表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

第5話 少し変わった距離

喫茶店で会ったあと、最初に松岡さんが店に来たのは三日後だった。

 私はその日、雑誌棚の前で返本の確認をしていた。午後六時を少し回ったくらいで、店内は平日らしい中途半端な静けさの中にある。学生はまだ多くない。会社帰りの客がぽつぽつと入ってきて、文庫か雑誌を一冊だけ買って出ていく時間帯だった。


自動ドアの開く音がして、私は顔を上げた。

 松岡さんだった。


それ自体はもう珍しくない。週に何度か来る。仕事の流れの中にこの店が組み込まれていることは、今の私にはわかっている。

 でも、今回は少し違った。

 違う、と最初に認識したのは、彼を見た私の側だ。


喫茶店で向かい合って話した。店の外で、客と店員ではない場所で、人生のことを話した。その事実が、視界の中の彼の輪郭を少し変えている。


書店に来る編集者。

 それだけではない。


私はもう、この人の中にある私的な動機を少し知ってしまっている。消えたくないこと。痕跡を残したいこと。理念だけではなく、その奥にある個人的な切実さ。

 それを知ったあとでは、人は単なる役割には戻らない。

 私はそう理解した。


「こんばんは」


松岡さんが、こちらに気づいて軽く会釈する。


「こんばんは」


返事はいつも通りのはずだった。声量も、言い方も、たぶん大きくは変わっていない。

 でも、いつも通りではないことは、自分でわかった。


どこが変わったのかを言葉にするのは難しい。ただ、レジ越しの時より少しだけ、相手がこちらの内側に近い場所にいる感じがする。

 それはたぶん、危険ではない。

 少なくとも今は。


松岡さんは店長に声をかけて、しばらく新刊台や棚を確認していた。私は作業を続けながら、その横顔をときどき視界の端で拾う。

 前から思っていたけれど、この人は棚を見る目が真面目すぎる。


営業や編集の人間でも、本の並びをここまで丁寧に見る人はそんなに多くない。売れ筋だけを追えばいいなら、もっと効率的な見方があるはずだ。でも松岡さんは、置かれている本の位置や、周辺の棚との関係まできちんと見ている。

 自分の本だけを見ていない。

 私はそれを好ましいと思う。

 仕事が丁寧な人間は、それだけで信用の基礎になる。


店長が別の対応で離れると、松岡さんはレジのほうへ来た。手には文庫が一冊だけある。


「今日は一冊ですか」


私が言うと、彼は少しだけ笑った。


「そうです。買わないと不自然かと思って」


「十分不自然です」


「ひどいですね」


「毎回来て毎回一冊買う人は、少し不自然です」


「書店に利益を落としているのに」


「善意を盾にしないでください」


松岡さんはそこで、喫茶店のときと同じように小さく笑った。

 ああ、と私は思う。


店の外で一度会ったことで、会話の立ち上がりが少し速くなっている。前より説明が少なくて済む。軽口も、レジ越しの社交ではなく、互いの輪郭をある程度知った上での言葉になっている。

 それは、距離が縮まったということだ。


まだ恋ではない。

 でも、他人ではもうない。


「企画らしい話は進んでるんですか」


会計をしながら聞くと、松岡さんは財布を開く手を少し止めた。


「進んでいるような、いないような」


「曖昧ですね」


「現実的に言えば、社内でまだ通っていません」


「厳しい」


「よくあります」


彼はそう言ったが、声に諦めはなかった。慣れている、という感じに近い。


「じゃあ、喫茶店で話したことは」


「私の頭の中にはかなり残っています」


「企画書にはまだならない」


「はい」


私はレシートを渡しながら彼を見た。


「社内って、そんなに通らないものなんですね」


「通りませんよ」


「必要な本、なのに」


その言葉に、松岡さんは少しだけ目を細めた。


「覚えてますね、本当に」


「何度も言ってます」


「ええ」


彼は受け取った袋を手にしたまま、少し考えるような顔になった。


「必要な本と、通る本は違うので」


「嫌な現実ですね」


「そうですね」


「じゃあ、どうするんですか」


「通る形に言い換える」


「妥協」


「翻訳です」


私は少しだけ笑った。


「編集者っぽい言い方」


「実際、そういう仕事でもあります」


その答えは、たぶん正しい。

 思想や現実を、そのままの形では届かない場所に通すために、言葉を調整する。削る。順番を変える。入口を変える。それは媚びとは違う。社会の中で流通する形に変える技術だ。

