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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第11話 静かな誤差

恋だと理解した翌日、世界は驚くほど何も変わらなかった。

 朝の空気は少し冷えていて、白い湯気がマグカップの上でゆっくりとほどけていく。母が焼いたトーストの匂いが食卓に広がり、テレビでは代わり映えのしないニュースが流れていた。父は新聞を折る音だけを立て、母はいつも通り、沙希の皿にサラダを足した。


私はその光景を見ながら、少しだけ不思議に思っていた。

 昨夜、私は自分の感情に名前をつけた。


あれは好意ではない。

 尊敬でもない。

 もっと具体的で、もっと不自由なものだ。


恋。


そう認識した。

 それなのに、世界は何ひとつ傾かない。家の床も、窓の外の電線も、母の「今日は帰り遅いの?」という声も、昨日までと同じ輪郭を保っている。


たぶんそれは、当たり前のことなのだ。

 恋は災害ではない。

 認識の変化であって、現実の即時的破壊ではない。


私は食パンを口に運びながら、頭のどこかでそう整理した。


「沙希、今日ちょっと疲れてる?」


母が何気なく言った。


「普通」


「普通、って顔じゃないけど」


「寝不足なだけ」


嘘ではなかった。眠りは浅かった。何度か目が覚め、そのたびに思い出したのは、昨夜の喫茶店の灯りと、別れ際の太一さんの視線だった。


あの人も、同じものを抱えている。

 そこまでは分かる。

 でも、分かることと、安心できることは違う。


私はコーヒーを飲んで立ち上がった。母はまだ少し気にしているようだったけれど、追及はしなかった。その距離感に少し救われる。

 玄関を出ると、朝の空気は予想より冷たかった。頬に触れた感触が、妙に鮮明だった。


私は歩きながら考える。

 恋を自覚したからといって、何かを急ぐ理由にはならない。

 むしろ逆だ。

 名前がついたからこそ、扱いは慎重になる。


曖昧な感情なら勢いで動ける。

 でも、恋は違う。

 それが何を変え得るかを理解しているから、簡単には触れられない。


私はたぶん、その重さを同い年の誰かより先回りして考えてしまう。


恋が人をどう変えるか。

 女が恋によって、どれだけ生活の輪郭まで揺らされるか。

 そして、年齢差がある関係が、どれほど容易に外から意味づけされるか。


理解している。

 だから、落ち着こうと思った。

 感情があることと、感情に使われることは別だ。


大学へ向かう電車の窓に映った自分の顔は、普段とあまり変わらなかった。少しだけ目の下に疲れがある。でも、それだけだ。


私は今まで通りでいい。

 少なくとも、表面は。

 そう決めると、妙に呼吸がしやすくなった。



講義を二つ終え、昼休みに構内のベンチでサンドイッチを食べていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 画面には短い通知が出ていた。


