、家族も」


家族。

 その単語が出た瞬間、私は少しだけ自分の内側を確認する。何かざわついたか。嫌な感じがしたか。嫉妬というほど明確ではない。ただ、その言葉に現実の厚みがあることを再認識した。


この人には、当然ながら私の知らない生活がある。私と話している時間だけでできている人ではない。むしろ、そちらのほうが本体だ。


当たり前のことだ。

 でも、当たり前のことは、ときどき少し痛い。


「だから、自分を信頼するって、前より難しくなったんですか」


「そうかもしれません」


「どうして」


「判断が、自分一人で完結しないからです」


私は頷く。

 それはわかる気がした。

 自分一人なら引き受けられる失敗も、他人を巻き込むと質が変わる。責任は重さだけではなく、形も変える。


「でも」


私は言う。


「それは、自分を信頼してないこととは少し違う気もします」


松岡さんは少しだけ目を上げた。


「というと」


「慎重になっただけでしょう」


「それだけですかね」


「少なくとも、投げてはないです」


「投げてはいませんね」


「なら、まだ信頼してるんですよ。前より面倒になっただけで」


言いながら、私は自分の言葉が妙に彼の中に入っていくのを感じた。こういうときがある。相手の今の状態と、自分の言葉の角度がうまく噛み合うと、会話がただの応答ではなくなる瞬間。


松岡さんはしばらく黙って、それから小さく笑った。


「面倒になっただけ、ですか」


「はい」


「だいぶ救われる言い方ですね」


「簡略化してるだけです」


「それでも、ありがたいです」


私は少しだけ視線を逸らした。

 ありがたい、という言葉をこの人は軽く使わない。だから、そのたびにこちらまで少し静かになる。


その日の後半、店はまた落ち着いていた。私は平台の整理をし、松岡さんは帰るでもなく社会・政治の棚を眺めている。仕事が終わったのか、まだ何か考えているのか、その立ち方だけではわからない。


でも今日は、前より少しだけわかる気もした。

 この人は、話し足りないのだ。

 私も、たぶんそうだ。


その自覚があるだけで、売り場の空気が少し変わる。何も起きていないのに、何かが起きる前の静けさみたいなものが、薄く張っている。


「松岡さん」


私が声をかけると、彼は振り返った。


「はい」


「今日はもう帰るんですか」


「そのつもりでした」


「そのつもり」


「今は少し違います」


その返事に、私は一瞬だけ言葉を失う。

 今は少し違います。


別に露骨な意味ではない。ただ、ここにいたいとか、まだ話していたいとか、そういうものが少しだけ含まれている気がする。

 たぶん、気のせいではない。


「では、どうするんですか」


「それを今、考えています」


「珍しいですね。松岡さんがその場で考えるの」


「失礼ですね」


「いつも先に考えている印象なので」


「今日は少し、そうでもないです」


私は自分の胸の奥が静かに熱を持つのを感じた。

 この人は今、ここで迷っている。

 それはたぶん、私がここにいるからだ。


そういうふうに自分を中心に考えるのは、あまり好きではない。思い込みが強い人間になりたくないから。でも、今はかなり高い確率でそうだと思った。

 そして、それをうれしいと思ってしまう自分もいる。

 厄介だ、とまた思う。


「……少しだけなら」


私は言った。


「閉店まで、まだ時間あります」


松岡さんは私を見た。

 その視線の長さが、少しだけいつもと違う。値踏みではなく、確認に近い。私が何を言っているのか、その温度を測っている。


「店の中ですよ」


彼が言う。


「知ってます」


「仕事中です」


「知ってます」


「それでも?」


「それでも、少し話すくらいなら」


私はそこまで言ってから、自分の言葉を内側で確かめる。

 これは誘いなのか。

 たぶん、そうだ。かなり。

 ただし、恋愛の文脈ではない。少なくともまだ。

 もっと小さい、でも確実な引力としての誘い。


松岡さんはほんのわずかに息をつき、それから笑った。


「……早坂さんは、ときどきこちらの慎重さを試しますね」


「試してません」


「そうですか」


「たぶん、松岡さんが慎重すぎるんです」


「それは否定しません」


彼はレジの前まで来たが、本を追加で持ってくるわけでもなく、ただそこに立った。私もレジの中にいる。間にはカウンターがある。物理的には何も変わらない。触れることもできないし、触れようとも思わない。

