第10話 名前のないものに名前がつく前
その週は、妙に相手の視線が気になった。
相手、という言い方も少し違う。
正確には、松岡さんの視線だ。
前から見られていなかったわけではない。むしろ、この人はよく見ている。棚の配置も、人の反応も、言葉の揺れも、ちゃんと見ている人だ。だから、今さら「見られている」と意識するのは不自然かもしれない。
でも、意識してしまうものは仕方がない。
レジで会計をしているとき。
棚の端を整えているとき。
店長と松岡さんが話している合間に、ふとこちらへ向く視線。
何も露骨ではない。
長く見つめるわけでもない。
むしろ、必要以上に見ないようにしているくらいだ。
だから余計にわかる。
見ないようにして、それでも見ている。
私はその事実を、三日かけて理解した。
認識が先にある。
視線が前より少しだけ意識されている。
意味を考える。
何が変わったのか。
そして最後に、自分の感情が追いつく。
ああ、と私は思った。
たぶん松岡さんも、私と同じ場所まで来ている。
まだ何も言っていない。
言うつもりも、たぶんまだない。
でも、互いの存在の重さだけは、もう前とは違う。
木曜の夕方、店は少し混んでいた。
新刊日で、雑誌も文庫もそれなりに動く。私はレジに立ちっぱなしで、バーコードを通し、袋を渡し、ポイントカードの有無を聞き続けていた。こういう時間は思考が一度薄くなるから助かる。余計なことを考えずに済む。
でも、その日は完全には薄くならなかった。
松岡さんがいるからだ。
社会・政治の棚の前で本を見ている。店長と話す。少し移動する。また棚を見る。その一つ一つを、私は見ようとしなくても把握してしまう。
把握してしまう、というのがたぶん正しい。
意識の端が勝手に拾うのだ。
こういうのは、よくない兆候かもしれないと思う。
何か一つの存在が、自分の視界の優先順位を上げてしまうこと。
依存とは違う。
まだ、そこまでは行っていない。
でも、無関係でもない。
レジが一瞬空き、私は小さく息をついた。そこへ松岡さんが本を一冊持ってきた。地方行政に関する新書だった。
「忙しそうですね」
彼が言う。
「新刊日なので」
「話しかけるタイミングを間違えましたか」
「そこまでではないです」
「では、ぎりぎり許される」
「その言い方は少しずるいです」
松岡さんは少し笑った。
私は本を受け取りながら思う。
この笑い方が、もうずいぶん自然に自分の中へ入ってくる。
気を抜くと安心してしまう。
安心する。
その言葉を、今は少しだけ警戒している。
安心の延長にあるものが、もう前よりはっきり見え始めているからだ。
「今日は企画書じゃないんですね」
私が表紙を見て言うと、松岡さんは頷いた。
「今日は読むほうです」
「珍しい」
「失礼ですね」
「いつも仕事しかしてなさそうなので」
「そう見えますか」
「かなり」
彼は財布を開きながら、少しだけ肩をすくめた。
「実際、今週は少し疲れています」
「言いましたね」
「言いました」
私は顔を上げた。
前なら、この人はこういうことをもう少し曖昧にしていた気がする。疲れていても、そこを言葉にしないで済ませていた。でも今は、少なくとも私には少し出すようになっている。
その違いが、妙に胸に残る。
「寝てないんですか」
「寝ています。ただ、頭が止まっていない感じです」
「最悪ですね」
「編集者としては平常運転です」
「人としては」
「良くないでしょうね」
私はレシートを渡しながら、少しだけ言葉を探した。
「……少し休んだほうがいいです」
「そう思いますか」
「観察の結果です」
「便利ですね」
「事実なので」
松岡さんはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「早坂さん」
「はい」
「あなたにそう言われると、思っているより効きます」
私は一瞬、動きを止めた。
効く。
また、その言い方だ。
重くも軽くもない。
でも、身体感覚としてはっきり残る表現。
「それは……」
私は言いかけて、少しだけ視線を落とした。
何を返すべきか、一瞬で決められない。
うれしいのか。
困るのか。
その両方なのか。
先に認識する。
松岡太一さんは、自分の言葉に影響されている。
理解する。
それはもう、ただの書店員と営業の関係ではない。
感情が来る。
少しだけ、胸の奥が熱い。
「……なら、たまには聞いたほうがいいです」
私がそう言うと、松岡さんは小さく笑った。
「厳しいですね」
「必要なので」
「知っています」
その「知っています」が、前より近く聞こえた。
閉店三十分前になると、客足が引いた。
もう一人のアルバイトがバックヤードに下がり、店長は事務所で電話をしている。店内には静かな音楽だけが流れていた。私はレジ横で返品伝票を揃え、松岡さんは近くの平台を見ている。
距離はある。
二メートルか三メートル。
触れるには遠いし、話すには近い。
それが妙に落ち着かない。
「松岡さん」
私が呼ぶと、彼は振り返った。
「はい」
「この前、言っていた本、どうでしたか」
「かなり良かったです」
「珍しい」
「だから失礼ですね」
「だって、松岡さん厳しそうなので」
「本には厳しいかもしれません」
「人には?」
聞いてから、自分で少しだけ驚いた。
何気ない流れのようでいて、質問の角度が少し個人的だ。
でも、取り消すほどではないと思った。
松岡さんは数秒だけ黙った。
「人には、厳しくなりすぎないようにしています」
「なぜ」
「立場があるので」
「編集者だから」
「それもあります」
「他には」
彼は少しだけ視線をずらした。
「昔、正しいことを正しいまま言いすぎて、壊したことがあるので」
私は息を少しだけ止めた。
それはたぶん、かなり本音に近い。
しかも、過去の話だ。
松岡さんが自分から、過去の失敗に近いものを出すのは珍しい。