 私はそのことを理解している。

 理解しているからこそ、少しだけ聞きたくなる。


「それで、自分の言いたいことが薄くなる感じはないんですか」


松岡さんは、すぐには答えなかった。

 たぶん、あるのだと思った。聞き返さなくてもわかる種類の間だった。


「ありますよ」


彼は静かに言った。


「だから、たまに嫌になります」


私は一瞬だけ言葉を失った。

 仕事の愚痴、というほど軽い調子ではなかった。もっと静かで、長く積もった疲れに近い声だった。


私は今、それを聞いた。

 そう認識する。

 それから、その意味を考える。

 最後に、少しだけ胸が詰まる。


この人はやはり、思っていたより疲れている。


「……辞めたくはならないんですか」


「なります」


「また即答」


「この件については、かなりはっきりしているので」


「それでも辞めない」


「他に向いていることが、あまりないんでしょうね」


彼はそう言って苦笑したが、その笑い方は少しだけ自嘲に寄っていた。

 私はそれを見て、妙に嫌だった。


嫌、というのは感情としては少し強い。正確には、その自己評価の低さが彼に似合わないと感じた。


「それは違うと思います」


自分でも少し速い返答だった。

 松岡さんは少し驚いたように私を見る。


「何がですか」


「向いていることが他にない、っていう言い方です」


「そうですか」


「逃げ道みたいで、好きじゃない」


私はそう言ってから、少しだけ息を整えた。感情が先に出たわけではない。ただ、認識が速く言葉になった。


「松岡さんは、やれるからやってるんじゃないでしょう」


「では」


「引き受けてるんです」


店内の音が一瞬だけ遠のいた気がした。実際にはBGMもレジ音も変わっていないはずなのに、会話の輪郭だけが急に濃くなることがある。


松岡さんは何も言わなかった。

 私は続ける。


「必要だと思っていることがあって、面倒でも、通らなくても、現実に削られても、それでもやる。向いてるとか向いてないとかより先に、引き受けてる人のやり方です」


言いながら、自分でも少しだけ驚いた。

 これは評価だ。かなり個人的な。

 単に仕事ぶりを褒めているのではない。この人の生き方の一部を、私は今、言葉にしている。


松岡さんは数秒黙ってから、静かに言った。


「……そんなふうに言われたのは、初めてかもしれません」


「そうですか」


「ええ」


「周りの人は見る目がないですね」


そう言うと、彼は少しだけ笑った。その笑いには、さっきまでの自嘲が少し薄れていた。


「早坂さんは、たまに過大評価をします」


「してません」


「断言しますね」


「事実だと思うので」


そのやりとりのあと、短い沈黙が落ちた。

 でも、それは気まずさではなく、今交わされた言葉がそれぞれの中に沈む時間だった。


私は理解している。

 さっきの言葉はたぶん、松岡さんにとって少し効いた。

 そして、相手に効く言葉を持ってしまうことは、少し危険だ。

 人は、自分を言語化してくれる相手に弱い。

 それは私も同じだ。


その日、松岡さんは珍しく店を出る前に、レジ脇で少し立ち止まった。


「今週、少し忙しくて」


「そうなんですか」


「来週は来られないかもしれません」


「営業の話ですか」


「それもありますし、社内の会議も多くて」


私は頷いた。

 説明としては普通だ。何もおかしくない。

 でも、なぜそれをわざわざ言うのかは、少しだけ考える。


次に来るのが空くことを伝える必要は、本来そこまでない。店と出版社の関係なら、来ない週があっても何も問題はないはずだ。

 なのに彼は言った。


私はそれを認識し、それから意味を考える。

 たぶん、私に向けて言っている。

 店全体ではなく、店長でもなく、私に。

 だから少しだけ、胸の奥が静かに熱を持つ。


「別に報告しなくても大丈夫ですよ」


そう言ったのは、半分は事実で、半分は照れ隠しだった。

 松岡さんは少し困ったように笑った。


「そうですね」


「でも、言いたかった」


私は彼の顔を見た。

 今のは、少しだけ本音に近い言い方だった。


「そうかもしれません」


彼はそれだけ言った。

 そこで無理に意味を増やさない。その慎重さが、やはりこの人らしい。


「忙しいなら、ちゃんと寝てください」


「それは努力します」


「努力じゃなくて、やってください」


「厳しいですね」


「疲れてる人が疲れてないふりをするの、あまり好きじゃないので」


言ってから、自分でも少し踏み込んだと思った。

 でも松岡さんは、拒絶しなかった。

 むしろ少しだけ視線をやわらげた。


「心配されていますか」


「観察の結果です」


「便利な逃げ方ですね」


「松岡さんにだけは言われたくないです」


彼は今度は、少しだけはっきり笑った。

 それを見て、私は少し安心する。


この人は、こうして笑ったほうがいい。

 笑顔が似合う、という軽い意味ではない。緊張だけでできている人ではないと思えるからだ。


結局、その次の週、松岡さんは本当に来なかった。

 木曜も、金曜も。


私はそれを、気にしていないつもりでいた。

 つもり、というのは重要だ。


私は別に待っていたわけではない。そう整理していた。仕事の流れを知っているから、来ないこともあると理解していた。会議が多いと言っていたし、出版社の人間が毎週同じ店に来られるとも限らない。


