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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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12/17

第12話 近づきすぎない温度

人は、何かが始まった直後よりも、それが続いていると理解した瞬間のほうが、たぶん動揺する。

 翌日の朝、私は大学へ向かう電車の中で、窓に映る自分の顔を見ていた。昨日と同じように眠りが浅く、目の下にはわずかな影が落ちている。けれど、乱れているようには見えなかった。


それが少し可笑しかった。

 内側では、確かに変化が起きている。

 なのに外見は、それにほとんど付き合ってくれない。


恋をしたからといって、人の顔が急に変わるわけではない。

 世界が劇的に色づくわけでもない。

 改札の音も、ホームに吹き込む風も、車内アナウンスの抑揚のない声も、昨日までと大差がない。


そういう現実の鈍さが、今はむしろありがたかった。


全部が変わってしまったら、たぶん私はもっと不安になっていたと思う。

 変わらないものがあるから、変わったものをきちんと見つめられる。


私は昨夜の駅前を思い出す。

 「あなたが落ち着けば落ち着くほど、こっちが意識するからです」


あの言葉は、思い出すたびに少しだけ熱を帯びる。派手な言い方ではなかった。告白でもない。けれど、感情の方向を隠す気がもうないことだけは、十分すぎるほど伝わっていた。


私は手すりにつかまりながら、小さく息を吐いた。

 恋愛のはじまりというのは、もっと曖昧で、もっと偶然の比率が高いものだと思っていた。

 誰かを好きになること自体は、もっと不格好で、偶発的で、衝動的なものだと。


でも、私たちの場合は違う。

 理解が先にある。

 理性が先に立ち上がる。

 その上で、それでも残ってしまうものとして感情がある。


それは面倒だ。

 かなり面倒だ。

 けれど、嫌ではない。



午前の講義を終えて、学食で簡単に昼食を済ませたあと、私は図書館に向かった。レポートの参考文献を探すためだったけれど、半分くらいは気持ちを整えるためでもあった。


静かな場所に行きたかった。

 図書館の空気はいつも均質だ。紙の匂いと空調の弱い音、椅子が引かれるときのわずかな摩擦音、咳払いすら遠慮がちな人間たち。誰かの感情よりも制度のほうが強く働いている場所。


私はそういう場所が好きだった。

 人間が勝手に壊れそうなとき、空間のほうが平然としていてくれるから。


政治思想の棚の前で本を探していると、ふいに昨夜の太一さんの横顔が浮かんだ。

 困っている、と彼は言った。

 かなり、とも。


その「困る」は、おそらく本当だ。

 大人であること、年齢差を理解していること、自分の立場を分かっていること、それら全部を捨てずに感情だけを進めるのは難しい。むしろ、難しいままでいようとしているのだと思う。


