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母は、異世界で天下を取る   作者: 松本 蛇
二章 エマ 「魔術学院と黒い指輪」編

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5日 黒い嫉妬


 ナルシスとの試合を終え、私は控室へ続く薄暗い石造りの通路を歩いていた。

 まだ耳の奥で、歓声が反響している。汗の塩気と、石壁の冷たさが混じった匂いが鼻に残っていた。


(悪くない動きだった)

 これで復興資金の目処が立つ。そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 通路の向こうから、一人の少女が歩いてきた。

 同じ寮のルームメイト、ニエルだ。


 いつもなら目が合えば恥ずかしそうに微笑んでくれる彼女が、今日は俯いたまま、幽霊のように足音もなく近づいてくる。


次回「疑惑の対策委員会」

「ニエル。奇遇ね、次の試合?」


 私が声をかけると、彼女の足がピタリと止まった。

 長い前髪の隙間から、虚ろな瞳が私を覗き込む。


「……エマ」

 その声は、乾いた砂のようにかさついていた。


「すごいね。あのナルシス君を倒しちゃうなんて」

「運が良かっただけだよ。相手が油断してくれたから」

「運……? 違うよ、エマは『特別』なんだ」


 ニエルが一歩、私に近づく。

 彼女から漂う空気が、ひやりと冷たいものに変わった気がした。


「私たち、同じだったよね」

 ニエルが、湿った声で言った。

「魔力が少なくて、家も貧乏で、クラスの隅で震えてる“落ちこぼれ”。……エマがいたから、私は一人じゃないって思えた」


 彼女は一歩近づく。

「なのに……なんでエマだけ。なんで私を置いていくの。……ズルいよ」


「ニエル、それは……」


 彼女が顔を上げた。

 その瞳には涙ではなく、黒い泥のような嫉妬の炎が宿っていた。


 そして、彼女が握りしめた右手が持ち上がる。

 人差し指にはめられた、黒い指輪。

 それがドクン、と脈打つように不吉な光を放った。


(エマ、警戒しろ。あの指輪……ナルシスのものと同質だが、濃度が違う)

 千尋の声が、頭の奥で冷たく響いた。


 ニエルは歪んだ笑みを浮かべ、私に背を向けて闘技場へと歩き出した。


「エマ。私だって……『特別』になれるんだから」


 闘技場の中央。

 私とニエルの間には、さっきまでの試合とは違う空気が沈んでいた。

 観客は次の番狂わせを期待してざわめいているのに、リングの上だけが冷えていく。


『始め!!』


 開始の鐘が鳴る。

 だが、ニエルは魔法を構えようとしなかった。

 ただ、黒い指輪を愛おしそうに撫でている。


「力が……溢れてくる。これなら、私も『特別』なれる」

「ニエル! その指輪は危険だよ! 今すぐ外して!」


 私の声は届かない。

「エマ⋯私ね努力したよ、誰よりも⋯貴方よりも⋯」

ニエルの身体から黒い魔力が溢れだす⋯

「なのに⋯何で?なんで!なんでぇ!お前なんだ!」

ニエルの声はもう少女の声では無い⋯黒く低い声

「何故お前なんだ⋯私でなくおまぇがぁぁぁ」

 ニエルが悲鳴のような叫び声を上げた。


「あ、ああああああああっ!!」


 ボコッ、ボコッ。

 彼女の足元の地面から、異質な音が響く。


 本来、彼女の適性は微弱な風属性のはずだ。

 だが今あふれ出しているのは風ではない。

 粘着質の、黒いヘドロのような液体。


(これは魔法じゃない。魔力暴走……)

 目の前の光景は悪夢そのものだった。

 胸の奥が、嫌な記憶でざらつく。

 ――あの時の私のように。


 黒い泥は鞭のようにしなり、私に向かって襲いかかってくる。


「くっ!」


 私はとっさに横へ跳ぶ。

 泥が石畳を叩いた。

 ジュウ――と嫌な音がして、石が泡立ちながら溶けた。


(……腐食、してる)


 ニエルの姿はもう半分以上が泥に埋もれ、彼女の意思があるのかどうかも怪しい。


「私を⋯認めない⋯世界なんて⋯全部消えろ!」


 泥の中から、ニエルの絶叫が響く。

 彼女の劣等感、嫉妬、孤独。

 それら負の感情が指輪によって増幅され、物理的な質量を持って暴れている。


「どうすれば……攻撃したら、ニエルまで傷つけてしまう!」


 私は逃げ回ることしかできない。

 泥の範囲は広がり続け、観客席からも悲鳴が上がり始めた。

 結界係の教師たちが慌てて障壁を張るが、黒い泥はその結界さえも侵食しようとしている。


(エマ、落ち着け。今の彼女に言葉は届かない。力の供給源を断つしかないが……近づけばお前も飲み込まれるぞ)


 どうする?

