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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第4話 店の外で話す

約束した喫茶店は、書店から歩いて五分ほどの場所にあった。

 駅前の通りから一本入っただけなのに、そこだけ少し時間が遅い。古い木の扉と、小さめの窓。手書きのメニュー。昔からある店なのだろうと思わせるものが、外から見ただけでもいくつかあった。


私は扉の前で一度立ち止まる。

 別に緊張しているわけではない。そう思った。

 ただ、少しだけ確認していただけだ。


これは仕事の延長。

 少なくとも形式上は。

 出版社の編集者が、大学生の感覚を聞きたいと言った。私はそれを受けた。それだけの話だ。何も不自然ではない。理屈としては。

 でも、理屈だけでは片づかないものがあることも、私は知っている。


店の外で会う。

 その事実は、書店のレジ越しの会話とは違う輪郭を持つ。


私はガラス越しに中を見た。松岡さんはもう来ていた。窓際ではなく、店の奥の二人席。壁側に座り、まだ注文もせずにメニューを閉じている。時間より少し早く来たのだろう。

 そういう人だと思った。


私は扉を開けて店に入った。


「すみません、お待たせしました」


松岡さんは顔を上げて、静かに首を振った。


「いえ。私も今来たところです」


「それ、たぶん嘘ですね」


「そうですか」


「松岡さん、そういうときの言い方が少しだけ速いので」


彼は一瞬だけ言葉を失って、それから小さく笑った。


「よく見ていますね」


「観察は得意です」


「知っています」


その返しが自然すぎて、私は少しだけ間を置いた。

 知っています。

 その言葉には、ここまで積み上がった時間が小さく含まれている。たったそれだけの表現なのに、何度か会って、何度か話して、相手の癖を理解し始めていることが前提になっている。

 私はそのことを認識し、それから少し遅れて、悪くないと思った。


店員が水を置きに来る。私たちはそれぞれコーヒーを頼んだ。松岡さんはブラック、私はカフェオレ。そういう小さな違いが、会話の前の余白を埋める。


「では、今日は取材ということで」


私がそう言うと、松岡さんは少しだけ困ったように笑った。


「そこまで大げさでは」


「でも、名目は必要でしょう」


「必要ですね」


「便利な言葉ほど危ない、でしたっけ」


「覚えているんですね」


「印象に残ることは覚えます」


また同じことを言っている気がして、私は少しだけ視線を落とした。印象に残る。覚えている。そういう言葉は、事実以上の温度を持ちやすい。

 でも松岡さんは、やはりそこで踏み込まなかった。


「今日は、大学生の感覚というより、早坂さんの考えを聞きたいです」


「ずいぶん主語が狭まりましたね」


「最初からそのつもりでした」


「正直」


「一般化するなと言われたので」


「それはそうです」


コーヒーが運ばれてきて、湯気が二人の間に細く立つ。店内には小さなクラシックが流れていた。古いスピーカーの、少しだけ乾いた音。会話の邪魔にはならない程度に存在している。


