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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第7話 踏み込む側

距離の話をしてから、店の中の空気は少し変わった。

 元に戻った、というほど単純ではない。むしろ逆で、一度壊しかけたものを別の形で組み直した感じに近い。前より慎重で、でも前より正確だ。

 私はその変化を悪くないと思っていた。


松岡さんは、約束した通り、変に引かなくなった。会話の途中で急に温度を下げることもないし、逆に必要以上に親しく振る舞うこともない。以前より少しだけ言葉を選ぶようになった気はするが、それは逃げるためではなく、雑にしないための選び方だった。

 そういう違いはわかる。


私はレジで新刊の取り置き表を確認しながら、店内の奥にいる松岡さんを視界の端で捉える。社会学の棚の前で本を抜き、帯を読み、また戻す。その動作は相変わらず丁寧だった。

 この人は本当に、仕事の仕方が性格に出る。

 そう思う。


雑にできない。

 だから疲れる。

 でも、雑にしないから信頼できる。

 たぶん私は、そういうところまで含めて、この人を見始めている。


「こんばんは」


松岡さんがレジに来たとき、私は顔を上げた。


「こんばんは」


「今日は落ち着いていますね」


「雨だからです」


外は夕方から細い雨が続いていた。客足も鈍い。ビニール傘を持った会社員が何人か来て、雑誌を一冊買っていったくらいで、店内は全体に静かだった。


「そういう日は、本屋には向いている気がします」


松岡さんが言う。


「売上は向いてませんけど」


「現実的ですね」


「松岡さんにだけは言われたくないです」


彼は少し笑った。

 その笑い方が、この前より自然で、私は少し安心する。変な距離の取り方をしたあとに、またこうして普通に笑えるようになるなら、たぶん大丈夫だ。


「企画はどうですか」


私は会計しながら聞いた。


「少しだけ前に進みました」


「本当に?」


「本当に」


「珍しい」


「そこまで信用がないんですか」


「保留が長かったので」


松岡さんは袋を受け取りながら、小さく息をついた。


「方向を少し変えました」


「翻訳した」


「ええ」


「何を削ったんですか」


「理想論を少し」


「痛そうですね」


「痛いですよ」


彼の声は軽いのに、言っていることは軽くなかった。私はそれを聞いて、ふと喫茶店での会話を思い出す。必要な本と、通る本は違う。通る形に言い換える。それを彼は翻訳と呼んだ。

 あれはたぶん、仕事の技術であると同時に、少しだけ傷でもあるのだろう。


「でも、それで通るなら意味はあります」


私が言うと、松岡さんは少しだけ首をかしげた。


「慰めですか」


「評価です」


「厳しい書店員の」


「またそれ言う」


「便利なので」


私は少し笑ったあと、気になっていたことをそのまま聞いた。


「松岡さんって、最初に書いた言葉と、通すために変えた言葉、どっちに自分があると思いますか」


彼は一瞬だけ黙った。

 この沈黙は、考えている沈黙だとわかる。逃げる前の間ではない。


「難しいですね」


「そうですか」


「最初に書いたもののほうが、たぶん純度は高いです」


「やっぱり」


「でも、通すために変えた言葉のほうが、現実には届く」


「はい」


「だから、どっちにも自分はいます」


私はその言葉を受け取り、少しだけ考える。

 なるほど、と思った。

 綺麗な答えではない。

 でも、現実の中で働いている人間の答えとしては、かなり正しい。


「ずるいですね」


「どうしてですか」


「どっちかだけを本物にしないので」


「そうしないと続かないので」


私は彼の顔を見た。

 続かない。

 その言い方が、少しだけ疲れていた。


「続けることを、そんなに重く考えますか」


聞くと、松岡さんは苦笑した。


「年齢の問題かもしれません」


「三十九は、そこまで老成する年齢じゃないでしょう」


「早坂さんは、ときどき年上に厳しいですね」


「現実的なので」


「それも便利ですね」


その応酬のあと、私はふと思う。

 この人は今日、前より少しだけ仕事の内側を話している。企画が通らないこと。言葉を変えること。続けることの重さ。どれも、前から推測はできていた。でも、本人の口から出ると輪郭が変わる。


私は今、この人の「大人」としての表面ではなく、少し内側の構造を見ている。

 それが妙に落ち着かなかった。


落ち着かない、というのは悪い意味ではない。

 ただ、相手が役割だけの人ではなくなると、人は少しだけ慎重になる。


その日は閉店前になっても客が少なかった。雨脚が強くなり、入口のマットは濡れた靴跡で暗くなっている。店長は早めに事務処理に入り、売り場には私ともう一人のアルバイトだけが残っていた。