私はそのことを考える。

 あの人はたぶん、感情に酔うタイプではない。

 酔えない、と言ったほうが近いかもしれない。

 現実が見えすぎるからだ。


それは優しさでもあり、不器用さでもある。

 そして、私はその不器用さに惹かれている。


棚から一冊抜き出してページをめくる。文字は読めるのに、内容がうまく頭に入ってこない。視線だけが前に進み、意味が少し遅れてついてくる。

 恋愛で集中力が落ちる、というのはこういうことなのかもしれないと思って、私は少しだけ笑いそうになった。


私がそんな凡庸な反応をするのは、なんだか意外だった。

 もっと構造的に整理できると思っていた。

 もっと高い位置から、自分の感情すら対象化できると思っていた。


でも、実際には少し違う。

 理解できることと、揺れないことは同義ではない。


私は本を閉じた。

 そして、自分の中で一つだけはっきり確認する。


会いたい、と思っている。

 理由をつけなくてもいいくらいには。



夕方、バイト先に入る前、スマートフォンの画面に短い通知が出た。


――今日は行けません。少し立て込んでいます。


それだけだった。

 拍子抜けするほど事務的な文面で、私は一瞬だけ立ち止まる。駅から店へ向かう途中、人の流れに少し押されて、慌てて端によった。


来ない。

 それだけの話だ。

 昨日来たのだから、今日来ないのは自然だ。

 むしろ連日顔を出すほうが不自然だし、彼自身それを避けるだろう。


分かっている。

 分かっているのに、胸のどこかが小さく空いたような感覚があった。


私はその空白を数秒だけ見つめる。

 そして、すぐに携帯を打った。


――分かりました。お仕事、お疲れさまです。


送信して、画面を閉じる。

 これで終わりだと思った。


けれど数分後、もう一度震えた。


――顔を見ないほうがいいと思っているのに、見ないと長く感じます。


私は歩きながら、その文面を二度読んだ。

 三度目は読まなかった。

 読んだら表情が変わりそうだったから。


私は人通りの少ない路地に入ってから、ようやく返信を考える。


――それは自制になってないのでは。


送る。

 すぐ既読がつく。


――たぶん、なってないですね。


その返事に、私はとうとう笑ってしまった。小さく、声が漏れない程度に。


この人は、真面目な顔で少しだけ壊れていく。

 そこがずるいと思う。

 ずるいし、好きだと思った。



店に着いてからは忙しかった。新刊の入荷が多く、平台の差し替えもあり、問い合わせの電話も続いた。考えごとをする余裕がないくらい身体を動かしていると、逆に気持ちは少し安定する。


