第5話 少し変わった距離
喫茶店で会ったあと、最初に松岡さんが店に来たのは三日後だった。
私はその日、雑誌棚の前で返本の確認をしていた。午後六時を少し回ったくらいで、店内は平日らしい中途半端な静けさの中にある。学生はまだ多くない。会社帰りの客がぽつぽつと入ってきて、文庫か雑誌を一冊だけ買って出ていく時間帯だった。
自動ドアの開く音がして、私は顔を上げた。
松岡さんだった。
それ自体はもう珍しくない。週に何度か来る。仕事の流れの中にこの店が組み込まれていることは、今の私にはわかっている。
でも、今回は少し違った。
違う、と最初に認識したのは、彼を見た私の側だ。
喫茶店で向かい合って話した。店の外で、客と店員ではない場所で、人生のことを話した。その事実が、視界の中の彼の輪郭を少し変えている。
書店に来る編集者。
それだけではない。
私はもう、この人の中にある私的な動機を少し知ってしまっている。消えたくないこと。痕跡を残したいこと。理念だけではなく、その奥にある個人的な切実さ。
それを知ったあとでは、人は単なる役割には戻らない。
私はそう理解した。
「こんばんは」
松岡さんが、こちらに気づいて軽く会釈する。
「こんばんは」
返事はいつも通りのはずだった。声量も、言い方も、たぶん大きくは変わっていない。
でも、いつも通りではないことは、自分でわかった。
どこが変わったのかを言葉にするのは難しい。ただ、レジ越しの時より少しだけ、相手がこちらの内側に近い場所にいる感じがする。
それはたぶん、危険ではない。
少なくとも今は。
松岡さんは店長に声をかけて、しばらく新刊台や棚を確認していた。私は作業を続けながら、その横顔をときどき視界の端で拾う。
前から思っていたけれど、この人は棚を見る目が真面目すぎる。
営業や編集の人間でも、本の並びをここまで丁寧に見る人はそんなに多くない。売れ筋だけを追えばいいなら、もっと効率的な見方があるはずだ。でも松岡さんは、置かれている本の位置や、周辺の棚との関係まできちんと見ている。
自分の本だけを見ていない。
私はそれを好ましいと思う。
仕事が丁寧な人間は、それだけで信用の基礎になる。
店長が別の対応で離れると、松岡さんはレジのほうへ来た。手には文庫が一冊だけある。
「今日は一冊ですか」
私が言うと、彼は少しだけ笑った。
「そうです。買わないと不自然かと思って」
「十分不自然です」
「ひどいですね」
「毎回来て毎回一冊買う人は、少し不自然です」
「書店に利益を落としているのに」
「善意を盾にしないでください」
松岡さんはそこで、喫茶店のときと同じように小さく笑った。
ああ、と私は思う。
店の外で一度会ったことで、会話の立ち上がりが少し速くなっている。前より説明が少なくて済む。軽口も、レジ越しの社交ではなく、互いの輪郭をある程度知った上での言葉になっている。
それは、距離が縮まったということだ。
まだ恋ではない。
でも、他人ではもうない。
「企画らしい話は進んでるんですか」
会計をしながら聞くと、松岡さんは財布を開く手を少し止めた。
「進んでいるような、いないような」
「曖昧ですね」
「現実的に言えば、社内でまだ通っていません」
「厳しい」
「よくあります」
彼はそう言ったが、声に諦めはなかった。慣れている、という感じに近い。
「じゃあ、喫茶店で話したことは」
「私の頭の中にはかなり残っています」
「企画書にはまだならない」
「はい」
私はレシートを渡しながら彼を見た。
「社内って、そんなに通らないものなんですね」
「通りませんよ」
「必要な本、なのに」
その言葉に、松岡さんは少しだけ目を細めた。
「覚えてますね、本当に」
「何度も言ってます」
「ええ」
彼は受け取った袋を手にしたまま、少し考えるような顔になった。
「必要な本と、通る本は違うので」
「嫌な現実ですね」
「そうですね」
「じゃあ、どうするんですか」
「通る形に言い換える」
「妥協」
「翻訳です」
私は少しだけ笑った。
「編集者っぽい言い方」
「実際、そういう仕事でもあります」
その答えは、たぶん正しい。
思想や現実を、そのままの形では届かない場所に通すために、言葉を調整する。削る。順番を変える。入口を変える。それは媚びとは違う。社会の中で流通する形に変える技術だ。
私はそのことを理解している。
理解しているからこそ、少しだけ聞きたくなる。
「それで、自分の言いたいことが薄くなる感じはないんですか」
松岡さんは、すぐには答えなかった。
たぶん、あるのだと思った。聞き返さなくてもわかる種類の間だった。
「ありますよ」