私はカップに手を添えながら言った。


「それで、何を聞きたいんですか」


松岡さんは少しだけ考えてから口を開いた。


「今の人は、将来に何を期待しているのか」


「大きいですね」


「大きいです」


「大学生に聞くには」


「だから、早坂さんに聞いています」


私は少しだけ笑った。


「雑な信頼ですね」


「いえ。限定的な信頼です」


「その限定の仕方、わりと好きです」


言ってから、私は一瞬だけ自分の言葉を点検した。好き。もちろん、言いたいのは会話の形式についてで、相手そのものへの感情表現ではない。そう整理はできる。

 でも、人はたいてい整理された意味だけでは受け取らない。


松岡さんはカップを持ち上げながら、何でもない調子で言った。


「ありがとうございます」


余計なことは足さない。そういうところが、この人のやり方だった。


私は少しだけ息を吐いてから答える。


「将来に期待している、というより、期待しすぎていない人が多いと思います」


「悲観ではなく」


「前提の修正です。上がり続ける前提も、豊かになり続ける前提も、たぶんもうない」


「人口減少の影響」


「それもあるし、社会の可動域が狭くなってる感じもあります」


「可動域」


「頑張れば何でもできる、という感覚が弱い。努力を否定してるわけじゃなくて、努力の回収率が低いとみんな感じてる」


松岡さんは、そこで少しだけ目を細めた。


「回収率、ですか」


「嫌な言い方ですけど」


「いえ、わかりやすい」


私はカフェオレを一口飲む。少し熱い。でも、その熱さが会話に集中するにはちょうどよかった。


「たとえば、勉強する。就職する。結婚する。子供を持つ。昔はその順路にある程度の再現性があった。でも今は、どこでも止まる。止まる可能性が高いから、最初から強く賭けない人が増える」


「なるほど」


「みんな怠惰になったんじゃなくて、合理的に慎重になっただけです」


「それは、かなり重要な見方ですね」


「松岡さんは違うんですか」


「本質的には近いです。ただ……」


「ただ?」


「そこまで明確に言語化できる人は少ない」


私は彼の顔を見た。

 褒められた、というより、正確に受け取られた感じがした。そこに余計な甘さがないから、むしろ残る。


「編集って、そういうことを探す仕事ですか」


「何をですか」


「うまく言葉になっていない現実を、言葉にする人を探す」


松岡さんは少しだけ驚いたような顔をした。


「……それは、かなり近いかもしれません」


「やっぱり」


「ただ実際には、そこまできれいじゃないです」


「売れそうかどうか、が混ざる」


「ええ」


「面倒ですね」


「面倒ですよ」


彼はそこで笑ったが、その笑いは少しだけ疲れていた。

 私はそれを見て、前から気になっていたことを思い出す。


疲れた大人。

 でも、壊れてはいない人。


「松岡さんは、どうしてそこまで面倒な仕事を続けてるんですか」


前にも似たことを聞いた。けれど今日は、前より少しだけ深い場所で聞いている気がした。

 店の外だからかもしれない。

 レジ越しではない距離は、質問の重さを少し変える。


松岡さんはすぐには答えなかった。テーブルに置いた指先が、ほんの少しだけカップの縁をなぞる。


「やめる理由がなかった、というのもあります」


「消極的ですね」


「そうですね」


「本当は?」


彼は私を見た。

 値踏みではなく、どこまで言うかを測る視線。私はそれを受け止めた。逃げる必要はないと思ったからだ。


「……残したいんだと思います」


「何を」


「言葉を。考えを。痕跡を」


私は黙った。

 その言い方は、前に聞いた「必要な本がある」という話より、少しだけ個人的だった。


「消えるので」


松岡さんは静かに続けた。


「人も、考えも、そのままだとすぐ消える。だから、せめて言葉にして残したい。そんな感じです」


私はカップを持つ手に少し力を入れた。


消える。

 その単語は、私には少し強すぎる。


役割の中に埋もれて、自分の輪郭が曖昧になる感覚なら、私にも覚えがある。名前や立場だけが先に動いて、肝心の自分がそこに置き去りになる感じ。私はそのことを普段は思考の奥に押し込めているけれど、完全に消えたわけではない。

