第7話 踏み込む側
距離の話をしてから、店の中の空気は少し変わった。
元に戻った、というほど単純ではない。むしろ逆で、一度壊しかけたものを別の形で組み直した感じに近い。前より慎重で、でも前より正確だ。
私はその変化を悪くないと思っていた。
松岡さんは、約束した通り、変に引かなくなった。会話の途中で急に温度を下げることもないし、逆に必要以上に親しく振る舞うこともない。以前より少しだけ言葉を選ぶようになった気はするが、それは逃げるためではなく、雑にしないための選び方だった。
そういう違いはわかる。
私はレジで新刊の取り置き表を確認しながら、店内の奥にいる松岡さんを視界の端で捉える。社会学の棚の前で本を抜き、帯を読み、また戻す。その動作は相変わらず丁寧だった。
この人は本当に、仕事の仕方が性格に出る。
そう思う。
雑にできない。
だから疲れる。
でも、雑にしないから信頼できる。
たぶん私は、そういうところまで含めて、この人を見始めている。
「こんばんは」
松岡さんがレジに来たとき、私は顔を上げた。
「こんばんは」
「今日は落ち着いていますね」
「雨だからです」
外は夕方から細い雨が続いていた。客足も鈍い。ビニール傘を持った会社員が何人か来て、雑誌を一冊買っていったくらいで、店内は全体に静かだった。
「そういう日は、本屋には向いている気がします」
松岡さんが言う。
「売上は向いてませんけど」
「現実的ですね」
「松岡さんにだけは言われたくないです」
彼は少し笑った。
その笑い方が、この前より自然で、私は少し安心する。変な距離の取り方をしたあとに、またこうして普通に笑えるようになるなら、たぶん大丈夫だ。
「企画はどうですか」
私は会計しながら聞いた。
「少しだけ前に進みました」
「本当に?」
「本当に」
「珍しい」
「そこまで信用がないんですか」
「保留が長かったので」
松岡さんは袋を受け取りながら、小さく息をついた。
「方向を少し変えました」
「翻訳した」
「ええ」
「何を削ったんですか」
「理想論を少し」
「痛そうですね」
「痛いですよ」
彼の声は軽いのに、言っていることは軽くなかった。私はそれを聞いて、ふと喫茶店での会話を思い出す。必要な本と、通る本は違う。通る形に言い換える。それを彼は翻訳と呼んだ。
あれはたぶん、仕事の技術であると同時に、少しだけ傷でもあるのだろう。
「でも、それで通るなら意味はあります」
私が言うと、松岡さんは少しだけ首をかしげた。
「慰めですか」
「評価です」
「厳しい書店員の」
「またそれ言う」
「便利なので」
私は少し笑ったあと、気になっていたことをそのまま聞いた。
「松岡さんって、最初に書いた言葉と、通すために変えた言葉、どっちに自分があると思いますか」
彼は一瞬だけ黙った。
この沈黙は、考えている沈黙だとわかる。逃げる前の間ではない。
「難しいですね」
「そうですか」
「最初に書いたもののほうが、たぶん純度は高いです」
「やっぱり」
「でも、通すために変えた言葉のほうが、現実には届く」
「はい」
「だから、どっちにも自分はいます」
私はその言葉を受け取り、少しだけ考える。
なるほど、と思った。
綺麗な答えではない。
でも、現実の中で働いている人間の答えとしては、かなり正しい。
「ずるいですね」
「どうしてですか」
「どっちかだけを本物にしないので」
「そうしないと続かないので」
私は彼の顔を見た。
続かない。
その言い方が、少しだけ疲れていた。
「続けることを、そんなに重く考えますか」
聞くと、松岡さんは苦笑した。
「年齢の問題かもしれません」
「三十九は、そこまで老成する年齢じゃないでしょう」
「早坂さんは、ときどき年上に厳しいですね」
「現実的なので」
「それも便利ですね」
その応酬のあと、私はふと思う。
この人は今日、前より少しだけ仕事の内側を話している。企画が通らないこと。言葉を変えること。続けることの重さ。どれも、前から推測はできていた。でも、本人の口から出ると輪郭が変わる。
私は今、この人の「大人」としての表面ではなく、少し内側の構造を見ている。
それが妙に落ち着かなかった。
落ち着かない、というのは悪い意味ではない。
ただ、相手が役割だけの人ではなくなると、人は少しだけ慎重になる。
その日は閉店前になっても客が少なかった。雨脚が強くなり、入口のマットは濡れた靴跡で暗くなっている。店長は早めに事務処理に入り、売り場には私ともう一人のアルバイトだけが残っていた。
松岡さんは帰るタイミングを失ったように、雑誌棚の近くで立ち読みではない立ち方をしていた。
