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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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10/17

第10話 名前のないものに名前がつく前

その週は、妙に相手の視線が気になった。

 相手、という言い方も少し違う。

 正確には、松岡さんの視線だ。


前から見られていなかったわけではない。むしろ、この人はよく見ている。棚の配置も、人の反応も、言葉の揺れも、ちゃんと見ている人だ。だから、今さら「見られている」と意識するのは不自然かもしれない。

 でも、意識してしまうものは仕方がない。


レジで会計をしているとき。

 棚の端を整えているとき。

 店長と松岡さんが話している合間に、ふとこちらへ向く視線。


何も露骨ではない。

 長く見つめるわけでもない。

 むしろ、必要以上に見ないようにしているくらいだ。

 だから余計にわかる。


見ないようにして、それでも見ている。

 私はその事実を、三日かけて理解した。


認識が先にある。

 視線が前より少しだけ意識されている。

 意味を考える。

 何が変わったのか。

 そして最後に、自分の感情が追いつく。


ああ、と私は思った。

 たぶん松岡さんも、私と同じ場所まで来ている。


まだ何も言っていない。

 言うつもりも、たぶんまだない。

 でも、互いの存在の重さだけは、もう前とは違う。


木曜の夕方、店は少し混んでいた。

 新刊日で、雑誌も文庫もそれなりに動く。私はレジに立ちっぱなしで、バーコードを通し、袋を渡し、ポイントカードの有無を聞き続けていた。こういう時間は思考が一度薄くなるから助かる。余計なことを考えずに済む。

 でも、その日は完全には薄くならなかった。


松岡さんがいるからだ。

 社会・政治の棚の前で本を見ている。店長と話す。少し移動する。また棚を見る。その一つ一つを、私は見ようとしなくても把握してしまう。


把握してしまう、というのがたぶん正しい。

 意識の端が勝手に拾うのだ。


こういうのは、よくない兆候かもしれないと思う。

 何か一つの存在が、自分の視界の優先順位を上げてしまうこと。

 依存とは違う。

 まだ、そこまでは行っていない。

 でも、無関係でもない。


レジが一瞬空き、私は小さく息をついた。そこへ松岡さんが本を一冊持ってきた。地方行政に関する新書だった。


「忙しそうですね」


彼が言う。


「新刊日なので」


「話しかけるタイミングを間違えましたか」


「そこまでではないです」


「では、ぎりぎり許される」


「その言い方は少しずるいです」


松岡さんは少し笑った。

 私は本を受け取りながら思う。

 この笑い方が、もうずいぶん自然に自分の中へ入ってくる。

 気を抜くと安心してしまう。


安心する。

 その言葉を、今は少しだけ警戒している。

 安心の延長にあるものが、もう前よりはっきり見え始めているからだ。


「今日は企画書じゃないんですね」


私が表紙を見て言うと、松岡さんは頷いた。


「今日は読むほうです」


「珍しい」


「失礼ですね」


「いつも仕事しかしてなさそうなので」


「そう見えますか」


「かなり」


彼は財布を開きながら、少しだけ肩をすくめた。


「実際、今週は少し疲れています」


「言いましたね」


「言いました」


私は顔を上げた。

 前なら、この人はこういうことをもう少し曖昧にしていた気がする。疲れていても、そこを言葉にしないで済ませていた。でも今は、少なくとも私には少し出すようになっている。

