8日「ただいま」
学校から帰ると、リビングに知らない女の子が立っていた。
洗い残しの食器。ソファに脱ぎっぱなしの父の服。玄関の写真立て。全部いつもの家なのに、その子だけが異物だった。
肩までの栗色の髪。宝石みたいな瞳。見たことのない服。年齢は十歳くらい――なのに、視線だけが妙に落ち着いている。
「……どちら様ですか?」
女の子は答えず、私の制服を見て、ぽつりと言った。
「その制服‥そうか‥ほのかは膳所高に行ったのか」
心臓が跳ねた。地元の学校名を、迷いなく出す。
「……膳所高、知ってるの?」
「知ってる」
それだけ言って、女の子は台所へ向かった。そして私が止めるより早く、流しの食器を手に取った。
「ちょっと、待って。勝手に――」
「散らかったままだと落ち着かない」
言い方がいちいち大人びている。私は頭の中で可能性を探して、全部が嫌な方向に転がっていくのを止められなかった。
女の子は時計を見て言う。
「大輔、もうすぐ帰ってくる」
「……お父さんの名前、なんで知ってるの?」
「父親だろう?」
――決め手になったのは、言葉そのものより“距離”だった。知らない子が、うちの父をこの呼び方で呼ぶ理由なんて普通はない。
喉が乾いた。私は冷蔵庫の水を一気に飲み干す。冷たさが落ち着かせるどころか、怒りの芯だけを浮き彫りにした。
(父が? うちに? この子を?)
私はテーブルの椅子を引いた。
「……そこ、座って」
女の子は素直に座った。反抗もしない。その従い方が逆に、私を苛立たせる。
次の瞬間。女の子が踏み台を持ち出し、コーヒーを作り始めた。
「ちょっと! 勝手に――」
「ほのかは、これでいい」
置かれたのは、私が一番好きなカフェオレだった。インスタントを少し濃い目に溶かして、氷、ミルク多め。甘さなし。
“母が作るやつ”と同じ分量。
女の子は自分の前に湯呑みを置く。梅と昆布の香り。梅昆布茶。私は言葉が出ないまま、指先だけが冷たくなっていく。
「……あなた、誰?」
女の子は迷いなく言った。
「松本千尋だ」
「……ふざけないで。お母さんはもう、いない」
「知ってる。だから、戻ってきた」
嘘っぽいのに、変に“筋が通って”聞こえてしまって怖い。
私は震える声を押し殺した。
「じゃあ証明して。家族しか知らないこと」
女の子は即答した。
「カフェオレは氷が先。ミルクは多め。甘くしない。香りが残る方が好きだから」
「……」
「梅昆布茶は、梅を強くしすぎると嫌がる。昆布は少し長め」
偶然ではない。でも、ネットで拾える情報とも違う。――生活の“癖”だ。
そのとき、玄関が開いた。
「ただいまー」
父・大輔の声。私は弾かれたように駆け寄った。
「お父さん、聞いて! リビングに知らない子がいて――」
「落ち着け、ほのか。息が上がってる」
父は私の肩を軽く叩いて、リビングを覗き込んだ。
「へえ……可愛い子だね。ほのかの友達かい?」
「違う! この子が――」
女の子が父を見て言う。
「大輔」
父の表情が止まった。名前じゃない。“呼び方”と“間”が、私の知っている母のそれだった。
「ほのか‥この子は?」
「学校から帰ったらリビングにいたの‥自分を千尋‥私のお母さんだって言うの」
「そんな事‥ありえるのか?」
「わからない‥わからないよ!」
父は椅子に座り、半信半疑のまま訊ねる。
「結婚記念日は?」
「十一月十一日。ポッキーの日」
「……理由は?」
「大輔がポッキー好きで、余興の景品にしたいって言い出したから」
父が息を呑む。
女の子は湯呑みを置いた。そのとき、小指がほんの少し立った。――母の癖。
父は湯呑みを持ち、一口すすって顔をしかめる。
「……熱い」
「猫舌のくせに、熱いお茶をふうふうして飲むのが好きだろう?」
しばらく沈黙の後‥父が言葉を絞り出した
「なぁ‥最後の言葉‥覚えてるか?」
いつになく真剣な表情で父は言った。
「‥‥ほのかを頼む」
疑いが音もなく崩れていくのが分かった。父はゆっくりと私を見た。
「……ほのか。この子は、千尋だ」
「そんなの……ありえるの?」
「ありえない。でも、今の言葉を‥知ってる。……俺は、知ってるんだ」
私は小さい母を見た。心が追いつかないのに、生活の細部だけが一致していく。
「……それで」
私はようやく、聞くべきことを聞いた。
「ここに来る前は、どこにいたの」
「異世界だ」
短い返事。でも、逃げじゃない。言い切る強さが、母のものだった。
「私は向こうでは、エマとして生きていた。向こうにも家族がいる。学びかけのこともある」
「……じゃあ、また向こうへ帰るの?」
「ああ。戻らないといけない」
理由が短く刺さる。“ここにいられない事情”が、これだけで分かる。
胸の奥が冷えた。せっかく会えたのに、また離れる。
「……また、来てくれる?」
「ここは私の家だ。来るに決まってる」
その言い方が、あまりに母で。私は笑いそうになって、泣きそうになって、どっちもできずに俯いた。
千尋は玄関へ向かい、靴を揃えた。そして、扉の前でぴたりと止まる。
「……?」
私と父が顔を見合わせる。
「どうしたの?」
「困った」
千尋が振り返った。その顔だけが、見た目通りの“十一歳”みたいに気まずそうで。
「帰り方が分からない」
私と父の声が重なった。
「……えええええ!?」