 私の今の力で、彼女を傷つけずに無力化するなんて――。


 泥の触手が、四方八方から私を囲む。

 逃げ場がない。


「しまっ――」


 頭上から巨大な泥の波が迫る。

 防げない。


 私が覚悟を決めて目を閉じた、その瞬間だった。


 ――世界から、音が消えた。


 いつまで経っても衝撃が来ない。

 恐る恐る目を開けると、黒い波が空中で止まっていた。


 いや、止まっているんじゃない。極限まで“遅く”なっている。


「間に合った……!」


 私の隣に、フランが滑り込んできた。

 彼は両手を突き出し、脂汗を流しながら泥の波を押し留めている。


「フ、フラン!」

「下がってエマ! こいつ、重い……! ただの暴走じゃない、指輪が彼女の生命力を根こそぎ吸い上げてる!」


 フランの額に青筋が浮かぶ。

 あのフランが、力で押し負けそうになっている。


「僕が時間を遅らせている間に、核を壊せば止まる。でも……」


「でも?」


「彼女ごと吹き飛ばすことになる。泥の中に完全に飲み込まれてて、本体の位置が特定できないんだ!」


 フランが苦渋の表情を浮かべる。

 無差別に攻撃すれば、ニエルは死ぬ。


(どうする? どうすれば……)


 その時、千尋の声が響いた。


(呼び戻せ。彼女はまだ、そこにいる)

 私は頷き、泥の奔流に向かって一歩踏み出した。


「エマ!? 危ないよ!」

「大丈夫。……ニエル!!」


 私は叫んだ。腹の底から。


「聞こえるでしょ! 『特別』になんてならなくていい! ニエルはニエルのままでいいんだよ!」


 泥がピクリと反応する。


 言葉は通じなくても、隣で本を読んでくれた彼女の静かな優しさに、どれだけ救われたか。


「戻ってきて、ニエル! 一緒に本を読んで、また‥笑おうよ!」


 私の声が届いたのか。

 黒い泥の動きが一瞬、止まった。


 そして、泥の中心がぐにゃりと歪み――そこから、涙でぐしゃぐしゃになったニエルの顔が、ほんの少しだけ露出した。


『……エ、マ……』


「――今だ、フラン!!」

「任せて!」


 フランの姿が掻き消える。


 次の瞬間、彼は露出したニエルの額に、人差し指をトン、と軽く当てていた。


 パァン。


 乾いた音が響いた瞬間、あれほど猛威を振るっていた黒い泥が、霧のように一瞬で弾け飛んだ。

 

 フランは倒れたニエルを片手で抱きとめ、私の方を振り返った。

 その瞳は、いつもの飄々とした色を消し、冷徹な光を帯びていた。


 彼は足元に落ちている指輪の欠片を拾い上げ、低く呟く。


「……こんな危険な代物が、なぜ学院に出回っているのかな」


 駆けつけた医療班がニエルを担架に乗せる。

 私は立ち尽くしたまま、親友の青白い顔を見送るしかなかった。


 担架が遠ざかるにつれて、胸の奥に残るのは、言葉にしにくい苦さだけだった。


 指輪は、闇を“食う”。

 そして食った闇で、持ち主を壊す。


(自分を責めるな、エマ。これは人為的な事件だ)

 千尋の声が言った。


 私は拳を握りしめる。

 この学院のどこかに――確実に、誰かの悪意がいる。


次回「疑惑の対策委員会」

読んでくださってありがとうございます。


感想・レビュー・ブクマ、いつも本当に励みになっています。


スピンオフ作品

『ほのかの孤高の異世界グルメ 』も合わせて読んでいただけたら幸いです、

https://ncode.syosetu.com/n3966ln/


XやInstagramも初めました。

小説の挿絵や裏話など呟いてますのでお時間があれば是非!


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