全部、理屈としては正しい。

 でも、理屈が感情を消すわけではない。


私は木曜の夕方、自動ドアが開くたびに少しだけ顔を上げていたし、金曜の閉店前には一度、レジの時計を見た。


待っていた、のだと思う。

 そう理解するまでに、私は二日かかった。


少し面倒だ、と自分で思う。

 でも、否定しても仕方がない。


この人が来ると、店の中の時間の質が少し変わる。

 会話が発生する可能性があるというだけで、平板だった一日が少しだけ輪郭を持つ。

 それはもう、その他大勢に向ける感覚ではない。

 私は今、そこまで来ている。


翌週の火曜、松岡さんは何事もなかったように現れた。


私はレジにいて、彼を見た瞬間、少しだけ息を止めた。

 自分でもわかる程度に反応が速かった。

 それが嫌というわけではない。ただ、認識が先行しすぎている自分に少し驚く。


来た。


それだけの事実が、思っていたよりはっきり身体に入ってくる。


「こんばんは」


彼が言う。


「こんばんは」


私はそれだけ返した。いつも通りのはずだ。でも、たぶんほんの少しだけ、声がやわらかかった。


「先週、来られなくてすみません」


「別に謝ることじゃないでしょう」


「そうなんですが」


「仕事でしょ」


「ええ」


そこで私は少しだけ間を置いてから言った。


「……でも、来ないんだなとは思いました」


言ってしまってから、自分の内側が少し静かになる。

 これは事実だ。かなり。

 そして、その事実はたぶん、思っているより温度を持っている。


松岡さんは一瞬だけ目を見開いた。それから、ほんの少しだけ表情を崩す。


「それは……すみません」


「だから謝らなくていいです」


「でも、少し嬉しいですね」


私は視線を落とした。

 嬉しい、という言葉をこの人はたまに使う。そしてその使い方が、妙に真っ直ぐだ。

 軽く受け取れない。


「松岡さん、そういうところ、ずるいです」


「何がですか」


「自覚なさそうに言うところ」


「自覚はあります」


「じゃあ、なおさらです」


彼は小さく笑った。

 私も少しだけ笑ってしまう。


その会話の流れが自然すぎて、私は逆に少し警戒する。関係が自然に進むときほど、後から大きくなることがあるから。


でも同時に、もう一つ理解する。

 私はこの人が来ない週を、少し物足りなく感じた。

 そして来た今、少し安心している。


それは信頼の延長で、まだ恋ではない。

 でも、確実にその手前の何かではある。


「今日は何か進展ありましたか」


私は空気を少し戻すように聞いた。


「企画ですか」


「はい」


「一応、会議には出しました」


「一応」


「保留です」


「厳しい」


「ええ」


「それで平気なんですか」


「平気ではないですが、慣れています」


私はそこで、前に彼が言った「翻訳です」という言葉を思い出した。


「じゃあ、また言い換えるんですね」


「そうなります」


「面倒ですね」


「ええ」


「でも、やる」


「やります」


そのやりとりのあと、私は静かに思った。

 この人は、やっぱり好きな種類の大人だ。


恋愛の意味ではない。まだ。

 でも、人として、思想の相手として、世界の見方を信頼できる相手として、かなり上位に来ている。それはもう認めたほうが早い。


私は今、松岡太一さんという人間を特別視し始めている。

 それがどういう種類の特別さなのかは、まだ言語化しなくていい。むしろ、今はしないほうがいい。


便利な言葉ほど危ない。

 それは彼から学んだことでもある。


「また、時間があれば」


松岡さんが本を受け取りながら言う。


「喫茶店ですか」


「そこまで限定していません」


「曖昧ですね」


「店の外で話すのは、悪くなかったので」


私は少しだけ息を止めた。


悪くなかった。

 それだけの言葉なのに、なぜか長く残る。


「……そうですね」


私が答えると、彼は軽く頷いた。


「では、また」


「はい。また」


松岡さんは店を出ていく。自動ドアが開き、外の空気が一瞬だけ流れ込む。

 私はしばらくその方向を見ずに、レジの画面を見ていた。

 見ていないと、少し落ち着かない気がしたからだ。


認識する。

 理解する。

 そのあとで、感情が来る。


私は今、その順序の最後にいる。

 この人が来ると安心する。

 来ないと少し気になる。

 そして、こうしてまた会えると、思っていたよりちゃんと嬉しい。


それだけだ。

 まだ、それだけでいい。

 でも、その「だけ」は、きっと前より少し重い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