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継ぎ足したページ

気がつくと、私は暗闇の中にいた。


 手と足には重い枷がはめられ、鉄の冷たさが皮膚に食い込んでいる。

 身体を起こそうとするが、思うように力が入らない。


 全身を走る鈍い痛み。

 無数の切り傷、打撲、焼け焦げた皮膚のひきつり。


(……そうだ。オルバと戦って……フランを、飛ばしたんだ)


 記憶がゆっくりと戻ってくる。

 フランを逃がすために力を使い果たし、意識を失ったあと――私はここに運ばれたのだ。


 目を凝らす。


 石造りの、十畳ほどの狭い部屋。

 窓はなく、光もない。

 湿ったカビの匂いと、血の匂いが混ざった閉鎖空間。


 重い石の扉が、軋む音を立てて開いた。


 入ってきたのは、見たくもない金色のツインテール。


「あら? 気が付いた? だめじゃない、戦闘中に寝ちゃうなんて」


 オルバはニタニタと笑いながら、私の顔を覗き込んだ。

 その瞳には、底知れない悪意と無邪気さが同居している。


「素敵でしょう、この部屋。昔々、悪い貴族を罰するために作った牢屋なんだって。……今は誰も使ってないけどね」


「私を……どうする気だ?」


 かすれた声で睨みつけると、オルバは楽しそうに肩をすくめた。


「どうするって? 決まってるじゃない。あなたのその力……素敵よね。コントロールできたら、色んな場所にいけるじゃない? あなたが消した、あのアスガルドの虹みたいに」


「……」


「だから……ね。私、決めたの。あなたをペットにするって」


(そんなこと……)


「“なるわけない”って思ってるでしょ? 顔を見たら分かるわ」


 オルバは私の肩に手を置いた。

 その指先はやけに優しくて、それが余計に不気味だった。


「ねえ……」


 まるで恋人に囁くような、甘い声。


「人を支配するのには、何が必要だと思う? お金? 愛? ……ううん、どれも違うわね。人を本当に支配するのに必要なのは――」


 私の耳元に唇を寄せ、吐息まじりに囁く。


「恐怖よ」


 その瞬間。


 ドォン!!


 耳元で爆音が炸裂した。


「がっ……ぁああああっ!!」


 視界が白く弾ける。


 耳鳴りがひどい。

 何が起きたのか理解するより先に、右腕の感覚がないことに気づく。


 遅れてやってきたのは、脳髄を焼き切るような激痛だった。


 私の右腕が、肘から先ごと消し飛んでいた。


 意識が遠のく。

 暗転しかけた視界を、髪を掴まれて無理やり引き戻される。


「ダメよ、寝たら」


 オルバの手から、淡い光があふれ出す。

 優しくて、温かい光。聖なる魔法。


 痛みが引いていく。


 吹き飛んだはずの腕が、骨が繋がり、肉が盛り上がり、皮膚が再生していく。


「すごいでしょう? これが聖なる魔法なの。……あら? まだそんな目ができるのね?」


 再生した腕を握りしめ、睨み続ける私を見て、オルバは少しだけ意外そうな顔をした。


「この顔は生まれつき……」


 ドォン!!


 再び爆発音。

 今度は左足が吹き飛んだ。


「あ……ぐっ……」


 悲鳴すら出ない。

 ただ喉の奥で空気がひゅっと鳴るだけだ。


 オルバは私に近づき、また癒しの光を注ぐ。


「これから何度も、何度も、何度も……あなたを痛めつけては、回復させてあげる。いつまでそんな強い目ができるかしらね」


 ふわりと、私の身体が宙に浮く。

 風の魔法だ。


「ひょっとしたら、逃げられるかも? って思ってる? 無理無理」


 オルバはケラケラと笑った。


「はじめに言ったよね? この場所、貴族の牢屋だって。壁一面が魔力を吸収する石でできてるから――弱りきったあなた程度の魔力じゃ、逃げられないわね。残念」


 壁の黒い石が、私のわずかな魔力を吸い上げていくのが分かる。

 無垢の魔力すら練ることができない。


 オルバは顔を近づけ、またあの甘い声で言った。


「今日は長い夜になりそうね」


 次の瞬間、私の身体はまた爆発で吹き飛ばされた。


 