――今日、店に寄ります。少しだけ。


松岡太一さん。

 それだけだった。


余計な言葉はない。

 絵文字もない。

 言い訳も、誘いも、探るような文もない。


その簡素さが、逆にあの人らしかった。

 私は数秒だけ画面を見つめたあと、返信を打つ。


――分かりました。私は夕方から入ってます。


送信して、すぐに画面を伏せた。

 胸の奥が少しだけ熱を持つ。

 けれど、それは昨夜ほど激しくはなかった。


私は理解している。

 会えることがうれしい。

 それだけだ。


そう言い聞かせるように空を見上げた。春になったばかりの青は、まだ少し乾いていた。


隣のベンチでは、一年生らしい男女がレポートの話をしていた。男のほうが女の子のペットボトルを自然に受け取って、キャップを開けて返している。

 私はその光景を見て、少しだけ笑いそうになった。


若い恋愛だ、と思う。

 いや、年齢で分けるのは正確ではないかもしれない。

 正しくは、構造が単純だ。


同じ大学。同じ年代。同じ速度で未来に進んでいく関係。

 外から説明しやすい恋愛。


私と太一さんは、そうではない。

 説明しにくい。

 たぶん、理解もされにくい。


でも、それでも私は、昨夜の自分の認識を取り消したいとは思わなかった。


恋は正しいかどうかで起きるものではない。

 ただ、起きたあとにどう扱うかが問われる。


そこだけは、間違えたくない。



夕方の書店は、平日らしい静かな混み方をしていた。雑誌コーナーに数人、文庫棚の前にひとり、児童書のほうで母親と子どもが小さな声でやり取りしている。

 私はレジに立ちながら、意識の一部を入口に向けていた。


それを自覚して、少しだけ嫌になる。

 分かりやすい。

 こういう自分は、少しだけ制御が甘い。

 でも、視線を向けてしまうのは仕方がない。待っているからだ。


午後六時を少し過ぎたころ、入口の自動ドアが開いた。冷たい外気がわずかに流れ込み、そのすぐあとに、見慣れた背の高さが入ってくる。


グレーのジャケットに、濃い色のシャツ。肩にかけた鞄。歩く速度まで落ち着いていて、無駄がない。

 松岡太一さんは、店の光の中に入ってきた瞬間、客としてではなく、風景の一部のように見えた。


私はそれを見て、まず観察する。

 少し疲れている。

 でも足取りは重くない。

 視線は真っ直ぐで、迷いがない。


そして次に理解する。

 あの人も、たぶん、私を見に来た。


最後に感情が来る。

 少しうれしい。

 それだけの順序だった。


太一さんは新刊台をひと通り見てから、レジのほうへ歩いてきた。すぐに話しかけるでもなく、一冊の新書を手に取る。その選び方まで自然で、だからこそ意図が隠しにくい。


「いらっしゃいませ」


私はほとんど普段通りの声で言った。

 太一さんは一瞬だけこちらを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「こんばんは」


「こんばんは。新刊ですか」


「仕事の参考に。半分は言い訳ですけど」


「半分は?」


「顔を見たくなったので」


言い方が静かすぎて、一瞬聞き間違いかと思った。


私はレジの内側でその言葉を受け止める。驚きはあった。でも、顔には出さないようにした。出せなかった、のほうが正しいかもしれない。


恋を自覚したあとでなければ、この一言はもっと大きく響いただろう。

 けれど今は、昨夜からずっと心のどこかで予測していた。


あの人は曖昧な誤魔化し方をしない。

 言うと決めたことは、必要最小限で言う。


だからこの一言は、軽口ではない。


「正直ですね」


「今さら取り繕っても、あまり意味がない気がして」


太一さんはそう言ってから、少しだけ困ったように笑った。


「まずかったですか」


「まずくはないです」


「ならよかった」


そのやり取りのあいだ、レジに並ぶ客はいなかった。静かな時間だった。児童書コーナーのほうで子どもが笑う声がして、それが逆にこの場所だけを切り離していた。

 私は彼の持ってきた新書のバーコードを読み取った。


「今日は仕事帰りですか」


「ええ。校了がひとつ終わって、その足で」


「じゃあ少し疲れてますね」


「顔に出ていますか?」


「少しだけ」


「あなたには、たぶん隠せないですね」


その言葉に、私は小さく息を止めた。

 隠せない。

 それは、見抜かれているということではない。

 見せてしまっているということだ。


太一さんはたぶん、自分でも気づいている。私に対してだけ、少しだけ防御が甘くなっていることを。

 会計が終わって、本を袋に入れる。指先の動きは平常だった。少なくとも、そう見えるはずだ。


「ありがとうございます」


袋を差し出すと、太一さんはそれを受け取りながら言った。


「終わるまで待っていたら、迷惑ですか」


「待つんですか」


「迷惑ならやめます」


「……別に、迷惑ではないです」


答えた瞬間、自分の声が少しだけ硬かったことに気づく。


それでも太一さんは何も指摘しなかった。ただ、分かった、と頷いて、店の奥にあるカフェスペースのほうへ歩いていく。その背中を見送りながら、私は自分の胸の内側に生じた静かな乱れを確認していた。


私は落ち着いている。

 でも、平然ではいられない。

 そこが違う。



閉店までの二時間は妙に長かった。

 客の流れは一定で、やることは普段と変わらない。返品処理、品出し、問い合わせ対応。身体は仕事をしているのに、意識の一部だけが店の奥に残っている。


私は何度か、カフェスペースのほうを見た。

 太一さんはコーヒーを一杯だけで、ほとんど本を読んでいた。時々、何かを考えるように視線を止め、またページをめくる。その姿があまりにも自然で、逆にこちらの緊張が滑稽に思えた。