人間は一度に一つのことしかできない。

 少なくとも、箱を開けながら恋愛の構造分析を完璧にやるのは難しい。

 私は段ボールを開きながら、その事実をありがたいと思った。


休憩時間になってバックヤードで水を飲んでいると、スマートフォンがまた震えた。

 今度はメッセージではなく、一枚の写真だった。


机の上。

 赤字の入ったゲラ。

 コーヒーの紙カップ。

 蛍光灯の白い光。


それだけの、なんの情緒もない仕事場の写真。

 けれど、その少しあとに短い文が届いた。


――こんな感じで、今日は本当に余裕がないです。


私は写真を見ながら思う。

 説明しなくてもいいことを、説明してきた。

 来られない理由を、証拠つきで送ってきた。


それは多分、私を安心させようとしているのだ。

 私は少しだけ目を伏せる。


大人だな、と思う。

 いや、それだけではない。

 大人であろうとしている、と言ったほうが近い。


自分の不在が相手にどう受け取られるかを考え、その埋め方まで考える。

 そういう配慮は、自然にできる人と、できない人がいる。

 太一さんは前者だ。


そして私は、その前者であること自体に弱いのかもしれない。


――ちゃんと仕事しているのが分かりました。


返す。

 少し迷ってから、もう一文足した。


――でも、長く感じるのは同じです。


送信ボタンを押した瞬間、心拍が少しだけ速くなる。

 これはかなり明示的だ。

 私としては、十分に。


数十秒後、返事が来る。


――それを平然と書くの、反則だと思います。


私は携帯を伏せた。

 頬が熱い。

 でも、不思議と嫌な熱ではなかった。


「平然と」という言葉が可笑しかった。

 たぶん私は、平然としているように見えるのだろう。

 内側でこんなにいろいろ考えていても。


それは私の性格でもあるし、防御でもある。

 簡単には崩れないように作られている。

 けれど、その硬さの内側まで少しずつ知られていく感じがあった。

 そして私は、それを拒みたいと思っていない。



閉店後、帰りの電車の中で、私は立ったままスマートフォンを見ていた。もう新しいメッセージは来ていない。なのに、画面を消してもまた点けてしまう。


高校生の恋愛みたいだ、と思って少しだけ可笑しくなる。

 いや、実際にはもっと厄介かもしれない。

 高校生なら未来の重さをまだ知らないぶん、もう少し勢いで進める。


私たちは逆だ。

 進めない理由を両方が分かっている。

 その上で、それでも感情が残ってしまう。

 だから一つひとつが重い。


私は吊り革につかまりながら、窓の外を流れていく夜の明かりを見た。ビルの窓、コンビニの看板、交差点の信号。誰かの人生が無数に並行して動いている。


その中で、自分だけが特別な状態にいると思うほど若くはない。

 でも、自分にとって特別な状態に入ったことは、さすがに認めざるを得なかった。


私は太一さんを好きだ。


昨日より今日のほうが、その文章に抵抗がない。

 口に出せるわけではないけれど、自分の中ではもうかなり整った形になっている。


好き、という言葉は雑だ。

 雑だけれど、他にちょうどいい言葉もない。


尊敬している。

 信頼している。

 安心する。

 見抜かれている気がする。

 傷つけたくないと思う。

 会いたいと思う。

 来ないと少し空く。

 来ると落ち着かない。

 でも、落ち着かないこと自体を嫌がっていない。


その総体を、たぶん人は恋と呼ぶ。

 私はようやく、その俗っぽい言葉を自分の感情に重ねることに慣れ始めていた。



家に帰ると、母が台所で洗い物をしていた。テレビではドラマの再放送が流れている。いつも通りの夜だった。


「おかえり」


「ただいま」


私はコートを脱いで、手を洗ってからリビングに入る。父はソファで本を読んでいた。眼鏡の位置を少し上げて、こちらをちらりと見る。


「遅かったな」


「入荷が多かったから」


そう答えて席につく。食卓には取り分けておいてくれた夕食がラップをかけられて置いてあった。レンジに入れて待ちながら、私はふと両親の姿を見る。


この二人にも、若い時期があった。

 恋があり、選択があり、現実があり、その中で今ここにいる。

 当たり前のことなのに、今夜は少し違って見えた。


人は、恋をすると急に恋愛に関する洞察が深まるわけではない。

 ただ、今まで外部にあったものが、急に自分の内部に入ってくる。

 それだけで、世界の見え方は少し変わる。


「なんか機嫌いい?」


母が不意に言った。

 私は一瞬だけ固まる。


「別に」


「そう?」


「普通」


母は少し笑っただけで、それ以上追及しなかった。

 助かったと思う半面、少しだけ見抜かれている気もした。


家族というのは厄介だ。

 自分では平静のつもりでも、微妙な温度差を拾われる。


私は食事を運びながら、自分の頬が少しだけ緩んでいることに気づく。

 急いで戻そうとして、無理だと分かった。

 今日はたぶん、少しだけ機嫌がいい。


会えなかったのに。

 むしろ会えなかったからかもしれない。


会わない日にも相手が確かに存在している。

 その確認が、思ったより大きい。



夜、自室の机に向かってレポートの下書きをしていると、十一時を少し回った頃に携帯が震えた。


――今日はすみませんでした。明日もたぶん無理です。


私はそれを見て、少し考える。

 謝ることではない。

 けれど彼にとっては謝りたい種類のことなのだろう。


――忙しい時期なんですね。


返す。

 少しして、また来る。


――忙しいのもあります。でも、忙しさに逃げてる感じも少しあります。


私は画面を見たまま、動きを止めた。

 そこまで書くんだ、と思う。

 自分の格好悪さまで含めて差し出してくるところが、この人らしかった。


逃げている。

 つまり、会いたいからこそ会わない、ということだ。

 私はしばらく考えてから、文字を打つ。


――逃げてもいいと思います。

 ――ただ、いなくならなければ。


送信する。

 送ったあとで、かなり深いところまで触れた気がした。


しばらく返事は来なかった。

 数分後、ようやく震える。


――それは約束します。


私はその一文を見つめる。

 たったそれだけなのに、妙に重かった。

 「好きです」よりも、「いなくならない」のほうが、この関係ではずっと重いのかもしれない。少なくとも今は。


人を好きになることは感情だ。

 でも、いなくならないでいることは選択だ。

 継続の意志だ。

 現実の中で相手に場所を残しておくということだ。


私は椅子にもたれ、天井を見上げる。

 この恋は、まだ始まったばかりだ。

 始まったばかりなのに、少しずつ現実の言葉を持ち始めている。


会いたい。

 長く感じる。

 逃げている。

 いなくならない。


どれも派手ではない。

 でも、十分すぎる。


私は携帯を机の上に置いて、目を閉じた。

 会えない日がある。

 距離がある。

 年齢差も、社会も、理性もある。

 なのに、消えない。


それどころか、会わないことで形がはっきりしていく感情まである。


面倒だな、と思う。

 でも、その面倒さの中心に、どこか穏やかなものがあった。


激しく燃える感じではない。

 もっと静かで、持続しそうな熱。

 近づきすぎないまま、たしかに上がっていく温度。


私はノートの上に視線を戻し、もう一度ペンを持つ。

 文字を書こうとして、少しだけ止まった。


頭の中で、あの一文がまだ残っている。

 ――それは約束します。


私は小さく息を吐いて、今度こそ文字を書き始めた。

 たぶん私は、もう前より安心して揺れられる。

 相手が、消えないと言ったからだ。

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