松岡さんは帰るタイミングを失ったように、雑誌棚の近くで立ち読みではない立ち方をしていた。


「松岡さん」


私がレジから声をかけると、彼は顔を上げた。


「はい」


「帰らないんですか」


「雨が強いので、少し待とうかと」


「それは本を買う人の言い訳です」


「もう買いました」


「では滞在ですね」


彼は小さく笑った。


「早坂さんは、店側の論理でしか話しませんね」


「仕事中なので」


「では、仕事の邪魔でしょうか」


私は一瞬だけ考えた。

 邪魔ではない。むしろ、いてもらっても構わないと思っている。

 でも、そのままそう言うのは少し違う。


「話しかけすぎなければ」


「厳しい」


「緩くすると長居するでしょう」


「それは否定できません」


その返事が少し可笑しくて、私は目を伏せた。

 この前の距離の話以来、こういう軽いやりとりが前より自然になっている気がする。気を遣わないのとは違う。むしろ気を遣っている。でも、互いにそれを知った上で会話しているから、変に空回りしない。

 それはたぶん、信頼の形の一つだ。


私はレジ横の返品雑誌を束ねながら言う。


「松岡さんって、仕事以外に何してるんですか」


「急ですね」


「前から少し気になってました」


「なぜ」


「仕事しかしてなさそうなので」


彼はそこで、珍しく少しだけ言葉に詰まった。

 図星だと思う。


「そこまでではないですよ」


「では、何を」


「本を読むとか」


「仕事です」


「散歩」


「健康管理」


「映画」


「最近あまり見ていません」


「仕事ですね」


「ずいぶん厳しい」


「だって、どれも休んでる感じがしないです」


松岡さんは少し黙った。

 私はその沈黙に、少しだけ踏み込みすぎたかと思う。けれど、もう遅い。こういう質問は途中で引くほうが不自然だ。


「……休むのは、あまり得意じゃないかもしれません」


彼が静かに言った。

 その声は、さっきの企画の話より少しだけ個人的だった。


「何もしないと、考えるので」


「それは普段も考えてるでしょう」


「普段は、考える対象がありますから」


「何もしないと、自分のことを考える」


「そうですね」


私はそこで、少しだけ息を止めた。

 それは、わかる気がした。

 私も似たようなところがある。手を止めると、自分の存在の不確かさとか、今の人生の輪郭とか、そういう厄介なものが浮いてくる。だから、講義やバイトや読書で思考を埋めることがある。

