15日 絶望の淵と一輪の花
知っている天井だ。
四隅にあるクロスの剥がれも、蛍光灯のカバーに溜まった小さな黒い影も。
視線を下ろせば、脱ぎ散らかしたままの制服。
カピカピに乾いたご飯粒がついた食器。
飲みかけで、少し茶色く変色したペットボトルの緑茶。
「……ここは……私の家……」
排気ガスの匂い。遠くで聞こえる車の走行音。
すべてが、私のよく知る日常。
夢だったの?
全部、悪い夢だったの?
ズキン。
こめかみに、杭を打たれたような激痛が走った。
「う、ぐ……っ」
頭痛。
痛い。割れるように痛い。
痛みが、無理やり蓋をしていた記憶の箱をこじ開けていく。
『大丈夫だよ』
脳内で再生される、甘くてとろけるような声。
ジュリアン。
あの大好きな、王子様。
違う。
あいつは――。
フラッシュバックが、津波のように私を飲み込む。
――私の名前を呼ぶ、フランの必死な顔。
――足元から這い出る、おぞましい黒い影。
――泣き叫び、地面に頭を擦り付けるフラン。
――瞳から色が消え、人形のように崩れ落ちる瞬間。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が早鐘を打つ。息ができない。
馬車を降りた時の光景。
そこに立っていた少女。
私よりも小さな体で、私を庇ってくれた。
『おかえり』
あの子はそう言った。
あれは……お母さんだった。
エマの身体に入った、お母さん。
ジュリアンの手が伸びる。
時間が引き伸ばされる。
お母さんは動けなかったんじゃない。逃げなかったんだ。
私を逃がすために、自ら……。
『あとは……頼んだ』
最後に私に向けた、いつもの笑顔。
困ったような、でも慈愛に満ちた、お母さんの顔。
「う、ぷ……ッ!」
強烈な吐き気が込み上げた。
私は口を押さえ、転がるように洗面所へ駆け込んだ。
「オエェェッ……! ゲホッ、ハァ、ハァ……ッ」
胃の中は空っぽなのに、胃液だけが逆流してくる。
喉が焼けるように熱い。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。
鏡に映った自分の顔。
酷い顔だ。
でも、一番酷いのは――。
(私が……笑ってた……)
記憶の中の私は、ジュリアンの隣で幸せそうに笑っていた。
フランが泣き叫んでいるのに。
コールさんが心を壊されているのに。
私は「ジュリアン様は優しい」なんて思って、フランたちが捕まるのをただ見ていた。
私のせいだ。
私が馬鹿だから。
私が誘拐されたから。
私が洗脳されて、手紙なんて書いたから。
私が……私が人質になったせいで!
「あああああっ!!」
私は洗面台に頭を打ち付けた。
「全部……ぜんぶ……ぜ、ん、ぶ。私のせいじゃないか!」
フランが倒れたのも。
コールさんが心を失ったのも。
お母さんが……お母さんが、あの化け物に吸収されたのも!
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
叫んだ。
喉が裂けるほど叫んだ。
悔しい。情けない。憎い。
何よりも、自分が許せない。
あんな男にときめいて、家族を売った自分が、死ぬほど気持ち悪い。
ハァ、ハァ、ハァ……。
過呼吸で指先が痺れる。
静寂。
蛇口からポタ、ポタと落ちる水滴の音だけが、ここが安全な地球だと告げている。
その安全さが、今はとてつもなく残酷に感じられた。
ふと、ポケットに硬い感触があった。
震える手で取り出す。
銀色のネックレス。
アルクのネックレスだ。
お母さんが、私を飛ばす直前に押し込んでくれたもの。
そして、くしゃくしゃになった一枚のメモ用紙。
あわてて書きなぐったような、母の字。
『行き先は花が教えてくれる。
作戦はアルクが知ってる。
敵の魔法は“魅了”。
心に隙間がある人間がつけ込まれる。
自分をしっかり持て。
自信を持て。
まずは自分を愛すること。それが魅了の突破口だ』
そして、最後に大きく書かれていた。
『自分の仇は、自分で討て』
私は乾いた笑い声を漏らした。
「はは……自分を、愛せ……?」
無理だよ。
こんな、友達を見捨てて、母親を犠牲にして生き残った自分を?
こんな最低な自分を、どうやって好きになればいいの?
涙がメモ用紙に落ちて、文字を滲ませる。
花? 作戦?
何を言っているのか全然分からない。
今の私には、何も残っていないのに。
ふと、視界の端に鮮やかな色が映った。
洗面所の鏡の横。
小さな一輪挿し。
「……え?」
花が生けてあった。
お母さんが亡くなってから、ずっと空っぽだったはずの花瓶。
そこに、見たこともない花がある。
赤い実が密集して球体を作っているような、独特な形状。
艶やかな緑の葉の陰に、赤く熟した実が揺れている。
「……サネカズラ?」
なぜか、花の名前が頭に浮かんだ。
記憶の彼方。
まだ小さかった頃、お母さんと二人で出かけた夏の日の記憶。
――京都府立植物園。
そうだ。あの時、植物園の万葉植物園エリアで、お母さんとよく見ていた花だ
でも⋯誰がこの花を?
父さん? いや、あの人はこんな風流なことはしない。
じゃあ、誰が……。
私はふらつく足でリビングに戻り、引き出しに放り込んであったスマホを取り出した。
異世界では使えないからと、ずっと電源を切っていた私のスマホ。
電源ボタンを長押しする。
画面が明るくなり、リンゴのマークが浮かぶ。
『行き先は花が教えてくれる』
母のメモの言葉が蘇る。
私は震える指で花をスマホで撮影しグーグル検索する。
画面に表示された文字を見て、息を呑んだ。
『サネカズラ(実葛)』
花言葉――「再会」。そして、「好機をつかむ」。
そして、検索結果に出てきた万葉集の一節。
『……後も逢はむと 夢のみに』
(今は逢えなくとも、後で必ず逢いましょう)
サネカズラ。万葉集。
京都……植物園……。
「再会……?」
誰と?
お母さんと?
この花が示す思い出の場所――京都で、誰かが待っているというの?
ピコン。
ピコン、ピコン、ピコン。
突然、スマホが狂ったように震え出した。
溜まっていた通知が一気に雪崩れ込んでくる。
クラスのグループLINE、ニュースアプリ、洋服のバーゲン情報。
平和な日本の、どうでもいい通知の山。
その中に一つだけ。
異質な輝きを放つ通知があった。
XのDM通知。
送信者の名前を見た瞬間、私の背筋に電撃が走った。
『新道ヒカル』
メッセージの内容は、たった一言。
『その後の進展は?』
何気ない確認のメッセージ。
だけど、私は知っている。
私の運命が大きく動く時、いつも決まって現れるのは、この人だった。
サネカズラの花言葉。好機をつかむ。
その好機が今、手の中にあるスマホから響いている気がした。
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