第4話 店の外で話す
約束した喫茶店は、書店から歩いて五分ほどの場所にあった。
駅前の通りから一本入っただけなのに、そこだけ少し時間が遅い。古い木の扉と、小さめの窓。手書きのメニュー。昔からある店なのだろうと思わせるものが、外から見ただけでもいくつかあった。
私は扉の前で一度立ち止まる。
別に緊張しているわけではない。そう思った。
ただ、少しだけ確認していただけだ。
これは仕事の延長。
少なくとも形式上は。
出版社の編集者が、大学生の感覚を聞きたいと言った。私はそれを受けた。それだけの話だ。何も不自然ではない。理屈としては。
でも、理屈だけでは片づかないものがあることも、私は知っている。
店の外で会う。
その事実は、書店のレジ越しの会話とは違う輪郭を持つ。
私はガラス越しに中を見た。松岡さんはもう来ていた。窓際ではなく、店の奥の二人席。壁側に座り、まだ注文もせずにメニューを閉じている。時間より少し早く来たのだろう。
そういう人だと思った。
私は扉を開けて店に入った。
「すみません、お待たせしました」
松岡さんは顔を上げて、静かに首を振った。
「いえ。私も今来たところです」
「それ、たぶん嘘ですね」
「そうですか」
「松岡さん、そういうときの言い方が少しだけ速いので」
彼は一瞬だけ言葉を失って、それから小さく笑った。
「よく見ていますね」
「観察は得意です」
「知っています」
その返しが自然すぎて、私は少しだけ間を置いた。
知っています。
その言葉には、ここまで積み上がった時間が小さく含まれている。たったそれだけの表現なのに、何度か会って、何度か話して、相手の癖を理解し始めていることが前提になっている。
私はそのことを認識し、それから少し遅れて、悪くないと思った。
店員が水を置きに来る。私たちはそれぞれコーヒーを頼んだ。松岡さんはブラック、私はカフェオレ。そういう小さな違いが、会話の前の余白を埋める。
「では、今日は取材ということで」
私がそう言うと、松岡さんは少しだけ困ったように笑った。
「そこまで大げさでは」
「でも、名目は必要でしょう」
「必要ですね」
「便利な言葉ほど危ない、でしたっけ」
「覚えているんですね」
「印象に残ることは覚えます」
また同じことを言っている気がして、私は少しだけ視線を落とした。印象に残る。覚えている。そういう言葉は、事実以上の温度を持ちやすい。
でも松岡さんは、やはりそこで踏み込まなかった。
「今日は、大学生の感覚というより、早坂さんの考えを聞きたいです」
「ずいぶん主語が狭まりましたね」
「最初からそのつもりでした」
「正直」
「一般化するなと言われたので」
「それはそうです」
コーヒーが運ばれてきて、湯気が二人の間に細く立つ。店内には小さなクラシックが流れていた。古いスピーカーの、少しだけ乾いた音。会話の邪魔にはならない程度に存在している。
私はカップに手を添えながら言った。
「それで、何を聞きたいんですか」
松岡さんは少しだけ考えてから口を開いた。
「今の人は、将来に何を期待しているのか」
「大きいですね」
「大きいです」
「大学生に聞くには」
「だから、早坂さんに聞いています」
私は少しだけ笑った。
「雑な信頼ですね」
「いえ。限定的な信頼です」
「その限定の仕方、わりと好きです」
言ってから、私は一瞬だけ自分の言葉を点検した。好き。もちろん、言いたいのは会話の形式についてで、相手そのものへの感情表現ではない。そう整理はできる。
でも、人はたいてい整理された意味だけでは受け取らない。
松岡さんはカップを持ち上げながら、何でもない調子で言った。
「ありがとうございます」
余計なことは足さない。そういうところが、この人のやり方だった。
私は少しだけ息を吐いてから答える。
「将来に期待している、というより、期待しすぎていない人が多いと思います」
「悲観ではなく」
