5日 黒い嫉妬
ナルシスとの試合を終え、私は控室へ続く薄暗い石造りの通路を歩いていた。
まだ耳の奥で、歓声が反響している。汗の塩気と、石壁の冷たさが混じった匂いが鼻に残っていた。
(悪くない動きだった)
これで復興資金の目処が立つ。そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなる。
通路の向こうから、一人の少女が歩いてきた。
同じ寮のルームメイト、ニエルだ。
いつもなら目が合えば恥ずかしそうに微笑んでくれる彼女が、今日は俯いたまま、幽霊のように足音もなく近づいてくる。
次回「疑惑の対策委員会」
「ニエル。奇遇ね、次の試合?」
私が声をかけると、彼女の足がピタリと止まった。
長い前髪の隙間から、虚ろな瞳が私を覗き込む。
「……エマ」
その声は、乾いた砂のようにかさついていた。
「すごいね。あのナルシス君を倒しちゃうなんて」
「運が良かっただけだよ。相手が油断してくれたから」
「運……? 違うよ、エマは『特別』なんだ」
ニエルが一歩、私に近づく。
彼女から漂う空気が、ひやりと冷たいものに変わった気がした。
「私たち、同じだったよね」
ニエルが、湿った声で言った。
「魔力が少なくて、家も貧乏で、クラスの隅で震えてる“落ちこぼれ”。……エマがいたから、私は一人じゃないって思えた」
彼女は一歩近づく。
「なのに……なんでエマだけ。なんで私を置いていくの。……ズルいよ」
「ニエル、それは……」
彼女が顔を上げた。
その瞳には涙ではなく、黒い泥のような嫉妬の炎が宿っていた。
そして、彼女が握りしめた右手が持ち上がる。
人差し指にはめられた、黒い指輪。
それがドクン、と脈打つように不吉な光を放った。
(エマ、警戒しろ。あの指輪……ナルシスのものと同質だが、濃度が違う)
千尋の声が、頭の奥で冷たく響いた。
ニエルは歪んだ笑みを浮かべ、私に背を向けて闘技場へと歩き出した。
「エマ。私だって……『特別』になれるんだから」
闘技場の中央。
私とニエルの間には、さっきまでの試合とは違う空気が沈んでいた。
観客は次の番狂わせを期待してざわめいているのに、リングの上だけが冷えていく。
『始め!!』
開始の鐘が鳴る。
だが、ニエルは魔法を構えようとしなかった。
ただ、黒い指輪を愛おしそうに撫でている。
「力が……溢れてくる。これなら、私も『特別』なれる」
「ニエル! その指輪は危険だよ! 今すぐ外して!」
私の声は届かない。
「エマ⋯私ね努力したよ、誰よりも⋯貴方よりも⋯」
ニエルの身体から黒い魔力が溢れだす⋯
「なのに⋯何で?なんで!なんでぇ!お前なんだ!」
ニエルの声はもう少女の声では無い⋯黒く低い声
「何故お前なんだ⋯私でなくおまぇがぁぁぁ」
ニエルが悲鳴のような叫び声を上げた。
「あ、ああああああああっ!!」
ボコッ、ボコッ。
彼女の足元の地面から、異質な音が響く。
本来、彼女の適性は微弱な風属性のはずだ。
だが今あふれ出しているのは風ではない。
粘着質の、黒いヘドロのような液体。
(これは魔法じゃない。魔力暴走……)
目の前の光景は悪夢そのものだった。
胸の奥が、嫌な記憶でざらつく。
――あの時の私のように。
黒い泥は鞭のようにしなり、私に向かって襲いかかってくる。
「くっ!」
私はとっさに横へ跳ぶ。
泥が石畳を叩いた。
ジュウ――と嫌な音がして、石が泡立ちながら溶けた。
(……腐食、してる)
ニエルの姿はもう半分以上が泥に埋もれ、彼女の意思があるのかどうかも怪しい。
「私を⋯認めない⋯世界なんて⋯全部消えろ!」
泥の中から、ニエルの絶叫が響く。
彼女の劣等感、嫉妬、孤独。
それら負の感情が指輪によって増幅され、物理的な質量を持って暴れている。
「どうすれば……攻撃したら、ニエルまで傷つけてしまう!」
私は逃げ回ることしかできない。
泥の範囲は広がり続け、観客席からも悲鳴が上がり始めた。
結界係の教師たちが慌てて障壁を張るが、黒い泥はその結界さえも侵食しようとしている。
(エマ、落ち着け。今の彼女に言葉は届かない。力の供給源を断つしかないが……近づけばお前も飲み込まれるぞ)
どうする?
