18日 塗り潰されたキャンバス
私たちの目の前に、一人の青年が立っていた。
白衣を纏い、片眼鏡をかけた知的な青年。
彼が、若き日の新道ヒカルのおじいさん――レイなのだろうか。
彼は遠くを見つめ、寂しげに呟いた。
『ワシには、歳の離れた弟がいた……。
名前を、アルクと言う。
視界を覆っていた白い光が、徐々に形を成していく。
アルクのネックレスと、祖父の日記が共鳴し、私とヒカルに見せているのは――若き日の祖父、レイの記憶そのものだった。
ワシは、神童だった。
田舎町の中では、だが。勉強も、運動も、何でも一番だった。
両親の自慢の息子。それがワシ、レイだった。
あの日までは。
弟、アルクが産まれた日。
ワシは10歳だった。
揺りかごの中を覗き込み、その赤ん坊と目が合った瞬間、背筋が凍りつくのを感じた。
(……なんだ、こいつは)
まだ言葉も話せない、ふにゃふにゃの赤ん坊だ。
手足は折れそうなほど細く、吹けば飛ぶような小さな命。
なのに。
その瞳の奥には、ワシには一生かかっても届かないような“深淵”があった。
本能が告げていた。
『こいつは特別だ』と。
そして、『お前はただの凡人だ』と。
初めて芽生えた感情は、愛情ではなく、ドス黒い嫉妬と恐怖だった。
それでも、アルクは良い奴だった。
成長するにつれ、その才能は隠しきれないものになったが、彼はいつもワシの後ろをついて回った。
「兄さんは凄いよ! 僕、将来は兄さんみたいになりたい!」
屈託のない笑顔。
それがワシの劣等感をさらに抉った。
唯一、ワシがアルクより優れていたのは『絵』だった。
植物や花を描くのが好きだった。
貧乏な我が家には高価な絵の具なんてない。燃え残りの炭で、紙切れに描くだけの白黒の絵。
それでも、アルクの誕生日には毎年、花の絵を描いてプレゼントした。
「わぁ! ありがとう兄さん! 宝物にするね!」
何の変哲もない、色もない絵。
それでも弟は、目を輝かせて喜んでくれた。
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16歳で、ワシは家を出た。
アルクという眩しすぎる光のそばにいるのが、耐えられなかったからだ。
けれど、外の世界は冷たかった。
「俺には才能がある」。そう信じて飛び込んだ街で、ワシは何度も挫折した。
職人の弟子になれば「不器用だ」と罵られ、商人の手伝いをすれば計算を間違えてクビになった。
何をやっても中途半端。
長続きしない。
すぐに「環境が悪い」「運が悪い」と他人のせいにして、職場を転々とした。
気がつけば、隣国ユノリアの吹き溜まりに流れ着いていた。
……結局、ワシは"特別"ではなくただのクズだった。
薄汚れた安宿の天井を見上げる。
特別だと思っていた自分は、ただのプライドが高いだけのクズだった。
酒を飲んで、博打に負けて、泥酔して眠る。
そんな掃き溜めのような生活。
そんなある日。
ワシを訪ねて、アルクがやって来た。
「兄さん!」
11歳になったアルクは、見違えるほど立派な服を着ていた。
その身に宿した強大な魔力を見出され、ユノリア王国の貴族見習いとして招かれたのだという。
惨めだった。
光り輝く弟と、薄汚れたクズの兄。
会いたくなかった。
「帰ってくれ! 俺は忙しいんだ!」
けれど、アルクは諦めなかった。
何日も何日もワシを尋ねてきた。
ある日、彼は扉越しに叫んだ。
ワシが昔あげた、あの『花の絵』を、ユノリアの第2王子ジュリアン様が見て、ひどく気に入ったのだと。
宮廷画家として、ワシを迎え入れたいと言っているのだと。
「兄さん、また一緒に暮らそうよ。父さんと母さんも呼んでさ!」
ワシは泣いた。
こんなクズを見捨てず、家族の絆を取り戻そうとしてくれる弟の優しさに。
そして、自分の絵が――唯一の取り柄が、認められたという事実に。
ワシはアルクの手を取った。
ここからやり直すんだ。
もう嫉妬なんてしない。最高の兄貴になって、家族を守るんだ。
†==================†