「壊した、ですか」
「ええ」
「仕事?」
「仕事も、人間関係も」
私は何も言わずに彼を見た。
続きを待つ姿勢、というのはある。
すぐに掘らず、でも閉じないようにして待つ。
松岡さんは、ほんの少しだけ苦笑した。
「そういう顔をしますね」
「どんな」
「続きを話したくなる顔です」
「それは便利ですね」
「ええ。かなり」
私は少しだけ笑った。
でも、笑いのあとにはすぐ静けさが戻る。
「正しいことって、ときどき雑ですよね」
私が言うと、松岡さんはゆっくり頷いた。
「そうですね」
「相手の時間とか、傷とか、そういうものを飛ばしてしまう」
「ええ」
「松岡さんは、それを知ってるから慎重なんですね」
彼は私を見た。
「たぶん」
「だから距離も取る」
「取りすぎることもある」
「この前みたいに」
「はい」
そこまで言って、二人とも少しだけ笑った。
同じことを思い出しているのがわかる笑い方だった。
私はその瞬間、ひどく静かに理解する。
この人との共有が増えている。
言葉だけではなく、沈黙や記憶の置き方まで。
それは、かなり深い。
たぶんもう、私はこの関係を単なる信頼では呼べない。
しばらくして、外を見に行った松岡さんが、入口近くで立ち止まった。
「雨ですね」
「またですか」
「縁がありますね」
「本屋がですか」
「あるいは、タイミングが」
私は伝票を揃える手を止めた。
その言い方は、少しだけ危うい。
もちろん、露骨ではない。
でも、意味が一つでは済まない言葉だった。
「松岡さん」
「はい」
「疲れてるときのほうが、少し危ないですね」
彼は振り返って、驚いたように笑った。
「どうして」
「言葉の調整が少し薄いので」
「それはまずい」
「かなり」
「では、今のは忘れてください」
「無理です」
「即答ですね」
「印象に残るので」
松岡さんは少しだけ黙った。
それから、静かに言う。
「……それなら、それでいいです」
私はその言葉を受け取って、しばらく何も返せなかった。
忘れてください、と言ったあとで、それならそれでいいです、と言う。
つまり、自分の言葉が残ることを、完全には拒んでいない。
それはかなり、危うい。
でも同時に、うれしい。
うれしい、と思ってしまった時点で、もうだいぶ遅い。
私は自分の内側を確認する。
これは信頼か。
尊敬か。
特別視か。
たぶん、その全部だ。
そして、もうそれだけではない。
「私も」
気づけば、そう言っていた。
松岡さんがこちらを見る。
「何がですか」
「松岡さんの言葉、思っているより残ります」
店内が急に静かになった気がした。
実際には何も変わっていない。BGMは流れているし、空調の音もある。
でも、私たちの間に落ちた沈黙だけが、少し濃くなった。
松岡さんは何も言わなかった。
私は続けるべきか迷う。
でも、ここで引くのも違う気がした。
「たぶん、困るくらいに」
言ってから、少しだけ目を逸らした。
頬が熱い。
自覚していなかったわけではない。
でも、ここまで言葉になると、急に現実味が出る。
困るくらいに残る。
それはもう、かなり恋に近い告白のようなものではないか、と頭のどこかが冷静に指摘する。
ただし、まだ名前は出していない。
出していないからこそ、余計に危うい。
「……それは」
松岡さんが低い声で言う。
「かなり、重いですね」
「知ってます」
「軽く受け取れません」
「そうでしょうね」
「早坂さんは、時々、急にそういうことを言う」
「言わないと進まない気がしたので」
彼はそこで、少しだけ困ったように笑った。
「進めたいんですね」
その問いは、静かで、でも鋭かった。
私は一瞬だけ答えに詰まる。
進めたいのか。
何を。
関係を。
理解を。
この揺れを。
認識する。
私は今、選ばされている。
理解する。
答え方で、これからの空気が変わる。
感情が来る。
少し怖い。
でも、逃げたくない。
「……止めたくはないです」
それが出てきた言葉だった。
松岡さんはしばらく黙っていた。
私は自分の指先が少し冷たくなっていることに気づく。緊張しているのだと思う。
「そうですか」
彼はやがて、静かに言った。
「はい」
「私も、たぶん同じです」
その一言で、胸の奥が小さく、でもはっきりと鳴った気がした。
私たちはまだ恋人ではない。
告白もしていない。
触れてもいない。
社会的には何も始まっていない。
でも今、私は知ってしまった。
この人も、止めたくないと思っている。
それはもう、ただの知的好奇心ではない。
ただの信頼でも、特別視でも、説明が足りない。
私はその事実を先に認識する。
理解する。
そして最後に、胸の奥がひどく静かに熱くなる。
ああ、と私は思った。
これはもう、恋だ。
いきなり感情が溢れたわけではない。
少女のように舞い上がるわけでもない。
むしろ逆で、あまりにも静かで、理解に近い形でそれは来た。
私は松岡太一さんを特別視している。
現実の距離も、年齢差も、責任の重さも見た。
それでもなお、止めたくないと思う。
相手の言葉が困るくらい残る。
相手の疲れが気になり、視線が気になり、来ると安心する。
それを他に何と呼ぶのか。
私はレジ台に手を置いたまま、自分の内側にその結論を静かに置く。
私は、この人に恋をしている。
言葉にした瞬間、少しだけ怖かった。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、ようやく名前がついたことで、奇妙に落ち着く。
「松岡さん」
私が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「はい」
「今のは、忘れないでください」
彼は一瞬だけ驚いて、それから小さく笑った。
「忘れられる気がしません」
「ならいいです」
「良くはないかもしれません」
「でも、いいです」




