第6話 引くための距離
その変化に最初に気づいたのは、たぶん私のほうだった。
松岡さんは来る。頻度もそこまで変わらない。店長と話し、新刊台を見て、ときどき本を一冊買って帰る。表面だけ見れば、何も変わっていないように見える。
でも、会話の温度が少し下がった。
下がった、というより、整えられた。
前なら自然に続いていた話が、あるところで止まる。少し深い話題に入りそうになると、松岡さんのほうが先に切り上げる。冗談は言うし、感じも悪くない。むしろ前より丁寧なくらいだ。
だから余計にわかる。
これは偶然ではない。
私はレジで文庫のバーコードを通しながら、その事実を観察していた。
松岡さんがそうする理由は、たぶん一つしかない。
距離を取っている。
そして、その理由もだいたい想像がつく。
年齢差。
店員と客。
社会的な輪郭。
あるいは、自分の感情が進みすぎることへの警戒。
私はそこまで考えて、少しだけ息を吐いた。
理解はできる。
でも、理解できることと、平気でいられることは別だ。
「こちらでよろしいですか」
私がいつも通りに言うと、松岡さんは「はい」と答えた。その声も普段通りだった。落ち着いていて、柔らかい。
柔らかいのに、どこか遠い。
「今週は忙しかったんですか」
何気なく聞くと、松岡さんは財布からカードを出しながら頷いた。
「少し」
「会議ですか」
「それもあります」
「企画は」
「まだ保留です」
そこで会話が切れる。
前ならもう一歩先まで話していたはずだ。社内の空気とか、どう言い換えるかとか、そんな話に少し寄り道していたと思う。
でも今日は、そこで終わる。
私はそれを、はっきり認識した。
松岡さんは意図的に浅い場所に留めている。
「そうですか」
私はレシートを渡した。
松岡さんはそれを受け取り、軽く会釈して言う。
「では、また」
「はい」
それだけだった。
松岡さんが店を出ていく。自動ドアが開き、夜の空気が一瞬だけ入り込む。
私はレジの中に立ったまま、しばらく何も考えないようにした。
でも無理だった。
何も考えないというのは、考えがあるときほど難しい。
私は今、少し傷ついている。
そう理解するまでに、閉店まで三十分かかった。
傷つく、というのは少し大げさかもしれない。拒絶されたわけではないし、何かひどいことを言われたわけでもない。むしろ逆で、松岡さんは終始礼儀正しく、感じがよく、こちらに失礼のないように振る舞っていた。
だからこそ、余計にわかる。
あれは配慮だ。
そして配慮である以上、そこには線引きがある。
私はアパートに帰ってから、机に向かったまましばらくノートを開いていた。講義のメモを見ても頭に入らない。仕方なくペンを置き、窓の外を見る。夜の文京区は静かで、車の音も遠い。
なぜ距離を取るのか。
答えはわかっている。むしろ、わかりすぎるほどだ。
松岡太一さんは、そういう人だ。感情が動いたからといって、それを正当化するために相手との距離を曖昧にする人ではない。理解より感情を優先する人間でもない。だから、進みそうになったら、一度引く。
それは誠実さだと思う。
思うけれど、それで全部納得できるわけでもない。
私は子供ではないし、守られるだけの側に置かれるのも好きではない。危うさがあるなら、危うさがあると話せばいい。相手のためを思って一人で距離を決めるのは、優しさでもあるけれど、少しだけ傲慢でもある。
そこまで考えて、私はようやく自分の苛立ちの形を理解した。
私は、置いていかれるのが嫌なのだ。
判断の外側に置かれることが。
次に松岡さんが来たのは、その二日後だった。
私はその姿を見た瞬間、今日はそのまま終わらせない、と決めた。感情でぶつかるつもりはない。ただ、確認はする。何が起きているのかを、曖昧なままにしない。
それは私のやり方だった。
松岡さんはいつも通り店長と話し、棚を見て、一冊だけ本を持ってレジに来た。社会学の新書だった。私は会計をしながら、先に口を開く。