「前提の修正です。上がり続ける前提も、豊かになり続ける前提も、たぶんもうない」
「人口減少の影響」
「それもあるし、社会の可動域が狭くなってる感じもあります」
「可動域」
「頑張れば何でもできる、という感覚が弱い。努力を否定してるわけじゃなくて、努力の回収率が低いとみんな感じてる」
松岡さんは、そこで少しだけ目を細めた。
「回収率、ですか」
「嫌な言い方ですけど」
「いえ、わかりやすい」
私はカフェオレを一口飲む。少し熱い。でも、その熱さが会話に集中するにはちょうどよかった。
「たとえば、勉強する。就職する。結婚する。子供を持つ。昔はその順路にある程度の再現性があった。でも今は、どこでも止まる。止まる可能性が高いから、最初から強く賭けない人が増える」
「なるほど」
「みんな怠惰になったんじゃなくて、合理的に慎重になっただけです」
「それは、かなり重要な見方ですね」
「松岡さんは違うんですか」
「本質的には近いです。ただ……」
「ただ?」
「そこまで明確に言語化できる人は少ない」
私は彼の顔を見た。
褒められた、というより、正確に受け取られた感じがした。そこに余計な甘さがないから、むしろ残る。
「編集って、そういうことを探す仕事ですか」
「何をですか」
「うまく言葉になっていない現実を、言葉にする人を探す」
松岡さんは少しだけ驚いたような顔をした。
「……それは、かなり近いかもしれません」
「やっぱり」
「ただ実際には、そこまできれいじゃないです」
「売れそうかどうか、が混ざる」
「ええ」
「面倒ですね」
「面倒ですよ」
彼はそこで笑ったが、その笑いは少しだけ疲れていた。
私はそれを見て、前から気になっていたことを思い出す。
疲れた大人。
でも、壊れてはいない人。
「松岡さんは、どうしてそこまで面倒な仕事を続けてるんですか」
前にも似たことを聞いた。けれど今日は、前より少しだけ深い場所で聞いている気がした。
店の外だからかもしれない。
レジ越しではない距離は、質問の重さを少し変える。
松岡さんはすぐには答えなかった。テーブルに置いた指先が、ほんの少しだけカップの縁をなぞる。
「やめる理由がなかった、というのもあります」
「消極的ですね」
「そうですね」
「本当は?」
彼は私を見た。
値踏みではなく、どこまで言うかを測る視線。私はそれを受け止めた。逃げる必要はないと思ったからだ。
「……残したいんだと思います」
「何を」
「言葉を。考えを。痕跡を」
私は黙った。
その言い方は、前に聞いた「必要な本がある」という話より、少しだけ個人的だった。
「消えるので」
松岡さんは静かに続けた。
「人も、考えも、そのままだとすぐ消える。だから、せめて言葉にして残したい。そんな感じです」
私はカップを持つ手に少し力を入れた。
消える。
その単語は、私には少し強すぎる。
役割の中に埋もれて、自分の輪郭が曖昧になる感覚なら、私にも覚えがある。名前や立場だけが先に動いて、肝心の自分がそこに置き去りになる感じ。私はそのことを普段は思考の奥に押し込めているけれど、完全に消えたわけではない。
だから今、目の前の男が「痕跡」と言ったとき、少しだけ心が揺れた。
私は今、反応している。
そう認識する。
それから、理由を理解する。
最後に、少しだけ痛いと思った。
「……わかる気がします」
私がそう言うと、松岡さんは少しだけ意外そうな顔をした。
「早坂さんもですか」
「消えるの、嫌じゃないですか」
「嫌ですね」
「誰にも覚えられないのも」
「ええ」
「自分がいたことが、最初からなかったみたいになるのも」
そこまで言って、私は一瞬だけ止まった。
危ない、と思った。今のは、少しだけ本音に近すぎる。
でも松岡さんはそこを無理に掘らなかった。ただ静かに頷いた。
「……はい」
その一音だけで十分だった。
理解された、とは言わない。私の事情を彼が知っているわけではない。私の中にある存在の不確かさも、役割に回収されそうになる感覚も、何も知らない。