彼は静かに言った。
「だから、たまに嫌になります」
私は一瞬だけ言葉を失った。
仕事の愚痴、というほど軽い調子ではなかった。もっと静かで、長く積もった疲れに近い声だった。
私は今、それを聞いた。
そう認識する。
それから、その意味を考える。
最後に、少しだけ胸が詰まる。
この人はやはり、思っていたより疲れている。
「……辞めたくはならないんですか」
「なります」
「また即答」
「この件については、かなりはっきりしているので」
「それでも辞めない」
「他に向いていることが、あまりないんでしょうね」
彼はそう言って苦笑したが、その笑い方は少しだけ自嘲に寄っていた。
私はそれを見て、妙に嫌だった。
嫌、というのは感情としては少し強い。正確には、その自己評価の低さが彼に似合わないと感じた。
「それは違うと思います」
自分でも少し速い返答だった。
松岡さんは少し驚いたように私を見る。
「何がですか」
「向いていることが他にない、っていう言い方です」
「そうですか」
「逃げ道みたいで、好きじゃない」
私はそう言ってから、少しだけ息を整えた。感情が先に出たわけではない。ただ、認識が速く言葉になった。
「松岡さんは、やれるからやってるんじゃないでしょう」
「では」
「引き受けてるんです」
店内の音が一瞬だけ遠のいた気がした。実際にはBGMもレジ音も変わっていないはずなのに、会話の輪郭だけが急に濃くなることがある。
松岡さんは何も言わなかった。
私は続ける。
「必要だと思っていることがあって、面倒でも、通らなくても、現実に削られても、それでもやる。向いてるとか向いてないとかより先に、引き受けてる人のやり方です」
言いながら、自分でも少しだけ驚いた。
これは評価だ。かなり個人的な。
単に仕事ぶりを褒めているのではない。この人の生き方の一部を、私は今、言葉にしている。
松岡さんは数秒黙ってから、静かに言った。
「……そんなふうに言われたのは、初めてかもしれません」
「そうですか」
「ええ」
「周りの人は見る目がないですね」
そう言うと、彼は少しだけ笑った。その笑いには、さっきまでの自嘲が少し薄れていた。
「早坂さんは、たまに過大評価をします」
「してません」
「断言しますね」
「事実だと思うので」
そのやりとりのあと、短い沈黙が落ちた。
でも、それは気まずさではなく、今交わされた言葉がそれぞれの中に沈む時間だった。
私は理解している。
さっきの言葉はたぶん、松岡さんにとって少し効いた。
そして、相手に効く言葉を持ってしまうことは、少し危険だ。
人は、自分を言語化してくれる相手に弱い。
それは私も同じだ。
その日、松岡さんは珍しく店を出る前に、レジ脇で少し立ち止まった。
「今週、少し忙しくて」
「そうなんですか」
「来週は来られないかもしれません」
「営業の話ですか」
「それもありますし、社内の会議も多くて」
私は頷いた。
説明としては普通だ。何もおかしくない。
でも、なぜそれをわざわざ言うのかは、少しだけ考える。
次に来るのが空くことを伝える必要は、本来そこまでない。店と出版社の関係なら、来ない週があっても何も問題はないはずだ。
なのに彼は言った。
私はそれを認識し、それから意味を考える。
たぶん、私に向けて言っている。
店全体ではなく、店長でもなく、私に。
だから少しだけ、胸の奥が静かに熱を持つ。
「別に報告しなくても大丈夫ですよ」
そう言ったのは、半分は事実で、半分は照れ隠しだった。
松岡さんは少し困ったように笑った。
「そうですね」
「でも、言いたかった」
私は彼の顔を見た。
今のは、少しだけ本音に近い言い方だった。
「そうかもしれません」
彼はそれだけ言った。
そこで無理に意味を増やさない。その慎重さが、やはりこの人らしい。
「忙しいなら、ちゃんと寝てください」
「それは努力します」
「努力じゃなくて、やってください」
「厳しいですね」
「疲れてる人が疲れてないふりをするの、あまり好きじゃないので」
言ってから、自分でも少し踏み込んだと思った。
でも松岡さんは、拒絶しなかった。
むしろ少しだけ視線をやわらげた。
「心配されていますか」
「観察の結果です」
「便利な逃げ方ですね」
「松岡さんにだけは言われたくないです」
彼は今度は、少しだけはっきり笑った。
それを見て、私は少し安心する。
この人は、こうして笑ったほうがいい。
笑顔が似合う、という軽い意味ではない。緊張だけでできている人ではないと思えるからだ。
結局、その次の週、松岡さんは本当に来なかった。
木曜も、金曜も。
私はそれを、気にしていないつもりでいた。