案内されたのは、ユノリア城の奥深く。
父と母は先に到着しているはずだった。
「こっちだよ、兄さん」
アルクが嬉しそうに扉を開ける。
部屋の中には、甘ったるい鉄の臭いが充満していた。
「――――」
ワシの足が止まる。
思考が白く飛び、呼吸が止まった。
目の前に広がる光景。
床一面に広がる、赤黒い血の海。
そこに、見覚えのある二つの影が沈んでいた。
父さんと、母さんだったモノ。
動かない。
ピクリとも動かない。
ただ、虚ろな瞳で天井を見上げている。
その血溜まりの中に、一人の少年が立っていた。
金色の髪。美しい顔立ち。
返り血一つ浴びていないその男――ジュリアン王子は、入ってきたワシたちを見て、残念そうに、けれどどこか楽しげに笑った。
『遅かったね』
鈴を転がすような、無邪気な声。
隣で、アルクが膝から崩れ落ちる気配がした。
アルクの口が、パクパクと動く。
怒りと、信じられないという戸惑いの感情で、声が震えている。
『どうして……あなたが、父さんと母さんを……』
アルクの悲痛な問いかけに、ジュリアンは小首をかしげた。
『彼らは君を……目覚めさせる為に必要な餌だよ』
「エサ……? 何を……ジュリアン……何を言ってるんだよ」
パチン。
ジュリアンは乾いた音で指を鳴らした。
ズズズ……。
ワシたちの周りの床から、黒い影が広がった。
影は盛り上がり、人の形――人形を作り出す。
「そ……んな……」
アルクがその人形を見て、息を呑んだ。
「クリケット……様……?」
影が身につけている装飾や、破れた服の仕立てから、それが貴族であることは分かった。
だが、その体は傷だらけで、もはや人間ではなかった。
行方不明になっていたユノリアの貴族。
ジュリアンは、両親だけじゃなく、他の人間も……?
「ジュリアン……ッ!」
アルクは悔しそうに唇を噛み締め、ジュリアンを睨む。
パチン。
ジュリアンが更に指を鳴らす。
今度は、あの『肉の塊』から、どろりとした影が産まれた。
二つの影。
それがなんなのか……ワシは分かってしまった。
母と、父だ。
「オヤジ……オフクロ……何で……何でこんな事をする!」
俺は叫んだ。
答えを求めて叫んだ。
ジュリアンは、壁に掛けられたワシの絵――炭で描かれた白い花の絵を指差した。
『色が無かったね……』
「え? 色だと……」
『君の絵さ……。とても綺麗な花の絵だったよ……でも、未完成だね』
ジュリアンは、父と母の遺体から流れる朱い血を指ですくい取った。
そして、ワシの描いた大切な絵に、べたりと塗りつけた。
『これで完全だ……。綺麗な、真っ赤な花……何の花かな?』
白かった花が、鮮血で汚される。
ワシの思い出が、愛情が、両親の血で上書きされていく。
「狂ってやがる……」
恐怖よりも先に、怒りが沸点を超えた。
ワシは近くの壁に飾ってあった装飾用の剣をむしり取り、切っ先をジュリアンに向けた。
弟は動かない……いや、動けない。
悔しそうにジュリアンを見据えたまま、震えている。
ジュリアンは、剣を向けられても眉一つ動かさず、今度はワシを指差して静かに言った。
『君の弟も未完成さ……。でも、今日で完成する』
そして、ニッコリと笑う。
『君の死でね』
ドォォォォン!!
それを聞いた瞬間。
アルクから、凄まじい暴風が吹き荒れた。
魔力のないワシでも分かる。
どす黒い、圧縮された魔力の塊が、アルクの体から溢れ出していた。
城の窓ガラスが全て割れ、天井に亀裂が走る。
「信用していた……友達だと思っていたのに……!」
アルクの絶叫が響く。
壁の絵が、ガタンと落ちた。
血で赤く染まった、あの絵が。
(ああ……そうか)
ワシは理解してしまった。
この悪魔が気に入ったのは、ワシの絵じゃない。
そこから想像できる、この地獄絵図(赤色)だったのだ。
ワシのせいで。
ワシが絵なんて描いたせいで。
ワシが……才能があるなんて自惚れたせいで!
視界が黒く染まるほどの魔力の奔流の中で、ワシの世界は音を立てて崩れ去っていった。