でも、感覚の輪郭が重なることはある。
完全な理解でなくても、人は少し救われる。
私はそのことを久しぶりに思い出した。
「だから本なんですね」
「たぶん」
「子供とか、制度とか、思想とか、そういう形で残したい」
松岡さんの表情がほんの少しだけ変わった。
驚いた、というより、図星を突かれたときの沈黙に近い。
「……そこまで見えますか」
「言い方に出てます」
「そんなにわかりやすいですか」
「少なくとも私には」
彼は少しだけ苦笑した。
「それは、少し困りますね」
「どうして」
「見透かされるのは得意ではないので」
「私もです」
「では、お互い様ですね」
そう言って彼はコーヒーを飲んだ。
沈黙が落ちる。けれど、それは気まずい沈黙ではなかった。会話が途切れたのではなく、今話したことが互いの中で少し沈む時間だった。
私はその沈黙の中で、彼を見ていた。
松岡太一さんは、たぶん、私が最初に思ったよりもずっと個人的な動機で仕事をしている。社会のため、読者のため、公共のため。そういう言葉も本当なのだろう。でも、その一番奥にあるのは、もっと私的で、もっと切実なものだ。
消えたくない。
残したい。
痕跡がほしい。
それは少し滑稽で、少し切実で、だからこそ信用できた。
人は綺麗な理念だけでは長く動けない。奥に傷や恐れがあるほうが、むしろ本物に見える。
「早坂さんは」
松岡さんが不意に言った。
「何を残したいですか」
私は目を上げた。
「急ですね」
「聞き返しただけです」
「それはそうですけど」
私は少し考えた。自分でも意外なくらい、すぐには答えが出なかった。
何を残したいか。
少し前までの私なら、もっと即物的に答えられたかもしれない。成績とか、肩書きとか、誰かの役に立った記憶とか。けれど今の私は、そのどれも少し違う場所にいる。
「……まだ、はっきりしません」
「珍しいですね」
「そうですね。たぶん、残したいものより、消えたくない気持ちのほうが先にある」
言ってから、私は自分の言葉に少し驚いた。
これはかなり本音だ。
しかも、さっきの会話を受けた思いつきではなく、ずっと奥にあったものに近い。
「消えたくない、ですか」
「はい」
「それは、誰かに覚えていてほしいという意味ですか」
「たぶん、それだけじゃないです」
「というと」
「自分で、自分がここにいるって納得したいんだと思います」
松岡さんは何も言わなかった。
でも、その沈黙は拒絶ではなかった。私はそれがわかった。
「誰かに認められたい、でも少し違う。証明したい、でもそれも少し違う。もっと……」
私は言葉を探す。こういうとき、自分でも少し苛立つ。考えていることはあるのに、まだちょうどいい形にならない。
「実感、ですかね」
松岡さんが静かに言った。
「自分が生きている実感」
私は彼を見た。
それだ、と思った。
「……そうです」
「なるほど」
「よく出てきますね、そういう言葉」
「編集者なので」
「便利ですね」
「たまにだけです」
私たちは少しだけ笑った。
その笑いは、前までより少し深い場所で共有されていた。話の表面がおかしいから笑うのではなく、通じたことへの小さな安堵に近い笑い。
私はそこで一つ理解した。
この人は、ただ話が通じる相手ではない。
もう少し正確に言えば、話が通じることで自分の輪郭が少しはっきりする相手だ。
それは危険でもある。
人は、自分を見つけてくれる相手を特別視しやすいから。
でも、まだそこに名前をつける必要はないと思った。
「ところで」
私は空気を少し戻すように言った。
「今日のこれは、企画の役に立つんですか」
「かなり」
「本当に?」
「ええ。少なくとも、想定していたよりずっと」
「ならよかったです」
「ただ」
「ただ?」
「原稿にするには、そのままだと深すぎる気もします」
「売れない?」
「売れる売れないというより、読者に重い」