 だから今、目の前の男が「痕跡」と言ったとき、少しだけ心が揺れた。


私は今、反応している。

 そう認識する。

 それから、理由を理解する。

 最後に、少しだけ痛いと思った。


「……わかる気がします」


私がそう言うと、松岡さんは少しだけ意外そうな顔をした。


「早坂さんもですか」


「消えるの、嫌じゃないですか」


「嫌ですね」


「誰にも覚えられないのも」


「ええ」


「自分がいたことが、最初からなかったみたいになるのも」


そこまで言って、私は一瞬だけ止まった。

 危ない、と思った。今のは、少しだけ本音に近すぎる。

 でも松岡さんはそこを無理に掘らなかった。ただ静かに頷いた。


「……はい」


その一音だけで十分だった。

 理解された、とは言わない。私の事情を彼が知っているわけではない。私の中にある存在の不確かさも、役割に回収されそうになる感覚も、何も知らない。


でも、感覚の輪郭が重なることはある。

 完全な理解でなくても、人は少し救われる。

 私はそのことを久しぶりに思い出した。


「だから本なんですね」


「たぶん」


「子供とか、制度とか、思想とか、そういう形で残したい」


松岡さんの表情がほんの少しだけ変わった。

 驚いた、というより、図星を突かれたときの沈黙に近い。


「……そこまで見えますか」


「言い方に出てます」


「そんなにわかりやすいですか」


「少なくとも私には」


彼は少しだけ苦笑した。


「それは、少し困りますね」


「どうして」


「見透かされるのは得意ではないので」


「私もです」


「では、お互い様ですね」


そう言って彼はコーヒーを飲んだ。

 沈黙が落ちる。けれど、それは気まずい沈黙ではなかった。会話が途切れたのではなく、今話したことが互いの中で少し沈む時間だった。


私はその沈黙の中で、彼を見ていた。

 松岡太一さんは、たぶん、私が最初に思ったよりもずっと個人的な動機で仕事をしている。社会のため、読者のため、公共のため。そういう言葉も本当なのだろう。でも、その一番奥にあるのは、もっと私的で、もっと切実なものだ。


