匂いでつながる記憶
……聞こえる。
沈みかけた意識の底で、やさしい歌が確かに響いていた。
あたたかい声。どこか懐かしい。
だれ……?
最初は風にまぎれるほど小さく。
けれど少しずつ近づいてきて、言葉じゃなくても意味だけが胸に落ちてくる。
あたたかくて、やさしくて、どこか懐かしい――。
歌はますますはっきりした。
数をかぞえるみたいに、眠りまでの段差を一段ずつならしてくれる。
……あ、そうだ。これは――子守歌だ。
私は目を開けた。
視界はぼやけている。それでも、歌っているのが女性だと分かった。
隣からは別の声。女性と何か話しているけれど、内容は拾えない。
誰かが窓を少し開けた。外の風がカーテンをふくらませ、部屋の空気がやわらかく入れ替わる。
風に乗って、見知らぬ香りがふっと転がり込んできた。砂糖ほど重くなく、焼き菓子とも違う、やわらかい甘さ。
知らないはずなのに、胸の奥がぽっと温かくなる。
遠いところから名前だけが先にやってきて、舌の先でほどけた。
……これは、知っている匂いだ。――金木犀?
甘い匂いとともに眠気が押し寄せ、意識がまた薄れていく。
女性の手が髪を撫でる感触。
「……おやすみ、ちひろ」
薄れゆく世界の端で、確かにそう聞こえた。
――――
目を覚ますと、私はとても高い場所にいた。
見下ろした先で、子どもたちが歓声とも悲鳴ともつかない声を上げてこちらを見ている。
「すぐに降りなさい! 危ないでしょう!」
二十代前半くらいの女性が叫ぶ。降りたいのに、体が言うことをきかない。
気づけば、勝手に手が動いて、見上げる人たちに向かってピースサインをしていた。
その瞬間、また懐かしい匂いが風に混じった。
薄紫の影みたいな香りが鼻先をくすぐる。草の青さと、蜂蜜の手前で止まるやさしい甘さ。
きゅっと澄んでいて、胸の中の固まった糸がするするとほどけていく。薬草棚の乾いた匂いに少し似ている――でも違う。もっと静かで、眠る前の祈りみたいに長く残る。
知らないはずなのに、懐かしい。
私は小さく息を吸い込み、ぽつりとつぶやく。
……これは、ラベンダー?
視界がまた遠のく。
「ちひろちゃん!」
知らない名前が呼ばれる。掴もうとした意識は黒に沈んだ。
――――
次に目を開けると、知らない場所に立っていた。
左手は、見知らぬ女性に強く握られている。女性は泣いていた。周りの人たちも皆、泣いている。
正面には大きな絵――いや、写真。
やさしい笑顔の男性が写っていた。
頭の奥で別の声がささやく。
〈私がしっかりしないと……お父さんの代わりに〉
泣いている女性を見ながら、その言葉がはっきりと響いた。
風が吹き、また別の匂いがする。
焦げた紙の手前で止まる香り。森の影みたいな落ち着きと、祈りの余韻。
……焼香の匂い? 意識がふたたび遠のく。
私はいったい、何を見てるのだろう――。
――――
次に目覚めた場所は、教室。
さっきまでの声だけを薄く残して、誰もいない空間が静かに冷えていた。
西日が斜めに差し、黒板の白い粉が空気のなかで金色にゆれる。
「あの、京都に行くんだって?」
あどけなさの残る顔の青年が言う。
「母の調子が悪いんだ。私は祖母の家に行くことになった」
「そっか……」
青年は黒板へ歩く。私の体は勝手にその後を追った。
「あのさ……」
彼は振り向き、うつむいたまま顔を真っ赤にして言う。
「千尋のことが好きだ。付き合ってほしい」
「ん? すまん。下校のチャイムで聞き取れなかった」
「な、なんでだよ!」
「だから謝ってるじゃないか。もう一度言ってほしい」
「……好きだって言ったんだ」
「ん?」
「もう一回言うのかよ!」――さらに真っ赤になって叫ぶ彼。
少し考えて、
「初めて言われたな」
「まぁ、初めて言ったからな」
沈黙。
「答えは?」
「分かった」
「マジか……」彼は目を丸くする。
「なぜ?」
「いや、断られると思ってたから」
「断る理由がないからな」
彼は照れながら窓を少し開けた。夕方の風がカーテンをふくらませる。
遠くで部活の声が小さく響く。
「いつから?」
青年は耳まで赤くして視線をそらした。
「……なんだよ」
「いつから私のことが好きだったんだ?」
一拍おいて、彼は小さく息を吸う。
「……はじめから」
「幼稚園からか?」
「そうだよ!」――思わず声が上ずる。
私は目を細めて笑う。
「気づかなかったな」
彼は肩をすくめ、照れ隠しみたいに口元だけで笑った。
「まあ、そうだろうな」
風が、熱の逃げ道を見つけたみたいにするりと入ってくる。
白くて少しだけ塩素の残る匂い。濡れたタイル、ビート板、ゴムキャップ――
プールの午後が、風の襟もとで重なる。
喉の奥が少し渇き、冷たい給水機の銀色を思い出した。
――これは、学校プールの匂い。
さまざまな記憶が、風の匂いと一緒に私の体へ流れ込んでくる。
――これは、だれの記憶?
