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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第6話 引くための距離

その変化に最初に気づいたのは、たぶん私のほうだった。

 松岡さんは来る。頻度もそこまで変わらない。店長と話し、新刊台を見て、ときどき本を一冊買って帰る。表面だけ見れば、何も変わっていないように見える。


でも、会話の温度が少し下がった。

 下がった、というより、整えられた。


前なら自然に続いていた話が、あるところで止まる。少し深い話題に入りそうになると、松岡さんのほうが先に切り上げる。冗談は言うし、感じも悪くない。むしろ前より丁寧なくらいだ。

 だから余計にわかる。

 これは偶然ではない。


私はレジで文庫のバーコードを通しながら、その事実を観察していた。

 松岡さんがそうする理由は、たぶん一つしかない。


距離を取っている。

 そして、その理由もだいたい想像がつく。


年齢差。

 店員と客。

 社会的な輪郭。

 あるいは、自分の感情が進みすぎることへの警戒。


私はそこまで考えて、少しだけ息を吐いた。

 理解はできる。

 でも、理解できることと、平気でいられることは別だ。


「こちらでよろしいですか」


私がいつも通りに言うと、松岡さんは「はい」と答えた。その声も普段通りだった。落ち着いていて、柔らかい。

 柔らかいのに、どこか遠い。


「今週は忙しかったんですか」


何気なく聞くと、松岡さんは財布からカードを出しながら頷いた。


「少し」


「会議ですか」


「それもあります」


「企画は」


「まだ保留です」


そこで会話が切れる。

 前ならもう一歩先まで話していたはずだ。社内の空気とか、どう言い換えるかとか、そんな話に少し寄り道していたと思う。

 でも今日は、そこで終わる。


私はそれを、はっきり認識した。

 松岡さんは意図的に浅い場所に留めている。


「そうですか」


私はレシートを渡した。

 松岡さんはそれを受け取り、軽く会釈して言う。


「では、また」


「はい」


それだけだった。

 松岡さんが店を出ていく。自動ドアが開き、夜の空気が一瞬だけ入り込む。

 私はレジの中に立ったまま、しばらく何も考えないようにした。

 でも無理だった。


何も考えないというのは、考えがあるときほど難しい。

 私は今、少し傷ついている。


そう理解するまでに、閉店まで三十分かかった。

 傷つく、というのは少し大げさかもしれない。拒絶されたわけではないし、何かひどいことを言われたわけでもない。むしろ逆で、松岡さんは終始礼儀正しく、感じがよく、こちらに失礼のないように振る舞っていた。


だからこそ、余計にわかる。

 あれは配慮だ。

 そして配慮である以上、そこには線引きがある。


私はアパートに帰ってから、机に向かったまましばらくノートを開いていた。講義のメモを見ても頭に入らない。仕方なくペンを置き、窓の外を見る。夜の文京区は静かで、車の音も遠い。


なぜ距離を取るのか。

 答えはわかっている。むしろ、わかりすぎるほどだ。

 松岡太一さんは、そういう人だ。感情が動いたからといって、それを正当化するために相手との距離を曖昧にする人ではない。理解より感情を優先する人間でもない。だから、進みそうになったら、一度引く。


それは誠実さだと思う。

 思うけれど、それで全部納得できるわけでもない。


私は子供ではないし、守られるだけの側に置かれるのも好きではない。危うさがあるなら、危うさがあると話せばいい。相手のためを思って一人で距離を決めるのは、優しさでもあるけれど、少しだけ傲慢でもある。