 その違いが、妙に胸に残る。


「寝てないんですか」


「寝ています。ただ、頭が止まっていない感じです」


「最悪ですね」


「編集者としては平常運転です」


「人としては」


「良くないでしょうね」


私はレシートを渡しながら、少しだけ言葉を探した。


「……少し休んだほうがいいです」


「そう思いますか」


「観察の結果です」


「便利ですね」


「事実なので」


松岡さんはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。


「早坂さん」


「はい」


「あなたにそう言われると、思っているより効きます」


私は一瞬、動きを止めた。

 効く。

 また、その言い方だ。

 重くも軽くもない。

 でも、身体感覚としてはっきり残る表現。


「それは……」


私は言いかけて、少しだけ視線を落とした。

 何を返すべきか、一瞬で決められない。

 うれしいのか。

 困るのか。

 その両方なのか。


先に認識する。

 松岡太一さんは、自分の言葉に影響されている。

 理解する。

 それはもう、ただの書店員と営業の関係ではない。

 感情が来る。

 少しだけ、胸の奥が熱い。


「……なら、たまには聞いたほうがいいです」


私がそう言うと、松岡さんは小さく笑った。


「厳しいですね」


「必要なので」


「知っています」


その「知っています」が、前より近く聞こえた。


閉店三十分前になると、客足が引いた。

 もう一人のアルバイトがバックヤードに下がり、店長は事務所で電話をしている。店内には静かな音楽だけが流れていた。私はレジ横で返品伝票を揃え、松岡さんは近くの平台を見ている。


