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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第2話 普通の学生ではない

松岡太一さんがその書店に再び来たのは、それから四日後のことだった。

 前回と同じ平日の夕方。空の色はもう少しだけ春に近づいていたが、風はまだ冷たかった。店内の空調は安定しているのに、自動ドアが開くたび、外の季節が細い刃物みたいに入り込んでくる。


私はレジ横の平台に新刊を補充していて、顔を上げた瞬間に彼に気づいた。

 覚えていた、というより、見間違えようがなかった。


同じ紺のジャケット。少しだけ疲れた目元。けれど歩き方は前と同じで、急いでいるわけでもないのに、余計な逡巡がない。仕事で来た人間の動きだった。


松岡さんは店長に挨拶をして、しばらく新刊台と棚の確認をしていた。前と同じように落ち着いていて、前と同じように、売る側の人間にありがちな押しつけがましさが薄い。


私はそれを横目で見ながら、ふと自分の反応を測る。

 来た。

 そう認識した瞬間、少しだけ思考が先に動いた。


楽しみ、というほど単純ではない。けれど、また話せるかもしれない、とは思った。

 あまり健全ではない気もする。四日前に数分話しただけの相手を、意識している時点で。


でも、たぶんこれは感情ではなく、知的な未完了だ。

 前回の会話が途中で終わったから、続きを考えてしまっていただけだ。そう整理すると、少しだけ収まりがよかった。


店長が倉庫に下がったあと、松岡さんは新刊を何冊か整えながら、こちらに視線を向けた。


「こんにちは」


「こんにちは」


「この前はどうも」


「こちらこそ」


会話としてはそれだけのはずだった。けれど彼は少し間を置いてから、平台の上にある一冊を手に取った。


「これ、売れてますか」


地方行政の特集本だった。正直、飛ぶように売れる種類の本ではない。


「思ったよりは」


「思ったより、というのは」


「誰も買わないと思ってたけど、少しは動く、という意味です」


私がそう言うと、松岡さんは小さく笑った。


「辛辣ですね」


「事実です」


「書店員としては正しい」


「出版社の人に言われると複雑です」


彼は本を閉じて、表紙を指先で軽く叩いた。


「でも、そういう感覚は大事です。作る側は、必要だと思い込みやすいので」


前にも思ったけれど、この人は自分の側を特権化しない。出版社の人間なら、もう少し“作る側”の立場に誇りを乗せてもおかしくないのに、松岡さんはそこに酔っていない。


「必要だと思い込むのは、悪いことですか」


「悪いというより、危ないですね」


「危ない」


「社会のためとか、読者のためとか、そういう言葉は便利なので。便利な言葉ほど、自分を見失う」


私は思わず彼の顔を見た。

 言葉の選び方が、少しだけ予想より深い。

 単なる営業トークではない。たぶん仕事の現場で何度も同じようなことを考えてきた人間の言い方だ。


「じゃあ、何を基準にするんですか」


「誰に届くか、ですかね」


「売上じゃなくて?」


「売上は必要です。でも、それだけなら別の本を作る」


その返しに無理がなかった。理想と現実を並べるだけでなく、その両方を知っている声だった。


私は棚差し用の札を直しながら言う。


「出版社って、もっと言葉を飾る仕事だと思ってました」


「飾る人もいます」


「松岡さんは飾らない」


「飾ると、自分が何を考えているのか見えなくなるので」


少し黙ったあと、私はつい聞いた。


「それは編集者としてですか。それとも人としてですか」


聞いてから、また少し踏み込みすぎたと思った。

 けれど松岡さんは本を持ったまま、少しだけ考えてから答えた。


「両方かもしれません」


その答え方が妙に真っ直ぐで、私は数秒だけ言葉を失った。

 変に冗談に逃げない。軽くかわさない。重くもならない。


この人は、会話を雑にしない。

 そういう大人は、意外と少ない。


レジに客が一人来たので、私は会計に戻った。雑誌一冊と飲み物の引換券。いつもの作業をしながら、頭の一部だけがさっきの会話を保持している。


会話を雑にしない人間。

 それはつまり、相手を雑に扱わない人間、ということだ。


店内が少し落ち着いたあと、松岡さんがレジ横に来た。今度は買い物ではなく、ただ会話の続きを置きに来たような立ち方だった。


「早稲田の政経って、かなり忙しいんじゃないですか」


「忙しい人は忙しいです」


「早坂さんは?」


「要領はいい方なので」


「自分で言うんですね」


「事実なので」


また少しだけ笑われた。

 この人は、笑い方が静かだ。人を試す笑い方ではなく、言葉のかたちをそのまま受け取ったときの反応に近い。


「政治経済だと、将来は官僚志望とかですか」


「違います」


「研究職?」


「それも違います」


「では」


「まだ決めてないです。でも、制度には興味があります」


「制度」


「人の善意がなくても、最低限回る仕組みのほうが信頼できるので」


言ってから、少しだけ言い過ぎたかと思った。

 十九歳の女子大生がレジ横で言うには、可愛げのない話だ。普通ならもう少し柔らかく言うだろうし、相手の反応を見て調整もするだろう。


でも、松岡さんは眉を上げただけだった。


「それは、かなりまっとうな考えですね」


「冷たいと言われることのほうが多いです」


「善意に期待しすぎる仕組みは、だいたい弱いです」


私は一瞬、返事を忘れた。

 話が早い。

 比喩ではなく、本当に。


言葉の前提を説明しなくても通じる会話には、独特の静けさがある。無理に盛り上げなくても、意味だけが自然に進んでいく感覚。そういう会話は、これまでにもごく稀にあった。

 でも、日常の中ではほとんどなかった。


十九歳の女子大生として見られる世界は、思っていたよりずっと身体に近い。かわいい、愛想がいい、感じがいい。そういう表面の指標が先に見られる。もちろん、それを使うことが悪いわけではない。でも私は、その層の会話を長く続けると疲れる。