 ――三日目。


 


 初日以降、オルバは姿を見せない。

 静寂と闇だけが、のしかかるように重い。


 私は何度か脱出を試みた。


 無垢の魔力を練り上げ、身体強化で枷を砕こうとした。

 けれど、練った端から魔力が霧散していく。


 壁の黒い石が、私の命の灯火を吸い上げていくのだ。


「……くそっ」


 鉄の枷が手首に食い込み、新しい血が滲む。


 空腹が内臓をねじ切り、喉の渇きが思考を焼き尽くす。


 それでもまだ、千尋としての理性が残っていた。


(諦めるな。フランも、あの子たちも……私が戻らなきゃ)


 


 ――五日目。


 


 時間感覚が消えた。


 ここが朝なのか夜なのか、それとも永遠に続く深夜なのか、もう分からない。


 扉が開く音が、恐怖の合図だ。


「やっほー。元気してた? 私のペットちゃん」


 オルバは鼻歌交じりで入ってくると、バスケットから焼き立てのパンの香りだけを漂わせ、それを私の目の前で踏み潰した。


「あーあ。汚い手で触ろうとするから」


 そして、彼女の指先が指揮棒のように振られる。


 見えない風の刃が、私の太腿を薄く、深く切り裂いた。


「ぐっ……!」


「いい声。でも、まだ足りない」


 指が動くたび、皮膚が裂け、肉が爆ぜる。

 指の骨を一本ずつ、丁寧に、小枝を折るように砕かれる。


 私が痛みに耐えきれず失神しようとすると、すぐにあの温かい光が降り注ぐ。


『聖なる癒し』。


 砕けた骨が強制的に繋がり、裂けた皮膚が塞がる。


 その修復の過程こそが、最大の地獄だった。


 神経が無理やり結ばれる激痛。

 そして、「また壊せる状態」に戻されたという絶望。


「ねえ、聞いてよ。今日ね、新しいドレスを買ったの」


 オルバは私の血で汚れた床を避けながら、楽しそうに独り言を話す。


 私の悲鳴をBGMに、まるで友達とお茶をしているような口調で。


「だからね、あなたも綺麗にしてあげる」


 ドォン!!


 爆発が腹部をえぐる。

 内臓が焼ける臭い。


「あはは! 中身が見えちゃった。……はい、回復なおれ


 治される。壊される。治される。壊される。


 痛みと再生の無限ループの中で、私の境界線が溶けていく。


 私は人間なのか?

 それとも、ただ悲鳴を上げるだけの肉の塊なのか?


(……殺して。もう、殺してくれ……)


 千尋の理性が、砕け散る寸前で悲鳴を上げた。


 


 ――七日目。


 


 オルバはもう、私に興味がなくなったのか、姿を見せない。

 あるいは、私がもう「壊れかけて反応が鈍い玩具」になったからかもしれない。


 痛い、という感覚すら遠い。


 寒い。暗い。


 天井から落ちてくる水滴を、舌を伸ばして舐める。

 泥水のような味がしたけれど、今の私には甘露だった。


(……フランは、逃げられたかな)


 思考が霧のように霞む。


 フランの顔が思い出せない。

 ほのかの顔が……二重、三重にブレていく。


 自分の身体の境界線が、闇に溶けて曖昧になっていく。


 手足の感覚がない。

 自分が仰向けなのか、うつ伏せなのかすら分からない。


 ただ、床の冷たさだけが、私がまだ「モノ」として存在していることを教えてくれていた。


 


 ――??