距離はある。

 二メートルか三メートル。

 触れるには遠いし、話すには近い。

 それが妙に落ち着かない。


「松岡さん」


私が呼ぶと、彼は振り返った。


「はい」


「この前、言っていた本、どうでしたか」


「かなり良かったです」


「珍しい」


「だから失礼ですね」


「だって、松岡さん厳しそうなので」


「本には厳しいかもしれません」


「人には?」


聞いてから、自分で少しだけ驚いた。

 何気ない流れのようでいて、質問の角度が少し個人的だ。

 でも、取り消すほどではないと思った。


松岡さんは数秒だけ黙った。


「人には、厳しくなりすぎないようにしています」


「なぜ」


「立場があるので」


「編集者だから」


「それもあります」


「他には」


彼は少しだけ視線をずらした。


「昔、正しいことを正しいまま言いすぎて、壊したことがあるので」


私は息を少しだけ止めた。

 それはたぶん、かなり本音に近い。

 しかも、過去の話だ。

 松岡さんが自分から、過去の失敗に近いものを出すのは珍しい。


「壊した、ですか」


「ええ」


「仕事?」


「仕事も、人間関係も」


私は何も言わずに彼を見た。

 続きを待つ姿勢、というのはある。

 すぐに掘らず、でも閉じないようにして待つ。


松岡さんは、ほんの少しだけ苦笑した。


「そういう顔をしますね」


「どんな」


「続きを話したくなる顔です」


「それは便利ですね」


「ええ。かなり」


私は少しだけ笑った。

 でも、笑いのあとにはすぐ静けさが戻る。


「正しいことって、ときどき雑ですよね」


私が言うと、松岡さんはゆっくり頷いた。


「そうですね」


「相手の時間とか、傷とか、そういうものを飛ばしてしまう」


「ええ」


「松岡さんは、それを知ってるから慎重なんですね」


彼は私を見た。


「たぶん」


「だから距離も取る」


「取りすぎることもある」


「この前みたいに」


「はい」


そこまで言って、二人とも少しだけ笑った。

 同じことを思い出しているのがわかる笑い方だった。

 私はその瞬間、ひどく静かに理解する。


この人との共有が増えている。

 言葉だけではなく、沈黙や記憶の置き方まで。

 それは、かなり深い。

 たぶんもう、私はこの関係を単なる信頼では呼べない。


しばらくして、外を見に行った松岡さんが、入口近くで立ち止まった。


「雨ですね」


「またですか」


「縁がありますね」


「本屋がですか」


「あるいは、タイミングが」


私は伝票を揃える手を止めた。

 その言い方は、少しだけ危うい。

 もちろん、露骨ではない。

 でも、意味が一つでは済まない言葉だった。


「松岡さん」


「はい」


「疲れてるときのほうが、少し危ないですね」


彼は振り返って、驚いたように笑った。


「どうして」


「言葉の調整が少し薄いので」


「それはまずい」


「かなり」


「では、今のは忘れてください」


「無理です」


「即答ですね」


「印象に残るので」


松岡さんは少しだけ黙った。

 それから、静かに言う。


「……それなら、それでいいです」


私はその言葉を受け取って、しばらく何も返せなかった。

 忘れてください、と言ったあとで、それならそれでいいです、と言う。

 つまり、自分の言葉が残ることを、完全には拒んでいない。


それはかなり、危うい。

 でも同時に、うれしい。

 うれしい、と思ってしまった時点で、もうだいぶ遅い。


私は自分の内側を確認する。

 これは信頼か。

 尊敬か。

 特別視か。

 たぶん、その全部だ。

 そして、もうそれだけではない。


「私も」


気づけば、そう言っていた。

 松岡さんがこちらを見る。


「何がですか」


「松岡さんの言葉、思っているより残ります」


店内が急に静かになった気がした。

 実際には何も変わっていない。BGMは流れているし、空調の音もある。

 でも、私たちの間に落ちた沈黙だけが、少し濃くなった。


松岡さんは何も言わなかった。

 私は続けるべきか迷う。

 でも、ここで引くのも違う気がした。


「たぶん、困るくらいに」


言ってから、少しだけ目を逸らした。

 頬が熱い。

 自覚していなかったわけではない。

 でも、ここまで言葉になると、急に現実味が出る。


困るくらいに残る。

 それはもう、かなり恋に近い告白のようなものではないか、と頭のどこかが冷静に指摘する。

 ただし、まだ名前は出していない。

 出していないからこそ、余計に危うい。


「……それは」


松岡さんが低い声で言う。


「かなり、重いですね」


「知ってます」


「軽く受け取れません」


「そうでしょうね」


「早坂さんは、時々、急にそういうことを言う」


「言わないと進まない気がしたので」


彼はそこで、少しだけ困ったように笑った。


「進めたいんですね」


その問いは、静かで、でも鋭かった。

 私は一瞬だけ答えに詰まる。

 進めたいのか。

 何を。

 関係を。

 理解を。

 この揺れを。


認識する。

 私は今、選ばされている。

 理解する。

 答え方で、これからの空気が変わる。

 感情が来る。

 少し怖い。

 でも、逃げたくない。


「……止めたくはないです」


それが出てきた言葉だった。

 松岡さんはしばらく黙っていた。

 私は自分の指先が少し冷たくなっていることに気づく。緊張しているのだと思う。


「そうですか」


彼はやがて、静かに言った。


「はい」


「私も、たぶん同じです」


その一言で、胸の奥が小さく、でもはっきりと鳴った気がした。


私たちはまだ恋人ではない。

 告白もしていない。

 触れてもいない。

 社会的には何も始まっていない。


でも今、私は知ってしまった。

 この人も、止めたくないと思っている。


それはもう、ただの知的好奇心ではない。

 ただの信頼でも、特別視でも、説明が足りない。


私はその事実を先に認識する。

 理解する。

 そして最後に、胸の奥がひどく静かに熱くなる。


ああ、と私は思った。

 これはもう、恋だ。


いきなり感情が溢れたわけではない。

 少女のように舞い上がるわけでもない。

 むしろ逆で、あまりにも静かで、理解に近い形でそれは来た。


私は松岡太一さんを特別視している。

 現実の距離も、年齢差も、責任の重さも見た。

 それでもなお、止めたくないと思う。

 相手の言葉が困るくらい残る。

 相手の疲れが気になり、視線が気になり、来ると安心する。


それを他に何と呼ぶのか。


私はレジ台に手を置いたまま、自分の内側にその結論を静かに置く。

 私は、この人に恋をしている。


言葉にした瞬間、少しだけ怖かった。

 でも、嫌ではなかった。

 むしろ、ようやく名前がついたことで、奇妙に落ち着く。


「松岡さん」


私が呼ぶと、彼は顔を上げた。


「はい」


「今のは、忘れないでください」


彼は一瞬だけ驚いて、それから小さく笑った。


「忘れられる気がしません」


「ならいいです」


「良くはないかもしれません」


「でも、いいです」

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