つもり、というのは重要だ。
私は別に待っていたわけではない。そう整理していた。仕事の流れを知っているから、来ないこともあると理解していた。会議が多いと言っていたし、出版社の人間が毎週同じ店に来られるとも限らない。
全部、理屈としては正しい。
でも、理屈が感情を消すわけではない。
私は木曜の夕方、自動ドアが開くたびに少しだけ顔を上げていたし、金曜の閉店前には一度、レジの時計を見た。
待っていた、のだと思う。
そう理解するまでに、私は二日かかった。
少し面倒だ、と自分で思う。
でも、否定しても仕方がない。
この人が来ると、店の中の時間の質が少し変わる。
会話が発生する可能性があるというだけで、平板だった一日が少しだけ輪郭を持つ。
それはもう、その他大勢に向ける感覚ではない。
私は今、そこまで来ている。
翌週の火曜、松岡さんは何事もなかったように現れた。
私はレジにいて、彼を見た瞬間、少しだけ息を止めた。
自分でもわかる程度に反応が速かった。
それが嫌というわけではない。ただ、認識が先行しすぎている自分に少し驚く。
来た。
それだけの事実が、思っていたよりはっきり身体に入ってくる。
「こんばんは」
彼が言う。
「こんばんは」
私はそれだけ返した。いつも通りのはずだ。でも、たぶんほんの少しだけ、声がやわらかかった。
「先週、来られなくてすみません」
「別に謝ることじゃないでしょう」
「そうなんですが」
「仕事でしょ」
「ええ」
そこで私は少しだけ間を置いてから言った。
「……でも、来ないんだなとは思いました」
言ってしまってから、自分の内側が少し静かになる。
これは事実だ。かなり。
そして、その事実はたぶん、思っているより温度を持っている。
松岡さんは一瞬だけ目を見開いた。それから、ほんの少しだけ表情を崩す。
「それは……すみません」
「だから謝らなくていいです」
「でも、少し嬉しいですね」
私は視線を落とした。
嬉しい、という言葉をこの人はたまに使う。そしてその使い方が、妙に真っ直ぐだ。
軽く受け取れない。
「松岡さん、そういうところ、ずるいです」
「何がですか」
「自覚なさそうに言うところ」
「自覚はあります」
「じゃあ、なおさらです」
彼は小さく笑った。
私も少しだけ笑ってしまう。
その会話の流れが自然すぎて、私は逆に少し警戒する。関係が自然に進むときほど、後から大きくなることがあるから。
でも同時に、もう一つ理解する。
私はこの人が来ない週を、少し物足りなく感じた。
そして来た今、少し安心している。
それは信頼の延長で、まだ恋ではない。
でも、確実にその手前の何かではある。
「今日は何か進展ありましたか」
私は空気を少し戻すように聞いた。
「企画ですか」
「はい」
「一応、会議には出しました」
「一応」
「保留です」
「厳しい」
「ええ」
「それで平気なんですか」
「平気ではないですが、慣れています」
私はそこで、前に彼が言った「翻訳です」という言葉を思い出した。
「じゃあ、また言い換えるんですね」
「そうなります」
「面倒ですね」
「ええ」
「でも、やる」
「やります」
そのやりとりのあと、私は静かに思った。
この人は、やっぱり好きな種類の大人だ。
恋愛の意味ではない。まだ。
でも、人として、思想の相手として、世界の見方を信頼できる相手として、かなり上位に来ている。それはもう認めたほうが早い。
私は今、松岡太一さんという人間を特別視し始めている。
それがどういう種類の特別さなのかは、まだ言語化しなくていい。むしろ、今はしないほうがいい。
便利な言葉ほど危ない。
それは彼から学んだことでもある。
「また、時間があれば」
松岡さんが本を受け取りながら言う。
「喫茶店ですか」
「そこまで限定していません」
「曖昧ですね」
「店の外で話すのは、悪くなかったので」
私は少しだけ息を止めた。
悪くなかった。
それだけの言葉なのに、なぜか長く残る。
「……そうですね」
私が答えると、彼は軽く頷いた。
「では、また」
「はい。また」
松岡さんは店を出ていく。自動ドアが開き、外の空気が一瞬だけ流れ込む。
私はしばらくその方向を見ずに、レジの画面を見ていた。
見ていないと、少し落ち着かない気がしたからだ。
認識する。
理解する。
そのあとで、感情が来る。
私は今、その順序の最後にいる。
この人が来ると安心する。
来ないと少し気になる。
そして、こうしてまた会えると、思っていたよりちゃんと嬉しい。
それだけだ。
まだ、それだけでいい。
でも、その「だけ」は、きっと前より少し重い。




