第3話 会う理由
それから、松岡太一さんは週に一度か二度、その店に来るようになった。
最初は営業のついでだったのだと思う。新刊の補充状況を見て、店長と話し、売れ筋でもない本の扱いを静かに確認していく。けれど三度目か四度目あたりから、彼が店にいる時間は少しずつ長くなった。
仕事が終わったあと、帰る前に一冊だけ本を持ってレジに来る。
そのついでに、少し話す。
少しのはずなのに、会話は毎回、思ったより長く続いた。
私はそれを不自然だとは思わなかった。むしろ自然すぎて、後から妙だと気づく種類の関係だった。
普通、十九歳の女子大生と三十九歳の出版社営業が、政治や制度や家族や言葉について話し込むことは、あまりない。少なくとも、世の中で頻出する関係ではない。
でも、私たちの会話は、そういう一般論の外側で進んでいた。
ある日、松岡さんはレジに文庫を一冊持ってきて、会計の途中で言った。
「この前、言っていた本、読みましたか」
「地方自治の本ですか」
「はい」
「半分くらい」
「感想は」
「前提が古いです」
そう言うと、松岡さんは苦笑した。
「半分まで読んで、その結論ですか」
「半分まで読めば十分です。共同体がまだ自然に残っている時代の議論を、そのまま今に持ってくるのは無理がある」
「厳しい」
「事実です」
彼は会計トレーに小銭を置きながら、少しだけ真面目な顔になった。
「では、今は何が前提になると思いますか」
「人口減少と、家族の弱体化と、善意の枯渇です」
「善意の枯渇」
「正確には、善意を前提に制度設計することの限界ですね。昔より人が悪くなったという意味ではなくて、余裕が減った」
松岡さんはその場で何も言わなかった。
ただ、受け取ったレシートを財布にしまう手を止めて、私を見た。
「……その見方は、かなり現実的ですね」
「悲観的とも言われます」
「悲観的というより、条件設定が正確です」
その返しが少し嬉しかった。
私は嬉しいとすぐには自覚しない。まず先に、会話が正しく接続された、と思う。それから少し遅れて、自分の内側にやわらかいものが残る。
それを感情と呼ぶまでに、私はいつも少し時間がかかる。
「松岡さんは、共同体って戻ると思いますか」
「完全な形では戻らないでしょうね」
「ですよね」
「ただ、消えたあとに別の形で必要になることはある」
「代替物ですか」
「ええ。たとえば制度とか、小さな任意のつながりとか」
私は袋に本を入れながら言う。
「町内会の代わりにオンラインサロン、みたいな」
「そこまで軽く言うと身も蓋もないですね」
「でも、わりと本質じゃないですか。人は孤立に耐えられない。でも昔の共同体には戻れない。だから、もっと薄くて選択可能なつながりを作る」
「なるほど」
「問題は、それが責任を引き受ける共同体になるかどうかですけど」
松岡さんはそこで、静かに笑った。
「やはり普通の学生ではないですね」
「まだ言いますか」
「毎回更新されているので」
「褒めてるように聞こえません」
「かなり褒めています」
私は笑いそうになって、でもそれを少しだけ抑えた。
この人との会話には妙な安定がある。意見が一致するからではない。むしろ少しずれることもある。でも、そのずれを雑に処理しない。相手の言葉を、自分の理解に都合よく変形しない。
それが安心だった。
私にとって安心は、優しさよりもずっと価値がある。
それからさらに数日後、閉店の二十分前だった。
店内の客は少なく、BGMだけが薄く流れていた。店長は倉庫で返品作業をしていて、私はレジ横で文具の補充をしていた。
自動ドアが開いて、松岡さんが入ってきた。
今日も仕事帰りらしく、少しだけ肩に疲れが見えた。けれど私を見つけると、いつもの静かな会釈をした。
「こんばんは」
「こんばんは」
「遅いですね」
「別の店を回っていました」
「大変そう」
「まあ、仕事なので」
彼はそう言ってから、少しだけ言い直すように続けた。
「……というより、回らないと会社が困るので」
「急に現実的になりましたね」
「最初から現実的ですよ」
「そうでもないです。松岡さんは、ときどき理想を言う」
「言いますか」
「必要な本がある、とか」
彼は一瞬だけ目を伏せた。
「覚えていたんですね」
「印象に残ったので」
それを言ったあと、私の中で少しだけ空気が変わった。
印象に残った。
それは事実だった。でも、口に出すと事実以上の意味を持つ言い方でもある。私は別に含みを持たせたかったわけではないのに、言葉というのは出たあとで勝手に輪郭を持つ。
けれど松岡さんは変に拾わなかった。
「それは光栄です」
ただ、それだけ言った。
そういうところが、やっぱりずるいと思う。
距離を詰めないのに、会話は切らない。踏み込まないのに、受け止める。
雑に近づかない人間は、かえって意識に残る。
彼は新刊台を見てから、レジの前に一冊持ってきた。今度は社会学の新書だった。
「これ、どう思いますか」
「まだ読んでません」
「帯だけでいいので」
「ずいぶん雑な問いですね」
「早坂さんなら、帯だけでも仮説を出すでしょう」
「それはそうですけど」
私は本を受け取って、表紙と帯を見た。
都市の孤独、つながりの再編、関係資本。最近よく見る単語が並んでいる。言っていること自体は間違っていない。でも、どれも少し安全すぎる言葉だった。
「きれいすぎます」
「というと」
