希望と⋯
パリーン――。
巨大なガラスをハンマーで叩き割ったみたいな音が、ダンジョン全体に響き渡った。
同時に、背中に凄まじい衝撃。
私は何か硬いものにぶつかり、そのまま短剣の柄にしがみついた。
「……っ!」
風が顔の横をちぎれるみたいに落ちていく。
自分がいま、どこにいるのか理解するのに数秒かかった。
目の前に、ヌシの背中。
黒鉄色の甲殻が割れ、そのあいだから埋め込まれていた巨大なクリスタルが姿を現している。
さっきまで、ヌシの身体と同じように禍々しく赤黒く光っていたそれが――
私の短剣に叩き割られて、ひびだらけになっていた。
短剣の刃は、無垢(白)の魔力で包まれている。
身体強化で高めた筋力と、落下のスピード。
すべてを乗せて、私は叫びながら振り下ろしていた。
「はぁあああああああ――ッ!!」
割れたクリスタルのひびが、一瞬だけ七色に光る。
次の瞬間、内側から爆ぜるように砕け散った。
飛び散った破片が、虹色の霧になって空中に溶けていく。
ヌシの喉から、これまでで一番の咆哮が絞り出された。
「――グオオオオオオオオオオォォッ!!」
空気そのものが震える。
鼓膜が悲鳴を上げ、胸の内側まで振動が突き抜けた。
ダンジョンの天井が揺れ、石片が雨のように降り注ぐ。
「っ……!」
身体が大きく揺さぶられ、私は短剣から手を離しそうになる。
その瞬間、背後から無数の影が迫ってきた。
尻尾だ。クリスタルを壊された怒りで、ヌシの尾は完全に私だけを狙っている。
(避けられない――)
そう思ったとき。
「――ピタ」
ヌシの動きが、あり得ないほどわかりやすく“止まった”。
尻尾は振りかぶった姿勢のまま、空中で止まり。
巨体も、うなだれかけた姿勢のまま凍りついたように動かない。
「やれやれ、いつも君はギリギリでヒヤヒヤするよ」
足元から、聞き慣れた声がした。
見下ろすと、ヌシの足元――その巨大な爪のあいだから、フランが顔だけ出していた。
片膝をつき、右手を爪に押し当てた姿勢。
額から血が流れているけれど、その口元にはいつもの笑みがある。
「フラン……!」
「固有魔法《速度領域》」
フランは軽く指を鳴らした。「ヌシの“時間”を、遅くしたよ。ぼくには、これが限界かな」
全身から力が抜ける。
しがみついていた短剣から手が滑り、私は背中から落下した。
地面までは、そんなに距離がない――はずだった。
けれど、落下のスピードも“遅く”なっているのか、世界がやけにスローモーションで流れていく。
「っと」
地面に叩きつけられる直前、誰かの腕が私の身体をすくい上げた。
「ナイスダイブ」
フランが私を抱え、そのまま氷の床を滑って部屋の隅まで運んでいく。
そっと下ろされた場所は、ヌシの攻撃がギリギリ届かない死角だった。
「……あとは、ぼくの番だね」
フランは立ち上がり、ヌシの方へ振り向く。
ヌシの巨体が、みるみるうちに白く変色していった。
足元からせり上がるように、分厚い氷がその体表を覆っていく。
「身体の“速度”を遅くしてる間にさ――」
フランは、歩きながら右手に冷気を集めた。
「中身ごと、凍らせちゃう」
瞬く間に、ヌシは巨大な氷像と化した。
四階建てのビルほどの氷の彫刻。
さっきまで咆哮を上げていた口も、怒りに歪んだ顔も、すべて透明な氷に閉じ込められている。
フランはその足元まで歩いていき、軽く拳でコン、と叩いた。
パリーン――。
さっきとは違う、乾いたガラスの割れる音が響いた。
次の瞬間、ヌシはバラバラに砕け散る。
氷の結晶となって宙に舞い、キラキラと光りながら床に降り積もった。
「……終わった、の?」
私は壁にもたれかかりながら、かすれた声で尋ねた。
「ヌシに関してはね」
フランは背中を向けたまま答える。
「ごめんね、エマ。まだやることがあるんだ」
フランが向かった先には、“人”の形をした影がいくつも並んでいた。
最初は彫刻だと思った。
けれど近づくにつれ、その表情があまりにも生々しいことに気づく。
驚き、怒り、恐怖。
それぞれ違う感情を刻んだまま、石化した人々。
一人は大盾を構えた男。
一人は弓を握った女性。