松岡さんとの会話には、それがない。

 意味が先に来る。

 そのことに、私は少し救われていた。


「……なんで編集やってるんですか」


私がそう聞くと、松岡さんは少しだけ意外そうな顔をした。


「難しい質問ですね」


「そうですか」


「本が好きだから、だけでは続かない仕事なので」


「じゃあ、続いてる理由は?」


彼はすぐには答えなかった。視線を少しだけ棚の向こうにずらし、それから言葉を選ぶように口を開いた。


「言葉にして残す価値があるものを、ちゃんと残したいからですかね」


「きれいごとみたいです」


「ええ。だから、自分でもたまに疑います」


その一言に、私は反応してしまった。


「疑うんですね」


「疑わないと危ないので」


また同じ言い方だった。危ない。便利な言葉。自分を見失う。

 たぶんこの人は、ずっと自分を監視しながら仕事をしている。

 誠実、という言葉で片づけるには、少し痛々しいくらいに。


「疲れませんか」


「疲れますよ」


「やめたくはならないんですか」


「なります」


「それでもやる」


「他にうまく生きる方法を知らないので」


私はそこで、初めて少しだけ彼の年齢を感じた。

 落ち着いて見えるのに、その落ち着きは余裕から来ていない。むしろ逆で、いろいろ削られたあとに残った静けさに近い。


大人だ、と思った。

 単に年上という意味ではなく、失ったものや諦めたものを抱えたまま、話をしている人の気配。


「松岡さんって、いくつなんですか」


聞いてから、少しだけ唐突だったと思った。

 でも、気になった。

 社会の輪郭を最初から見ている人の年齢を、私はまだ知らない。


松岡さんは驚いた顔をしなかった。ただ、少しだけ考える間を置いてから答えた。


「三十九です」


「……ちゃんと大人ですね」


思ったまま口にすると、松岡さんが小さく笑った。


「ちゃんと、が気になりますね」


「十九から見ると、ほぼ別の生き物なので」


「そこまでではないですよ」


「そこまでです」


そう言い切ると、また静かな笑いが返ってきた。

 そのやりとりの軽さの奥で、私は数字の重さを理解していた。


三十九。

 想像していた通りで、想像していた以上でもあった。

 私の二倍の時間を、ほとんど生きている。

 それは会話が通じることとは別の事実で、でも、無視していい事実でもなかった。


そして同時に、少しだけわかった。

 この人は、優しいのではない。たぶん、雑にできないのだ。

 世界を、他人を、自分を。

 雑に扱ったあとで何が壊れるかを、知っているから。


「……松岡さん」


「はい」


「たぶん、向いてますよ」


「何にですか」


「編集」


彼は少しだけ目を細めた。


「慰めですか」


「評価です」


「厳しい書店員にそう言われると、少し安心します」


「厳しいかどうかは知りません」


「少なくとも、お世辞は言わない」


そこまで言われて、私は少しだけ困った。

 図星だったからだ。

 褒めるときでさえ、私は相手を気分よくさせるために言葉を使うのが苦手だ。必要なら言う。でも、意味の薄い賞賛はうまくできない。

 松岡さんは、そのことまでなんとなく見抜いているようだった。


客が途切れた店内に、短い沈黙が落ちる。

 不思議と気まずくはなかった。


「……普通の学生って、もっと違う感じですか」


私は半分冗談で聞いた。

 でも松岡さんは、少しだけ真面目な顔になった。


「違いますね」


「例えば?」


「もっと、言葉を急がないです」


「それは褒めてないですね」


「褒めてますよ」


「どこが」


「考えながら話しているので」


私は思わず笑った。


「それ、普通は面倒って意味です」