そこまで考えて、私はようやく自分の苛立ちの形を理解した。

 私は、置いていかれるのが嫌なのだ。

 判断の外側に置かれることが。


次に松岡さんが来たのは、その二日後だった。

 私はその姿を見た瞬間、今日はそのまま終わらせない、と決めた。感情でぶつかるつもりはない。ただ、確認はする。何が起きているのかを、曖昧なままにしない。

 それは私のやり方だった。


松岡さんはいつも通り店長と話し、棚を見て、一冊だけ本を持ってレジに来た。社会学の新書だった。私は会計をしながら、先に口を開く。


「松岡さん」


「はい」


「少しだけ、いいですか」


彼は私の声の調子で何かを察したのだと思う。すぐに頷いた。


「今ですか」


「今でないと、たぶんまた流れるので」


「……そうですね」


会計を終えたあと、私はレジの外に出た。店の中央は客の視線がある。だから少しだけ奥、雑誌棚と新書棚の境目あたりまで歩く。松岡さんもついてきた。


「今、距離を取ってますよね」


私がそう言うと、松岡さんは否定しなかった。

 少しだけ目を伏せ、それから静かに言った。


「……はい」


その即答に、私は逆に少し楽になった。

 ごまかされるほうが、たぶん嫌だったからだ。


「理由は、だいたいわかります」


「そうですか」


「でも、確認はしたいです」


松岡さんは数秒だけ黙った。

 それから、彼は静かに続ける。


「あなたは十九歳で、私は三十九です。書店で働いているあなたに、営業で来ている私が、自然な顔をして少しずつ近づくのは、かなり危うい」


その言葉は正しかった。

 正しすぎるくらいに。

 だから私は、少し傷つく。

 正論は、ときどき逃げ場がない。


「私は、子供じゃないです」


気づけばそう言っていた。

 感情が先に出たのだと思う。珍しいことではないけれど、私にしては少し速い。

 松岡さんの表情が少しだけ動く。


「そうですね」


「普通の十九歳ではないことも、松岡さんはもうわかってるでしょう」


「わかっています」


「なら」


そこで私は言葉を止めた。

 なら、何だろう。


距離を取るな、と言いたいのか。

 そんな単純な話ではない。

 私だって、危うさがないとは思っていない。

 ただ、一方的に判断されるのが嫌だった。


「……なら、なおさら、一人で決めないでほしいです」


それが、出てきた言葉だった。


松岡さんはそれを聞いて、しばらく黙った。

 私は自分の言葉を反芻する。これはかなり本音に近い。距離を取るなではなく、対等に扱えという要求だ。相手の判断を否定しているのではない。ただ、その判断に私も参加したいと言っている。