 


 ……死にたい。


 ふと、そう思った。


 それは恐怖からではなく、深い安らぎへの渇望だった。


 もう、痛みたくない。

 もう、治されたくない。


 薄く目を開けると、あるはずのない花が、闇の中に咲いていた。


 彼岸花。


 真っ赤な花弁が揺れている。


 ああ、そうか。これは幻覚だ。


「死」が近くまで迫っていることを、壊れた脳が優しく教えてくれているんだ。


 


 次に気がつくと、私の身体は引きずられていた。


 ズリ、ズリ、と粗い石畳が皮膚を擦る音がする。

 けれど、痛みは感じない。


 私は、重いゴミ袋のように床を滑っていた。


 もはや、話す気力も、指一本動かす力も残っていない。


「全く……汚いったらありゃしない」


 オルバの声が、遠くで聞こえる。

 鼻をつまむような、心底嫌そうな声。


 ふわりと、私の身体が宙に浮いた。


 まぶしい。


 久しぶりの太陽の光が、網膜を焼くように痛い。

 けれど、目を閉じる力も残っていない。


「わたし……壊れた玩具に興味ないんだよね」


 ぼんやりと下を見ると、私は高い崖の上に浮かされていた。


 下には深い森と、ごつごつした岩場が見える。


 美しい緑。澄んだ空。


 ボロ雑巾のようになった私とは、あまりに対照的で綺麗な世界。


「もういいわ。……さようなら、同族さん。別にあなたが死んでも、またどこかで別の誰かが“虹”として生まれる。まあ……世界はそんな感じでできてるのよね」


 ゆっくりと、私を支えていた風が溶けていく。


「大体……魔力すらない田舎町生まれの劣等種族が虹になるなんて、汚らわしい。厚かましいったらありゃしない」


 オルバはそう吐き捨ててから、ふと首を傾げた。


「ん? そういえば……もう一人、田舎町で……虹がいたような……あなたと同じく、ピョンピョン飛んでたっけ……?」


「……」


 言い返す言葉も、怒りも、もう湧いてこない。


 ただ、静寂が欲しい。


「んー、名前は……忘れちゃった。まあ、死んだから一緒か」


 オルバは悪戯っぽい笑みを浮かべ、無邪気に手を振った。


「じゃあね、バイバイ」


 爆発音とともに、身体が吹き飛ばされた。


(あ……)


 重力が私を捕まえる。


 風を切る音。


 枝にぶつかる衝撃。バキ、ボキという音が身体のあちこちから響く。


 何度か木に引っかかり、落下速度が緩んだものの――最後には枝が折れ、地面に叩きつけられた。


 鈍い音がして、視界が揺れる。


 土の匂い。草の匂い。


 もはや、痛みすら感じない。


 ただ、終わったんだという安堵だけがあった。


(……死ぬのか。もう……疲れたな)


 意識の灯火が、ふっと消えかけた。


 


 気がつくと、私は暗闇の中にいた。


 誰かの泣き声がする。


 知っている声。よく聞いた声。


 ――娘の声だ。


 少女は泣いていた。


 場所は……ああ、私の葬式か。


 祭壇には私の写真。参列者はもう帰ったあとみたいだ。


 少女は誰もいない部屋で、一人で泣いていた。


 強い子だったから。


 周りに人がいなくなってから、ようやく泣けたのだろう。


 私は、少女に声をかけられない。


 なんて言ったらいい?


 もう死んだ私には、何もできない。


 声をかけることも、励ますことも、抱きしめることも。


(結局……生き返ってもまた泣かせてしまったな……)


 私はその場に座り込んだ。


(なんで、私は生き返った? いや……エマの身体を借りたのだから、死んでいるのと同じか。全く……情けない)


(こんな事なら……死んだままの方が良かった。あの子もそれを望んでいる。みんな、きっと……)


――違うよ。


 声がした。


 男の子の声だ。


 私の肩に、手が置かれた。優しい、温かい手が。


――千尋さんに、みんな救われたんだよ。


(私に?)


――そうだよ。エマも、そして俺も。


(誰も救ってなんかいない……私は一人でなにも出来ず、足掻いていただけだ)


――そんな事ない。


 今度は女の子の声がした。


 栗色の髪の少女――エマが、私の隣に座っていた。


――私も、千尋さんに救われたよ。あの時、手を掴んでくれなかったら。あの時、私の代わりに戦ってくれてなかったら。あの時、優しい言葉をくれなかったら、私きっと前に進めてない。


(違うよ……それは君自身の力だよ、エマ)


 少女は首を横に振る。


――はじめは……私一人だった。でも今は違う。


――そうさ、今は違う。


 男の子――アルクが、反対側から私の手を取った。


――これは、私達の物語。


 二人が私の手を引いて、立ち上がらせる。


――さぁ、千尋さん。


 私は手を引かれ、前に歩き出す。


 その先には、写真の前で泣いている娘――ほのかがいる。


――話す言葉、あるんでしょう?