私の今の力で、彼女を傷つけずに無力化するなんて――。
泥の触手が、四方八方から私を囲む。
逃げ場がない。
「しまっ――」
頭上から巨大な泥の波が迫る。
防げない。
私が覚悟を決めて目を閉じた、その瞬間だった。
――世界から、音が消えた。
いつまで経っても衝撃が来ない。
恐る恐る目を開けると、黒い波が空中で止まっていた。
いや、止まっているんじゃない。極限まで“遅く”なっている。
「間に合った……!」
私の隣に、フランが滑り込んできた。
彼は両手を突き出し、脂汗を流しながら泥の波を押し留めている。
「フ、フラン!」
「下がってエマ! こいつ、重い……! ただの暴走じゃない、指輪が彼女の生命力を根こそぎ吸い上げてる!」
フランの額に青筋が浮かぶ。
あのフランが、力で押し負けそうになっている。
「僕が時間を遅らせている間に、核を壊せば止まる。でも……」
「でも?」
「彼女ごと吹き飛ばすことになる。泥の中に完全に飲み込まれてて、本体の位置が特定できないんだ!」
フランが苦渋の表情を浮かべる。
無差別に攻撃すれば、ニエルは死ぬ。
(どうする? どうすれば……)
その時、千尋の声が響いた。
(呼び戻せ。彼女はまだ、そこにいる)
私は頷き、泥の奔流に向かって一歩踏み出した。
「エマ!? 危ないよ!」
「大丈夫。……ニエル!!」
私は叫んだ。腹の底から。
「聞こえるでしょ! 『特別』になんてならなくていい! ニエルはニエルのままでいいんだよ!」
泥がピクリと反応する。
言葉は通じなくても、隣で本を読んでくれた彼女の静かな優しさに、どれだけ救われたか。
「戻ってきて、ニエル! 一緒に本を読んで、また‥笑おうよ!」
私の声が届いたのか。
黒い泥の動きが一瞬、止まった。
そして、泥の中心がぐにゃりと歪み――そこから、涙でぐしゃぐしゃになったニエルの顔が、ほんの少しだけ露出した。
『……エ、マ……』
「――今だ、フラン!!」
「任せて!」
フランの姿が掻き消える。
次の瞬間、彼は露出したニエルの額に、人差し指をトン、と軽く当てていた。
パァン。
乾いた音が響いた瞬間、あれほど猛威を振るっていた黒い泥が、霧のように一瞬で弾け飛んだ。
フランは倒れたニエルを片手で抱きとめ、私の方を振り返った。
その瞳は、いつもの飄々とした色を消し、冷徹な光を帯びていた。
彼は足元に落ちている指輪の欠片を拾い上げ、低く呟く。
「……こんな危険な代物が、なぜ学院に出回っているのかな」
駆けつけた医療班がニエルを担架に乗せる。
私は立ち尽くしたまま、親友の青白い顔を見送るしかなかった。
担架が遠ざかるにつれて、胸の奥に残るのは、言葉にしにくい苦さだけだった。
指輪は、闇を“食う”。
そして食った闇で、持ち主を壊す。
(自分を責めるな、エマ。これは人為的な事件だ)
千尋の声が言った。
私は拳を握りしめる。
この学院のどこかに――確実に、誰かの悪意がいる。
次回「疑惑の対策委員会」
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スピンオフ作品
『ほのかの孤高の異世界グルメ 』も合わせて読んでいただけたら幸いです、
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