 それはたぶん、私らしい。


「それは、もっともです」


松岡さんがようやく言った。


「すみません」


「謝ってほしいわけじゃないです」


「ええ。わかっています」


「ただ、私は“守るために黙る”みたいなやり方、あまり好きじゃない」


「それも、知っています」


「だったら最初から相談してください」


そこで松岡さんは、ほんの少しだけ息を吐いた。降参したようにも見えるし、むしろ自分の中で固めていたものを一度ほどいたようにも見えた。


「相談、ですか」


「はい」


「何と相談すればいいんでしょう」


「松岡さんが何を警戒しているのか」


「それを聞いて、どうしますか」


「考えます」


「即答ですね」


「当然です」


彼は少しだけ笑った。

 その笑いは、ここ数日の中では一番自然だった。


私はそこで、自分の中の硬さが少しだけ緩むのを感じた。完全に安心したわけではない。でも、少なくとも今は、対話の形式に戻っている。

 それが重要だった。


店の奥の棚の陰は、人目がまったくないわけではないが、レジ前ほど視線が集まらない。私たちはそこで、声の大きさを少し落として話した。


「警戒しているのは、単純に二つです」


松岡さんが言う。


「一つは年齢差。もう一つは、私の側の立場です」


「営業として来ていること」


「ええ。あなたがどう感じているかとは別に、私がその立場を利用する形になったら嫌なんです」


私は頷いた。

 それはわかる。

 かなりよくわかる。

 社会的に強い側の人間が、自分では無自覚のまま立場を使うことは珍しくない。そして松岡さんは、それを自分に起こりうることとして警戒しているのだろう。


「……それで、一回引いた」


「はい」


「松岡さんらしいですね」


「褒められている気がしません」


「半分くらいは褒めてます」


松岡さんは苦笑した。


「残り半分は」


「不器用です」


「それは否定しません」


私は少しだけ視線を落とす。


「でも、私を守るためだけじゃないでしょう」


その言葉に、松岡さんの沈黙が一拍だけ長くなった。

 ああ、と思った。やっぱり。


「……ええ」


「自分も、でしょう」


彼はすぐには否定しなかった。


「そうですね」


私はその答えを聞いて、なぜか少し安心した。

 私だけの問題ではないとわかったからだ。


この人もまた、自分の側にある感情の動きを認識している。そして、それを無視して立派な大人ぶっているわけではない。ちゃんと危ういと思っているから引いた。

 それはたぶん、誠実さの一部だ。


でも同時に、私の中の別の部分が静かに熱を持つ。


この人は、自分の感情を理由にブレーキを踏んだ。

 つまり、何もないわけではない。


私はその事実を、すぐには感情として受け取らない。まず先に認識する。それから理解する。最後に、少しだけ嬉しいと思う。

 厄介だ、と内心で思った。


「では、どうするのが正解なんですか」


私が聞くと、松岡さんは少しだけ首を振った。


「正解はないでしょうね」


「投げましたね」


「ありますか」


「ないです」


それは本当だった。

 十九歳と三十九歳。学生と社会人。書店と出版社。会話が通じて、互いに少しずつ特別になり始めている。そういう関係に、社会が用意したきれいな正解は、たぶんない。


「でも」


私は言う。


「少なくとも、一人で全部決めるのは違うと思います」


松岡さんは、今度ははっきりと笑った。


「そこは譲らないんですね」


「対等なら」


「問題ない?」


「少なくとも、勝手に保護されるよりはましです」


その言葉に、彼はほんの少しだけ目を伏せた。


「……早坂さんは、そういうところが本当に十九歳に見えない」


「嬉しくない褒め方ですね」


「褒めています」


「知ってます」


やっと、いつもの会話に近いリズムが戻ってきた気がした。


その日の帰り際、松岡さんはレジで本を会計したあと、少しだけ真面目な顔で言った。


「一つ、約束してもいいですか」


「内容によります」


「何か距離のことで考えたら、今度は黙って引かずに言います」


私は数秒だけ彼を見る。

 約束。

 それは軽い言葉ではない。

 でも、この人は大事な言葉を雑に使わない。そのことはもう知っている。


「……私も一つ」


「はい」


「松岡さんが変になったら、ちゃんと言います」


「変になったら」


「今日みたいに」


彼は苦笑した。


「厳しいですね」


「必要なので」


「そうですね」


そこで短い沈黙が落ちる。

 私はその沈黙の中で理解する。

 今日は距離が戻ったのではない。

 距離の扱い方について、一段深い合意ができたのだ。


それは単純な前進ではない。むしろ、一度後退してから別の形で繋ぎ直した感じに近い。

 でも、そのほうがたぶん長く持つ。

 安易に近づくより、ずっと。


「では、また」


松岡さんが言う。


「はい。また」


彼は店を出ていった。私は今度は、その背中を見送らなかった。見送らなくても、また会うのだとわかっていたからだ。

 信頼は、たぶんそういう感覚に近い。


会える保証があるわけではない。何も成立していない。名前のついた関係でもない。

 それでも、完全には切れないと思える。


私はレジに戻りながら、胸の内側に残るものをゆっくり確かめた。

 傷ついた。

 でも、壊れてはいない。

 むしろ少しだけ、相手の輪郭がはっきりした。


松岡太一さんは、感情に流されない。

 でも、感情がないわけでもない。

 だから引く。

 そして、引いたことを説明しようとする。


面倒な人だと思う。

 でも、その面倒さは嫌いじゃない。

 私は彼を、さらに少しだけ特別な人として見始めている。


そしてたぶん彼も、もう私をただの「賢い学生」としては見ていない。


まだ恋ではない。

 でも、もうただの安心や尊敬だけでもない。

 静かに、しかし確実に、感情は次の段階に近づいていた。

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