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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第1話 話が通じる人

その男が店に入ってきた瞬間、少しだけ空気が変わった。

 そう思ったのは、たぶん気のせいではない。


平日の夕方。駅前の書店は、混んでいるわけでもなく、暇すぎるわけでもない中途半端な時間帯だった。学生はまだ講義かサークルにいて、会社員は帰宅には早い。客層は年配の常連と、目的買いの主婦が少し。レジに立っていると、人の流れに薄い癖があるのがわかる。立ち読みをする人は視線が泳ぐし、何かに追われている人は棚を見ているようで見ていない。


その男は違った。

 迷わず社会・政治の棚へ向かった。歩き方に無駄がない。急いでいるわけではないのに、目的がはっきりしている人間の歩き方だった。


年齢は三十代後半くらい。落ち着いた紺のジャケット。営業鞄は使い込まれているが、雑ではない。髪は短く整えられ、眼鏡の奥の視線は静かだった。見た目だけなら、よくいる出版社の営業か編集者だろう。


でも、よくいる人は、本を手に取る前に背表紙を流し見する。

 その男は、棚全体を一度見たあと、二冊だけ抜いた。

 選び方が、読む人間のそれだった。


私はレジからその様子を見ながら、ああ、と思った。

 この人は、仕事で本を扱っている。でも、本を商品としてだけ見ているわけじゃない。

 それは少し珍しい。


書店でアルバイトをしていると、本に関わる仕事の人間をそれなりに見る。出版社の営業。取次の担当。フリーのライターらしい人。だいたいは言葉がうまい。愛想もいい。でも、言葉の運び方に癖がある。相手に「売る」ための滑らかさが先に立つ。


その男には、それが薄かった。

 売るために来た人間なのに、売る顔をしていない。

 不思議な人だと思った。


数分後、店長が奥から出てきて、その男に気づいた。

 

「松岡さん、すみません、お待たせして」


名前がわかった。

 松岡。

 男――松岡さんは軽く頭を下げた。


「いえ。こちらこそ突然ですみません」


声も静かだった。よく通るのに、押しつけがましさがない。相手に聞かせるためではなく、ちゃんと届けばいいという話し方。


店長と新刊台の前で何か話し始めたので、私は会計の合間に聞くともなく聞いていた。春のフェアの棚差し替え。地方行政関係のムック。売れ筋というより、置いておく意味のある本。そんな話が断片的に耳に入る。


少し意外だった。

 売上だけを見れば、そんな棚は優先順位が高くない。けれど松岡さんは、数字だけではなく、「この地域の客層なら必要だと思う」と淡々と言っていた。断言ではなく、押し売りでもなく、ただ理由を置くように。


構造で話す人だ。

 私はそう理解した。


感情で押さず、関係性で迫らず、理由で組み立てる人。そういう人は珍しくない。けれど、珍しいのは、そのやり方に嫌味がないことだった。だいたい論理で話す人間は、自分の正しさを相手に飲ませようとする。けれど松岡さんには、その匂いがない。


たぶん、相手を操作することに興味がない。

 それは、少しだけ好ましかった。


店長との話が終わり、松岡さんはレジに本を持ってきた。さっき棚から抜いた二冊だった。どちらも売れ筋ではない。研究書寄りの新書と、地方議会に関する新刊。


「こちら二点でよろしいですか」


いつもの口調で言うと、松岡さんは「はい」と答えた。


それだけで終わるはずだった。

 でも、私は本の帯を見て、つい口を開いた。


「こういう本、今、売れるんですか」


言ってから、少しだけ間が悪いと思った。店員が客にする話ではないし、しかも相手はたぶん出版社の人間だ。

 けれど松岡さんは気を悪くした様子もなく、むしろ少しだけ目を細めた。


「売れるかどうかだけで言えば、微妙ですね」


「正直ですね」


「書店員さんに嘘をついても仕方ないので」


私は少し笑いそうになった。

 この人はたぶん、サービスとして気の利いたことを言えないタイプだ。でも、その代わりに変に飾らない。


「じゃあ、どうして出すんですか」


「必要だからです」


即答だった。

 私は顔を上げた。

 松岡さんも、そこで初めて少しだけこちらを見た。値踏みではない。質問の意味を測る視線だった。


「必要、ですか」


「全部の本が大量に売れる必要はないんです。読まれるべき場所で、必要な人に届けばいい本もあります」


言い切ったあとで、彼は少しだけ言葉を足した。


「もちろん、きれいごとだけじゃ会社は回りませんけど」


その修正の仕方が、妙に誠実だった。

 理想を語って終わらない。現実も引き受けた上で言う。そういう話し方。


私はレジのバーコードを通しながら思う。

 この人は、たぶん現実から逃げない。

 そして、だからこそ言葉が軽くならない。


「大学生?」


会計の途中で、松岡さんが聞いた。


「はい」


「専攻は」


「政治経済です」


「なるほど」


その一言に、余計な感心や軽い褒めが混ざっていなかった。ただ、会話の辻褄が合った、という反応だった。


私は少しだけ興味を持った。

 普通はここで「賢いね」とか「じゃあこういう本好きそうだ」とか、雑な接続詞を入れる。相手を気分よくさせるための社交辞令。でも、この人はたぶんそういうことをしない。


「必要な本って、誰が決めるんですか」


自分でも少し意地が悪い問いだと思った。

 出版社の人間に対して、正解のない問いを投げる。しかもレジ越しに。

 けれど松岡さんは困った顔をしなかった。


「最終的には読者でしょうね」


「出版社じゃなくて?」


「出版社は仮説を出すだけです。必要かどうかは、あとから決まる」


私は釣り銭を揃える手を止めかけた。

 いい答えだと思った。

 自分の立場を大きく見せない。けれど責任を放棄もしない。仮説という言い方が、少しだけ印象に残った。


私は今、少し面白いと思っている。

 そう理解した。

 感情ではなく、先に認識が来る。


この人は話が通じる。

 それが最初の結論だった。


「ありがとうございました」


袋を差し出すと、松岡さんは受け取りながら軽く会釈した。


「こちらこそ。面白い質問でした」


営業用の笑顔ではなかった。ほんの少しだけ、口元がやわらぐ程度の笑み。

 それだけだったのに、妙に印象に残った。


松岡さんはそのまま店を出ていった。自動ドアが開いて、三月の少し冷たい空気が一瞬だけ店内に流れ込み、すぐに閉じる。


私は何事もなかったように次の客の会計をした。

 雑誌一冊。ポイントカードあり。袋不要。

 手は普通に動く。

 でも、頭のどこかにさっきの会話が残っていた。


必要な本。

 仮説としての出版。

 全部の本が大量に売れる必要はない、という考え方。


少なくとも、言葉だけの人ではなかった。

 ああいう人は珍しい。

 大人なのに、妙に大人ぶっていない。

 現実を知っているのに、冷笑していない。


私はレジの小さなモニターを見つめながら、静かに思った。


また来るかもしれない。

 出版社の人間なら、たぶん一度では終わらない。

 そうしたら、次はもう少し聞けるだろうか。

 本のこと。社会のこと。

 あるいは、この人がどうしてそんなふうに話すのか。


興味がある。

 それが感情と呼べるほどのものかは、まだわからない。

 でも少なくとも、その他大勢ではなくなった。

 それだけで十分だった。

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