20日 運命の再会と白い魔力
日記の文字が、震えるような筆跡に変わっていく。
それは、晩年の祖父が最後の力を振り絞って記した、魂の記録だった。
『運命』という言葉が、この日本にはある。
ワシの知るルナフィールには無かった概念だ。
人は運命で繋がり、運命に導かれる。
もしそうならば……ワシが生き延びた理由も、一つの運命だったのかもしれない。
ワシが目覚めたのは、昭和21年。
敗戦の傷跡がまだ生々しく残る、焼け野原の日本だった。
記憶がない。
自分が誰かも、言葉すらも分からない。
ボロボロの奇妙な服を纏い、空腹で泥水をすすって生きていたワシは、不審者として捕らえられた。
言葉が通じないワシに、周囲は冷たかった。「敵国のスパイか」「狂人か」と石を投げられた。
そんなワシを、人間として扱ってくれた唯一の男がいた。
元憲兵の男――新道勝道だった。
「腹が減ってるんだろう。食え」
彼が差し出したのは、煤けた手で握られた、たった一つの塩むすびだった。
その温かさを、ワシは一生忘れないだろう。
彼は厳格だが情に厚く、身元不明のワシを「戦争で記憶を失った復員兵だろう」と庇い、新道家に迎え入れてくれた。
そこで出会ったのが、勝道の妹――後のワシの妻だ。
彼女は、汚れたワシの体を拭き、笑顔で着物を縫ってくれた。
焼け跡に咲く野花のような、慎ましくも強い女性だった。
ある夜、縁側で二人並んで月を見た。
記憶のないワシには過去がない。
けれど、彼女の手の温もりを感じた時、空っぽだった胸の中に「生きたい」という灯火が灯った。
言葉は拙くとも、心は通じた。
ワシたちは瓦礫の中で愛を育み、家族になった。
時は流れ――ワシはすっかり年老いた。
過去の記憶は一向に戻らなかったが、愛する妻と、息子、そして孫に囲まれた生活は、十分に幸せだった。
自分が何者かなんて、もうどうでもいいと思っていた。
あの日までは。
季節は初夏。
高校生になった孫、ヒカルの弓道の試合を見に行った時のことだ。
場所は、京都市武道センター。
平安神宮のすぐそばにある、静謐な空気が漂う武道場だ。
カアン、という乾いた弦音が響く道場内。
張り詰めた空気の中、ワシの視線は一人の少女に釘付けになった。
(……なんだ、あの子は)
ヒカルと同じチームではない。女子の部の選手だ。
長い黒髪を後ろで束ね、袴姿で凛と立つ少女。
その佇まいは、周囲の高校生とは一線を画していた。
静寂。美しさ。
そして何より、その瞳。
的を見据えるその瞳に、吸い込まれそうな感覚を覚えた。
ゾクリ。
背筋が凍る。
この感覚……知っている。
遥か昔、どこかで感じた、魂を揺さぶるような戦慄。
ワシは居ても立っても居られず、試合を終えて控え場所に戻るその少女に駆け寄った。
「あの……すまん、お嬢ちゃん」
少女が振り返る。
近くで見ると、その瞳の深さに息を呑んだ。
全てを見透かすような、それでいて深い悲しみを湛えたような瞳。
懐かしい……あまりにも懐かしい光。
ワシは震える右手を差し出した。
「握手を……してくれんか」
不審者だ。
見知らぬジジイにいきなり握手を求められれば、普通なら逃げるか、気味悪がるだろう。
だが、彼女は違った。
不思議そうな顔を少しだけ見せた後、何かを感じ取ったのか、慣れた手つきでワシの右手に自分の『左手』を重ねた。
その瞬間。
バチッ!!
脳内で火花が弾けた。
雪崩のように溢れ出す記憶。
ルナフィールの美しい空。
弟のアルク。
花の絵。
ジュリアンの狂気。
両親の肉塊。
そして――ワシを逃がすために刺された、弟の最期の笑顔。
(あ……あぁ……ッ!)
ワシは固まったまま、立ち尽くしていた。
少女は静かに手を離し、軽く会釈をして去っていった。
その胸元のゼッケンには、こう書かれていた。
『松本 千尋』
去りゆく彼女の背中を見て、ワシは確信した。
彼女の体から、微量だが揺らめくように立ち上る『白い蒸気』のようなものが見えたからだ。
それは、他の人間には見えない。
ワシにしか見えない光。
――魔力だ。
ワシにも、魔力があったのだ。
あの時、地球へ飛ばされた時に、アルクがワシに分け与えてくれた力が。
それが今、共鳴している。
「そこにいたのか……アルク」
ワシは震える声で呟いた。
ポタリ。
頬を伝って地面に落ちた雫は、汗なのか、涙なのか……それとも血の涙なのか、自分でも分からなかった。
雫が落ちた場所。
そして、彼女が歩いた足跡。
そこから、ふわりと幻の花が咲き乱れた。
薄紫色の、釣鐘のような形をした愛らしい花。
風もないのに、チリンと悲しげに揺れている。
「……風鈴草」
ワシの脳裏に、その花言葉が鮮烈に浮かび上がった。
『感謝』。
そして――『守れなかった命』。
その花が咲いたという意味。
それは、弟アルクがもうこの世にはおらず、彼女がその生まれ変わりであることを残酷なまでに告げていた。