――――
私は赤ん坊を抱いていた。
腕におさまる重さは、思っていたよりちゃんと重い。
小さな背中が波みたいにふくらんで、しずむ。呼吸のたびに、世界がここで始まっている気がする。
私は歌っていた。
別れと春のあいだに架かる、あの“卒業の歌”。
黒板の粉が拍を刻み、窓の外では薄桃の影がリズムに合わせて揺れる。
言葉より先に、旋律だけが部屋を満たし、胸の奥の固いところをやわらかくしていく。
“またね”と“はじめまして”が隣り合う、その季節の匂いを運ぶ歌。
窓から入る風が、それに寄り添う。
ひらり。桃色の花びらが掌に落ちた。
見上げれば、見えない雨みたいに花びらが舞う。香りはほとんど無色なのに、朝いちばんの水みたいな清しさと、生まれたての葉の青さがほのかに鼻先でほどける。
近づくほど消えてしまいそうだから、そっと息を合わせて吸い込む。
――これは、桜の匂い。ほのかに香る桜が、季節の到来を静かに告げていた。
赤ん坊は目を閉じ、眠りについた。
私はその小さな命を見つめ、やさしく囁く。
「おやすみ……ほのか」
この子は、知っている。この子は――。
――――
「お母さんさぁ」
近くで、少女の声。
「ほんとに、やりたいこと書くのはいいけどさ。早く死んだら全部叶えられないから、ここに――」
少女はペンを取り上げ、ノートに大きく書く。
(ほのかより長生きする)
「私より長生きしてよね。見届けられないから」
「ほのかは恥ずかしがっていたじゃないか」
「恥ずかしいよ。やめてほしいけど……何を言っても止めないでしょ、お母さんは」
私は笑って、
「確かにな」
「だから見届けることにした。娘の私が応援しないと。お母さん一人だからね」
「大輔がいるじゃないか」
「あー、ダメダメ。頼りにならない」
二人で笑う。
「だからさ……せめて私より長生きしてよね」
「分かった。約束だ」
私は少女の字の横に「絶対」と書き足し、ノートを閉じた。
――キーッ。
鋭い機械音と衝撃が、世界を横切った。
悲鳴。叫び声。「大丈夫ですか!」と人々が駆け寄ってくる。けれど皆、私の姿を見ると顔を手で覆う。
何が起きたのか分からない。体は動かない。
視線だけ落とせば、からだの輪郭は、もうさっきまでの私ではなかった。
鼻の奥に、鉄とゴムの焼けた匂い。
口の中に、金属の味。鼓動は乱暴にドン、ドンと叩き、耳の中で凄まじい音で鳴り響く。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
視界が赤に染まり、意識が遠のく。
――だめだ。
胸の奥から、声がせり上がる。
〈まだだ。まだ終われない〉
「……生きたい」
唇が勝手にかすれる。
「生きたい、生きたい、生きたい……!」
痛みを掴んで意識をつなぎ止める。
舌を噛む。熱い血が口に広がる。それでも目を開ける。
あの子の弁当を作る約束、やりたいことリストの空欄、
「私より長生きしてよね」と書き足した太い文字。
「私見届けたいからお母さんの事」――ほのかの声が、走馬灯みたいに流れていく。
違う。違うよ、ほのか。見届けたいのは私。
あの子の成長を。まだ――
赤が視界を満たしていく。
それでも私は、胸の底で繰り返す。
――生きたい。生きる。約束したから。
祈りは呻きに変わり、世界がゆっくり遠のく。
最後に残った匂いは……湿った鉄――血の匂いだった。
これは……この記憶は。
私はエマ? 違う。私は――千尋だ。
気がつくと、私はリビングに立っていた。
知らないはずなのに、手触りまで覚えている場所――。
壁の時計が一拍遅れて時を刻み、冷蔵庫の低い唸りが部屋の底を流れている。
テーブルの隅には丸い水跡、ソファには畳んだままの薄い毛布。
カーテンの裾が、風に合わせてゆっくり呼吸していた。
カチャリ、と玄関の鍵。
引き戸のレールが鳴り、外の光と靴のゴムの匂いがすべり込む。
「ただいま」と言う前の、息を吸う気配まで分かった。
ドアがひらく。
少女が立っていた。真新しい制服の生地がさらりと音を立て、
髪は私の知っている頃より長く、背も少し高くなっている。
日だまりの粉のような匂いが、廊下からふわりと流れてきた。
胸の奥で、何かがほどける。
考えるより先に、喉が動いた。
体に染みこんだ癖――何度も何度も言った、あの言葉が口をついて出る。
「おかえり」
声は、思ったよりも静かで、あたたかかった。
何度も。何百回も。
目の前の少女に向かって言い続けてきた、私の一番好きな言葉だった。
次回:第8話「ただいま」/更新:金曜20:30
金木犀/ラベンダー/焼香/桜――好きな“匂い描写”はどれでした?
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