消えたくない。

 残したい。

 痕跡がほしい。


それは少し滑稽で、少し切実で、だからこそ信用できた。

 人は綺麗な理念だけでは長く動けない。奥に傷や恐れがあるほうが、むしろ本物に見える。


「早坂さんは」


松岡さんが不意に言った。


「何を残したいですか」


私は目を上げた。


「急ですね」


「聞き返しただけです」


「それはそうですけど」


私は少し考えた。自分でも意外なくらい、すぐには答えが出なかった。

 何を残したいか。

 少し前までの私なら、もっと即物的に答えられたかもしれない。成績とか、肩書きとか、誰かの役に立った記憶とか。けれど今の私は、そのどれも少し違う場所にいる。


「……まだ、はっきりしません」


「珍しいですね」


「そうですね。たぶん、残したいものより、消えたくない気持ちのほうが先にある」


言ってから、私は自分の言葉に少し驚いた。

 これはかなり本音だ。

 しかも、さっきの会話を受けた思いつきではなく、ずっと奥にあったものに近い。


「消えたくない、ですか」


「はい」


「それは、誰かに覚えていてほしいという意味ですか」


「たぶん、それだけじゃないです」


「というと」


「自分で、自分がここにいるって納得したいんだと思います」


松岡さんは何も言わなかった。

 でも、その沈黙は拒絶ではなかった。私はそれがわかった。


「誰かに認められたい、でも少し違う。証明したい、でもそれも少し違う。もっと……」


私は言葉を探す。こういうとき、自分でも少し苛立つ。考えていることはあるのに、まだちょうどいい形にならない。


「実感、ですかね」


松岡さんが静かに言った。


「自分が生きている実感」


私は彼を見た。

 それだ、と思った。


「……そうです」


「なるほど」


「よく出てきますね、そういう言葉」


「編集者なので」


「便利ですね」


「たまにだけです」


私たちは少しだけ笑った。

 その笑いは、前までより少し深い場所で共有されていた。話の表面がおかしいから笑うのではなく、通じたことへの小さな安堵に近い笑い。


私はそこで一つ理解した。

 この人は、ただ話が通じる相手ではない。

 もう少し正確に言えば、話が通じることで自分の輪郭が少しはっきりする相手だ。


それは危険でもある。

 人は、自分を見つけてくれる相手を特別視しやすいから。

 でも、まだそこに名前をつける必要はないと思った。


「ところで」


私は空気を少し戻すように言った。


「今日のこれは、企画の役に立つんですか」


「かなり」


「本当に?」


「ええ。少なくとも、想定していたよりずっと」


「ならよかったです」


「ただ」


「ただ?」


「原稿にするには、そのままだと深すぎる気もします」


「売れない?」


「売れる売れないというより、読者に重い」


「それは読者が甘いのでは」


「厳しいですね」


「現実なので」


松岡さんはまた笑った。

 その笑いのあと、不意に真面目な顔に戻る。


「でも、そういう話を軽くしないでいてくれるのは、ありがたいです」


私は少しだけ目を細めた。


「軽くしないのは、松岡さんもでしょう」


「仕事では、軽くしそうになることがあります」


「営業だから」


「ええ。伝わる形に整えすぎることがある」


「それは仕事だから仕方ない」


「そうですね」


「でも、自分まで整えすぎると危ない」


前に彼が言った言葉を、少しだけ形を変えて返す。

 松岡さんはそれを聞いて、しばらく黙っていた。


「……早坂さんと話していると、たまに自分の言葉が返ってきますね」


「嫌ですか」


「いえ。少し恥ずかしいです」


「それは貴重ですね」


「そうかもしれません」


喫茶店の時計が静かに針を進める。窓の外はもう暗くなっていて、通りの明かりがガラスに反射している。もう十分話した気もするし、まだ話せる気もした。

 でも、長くいすぎると形が変わる。

 私はそういう境界を、これまでにも何度か見てきた。


「そろそろ出ますか」


私が言うと、松岡さんはすぐに頷いた。


「そうですね」


それもまた、この人らしかった。引き延ばさない。惜しいと思っても、形を守るほうを先に選ぶ。


会計は当然のように松岡さんが持とうとしたが、私は自分の分は出した。


「ここは払わせてください」


「取材費です」


「対価が曖昧です」


「では、謝礼の前払いということで」


「ますます曖昧です」


少し押し問答になったあと、結局、自分の分は自分で払った。


店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。春の手前の、まだ細い寒さ。並んで歩くには微妙な距離があって、私たちは自然に半歩ほど間を空ける。

 その距離が、今の私たちにはちょうどよかった。


「ありがとうございました」


松岡さんが言う。


「こちらこそ」


「本当に助かりました」


「役に立つなら」


「それだけではないです」


私は顔を上げた。

 街灯の下で見る彼の表情は、店の中より少しだけやわらかかった。


「今日は、個人的にもありがたかった」


その言葉に、私は返事をすぐにはしなかった。


個人的。

 その単語は、ここまで避けていた線に少しだけ触れる。


でも、彼の言い方はやはり慎重だった。踏み込むためではなく、誤魔化さないための言葉。


「……そうですか」


「はい」


「なら、よかったです」


私の返事も、たぶん似たようなものだった。

 それ以上は何も言わない。言えないのではなく、まだ言う段階ではないとわかっていたからだ。


駅へ向かう分かれ道で、私たちは立ち止まった。


「また店で」


松岡さんが言う。


「はい」


「次は、もう少し企画らしい話をします」


「それ、今日が企画らしくなかったみたいに聞こえます」


「半分くらいは違いました」


「正直ですね」


「早坂さん相手には、そのほうがいい気がして」


私は少しだけ笑った。


「正しいと思います」


松岡さんも笑った。そして、軽く会釈して背を向ける。


私はその背中を今度は少しだけ見送った。

 追いかけたいわけではない。呼び止めたいわけでもない。

 ただ、さっきまで向かい合って話していた人が、また社会の中へ戻っていくのを見ていた。


私は今、理解している。

 この人は、ただの対話相手ではなくなり始めている。


まだ恋ではない。

 まだ、そういう名前をつけるには早い。

 でも、少なくとも「いなくなっても同じ」側の人ではない。

 それは十分に大きな変化だった。


夜風が頬に触れる。私は自分の指先が少し冷えていることに気づいて、コートのポケットに手を入れた。


心が動いたのだと思う。

 正確には、先に理解があって、そのあとで感情が追いついた。


私はあの人を尊敬し始めている。

 そう認識した瞬間、胸の奥が少しだけ静かに熱を持った。


厄介だ、と思う。

 でも、嫌ではなかった。

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