「それは読者が甘いのでは」
「厳しいですね」
「現実なので」
松岡さんはまた笑った。
その笑いのあと、不意に真面目な顔に戻る。
「でも、そういう話を軽くしないでいてくれるのは、ありがたいです」
私は少しだけ目を細めた。
「軽くしないのは、松岡さんもでしょう」
「仕事では、軽くしそうになることがあります」
「営業だから」
「ええ。伝わる形に整えすぎることがある」
「それは仕事だから仕方ない」
「そうですね」
「でも、自分まで整えすぎると危ない」
前に彼が言った言葉を、少しだけ形を変えて返す。
松岡さんはそれを聞いて、しばらく黙っていた。
「……早坂さんと話していると、たまに自分の言葉が返ってきますね」
「嫌ですか」
「いえ。少し恥ずかしいです」
「それは貴重ですね」
「そうかもしれません」
喫茶店の時計が静かに針を進める。窓の外はもう暗くなっていて、通りの明かりがガラスに反射している。もう十分話した気もするし、まだ話せる気もした。
でも、長くいすぎると形が変わる。
私はそういう境界を、これまでにも何度か見てきた。
「そろそろ出ますか」
私が言うと、松岡さんはすぐに頷いた。
「そうですね」
それもまた、この人らしかった。引き延ばさない。惜しいと思っても、形を守るほうを先に選ぶ。
会計は当然のように松岡さんが持とうとしたが、私は自分の分は出した。
「ここは払わせてください」
「取材費です」
「対価が曖昧です」
「では、謝礼の前払いということで」
「ますます曖昧です」
少し押し問答になったあと、結局、自分の分は自分で払った。
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。春の手前の、まだ細い寒さ。並んで歩くには微妙な距離があって、私たちは自然に半歩ほど間を空ける。
その距離が、今の私たちにはちょうどよかった。
「ありがとうございました」
松岡さんが言う。
「こちらこそ」
「本当に助かりました」
「役に立つなら」
「それだけではないです」
私は顔を上げた。
街灯の下で見る彼の表情は、店の中より少しだけやわらかかった。
「今日は、個人的にもありがたかった」
その言葉に、私は返事をすぐにはしなかった。
個人的。
その単語は、ここまで避けていた線に少しだけ触れる。
でも、彼の言い方はやはり慎重だった。踏み込むためではなく、誤魔化さないための言葉。
「……そうですか」
「はい」
「なら、よかったです」
私の返事も、たぶん似たようなものだった。
それ以上は何も言わない。言えないのではなく、まだ言う段階ではないとわかっていたからだ。
駅へ向かう分かれ道で、私たちは立ち止まった。
「また店で」
松岡さんが言う。
「はい」
「次は、もう少し企画らしい話をします」
「それ、今日が企画らしくなかったみたいに聞こえます」
「半分くらいは違いました」
「正直ですね」
「早坂さん相手には、そのほうがいい気がして」
私は少しだけ笑った。
「正しいと思います」
松岡さんも笑った。そして、軽く会釈して背を向ける。
私はその背中を今度は少しだけ見送った。
追いかけたいわけではない。呼び止めたいわけでもない。
ただ、さっきまで向かい合って話していた人が、また社会の中へ戻っていくのを見ていた。
私は今、理解している。
この人は、ただの対話相手ではなくなり始めている。
まだ恋ではない。
まだ、そういう名前をつけるには早い。
でも、少なくとも「いなくなっても同じ」側の人ではない。
それは十分に大きな変化だった。
夜風が頬に触れる。私は自分の指先が少し冷えていることに気づいて、コートのポケットに手を入れた。
心が動いたのだと思う。
正確には、先に理解があって、そのあとで感情が追いついた。
私はあの人を尊敬し始めている。
そう認識した瞬間、胸の奥が少しだけ静かに熱を持った。
厄介だ、と思う。
でも、嫌ではなかった。