 でも、その距離が逆に強すぎることがある。

 越えないからこそ、意識される境界線がある。


「昨日の言葉ですが」


彼が低い声で言った。


「企画の話じゃなくても、話していいという」


「はい」


「かなり、効きました」


私は顔を上げた。

 効きました。

 それもまた、この人らしい言い方だ。傷でも薬でもないのに、そういうふうに身体感覚として言葉を受け取る。


「そうですか」


「ええ。ありがたいのと、少し怖いのと、両方ありました」


私はその答えに、なぜか少し安心した。

 怖いのは私だけではない、とわかったからかもしれない。


「怖いんですね」


「怖いですよ」


「何が」


松岡さんは、すぐには答えなかった。

 その沈黙の長さで、私はもう少しだけ先を予感する。


「早坂さんと話していると」


彼は静かに言った。


「ときどき、正しい距離の感覚が揺れるので」


私は息を止めた。

 正しい距離。

 それは前にも話した。年齢差、立場、社会的な輪郭。それらを含めた言葉だ。そこが揺れると言われる意味は、軽くない。


でも、松岡さんはそこで止めた。止めるだろうとも思った。

 それ以上言えば、形が変わる。

 そしてまだ、その形に入る準備は、たぶん互いに終わっていない。


「……私は」


気づけば、自分が先に口を開いていた。

 松岡さんがこちらを見る。


「私は、揺れてもいいとは思ってません」


まず、そう言う。

 それは必要な前提だった。


「でも」


「でも?」


「揺れたことまで、なかったことにしなくていいと思ってます」


言ったあと、店内がひどく静かに感じられた。実際にはBGMも空調も動いている。でも、私たちの間にある沈黙だけが、急に濃度を持つ。


松岡さんは何も言わない。

 私は続けるべきか、やめるべきか、一瞬だけ迷う。

 でも、ここで引くのは違う気がした。


「松岡さんが慎重なのはわかります」


「ええ」


「私も、何でもいいとは思ってない」


「はい」


「でも、ちゃんと揺れたなら、そのことは見ておいたほうがいいでしょう」


その言葉は、私自身にも向いていた。

 私は今、自分の感情を“まだ恋じゃない”という言い方で整理している。たぶんそれは事実だ。でも同時に、便利な逃げ方でもある。この人を特別視していること、その特別さが信頼だけではない形を帯び始めていることから、少し距離を置くための。


だから今の言葉は、自分への確認でもあった。

 揺れたことを、なかったことにしない。

 それだけは、たぶん守ったほうがいい。


松岡さんはしばらく私を見ていた。

 その視線は強くない。むしろ静かだ。でも、静かだからこそ、逃げられない感じがする。


「……早坂さんは」


彼が言う。


「本当に、時々、困るくらい正しいことを言いますね」


「褒めてますか」


「半分」


「残り半分は」


「かなり困っています」


私は少し笑ってしまった。松岡さんも笑う。

 その笑いは、救いでもあり、延期でもあると思った。今ここで決定的なことを言わずに済むための、でも関係を後退させないための笑い。

 そういう知性の使い方は、嫌いじゃない。


閉店時間が近づき、松岡さんはようやく帰る支度をした。私はレジ締めの準備に入りながら、彼がいつものように軽く会釈するのを見ていた。


「では、また」


彼が言う。


「はい」


私は少しだけ考えてから、続けた。


「松岡さん」


「はい」


「さっきの“正しい距離”ですけど」


「ええ」


「たぶん今は、まだ守ったほうがいいです」


彼は少し驚いたように見えた。

 でも私は、そのまま言う。


「でも、守ってることと、何もないことは違います」


それだけ言って、私は視線をレジの画面に落とした。これ以上は見ないほうがいいと思ったからだ。自分が何を言ったのか、今さら少しだけわかって、頬のあたりが遅れて熱くなる。


松岡さんは数秒黙ってから、静かに答えた。


「……はい。私も、そう思います」


私はそれ以上何も言えなかった。言えば、たぶん何かが少し早く進みすぎる。


松岡さんは店を出ていく。自動ドアが開いて、夜の空気が流れ込む。私はその背中を追わず、ただレジの操作を続ける。

 でも、内側は全然静かではなかった。


私は理解してしまった。

 この関係は、もう単なる対話の延長ではない。

 まだ恋愛にはしていない。

 していないけれど、そこへ向かう力がすでに生まれている。


それを互いに知ってしまった。

 そして、それでも距離を守ろうとしている。


その状態は安定ではない。むしろ、かなり不安定だ。

 でも同時に、ひどく真面目でもある。


私はレジの最後の数字を確認しながら、ゆっくり息を吐いた。


少し怖い。

 でも、もう後戻りだけを望んではいない。


この人と、どこまで行くのか。

 まだ決めていない。決められない。

 ただ一つだけ確かなのは、私はもう、この揺れを無視する気がないということだった。

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