――話さないと伝わらない。


 優しく、二人に背中を押された。


 私は、震える足で一歩進んだ。


 ほのか……。


 ごめん。


 ダメな母親でごめん。


 迷惑ばっかりかけて。

 いつも困らせてばっかりで。


 ごめん。


 本当に……。


 私は泣いていた。


 父が死んでから、もう泣かないって決めていたのに。


 娘を前にして、顔も涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。


 ふと、泣いていた娘が顔を上げ、私に一冊のノートを差し出した。


 表紙には『やりたい事リスト』と書かれている。

 私が生前に書いていたノートだ。


 ページをゆっくりめくる。


「膳所高合格」「ママさんバレー優勝」「英語ペラペラになる」……。


 どれも中途半端で、叶いもしないことばっかり書いてある。


 娘は、最後のページを指さした。


『絶対』と書かれた太い文字の横に、『長生きする』と書いてある。


(……結局、中途半端。どれも叶いもしない……)


 娘は、さらに次のページを開いた。


 継ぎ足されたページ。


 そうだ……これは。


 娘の声が響く。


『また……変な事書いてる!』


『せっかく転生したんだ、夢はでっかくだ』


『でも……これ、お母さんらしいね』


『そうだろ? 魔法と聞いてはじめに思い付いた』


『あはは、最高! やっちゃってよ、異世界で最高のやつ』


 継ぎ足されたノートのページには、大きな文字でこう書かれていた。


『異世界で天下をとる』


 その文字が、強く輝き出した。


 光が私を包み込む。


 私はほのかを抱き寄せ、一番言いたかった言葉を口にした。


「愛してる」


 暗闇から、光が溢れ出す。


 周りには、いつの間にか花畑が広がっていた。


 甘く、懐かしい、安堵の香り。


 金木犀の香りが、そこにはあった。


 アルクとエマが先に歩き、私に手を差し伸べる。


「さぁ……帰ろう」


――そうだな……。


 私はゆっくり歩き出す。光に向かって。


「帰ろう……家へ」


 そして、遠くで声が聞こえる。


 優しく、愛しい声が。


(――お母さん)


 


 雷鳴が遠ざかる。


 血の匂いと、マリーゴールドの不穏な香りが満ちる部屋。


 床に倒れたボロボロの少女。


 その瞼が、ゆっくりと開いた。


 琥珀色の瞳が、焦点を取り戻す。


 そこにはもう、怯えも、諦めもなかった。


 ただ、愛しい我が子を見つめる、強い母の光だけがあった。


 少女――千尋の唇が、かすかに動く。


「……ただいま」


 その声は小さかったけれど、雨音にもかき消されないほど、確かに響いた。


次回「絶望に咲く花」地球ほのか編です。


挿絵(By みてみん)



毎週火曜日金曜日20:00更新

いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。

そして、このエピソードまでついてきてくださった皆様に、心からの感謝を。


第1話で何気なく書かれたあのノートが、まさかこんな形で、彼女の「命綱」になるとは。

作者自身、執筆しながら胸が熱くなる瞬間でした。


絶望の淵で彼女を繋ぎ止めたのは、魔法でもスキルでもなく、家族と交わした「約束」でした。


さて。

長い長い闇を抜けて、物語の舞台は一度、懐かしい場所――「地球」へと戻ります。


傷ついた体と心を癒やし、再び立ち上がるために。

そして、本当に守りたかった日常を取り戻すために。


第1章、いよいよクライマックスです。

「ただいま」のその先に待っている景色を、どうか最後まで一緒に見届けてください。


次話も、心を込めてお届けします。


感想・レビュー、いつも励みになっています。

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