「面倒な人は嫌いじゃないです」


「また雑に口説くみたいなことを言う」


言ってから、少しだけ空気が止まった。

 自分でも驚いた。そんな言い方をするつもりはなかった。

 でも松岡さんは慌てず、むしろ静かに返した。


「口説いてはいません」


「否定が早い」


「年齢差のある相手には慎重であるべきなので」


私はその言葉で、一気に現実に引き戻された。

 年齢差。

 そうだ。この人は三十九歳で、私は十九歳だ。会話が通じるとか、空気が楽だとか、そういうこととは別に、社会にはちゃんと輪郭がある。

 その輪郭を、この人は最初から見ている。

 見ないふりをしない。

 そのことに、私は奇妙な安心を覚えた。

 危うさをごまかさない人間は、信用しやすい。


「慎重なんですね」


「そうでないと困る年齢なので」


「つまらない大人ですね」


「よく言われます」


「嘘ですね。そんなこと言われるタイプじゃない」


「では、今が初めてかもしれません」


私たちは少しだけ笑った。

 その軽い笑いのあとに、また静かな間が落ちる。

 けれどその沈黙は、途切れではなく、続きのある沈黙だった。


店のスピーカーから、閉店一時間前を知らせる落ち着いたアナウンスが流れる。私はそれを聞きながら、目の前の男のことを考えていた。


この人は、最初に思った通り、話が通じる。

 それだけではない。

 通じた上で、踏み外さない。


知性だけならもっと派手な人間はいくらでもいる。言葉がうまい人も、議論が強い人も、理想を語る人も、世の中にはいくらでもいる。でも、理解と慎重さが同じ場所にある人は少ない。

 松岡太一さんという人間の価値があるとしたら、たぶんそこだった。


一方で、彼もまた私を見ているのだと、なんとなくわかった。

 十九歳の女子大生としてではなく、少し面倒で、言葉が早くて、妙に構造で考える人間として。


たぶん彼はもう気づいている。

 私は普通の学生ではない。


もちろん、本当の意味では誰にもわからない。自分の中の細かな違和感や、役割にきれいに収まりきらない感覚まで、最初から理解されるはずはない。

 でも、それでも。

 表面の年齢や見た目だけではない場所で見られることに、私は久しぶりに少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。


「今日は何も買わないんですか」


私がそう聞くと、松岡さんは手元の本を見た。


「買いますよ。せっかくなので」


「せっかく」


「会話のついでに本を買うのは、本屋では正しい行動でしょう」


「その理屈は少しずるいですね」


「編集者なので」


彼はそう言って、さっきから持っていた新書をレジに置いた。

 私はバーコードを通しながら、画面に表示された金額を見た。ありふれた動作のはずなのに、妙に鮮明だった。


「ありがとうございました」


袋を渡すと、松岡さんは受け取りながら軽く言った。


「また来ます」


営業として自然な言葉だった。書店と出版社の関係なら、何の含みもない。

 でも、その声は少しだけ柔らかかった。


「どうぞ」


私もそれだけ返した。


松岡さんが店を出ていく。自動ドアが開き、冷たい風がまた一瞬だけ入り込む。春はまだ遠い。でも、前よりは少し近い。


私はレジの中に立ったまま、彼の背中が見えなくなるまで目で追わなかった。

 追わなかったけれど、意識はしていた。


これはまだ恋ではない。

 ただ、世界の中で数の少ない「会話が成立する相手」を見つけた、その確認に近い。


でも、そういう相手は、たいてい後から効いてくる。

 私はそのことを、もう知っていた。

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