30日 黒い魔力
扉を開けると、そこはいつもの美しい景色が広がる異世界ではなかった。
黄金色に輝く麦畑も、風にそよぐ緑の森も、どこにもない。
視界の限り、すべてが黒く、燻っていた。
一面の、焼け野原だった。
「え……」
私は状況の把握ができない。
現実と頭の思考が追いつかない。
あまりにも唐突な暴力的な光景に、脳が理解を拒絶している。
ドガラガシャァァァン!!
背後で、重い何かが崩れ落ちる音がした。
振り返ると、さっきまで私たちが立っていた「エマの家」が、燃え盛る業火に飲まれ、焼け落ちていくところだった。
木でできた玄関の扉も、役目を終えたとばかりに炎の中へ崩れ去る。
「そんな……嘘だ……」
熱気が肌を焼く。
焦げた臭いが鼻腔を突き刺す。
これは夢じゃない。
私は走り出した。
「お父さん! お母さん!」
足がもつれる。何度もつまずき、転倒し、灰まみれになりながら、それでも立ち上がって走る。
町を。故郷を。誰か。お願い。
いつも「エマちゃん」と野菜をくれる近所のおじさん、おばさん。
強面だけど優しい村長の家。
父が好きだった、笑い声の絶えない町の酒場。
母と手をつないで歩いた花畑。
そして――あの子と、泥だらけになって遊んだ河原。
ない。
ない。
何ひとつ、残っていない。
全て無くなり……消えていた。
炭化した柱と、崩れた石壁。
かつて人の営みがあった場所には、ただ黒い風が吹き抜けているだけだ。
「誰か……誰かいないの!? 答えてよ!!」
喉が裂けるほど叫ぶ。
けれど、返ってくるのは炎が爆ぜる音と、乾いた風の音だけ。
私の祈りは虚しく、灰色の空に吸い込まれていく。
「煩いわね……寝てられないじゃない」
頭上から、声が降ってきた。
聞き覚えのある、甘ったるい声。
見上げると、瓦礫の上に一人の女性が座っていた。
金色のツインテール。純白のドレス。
この地獄のような光景の中で、彼女だけが異質に美しく、そして清潔だった。
「あら? あなた生きてたの……ふーん? やっぱりそうなのね」
オルバは、羽虫でも見るような目で私を見下ろした。
鬱陶しそうに、あくびを噛み殺しながら。
私は震えた。
恐怖ではない。身体の奥底から湧き上がる、マグマのような激情で。
「あなたが……したの?」
「ん? 聞こえないわよ、そんな蚊の鳴くような声じゃ」
「お前がしたのかって聞いたんだ!!」
いつも大人しく、柔らかい口調のエマが叫んだ。
喉の奥から獣のような咆哮が出る。
「そうよ!」
オルバは悪びれもせず、にっこりと笑った。
「だって、こんな田舎町から『虹』が二人も産まれたらしいじゃない? 気持ち悪いから、もう劣等種から変なのが産まれないように、巣ごと駆除したまでよ」
「そんな……ことで……」
「そんなこと? 大事なことよ。害虫駆除だもの」
私の中に、どす黒い靄のようなものが少しずつ増えていくのが分かった。
心臓の鼓動に合わせて、視界の端が黒く染まっていく。
千尋の直感が、警鐘を鳴らす。
(これはダメだ。飲み込まれる)
(エマ、ダメだ! あいつは挑発しているだけだ! まともに受けるな!)
必死に呼びかけるが、エマの心は怒りで沸騰している。
「お父さん……お母さんは……」
「だから! 聞こえないって言ってるでしょ」
「私のお父さんとお母さん、町の人たちはどうした!?」
エマが唇を噛み締め、血を流しながら叫ぶ。
オルバはケタケタと笑い、小首をかしげた。
「バッカじゃない? 私が踏み潰した蟻の顔や名前なんて、いちいち覚えてるはずないじゃない!」
プツン。
エマの中で、理性の糸が一本切れた音がした。
抑えきれないほどの黒い何かが、心臓から溢れ出す。
それは魔力であり、感情であり、もっとドロドロとした呪詛のような塊だった。
(抑えられない……ダメだ……コレに飲まれたら……)
必死で黒い衝動を抑え込もうとする千尋の意識。
その抵抗をあざ笑うかのように、意識の奥底で、もう一つの気配が膨れ上がる。
黒い靄が形を成して、一人の「人」の形へと変わっていく。
それは――知っている形だった。
凄まじい“怒り”の感情が、自分の中に流れ込んでくる。
私のものではない。けれど、痛いほど知っている怒り。
バチンッ!
激しい頭痛とともに、断片的な映像が脳内にフラッシュバックする。
――なんだ……これは……記憶?
見たこともない光景。
霧がかかったような視界の中に、男が立っている。
顔も姿も靄がかかり、はっきりとは分からない。
ただ、その男は、ひどく優しい声で言った。
『私は……君の……一番の理解者だよ』
バチンッ!
場面が変わる。
地面に横たわる、二つの影。
見覚えのある男性と女性が、血の海に沈んでいる。動かない。
そこに立つ、さっきの男。
『遅かったね』
男は、残念そうに、けれどどこか楽しげに笑う。
私の口が勝手に動く。怒りと、信じられないという戸惑いの感情で。
『どうして……あなたが、父さんと母さんを……』
『彼らは君を……目覚めさせる為に必要な餌だよ』
『信用していた……友達だと思っていたのに……!』
バチンッ!
