Epilogue「夏への扉」
拝啓 お母さん様
蝉の声が、日増しに強くなってきました。
あの日、雷鳴と共に二人が帰ってきてから、もう二週間が経ちます。
あれほど心配していたのが嘘みたいに、我が家にはまた、騒がしくて温かい日常が戻ってきました。
ただ一つ、予想外だったことと言えば……。
「……なんで、当たり前みたいにフランがいるの?」
帰還したその日から、フランは当然のように我が家に居候しています。
どうやら、こちらの世界のご飯(特にハンバーグ)と、平和な空気が気に入ってしまったみたいで。
父も「息子ができたみたいだ」なんて喜んで、高いゲーム機を買い与えて一緒に遊んでいます。
……順応力が高いのは、松本家の才能かもしれません。
そうそう。
先日、お母さん(小さい方)が急にこんなことを言い出しました。
「ミシガンに乗るぞ!」
滋賀県民なら誰もが知っている、琵琶湖の遊覧船ミシガン。
「なんで急に?」と聞く私に、母は胸を張って言いました。
「戦いの後は、船遊びと相場が決まっている!」
……意味がわかりませんが、結局みんなで乗ることになりました。
真っ赤なパドルが水を掻く音。
デッキに吹き抜ける風は、あの日の戦場の熱風とは違う、優しくて湿った水の匂いがしました。
キラキラと光る湖面。
遠くに見える比良の山並みと、近江富士の穏やかな稜線。
平和でした。
本当に、涙が出るくらい、この世界は平和で、綺麗でした。
フランは初めて見る巨大な船とはしゃぐ乗客たちに、目を丸くしていました。
彼が何かを呟き、それを母が通訳してくれました。
「『この世界の人間は、こんな鉄の城で遊ぶのか? 魔物もいないのに、何と戦うために?』……だって」
私は笑って答えました。
「戦うんじゃないよ。楽しむために乗るの」
フランは不思議そうな顔をして、それから、配られたパンケーキを嬉しそうに頬張っていました。
その横顔を見ていると、彼が向こうで背負っている過酷な運命を、少しだけ忘れられる気がしました。
お母さん。
天国のお母さんも、空の上からこの景色を見ていましたか?
私たちは、元気です。
傷だらけになっても、またこうして笑い合えています。
だから、安心してください。
敬具
***
私はペンを置き、手紙を机の引き出しにしまった。
窓の外からは、けたたましい蝉時雨が聞こえてくる。
今日で一学期が終わった。
明日からは――。
「ほのかー! 準備できたかー?」
一階から、母の呼ぶ声がする。
私は壁にかけてあったリュックサックを手に取った。
ずしり。
肩に食い込む重さ。
それもそのはず、中身の半分は「夢と希望」ではなく、「現実と課題」だ。
「よし、忘れ物なし」
私は中身を最終チェックする。
『青チャート(数学)』、『システム英単語』、『古文単語315』……。
そして、動画授業を大量にダウンロード済みのタブレット。
膳所高生の夏休みは、遊んでばかりはいられない。
SSHの課題研究もあるし、実力テストの勉強もしなきゃいけない。
たとえ行き先が異世界だろうと、宿題からは逃げられないのだ。
「スタサプはオフライン保存したし、充電器も持った。……完璧」
階段を駆け下りると、リビングでは父と母、そしてフランが待っていた。
母はいつものエプロン姿……ではなく、動きやすそうなデニムとTシャツ姿だ。
その首元には、あの銀色のネックレスが光っている。
「遅いぞ、ほのか。……なんだその荷物は? 家出でもするのか?」
母が私のパンパンのリュックを見て目を丸くする。
「違うよ。夏休みの課題一式。これでも厳選したんだから」
「カダイ? なんだそれは?」
不思議そうな顔をするフランに、母が通訳する。
フランは私のリュックを興味深そうに覗き込み、『青チャート』の分厚さに引いている。
「『それは……鈍器か? それとも呪いの魔導書か?』だそうだ」
「ある意味、魔導書より手強いよ。大学受験っていう魔物を倒すためのね」
私がため息混じりに答えると、父が苦笑いした。
「ほのかは真面目だなあ。向こうに行ってまで勉強か」
「当たり前でしょ! 膳所高なめないでよ。夏明けの実力テストで順位落としたら洒落にならないんだから」
「はいはい。まあ、向こうはWi-Fi飛んでないから、誘惑が少なくて捗るかもな」
「そういう問題?」
そんな軽口を叩き合いながら、私たちは玄関へ向かう。
「さて、と」
父が車のキーを回す……わけではない。
今日は、車での旅行じゃない。
母が、リビングの真ん中に立つ。
その小さな背中が、以前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
「大輔、留守は頼んだぞ」
「ああ。気をつけてな。土産話、楽しみにしてるよ」
父は寂しそうに、でも優しく送り出してくれる。
今回はお留守番だ。父には父の、会社という戦場があるから。
「じゃあ……行くか」
母が私とフランを見る。
私は、参考書の詰まった重いリュックのベルトを握りしめ、力強く頷いた。
行き先は、沖縄でも、ハワイでもない。
ガイドブックにも載っていない、地図の向こう側。
高校生活、最初の夏休み。
私の冒険(と勉強)が、始まる。
「ほのか、準備はいいか?」
母が手を差し伸べる。
私はその手を、しっかりと握り返した。
「うん! 行こう、お母さん!」
目指すは異世界アウルシア。
今度は「待つ」だけじゃない。私も行くんだ。
家の匂いと、家族の声を道標にして。
「行ってきます!!」
私たちの声が重なり、光が視界を埋め尽くす。
その向こうには、まだ見ぬ世界と、新しい風が待っている。
母は、異世界で天下をとる。
その物語の続きを、今度は私も一緒に見に行くんだ。
(第一章 完)
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
滋賀県の片隅で始まった、母と娘の物語。
「日帰り」という突拍子もない設定から始まり、マリーゴールドの絶望を経て、まさか最後はトラックが降り、リュックを背負って旅立つところまで……。
ここまで駆け抜けることができたのは、間違いなく、画面の向こうでページをめくってくださった皆様の応援のおかげです。
本当に、感謝してもしきれません。
第一章は、母の物語でした。
どんな理不尽に傷ついても、
ただ家に帰って「ただいま」を言うために戦う。
そんな母の強さを描きたくて、ここまで書いてきました。
そして、物語は次の章へ進みます。
今度は、娘・ほのかの番です。
彼女はまだ、何も知りません。
異世界の残酷さも、母が背負ってきたものも。
第二章では、
「知ること」と「成長すること」が、
彼女にどんな選択を迫るのかを描いていきます。
続きは、また少し先で。
それでは、第二章
最高の夏休みが、始まります。