 忙しさは、ときどき防壁になる。


「松岡さんは、あまり自分のことが好きじゃないんですか」


気づいたら、そう聞いていた。

 かなり踏み込んだ質問だと思う。でも、聞きたかったのも事実だった。


松岡さんは、今度は明確に驚いた顔をした。


「その質問を、ここでしますか」


「駄目ですか」


「駄目ではないですが……」


彼は苦笑してから、視線を少しだけ落とした。


「好きか嫌いかで言えば、あまり考えません」


「逃げましたね」


「そうかもしれません」


「では、言い換えます。自分を信頼していますか」


松岡さんは、その言い換えに少しだけ真面目な顔になった。


「……前よりは、していないかもしれません」


「前?」


「若い頃より、です」


私は手を止めた。

 若い頃より。

 その言い方は、これまでの彼の話の中では少し珍しい。過去形が具体的な温度を持っている。


「何かあったんですか」


聞いてから、私は少しだけ後悔した。さすがに急すぎたかもしれない、と。

 でも松岡さんは、完全には閉じなかった。


「いろいろ、ですね」


「便利な言葉ですね」


「本当に便利です」


「仕事以外も含む?」


彼は数秒だけ黙ったあと、静かに頷いた。


「ええ」


私はそこで、それ以上は聞かなかった。

 聞けなかったのではない。今ここで掘るのは違うと判断したからだ。相手が少しだけ開いたときに、こちらが一気に踏み込むと関係は壊れる。そういう構造は知っている。


だから私は、別の角度から言う。


「でも、松岡さんは自分を嫌ってる人の仕事の仕方じゃないです」


「そうですか」


「嫌ってる人は、もっと投げやりになります」


「評価が独特ですね」


「観察の結果です」


「そればかりですね」


「便利なので」


彼は少し笑った。その笑い方は、さっきよりやわらかい。

 私はそこで理解する。

 この人は、たぶん脆い。

 少なくとも、自分が思っているより。

 でも同時に、脆いことを理由に他人を利用しない強さもある。そこが、この人の信頼できるところだ。


私はその両方を見てしまった。

 だから、たぶん、もう前と同じ位置には戻れない。


閉店十分前、雨はまだ止まなかった。

 もう一人のアルバイトがバックヤードに下がり、店内はほとんど静まり返っている。松岡さんは入口近くで外を見ていたが、やがてこちらを振り返った。


「そろそろ帰ります」


「雨、強いですよ」


「ええ。でも、これ以上いると本当に邪魔なので」


「そこはちゃんとわかるんですね」


「さすがに」


私は少し迷った。

 迷った、という時点で、もうかなり進んでいる気もする。普通なら迷う必要のないことだからだ。

 でも、ここで言わないと、あとで自分の中に残る気がした。


「……松岡さん」


「はい」


「今度、企画の話じゃなくても、話していいですよ」


言ってから、自分の声が思ったより落ち着いていたことに気づく。


もっと恥ずかしいかと思った。もっと感情的になるかと思った。けれど実際には、先に認識が来た。これは必要な踏み込みだ、と。関係を前に進めるためというより、正確にするために必要な一歩だと理解して、それから言葉にした。


松岡さんは、はっきりと驚いた顔をした。


「……それは」


「変な意味じゃなくて」


私はすぐに補足した。


「まあ、変じゃない意味もよくわかりませんけど」


自分で言って少し可笑しくなる。松岡さんも困ったように笑った。


「早坂さんらしいですね」


「とにかく、企画とか仕事の名目がなくても、話したければ話していいです」


「どうして、そう思ったんですか」


私は少しだけ視線を逸らして、それから答えた。


「松岡さん、たぶん、一人で整理しすぎるので」


「それは」


「見てればわかります」


「また観察ですか」


「はい」


私は彼の顔を見た。


「あと、前に“一人で決めないでほしい”って言ったでしょう」


「ええ」


「それと同じです。距離だけじゃなくて、言葉も」


そこまで言って、私は自分がかなり踏み込んでいることを自覚した。

 でも、不思議と後悔はなかった。


これはたぶん、恋の告白ではない。

 助けたい、でもない。

 もっと正確に言えば、この人を対話の相手として、自分の側に引き受け始めている。


それは私にとって、かなり重い意味を持つ。


松岡さんはしばらく何も言わなかった。

 私は少しだけ不安になる。言いすぎたかもしれない。相手にとっては負担が大きいかもしれない。

 でも、やがて彼は低い声で言った。


「……ありがとうございます」


その四文字が、思っていたより深く響いた。

 軽い礼ではないとわかる。

 だから、私の胸の奥も少しだけ熱を持つ。


「別に、大したことじゃないです」


「いえ。大したことです」


「そうですか」


「ええ」


そこでまた短い沈黙が落ちる。

 雨音がガラスに当たっている。店内の照明は少し白く、閉店前の空気は静かだ。何も起きていない。触れてもいないし、恋人でもないし、ただ本屋で立ち話をしているだけだ。


でも、たぶん今、関係の質は変わった。

 私はそれをはっきり感じていた。


「……松岡さん」


「はい」


「さっきの質問の答え、今じゃなくていいです」


「自分を信頼しているか、ですか」


「はい」


「覚えておきます」


「そのうち聞きます」


彼は少しだけ笑った。


「厳しいですね」


「必要なので」


「そうですね」


その「そうですね」は、前より少しだけやわらかかった。


松岡さんが帰ったあと、私はレジ締めをしながら、自分の内側に残ったものを静かに観察していた。

 私は今、何をしたのか。


まず事実を確認する。

 私は一歩踏み込んだ。

 仕事や企画の名目なしに、話していいと言った。

 それは単なる親切ではない。少なくとも、その他大勢に向ける種類のものではない。


次に理解する。

 私は松岡太一さんという人間を、対話相手として特別な場所に置き始めている。信頼の延長にあるけれど、もう単なる信頼ではない。あの人が少し脆くて、でもそれを理由に甘えない人だと知って、そのことまで含めて見たいと思ってしまった。


最後に、感情が来る。

 少し怖い。

 でも、嫌ではない。


私は自分の中に、その結論を静かに置く。

 たぶんもう、この人は「特別な相手」になり始めている。


まだ恋とは言わない。

 そんな便利な言葉で固定したくない。

 でも少なくとも、会えると嬉しいとか、来ないと少し足りないとか、そういう段階だけではなくなった。


私はこの人に踏み込んだ。

 そして、踏み込んだことを後悔していない。

 それは大きな変化だった。


雨はまだ降っている。店の外は暗く、ガラスに反射した店内の明かりだけがやけに静かだった。


私はレジの金額を確認し、最後の伝票を揃える。手はいつも通り動く。でも、内側は少しだけいつも通りではない。

 理解してしまったからだ。


私は、松岡太一さんに対して、選ぶ側に回り始めている。

 受け身ではなく。

 ただ見ているだけでもなく。

 自分から関係を動かすほうへ。


それは、たぶん次の段階の始まりだった。

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