また激しい頭痛。
脳が内側から食い破られるようだ。
――私は、誰の記憶を見ている……?
再び、場面が変わる。
見慣れた場所。
よく遊んだ河原。ここは――ルナフィールだ。
私は歩いていた。
視点が低い。傷だらけの身体。歩くのもやっとの状態だ。
息が苦しい。肺が焼けるようだ。
あと少し……もう少し。
遠くに、一人の少女が映る。
栗色の髪。野菜を抱えて、笑っている少女。
――エマだ。
走って近づこうとした、その時。
ドスッ。
胸に、熱いものが突き刺さった。
見ると、無数の火の矢が身体を貫いている。
足の力が抜け、その場に倒れ込む。
声がする。
『最後に故郷に帰るって、アイツが言ったまんまだったわね』
知っている声。
頭上から響く、無邪気で残酷な声。
『はじめまして、同族さん……そして、さようなら』
意識が薄れていく。
死ぬんだ、と直感する。
『あー、ダメダメ……ここで死なれたらダメなんだった……あなたの力を、アイツが欲しがってるのよね』
ふわりと、風の魔法で身体が浮く。
ゆっくりと痛みが引いていく……。
治癒の魔法だ。助けられたのではない。生かされているのだ。
『死なない程度に回復してぇ……あー、めんどくさい』
(ダメだ……このままだと、奪われる)
私は最後の力を振り絞り、手を伸ばした。
遠くに見える、あの子に向けて。
この思いだけでも、託さなければ。
―ーー相棒。
そこで、記憶はプツリと途切れた。
「はぁ……はぁ……ッ」
呼吸が荒い。
今の記憶は……あの子の最期。
オルバが……あの子を……。
「あー、そうだった。一人いたんだった」
オルバがポンと手を打つ。
思い出した、というよりは、新しい玩具を見つけた子供の顔だ。
「最後まで抵抗してたバカが。弱いくせにさぁ……あそこに転がってるの、あなたの知り合い?」
オルバが指差す方を見る。
焼け焦げた森の入り口。
一本の木に、何かが吊るされていた。
ボロボロの鎧。
砕けた剣。
全身が血に染まり、ピクリとも動かない男性の姿。
――コール。
王命騎士団副団長。
いつも私を気遣い、守ってくれた、兄のような人。
「もうすぐ死ぬけど? トドメ刺してあげようか?」
オルバが指先をコールに向ける。
ブチンッ。
エマの中で、決定的な何かが切れた。
あふれ出した黒い物体は、もはや人の形には留まらない。
さらに増幅し、渦を巻き、エマの身体を包み込んでいく。
エマの身体では抑えきれず、皮膚を裂くようにして身体の外へ溢れ出す。
(エマ……!)
千尋が呼びかける。
だが、その声はもう、エマの鼓膜には届かない。
千尋の意識は、黒い奔流に押し流され、意識の遥か後方へと追いやられていく。
視界が切り替わる。
主導権が、移る。
意識の底で、重く、どす黒い扉が開いた。
エマの身体から溢れ出す圧倒的な魔力を見て、オルバはつまらなそうにため息をついた。
「そう……あなたも目覚めたのね……アイツの言った通りじゃない」
オルバは肩をすくめ、冷ややかな目で見下ろす。
「でもね! ここであなたを壊せば、アイツの計画は全て終わりってことじゃない!」
オルバは嗤う。
その瞳には、嗜虐の喜びだけが灯っている。
「いっぱい咲かせてあげる。逃げても無理よ! この辺り全て包囲したからね」
オルバが両手を広げる。
私の目の前に、無数の火の粉が現れた。
赤く、妖しく明滅する「爆華」の種。
辺り一面、逃げ場のないほどに埋め尽くされている。
「さあ、綺麗に咲いて――散りなさい」
オルバが指を鳴らす。
カッ、と世界が赤く染まる――はずだった。
――無音。
爆発は、起きなかった。
「……あれ?」
オルバが首をかしげる。
もう一度、指を鳴らす。
シーン。
「なんで? なんで全部消えてるの?」
さっきまで空を埋め尽くしていた火の粉が、跡形もなく消滅している。
まるで最初から存在しなかったかのように。
オルバの顔から、余裕が消える。
何が起きたのか理解できず、狼狽えるように視線を泳がせた。
黒い靄を纏ったエマは、一歩、前に出た。
その足元から、インクを零したような闇が広がり、焼け焦げた大地をさらに黒く染め上げていく。
「終わり?」
エマが、感情のない声で静かに問う。
「な……」
オルバが後ずさりする。
本能的な恐怖が、彼女の足を凍りつかせた。
エマの背後に、ゆらりと黒い影が立ち上がる。
それはエマ自身の影であり、同時に――無念に散った少年の影でもあった。
エマが顔を上げる。
琥珀色の瞳は、もうどこにもない。
あるのは、底なしの闇だけ。
少女の唇が、ゆっくりと歪んだ。
エマの声と、もう一人の少年の声が重なり、空気を震わせる。
「――殺してやる」
次回「魔法の意味」