もう一人はローブをまとい、杖を握りしめている青年。
小柄な斥候らしき少年の姿もあった。
「……ごめん。みんな、遅くなって」
フランは一人一人の前に立ち止まり、静かに言葉をかけていく。
「マリ。トワ。イズ。クタ。……そして、ダダ」
名を呼ぶたびに、彼の声は少しずつ震えを増していった。
彼は右手を石像にそっと当てる。
そこから、透明な氷がじわじわと広がっていく。
石化した身体全体が、完全に氷に包まれたところで――フランは、ヌシのときと同じように、指先でコン、と軽く叩く。
ひとり。
またひとり。
氷の結晶となって、彼らは床に散っていく。
「石化された人は、元には戻らない。……死ぬこともできない」
フランの背中は、少しだけ丸く見えた。
「だから、ちゃんと終わらせてあげないと」
最後の一体を砕き終えたとき、彼の肩が小刻みに震えた。
顔は見えない。
でも、その背中は、確かに泣いていた。
私は何も言えなかった。
ただその場で、握りしめたネックレスを強く握ることしかできなかった。
ダンジョンの出口を抜けた瞬間、空気が変わった。
湿った冷気が一気に薄まり、外の風が頬を撫でる。
振り返ると、さっきまであったはずの洞窟の入口が、まるで最初から何もなかったかのように消えていた。
「……そういえば、ダンジョンって」
「ヌシを倒すと、消えるんだよ」
フランが答える。
「そしてまた、どこか違う場所に、新しいダンジョンが生まれる。誰にも知られないうちにね。……不思議だよね」
いつもの調子で笑ってみせるけれど、その笑顔は少しだけ疲れていた。
「ありがとう、エマ」
彼はふっと真顔になって、私の方を向いた。
「ちゃんとお別れすることができた。君のおかげだ」
「……」
私は、フランの手首をそっとつかみ、そのまま前へ出した。
「?」
フランが目を瞬かせる。
私は握ったフランの手を、ぎゅっと強く握り返した。
「これは、私の故郷で“握手”って言う」
「アクシュ?」
「“友達”って意味だ」
一瞬、時間が止まったみたいに、フランが目を見開いた。
「……友達、か」
少しだけ視線をそらし、照れくさそうに口元をゆるめる。
「自分から“友達になりたい”って言ったのに。いざ言われると、照れるんだな」
「いや、勝手に嬉しくなってるだけだから。勘違いしないでほしいね?」
「そうか?」
「そうだよ。だいたい君は――」
そこまで言ったときだった。
世界が、一瞬で“音”だけになった。
凄まじい轟音。
空気が爆発したみたいな衝撃。
身体が宙に浮き、そのまま地面へ叩きつけられる。
「っぐ……!」
肺から空気が絞り出される。
背中に焼けるような痛み。
同時に、皮膚のあちこちがじりじりと熱を帯びていく。
(……あつい)
視界がぐにゃりと歪んだ。
色が全部、灰色に溶けていく。
耳鳴りがひどくて、何か叫び声が聞こえても言葉として認識できない。
フランが何かを叫びながらこちらへ走ってくる。
その口元だけが、スローモーションで近づいてくるのが分かった。
ゆっくり耳鳴りが無くなり音が聞こえる
視界のぼやけも、ゆっくりと解けていく。
代わりに、身体の上にひんやりとした膜のようなものが貼りついている感覚。
「そんなに強くしてないのに。ごめんね」
穏やかな女の声が、すぐそばから聞こえた。
フランが、その声の主を睨みつける気配がする。
私も、ゆっくりとそちらを見た。
そこに、一人の女性が立っていた。
二十代前半くらい。
金色の髪を三つ編みにして左右で束ねたツインテール。
白い肌。形の整った顔立ち。
その美しさに目を奪われそうになる――けれど、次の瞬間、背筋がぞわりと粟立った。
その目が、笑っていなかったからだ。
口元は柔らかく微笑んでいるのに、瞳の奥には、冷たい狂気の光が宿っている。
「はじめまして。"同族"のお二人さん」
女は、私とフランを見比べながら、楽しそうに言った。
「私の名前はオルバといいます。そして――」
ふわりと、彼女の指先に魔力が集まる。
「さようなら」
その言葉が、静かに空気を震わせた。
風が、一瞬だけ止まった気がした。
次回「爆発に咲く花」
火曜日、金曜日 20:00更新