「松岡さん」
「はい」
「少しだけ、いいですか」
彼は私の声の調子で何かを察したのだと思う。すぐに頷いた。
「今ですか」
「今でないと、たぶんまた流れるので」
「……そうですね」
会計を終えたあと、私はレジの外に出た。店の中央は客の視線がある。だから少しだけ奥、雑誌棚と新書棚の境目あたりまで歩く。松岡さんもついてきた。
「今、距離を取ってますよね」
私がそう言うと、松岡さんは否定しなかった。
少しだけ目を伏せ、それから静かに言った。
「……はい」
その即答に、私は逆に少し楽になった。
ごまかされるほうが、たぶん嫌だったからだ。
「理由は、だいたいわかります」
「そうですか」
「でも、確認はしたいです」
松岡さんは数秒だけ黙った。
それから、彼は静かに続ける。
「あなたは十九歳で、私は三十九です。書店で働いているあなたに、営業で来ている私が、自然な顔をして少しずつ近づくのは、かなり危うい」
その言葉は正しかった。
正しすぎるくらいに。
だから私は、少し傷つく。
正論は、ときどき逃げ場がない。
「私は、子供じゃないです」
気づけばそう言っていた。
感情が先に出たのだと思う。珍しいことではないけれど、私にしては少し速い。
松岡さんの表情が少しだけ動く。
「そうですね」
「普通の十九歳ではないことも、松岡さんはもうわかってるでしょう」
「わかっています」
「なら」
そこで私は言葉を止めた。
なら、何だろう。
距離を取るな、と言いたいのか。
そんな単純な話ではない。
私だって、危うさがないとは思っていない。
ただ、一方的に判断されるのが嫌だった。
「……なら、なおさら、一人で決めないでほしいです」
それが、出てきた言葉だった。
松岡さんはそれを聞いて、しばらく黙った。
私は自分の言葉を反芻する。これはかなり本音に近い。距離を取るなではなく、対等に扱えという要求だ。相手の判断を否定しているのではない。ただ、その判断に私も参加したいと言っている。
それはたぶん、私らしい。
「それは、もっともです」
松岡さんがようやく言った。
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃないです」
「ええ。わかっています」
「ただ、私は“守るために黙る”みたいなやり方、あまり好きじゃない」
「それも、知っています」
「だったら最初から相談してください」
そこで松岡さんは、ほんの少しだけ息を吐いた。降参したようにも見えるし、むしろ自分の中で固めていたものを一度ほどいたようにも見えた。
「相談、ですか」
「はい」
「何と相談すればいいんでしょう」
「松岡さんが何を警戒しているのか」
「それを聞いて、どうしますか」
「考えます」
「即答ですね」
「当然です」
彼は少しだけ笑った。
その笑いは、ここ数日の中では一番自然だった。
私はそこで、自分の中の硬さが少しだけ緩むのを感じた。完全に安心したわけではない。でも、少なくとも今は、対話の形式に戻っている。
それが重要だった。
店の奥の棚の陰は、人目がまったくないわけではないが、レジ前ほど視線が集まらない。私たちはそこで、声の大きさを少し落として話した。
「警戒しているのは、単純に二つです」
松岡さんが言う。
「一つは年齢差。もう一つは、私の側の立場です」
「営業として来ていること」
「ええ。あなたがどう感じているかとは別に、私がその立場を利用する形になったら嫌なんです」
私は頷いた。
それはわかる。
かなりよくわかる。
社会的に強い側の人間が、自分では無自覚のまま立場を使うことは珍しくない。そして松岡さんは、それを自分に起こりうることとして警戒しているのだろう。
「……それで、一回引いた」
「はい」
「松岡さんらしいですね」
「褒められている気がしません」
「半分くらいは褒めてます」