「孤独もつながりも、もっと利害と恐怖に汚れているはずです。こういう本って、関係を少し美しく言いすぎる」
松岡さんは目を細めた。
「利害と恐怖」
「人間関係って、だいたいそうじゃないですか。寂しいからつながるし、損をしたくないから協力するし、孤立したくないから空気を読む」
「夢がないですね」
「現実はだいたい夢がないです」
「それでも、そこに価値を見出そうとするのが思想では」
「松岡さんはそう考える」
「早坂さんは違う?」
私は本を閉じて、少しだけ考えた。
「価値はあると思います。でも、最初から価値として言うと、観察が甘くなる」
「なるほど」
「先に現実を見る。そのあとで、どこまで引き受けるかを決める。順番を逆にしたくないです」
言ってから、私は気づいた。
これ、かなり本音だ。
しかも、普段ならあまり言わない種類の本音だった。相手に理解されないと面倒だから、わざわざ出さないだけで、頭の中にはずっとある。そういう言葉を、私は今、わりと自然に出している。
松岡さんは少しだけ黙った。
それから、低い声で言った。
「……早坂さんと話していると、自分の言葉が甘い気がしてきますね」
「それは買いかぶりです」
「いえ。珍しいんです。前提を共有しなくても話が進む相手は」
私は顔を上げた。
その言い方は、少しだけ予想外だった。
彼も同じことを感じていたのか。
会話が通じる、ということを。
「松岡さん、友達少なそうですね」
「急に刺しますね」
「だって今の、友達少ない人の台詞です」
「否定はしません」
「正直」
「雑談が苦手なので」
「知ってます」
彼はそこで、珍しく少しだけ声を立てて笑った。
本当に少しだけだった。でも、その笑いは前より自然だった。
それだけで、私は妙に安心した。
閉店のアナウンスが流れ始め、店内の客が減っていく。
松岡さんは会計を済ませたあと、すぐには帰らなかった。レジの脇に立って、少し言いにくそうな顔をした。
珍しい、と思った。この人が言い淀むのは。
「どうしました」
「一つ、相談というか」
「はい」
「今度、うちで出す本の企画で、大学生の感覚を少し知りたいんです」
私は瞬きをした。
「大学生の感覚」
「ええ。若年層向け、というほど若くはないんですが、少なくともこちら側の思い込みだけで作りたくなくて」
「それで、私に?」
「早坂さんが典型的な大学生だとは思っていません」
「ですよね」
「ただ、思考の速度がある人の意見は聞きたい」
それは、かなり率直な依頼だった。
営業トークの延長ではない。かといって、私的な誘いでもない。明確に仕事の言葉で整えられている。でも、その整え方の中に、彼なりの慎重さが見えた。
私は数秒だけ考えた。
たぶん、彼も会う理由を探している。
そして、その理由を私的な感情ではなく、仕事や言葉の場に置こうとしている。
そのやり方は、少し臆病で、でも誠実だった。
「具体的には何をするんですか」
「軽く話を聞くくらいです。無理ならもちろん構いません」
「場所は」
「この近くの喫茶店でも」
私はそこで一度、彼の顔を見た。
下心を探すためではない。そういうものがある顔ではなかったからだ。むしろ逆で、余計な誤解を生まないように、自分の言葉をかなり調整している顔だった。
面倒な人だと思う。
でも、その面倒さは信頼できる種類のものだった。
「いいですよ」
私がそう言うと、松岡さんはほんの少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
「ただし、変なマーケティング用の若者代表みたいな扱いは嫌です」
「しません」
「あと、私が話したことを、そのまま“今の若者”に一般化するのも嫌です」
「それもしません」
「なら大丈夫です」
松岡さんは静かにうなずいた。
「……本当に、厳しいですね」
「最初からそう言ってます」
「ええ。でも、その厳しさは信用できます」
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
信用。
その単語は重い。少なくとも、私にとっては。
依存はしたくない。支配もされたくない。誰かの言葉に預けられるほど、自分の存在を軽く扱いたくない。だから私は、信頼という言葉を簡単には使わない。
でも、今、目の前の人はそれを軽く言っていない。
そのことがわかった。
「……そうですか」
私がそう返すと、彼は少しだけ首をかしげた。
「何か変でしたか」
「いえ。ただ、松岡さんは大事な言葉を雑に使わない人だと思ってたので」
「そのつもりです」
「なら、たぶん大丈夫です」
「何がですか」
「話をするのが」
ほんの短い沈黙のあと、松岡さんは「そうですか」とだけ言った。
その言い方が少しやわらかくて、私はレジの中で視線を落とした。
閉店時間になり、店内の照明が少し落ちる。
客はいなくなり、自動ドアの向こうには夜の色が広がっていた。
会う理由ができた。
それは仕事の名目で、思想の延長で、たぶん少しだけ、それ以上のものでもある。
でも、まだ名前はつけなくていいと思った。
安心とか、信頼とか、特別とか、そういう言葉は便利だけれど、便利な言葉ほど、自分を見失う。
それは前に、松岡さん自身が言ったことだ。
だから今は、もっと小さく、正確に考える。
この人と話したい。
この人も、たぶん話したいと思っている。
その事実だけで十分だった。