「松岡さん」
私がレジから声をかけると、彼は顔を上げた。
「はい」
「帰らないんですか」
「雨が強いので、少し待とうかと」
「それは本を買う人の言い訳です」
「もう買いました」
「では滞在ですね」
彼は小さく笑った。
「早坂さんは、店側の論理でしか話しませんね」
「仕事中なので」
「では、仕事の邪魔でしょうか」
私は一瞬だけ考えた。
邪魔ではない。むしろ、いてもらっても構わないと思っている。
でも、そのままそう言うのは少し違う。
「話しかけすぎなければ」
「厳しい」
「緩くすると長居するでしょう」
「それは否定できません」
その返事が少し可笑しくて、私は目を伏せた。
この前の距離の話以来、こういう軽いやりとりが前より自然になっている気がする。気を遣わないのとは違う。むしろ気を遣っている。でも、互いにそれを知った上で会話しているから、変に空回りしない。
それはたぶん、信頼の形の一つだ。
私はレジ横の返品雑誌を束ねながら言う。
「松岡さんって、仕事以外に何してるんですか」
「急ですね」
「前から少し気になってました」
「なぜ」
「仕事しかしてなさそうなので」
彼はそこで、珍しく少しだけ言葉に詰まった。
図星だと思う。
「そこまでではないですよ」
「では、何を」
「本を読むとか」
「仕事です」
「散歩」
「健康管理」
「映画」
「最近あまり見ていません」
「仕事ですね」
「ずいぶん厳しい」
「だって、どれも休んでる感じがしないです」
松岡さんは少し黙った。
私はその沈黙に、少しだけ踏み込みすぎたかと思う。けれど、もう遅い。こういう質問は途中で引くほうが不自然だ。
「……休むのは、あまり得意じゃないかもしれません」
彼が静かに言った。
その声は、さっきの企画の話より少しだけ個人的だった。
「何もしないと、考えるので」
「それは普段も考えてるでしょう」
「普段は、考える対象がありますから」
「何もしないと、自分のことを考える」
「そうですね」
私はそこで、少しだけ息を止めた。
それは、わかる気がした。
私も似たようなところがある。手を止めると、自分の存在の不確かさとか、今の人生の輪郭とか、そういう厄介なものが浮いてくる。だから、講義やバイトや読書で思考を埋めることがある。
忙しさは、ときどき防壁になる。
「松岡さんは、あまり自分のことが好きじゃないんですか」
気づいたら、そう聞いていた。
かなり踏み込んだ質問だと思う。でも、聞きたかったのも事実だった。
松岡さんは、今度は明確に驚いた顔をした。
「その質問を、ここでしますか」
「駄目ですか」
「駄目ではないですが……」
彼は苦笑してから、視線を少しだけ落とした。
「好きか嫌いかで言えば、あまり考えません」
「逃げましたね」
「そうかもしれません」
「では、言い換えます。自分を信頼していますか」
松岡さんは、その言い換えに少しだけ真面目な顔になった。
「……前よりは、していないかもしれません」
「前?」
「若い頃より、です」
私は手を止めた。
若い頃より。
その言い方は、これまでの彼の話の中では少し珍しい。過去形が具体的な温度を持っている。
「何かあったんですか」
聞いてから、私は少しだけ後悔した。さすがに急すぎたかもしれない、と。
でも松岡さんは、完全には閉じなかった。
「いろいろ、ですね」
「便利な言葉ですね」
「本当に便利です」
「仕事以外も含む?」
彼は数秒だけ黙ったあと、静かに頷いた。
「ええ」
私はそこで、それ以上は聞かなかった。
聞けなかったのではない。今ここで掘るのは違うと判断したからだ。相手が少しだけ開いたときに、こちらが一気に踏み込むと関係は壊れる。そういう構造は知っている。
だから私は、別の角度から言う。
「でも、松岡さんは自分を嫌ってる人の仕事の仕方じゃないです」
「そうですか」
「嫌ってる人は、もっと投げやりになります」
「評価が独特ですね」
「観察の結果です」
「そればかりですね」
「便利なので」
彼は少し笑った。その笑い方は、さっきよりやわらかい。
私はそこで理解する。
この人は、たぶん脆い。
少なくとも、自分が思っているより。
でも同時に、脆いことを理由に他人を利用しない強さもある。そこが、この人の信頼できるところだ。
私はその両方を見てしまった。
だから、たぶん、もう前と同じ位置には戻れない。
閉店十分前、雨はまだ止まなかった。
もう一人のアルバイトがバックヤードに下がり、店内はほとんど静まり返っている。松岡さんは入口近くで外を見ていたが、やがてこちらを振り返った。