松岡さんは苦笑した。
「残り半分は」
「不器用です」
「それは否定しません」
私は少しだけ視線を落とす。
「でも、私を守るためだけじゃないでしょう」
その言葉に、松岡さんの沈黙が一拍だけ長くなった。
ああ、と思った。やっぱり。
「……ええ」
「自分も、でしょう」
彼はすぐには否定しなかった。
「そうですね」
私はその答えを聞いて、なぜか少し安心した。
私だけの問題ではないとわかったからだ。
この人もまた、自分の側にある感情の動きを認識している。そして、それを無視して立派な大人ぶっているわけではない。ちゃんと危ういと思っているから引いた。
それはたぶん、誠実さの一部だ。
でも同時に、私の中の別の部分が静かに熱を持つ。
この人は、自分の感情を理由にブレーキを踏んだ。
つまり、何もないわけではない。
私はその事実を、すぐには感情として受け取らない。まず先に認識する。それから理解する。最後に、少しだけ嬉しいと思う。
厄介だ、と内心で思った。
「では、どうするのが正解なんですか」
私が聞くと、松岡さんは少しだけ首を振った。
「正解はないでしょうね」
「投げましたね」
「ありますか」
「ないです」
それは本当だった。
十九歳と三十九歳。学生と社会人。書店と出版社。会話が通じて、互いに少しずつ特別になり始めている。そういう関係に、社会が用意したきれいな正解は、たぶんない。
「でも」
私は言う。
「少なくとも、一人で全部決めるのは違うと思います」
松岡さんは、今度ははっきりと笑った。
「そこは譲らないんですね」
「対等なら」
「問題ない?」
「少なくとも、勝手に保護されるよりはましです」
その言葉に、彼はほんの少しだけ目を伏せた。
「……早坂さんは、そういうところが本当に十九歳に見えない」
「嬉しくない褒め方ですね」
「褒めています」
「知ってます」
やっと、いつもの会話に近いリズムが戻ってきた気がした。
その日の帰り際、松岡さんはレジで本を会計したあと、少しだけ真面目な顔で言った。
「一つ、約束してもいいですか」
「内容によります」
「何か距離のことで考えたら、今度は黙って引かずに言います」
私は数秒だけ彼を見る。
約束。
それは軽い言葉ではない。
でも、この人は大事な言葉を雑に使わない。そのことはもう知っている。
「……私も一つ」
「はい」
「松岡さんが変になったら、ちゃんと言います」
「変になったら」
「今日みたいに」
彼は苦笑した。
「厳しいですね」
「必要なので」
「そうですね」
そこで短い沈黙が落ちる。
私はその沈黙の中で理解する。
今日は距離が戻ったのではない。
距離の扱い方について、一段深い合意ができたのだ。
それは単純な前進ではない。むしろ、一度後退してから別の形で繋ぎ直した感じに近い。
でも、そのほうがたぶん長く持つ。
安易に近づくより、ずっと。
「では、また」
松岡さんが言う。
「はい。また」
彼は店を出ていった。私は今度は、その背中を見送らなかった。見送らなくても、また会うのだとわかっていたからだ。
信頼は、たぶんそういう感覚に近い。
会える保証があるわけではない。何も成立していない。名前のついた関係でもない。
それでも、完全には切れないと思える。
私はレジに戻りながら、胸の内側に残るものをゆっくり確かめた。
傷ついた。
でも、壊れてはいない。
むしろ少しだけ、相手の輪郭がはっきりした。
松岡太一さんは、感情に流されない。
でも、感情がないわけでもない。
だから引く。
そして、引いたことを説明しようとする。
面倒な人だと思う。
でも、その面倒さは嫌いじゃない。
私は彼を、さらに少しだけ特別な人として見始めている。
そしてたぶん彼も、もう私をただの「賢い学生」としては見ていない。
まだ恋ではない。
でも、もうただの安心や尊敬だけでもない。
静かに、しかし確実に、感情は次の段階に近づいていた。