待っているのに、圧をかけない。

 近くにいるのに、急かさない。


あの人のそういうところが、ずるいと思う。

 人を安心させる形で距離を詰めてくる。

 支配ではなく、選択を残したまま。


私はその構造を理解している。

 好意が生まれれば、人はたいてい急ぐ。

 確信が欲しくなる。

 自分の位置を確認したくなる。


でも太一さんは、それをしない。

 しないというより、できないのかもしれない。

 年齢差も、立場も、その先の責任も全部見えているから。

 だからこそ、待つ。

 私が選ぶまで。


それを理解すると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


優しさは、時々、残酷だ。

 選択の自由を残されるということは、決める責任もこちらに返ってくるということだから。


私はレジ締めの作業をしながら、ふとガラスに映った自分を見た。

 頬が少し赤い。


疲れのせいとも言える。

 でも、本当は違う。


私は今、この店に残っている一人の男を意識している。

 それを、自分で理解している。


少し怖い。

 でも嫌ではない。

 その結論が、静かに腹の底へ沈んでいく。



閉店後、店長に挨拶をして外に出ると、夜気は昼よりずっと冷たかった。シャッターの閉まった隣店の前に、太一さんが立っていた。街灯の明かりが肩に落ちている。


「お疲れさま」


「お疲れさまです」


二人で並んで歩き出す。駅までの道は十分もない。その短さが、今は妙に惜しかった。


けれど私は焦らない。焦る理由がない。むしろ、短いからいいのかもしれないと思う。長すぎる時間は、人を不用意にさせる。


「今日は、いつもより静かですね」


しばらく歩いてから、太一さんが言った。


「そうですか」


「ええ。悪い意味じゃなくて」


「たぶん、整理がついたからです」


「何の?」


「自分の中の話です」


そこで言葉を切ると、太一さんはすぐには返さなかった。

 答えを急がない。

 それがこの人だ。


私は横顔を見ないまま続ける。


「曖昧なままのほうが、むしろ落ち着かなかったので」


「……なるほど」


「名前がついたんです。だから、少し静かになりました」


言ってから、自分でもかなり踏み込んだことに気づく。

 でも、引っ込めるつもりはなかった。


太一さんの歩幅が、わずかに乱れた。

 ほんの一瞬。

 それだけ。

 けれど私は見逃さない。


この人は今、かなり動揺している。

 その理解が先に来て、そのあとで少しだけ胸が熱くなる。自分が相手を揺らせたことに対する優越ではない。ただ、対等に届いたという感覚だった。


「沙希さん」


太一さんが私の名前を呼ぶ。店の中ではほとんど呼ばない。だから、その響きだけで空気が少し変わる。


「はい」


「それを聞いて、安心した反面、少し困っています」


「困るんですね」


「かなり」


私はそこで初めて横を見た。

 街灯の下の彼の表情は、いつもより分かりやすかった。落ち着こうとしているのに、完全には整え切れていない。理性の上に感情が薄く乗っている顔だった。


私は理解する。

 太一さんは、もう戻れないところまで来ている。

 そして感情が来る。


うれしい。

 それは思ったより、静かな感情だった。


「どう困ってるんですか」


「あなたが落ち着けば落ち着くほど、こっちが意識するからです」


冗談ではない口調だった。

 私は思わず視線を前に戻した。喉の奥が少し乾く。


ああ、と思う。

 この人は今、たしかに恋に入った。

 明確に。


それを告白という形で言わなくても、分かる。

 感情は時々、言葉より先に輪郭を持つ。


「それは、非合理ですね」


「そうですね」


「いつものあなたらしくない」


「自覚はあります」


私は少しだけ笑った。

 彼も、遅れて笑う。

 それだけのことで、夜道の空気が少しやわらいだ。


「でも」


太一さんが続ける。


「だからといって、急ぐつもりはないです」


「知ってます」


「信用されてますね」


「そのくらいは」


「ありがたいけど、少し緊張します」


「私もです」


言うと、今度は沈黙が落ちた。

 重い沈黙ではない。

 言葉を足さなくても崩れない種類の静けさだった。


駅前の明かりが見えてくる。人通りが少し増え、会話の断片や電車のアナウンスが遠くから混ざってくる。現実の音だと思う。


恋は、こういう雑音の中で進んでいく。

 劇的な音楽も、都合のいい沈黙もない。

 駅前のチェーン店の匂いと、信号待ちの人混みと、終電を気にする現実の中で、少しずつ形を持つ。


そのことが、なぜか私にはしっくりきた。

 たぶん、この人との関係は、そういうものだからだ。

 現実を消さない。

 最初から最後まで、その中でしか進まない。


駅の改札前で、私たちは止まった。


「今日はありがとう」


太一さんが言う。


「何に対してですか」


「会わせてくれたことと、さっきの話をしてくれたこと」


「別に、隠す必要がないと思ったので」


「それが一番困るんですよ」


「また困ってる」


「ええ」


私は少しだけ目を細めた。


「でも、そのほうが対等でしょう」


「……そうですね」


太一さんはそこで短く息をついた。諦めたような、受け入れたような吐息だった。


「次に会うまで、少し長く感じそうです」


「私は授業とバイトがあるので、たぶん普通です」


「そういうところですよ」


「何がですか」


「本当に普通の顔で、そういうことを言うところ」


私は返事をしなかった。

 代わりに、少しだけ笑った。


自分でも分かっている。

 私は恋を自覚したことで、逆に静かになった。

 でもその静けさは無関心ではない。

 深く潜っただけだ。


感情が消えたわけではない。

 むしろ、簡単には揺らがない形に変わり始めている。


「じゃあ、また」


私が言う。


「ええ。また」


太一さんが答える。


改札を抜けて、数歩進んだところで振り返ると、彼はまだそこに立っていた。手を上げるでもなく、ただ静かにこちらを見ている。その視線を受けて、私は理解する。


この人は、もう私を特別な相手として見ることをやめられない。

 そして私は、それを知っている自分に、前ほど動揺していなかった。


恋は確かに始まっている。

 でもそれは、火がつくような始まりではない。

 温度の差が、静かに測定不能になっていくような始まりだった。


電車がホームに滑り込んでくる。風が髪を揺らす。

 私は車窓に映る自分を見た。


昨日と同じ顔。

 でも、少しだけ違う。


私は今、誰かに好かれている可能性ではなく、誰かに好かれている現実の中にいる。

 そしてその相手を、私も好きだ。


そう理解した自分がいる。

 少し怖い。

 でも、嫌ではない。

 それで十分だと思った。

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