「そろそろ帰ります」
「雨、強いですよ」
「ええ。でも、これ以上いると本当に邪魔なので」
「そこはちゃんとわかるんですね」
「さすがに」
私は少し迷った。
迷った、という時点で、もうかなり進んでいる気もする。普通なら迷う必要のないことだからだ。
でも、ここで言わないと、あとで自分の中に残る気がした。
「……松岡さん」
「はい」
「今度、企画の話じゃなくても、話していいですよ」
言ってから、自分の声が思ったより落ち着いていたことに気づく。
もっと恥ずかしいかと思った。もっと感情的になるかと思った。けれど実際には、先に認識が来た。これは必要な踏み込みだ、と。関係を前に進めるためというより、正確にするために必要な一歩だと理解して、それから言葉にした。
松岡さんは、はっきりと驚いた顔をした。
「……それは」
「変な意味じゃなくて」
私はすぐに補足した。
「まあ、変じゃない意味もよくわかりませんけど」
自分で言って少し可笑しくなる。松岡さんも困ったように笑った。
「早坂さんらしいですね」
「とにかく、企画とか仕事の名目がなくても、話したければ話していいです」
「どうして、そう思ったんですか」
私は少しだけ視線を逸らして、それから答えた。
「松岡さん、たぶん、一人で整理しすぎるので」
「それは」
「見てればわかります」
「また観察ですか」
「はい」
私は彼の顔を見た。
「あと、前に“一人で決めないでほしい”って言ったでしょう」
「ええ」
「それと同じです。距離だけじゃなくて、言葉も」
そこまで言って、私は自分がかなり踏み込んでいることを自覚した。
でも、不思議と後悔はなかった。
これはたぶん、恋の告白ではない。
助けたい、でもない。
もっと正確に言えば、この人を対話の相手として、自分の側に引き受け始めている。
それは私にとって、かなり重い意味を持つ。
松岡さんはしばらく何も言わなかった。
私は少しだけ不安になる。言いすぎたかもしれない。相手にとっては負担が大きいかもしれない。
でも、やがて彼は低い声で言った。
「……ありがとうございます」
その四文字が、思っていたより深く響いた。
軽い礼ではないとわかる。
だから、私の胸の奥も少しだけ熱を持つ。
「別に、大したことじゃないです」
「いえ。大したことです」
「そうですか」
「ええ」
そこでまた短い沈黙が落ちる。
雨音がガラスに当たっている。店内の照明は少し白く、閉店前の空気は静かだ。何も起きていない。触れてもいないし、恋人でもないし、ただ本屋で立ち話をしているだけだ。
でも、たぶん今、関係の質は変わった。
私はそれをはっきり感じていた。
「……松岡さん」
「はい」
「さっきの質問の答え、今じゃなくていいです」
「自分を信頼しているか、ですか」
「はい」
「覚えておきます」
「そのうち聞きます」
彼は少しだけ笑った。
「厳しいですね」
「必要なので」
「そうですね」
その「そうですね」は、前より少しだけやわらかかった。
松岡さんが帰ったあと、私はレジ締めをしながら、自分の内側に残ったものを静かに観察していた。
私は今、何をしたのか。
まず事実を確認する。
私は一歩踏み込んだ。
仕事や企画の名目なしに、話していいと言った。
それは単なる親切ではない。少なくとも、その他大勢に向ける種類のものではない。
次に理解する。
私は松岡太一さんという人間を、対話相手として特別な場所に置き始めている。信頼の延長にあるけれど、もう単なる信頼ではない。あの人が少し脆くて、でもそれを理由に甘えない人だと知って、そのことまで含めて見たいと思ってしまった。
最後に、感情が来る。
少し怖い。
でも、嫌ではない。
私は自分の中に、その結論を静かに置く。
たぶんもう、この人は「特別な相手」になり始めている。
まだ恋とは言わない。
そんな便利な言葉で固定したくない。
でも少なくとも、会えると嬉しいとか、来ないと少し足りないとか、そういう段階だけではなくなった。
私はこの人に踏み込んだ。
そして、踏み込んだことを後悔していない。
それは大きな変化だった。
雨はまだ降っている。店の外は暗く、ガラスに反射した店内の明かりだけがやけに静かだった。
私はレジの金額を確認し、最後の伝票を揃える。手はいつも通り動く。でも、内側は少しだけいつも通りではない。
理解してしまったからだ。
私は、松岡太一さんに対して、選ぶ側に回り始めている。
受け身ではなく。
ただ見ているだけでもなく。
自分から関係を動かすほうへ。
それは、たぶん次の段階の始まりだった。




