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ダンジョンのヌシ


「――来る」


フランが短く告げた直後、世界が一気に速くなった。


足元の床が、きしむ音もなく一気に白く凍りつく。氷の膜がツルリと伸び、その上をフランが靴底ごと固定した私を抱えて滑り出した。


冷たい風が顔を切り裂くみたいに横を通り過ぎる。

ヌシの咆哮が、少しあとから追いかけてきた。


「時間がないから、手短に行くよ」


フランの声はやけに冷静だった。背後では、さっき見た“それ”――ダンジョンのヌシが、石柱をなぎ倒しながらこちらへ躍り出てくる。


四階建ての塔みたいな巨体。

岩と獣を無理やりくっつけたような体表は、黒鉄色の甲殻で覆われている。

頭は狼に似ているけれど、眼窩が深くえぐれ、目玉の代わりに妖しく光る赤い結晶がはめ込まれていた。


肩から生える無数の尻尾は、一本一本が巨大なムカデのように節を持ち、その先端は鋭い毒針で光っている。

踏みしめるたびに、地面の石がミシミシと悲鳴を上げた。


「まず一つ。あいつには――魔法は一切効かない。触れた瞬間、“無”になる」


「“無”……?」


「魔力として存在したままでは、ね。逆に言うと――“当てられなければ”魔法は使える。床を凍らせるとか、身体を強化するとか、そういうのは有効ってこと」



フランは氷の床を利用し、ヌシとの距離を一定に保ちながら滑り続ける。

巨体が振るう尾が、さっきまで私たちがいた場所を杭のように穿った。


石片が氷の上に雨のように降り注ぐ。


「二つ目。口から吐く液体に当たると石化する。皮膚からじゃない、粘り気のある黒い唾液みたいなやつ。絶対に触れちゃダメ」


「石化……」


「それから火の玉。さっきの咆哮のあとで口が赤く光ったの、見えたでしょ? あれが来たら、ぼくが壁を出す。でも連発されたら守りきれない」


背後で、ヌシがゆっくりと首をこの方向へ向ける気配がする。

さっきの咆哮はウォーミングアップで、いまからが本番だと言わんばかりに。


「尻尾の先には毒。麻痺じゃなくて壊死系だねえ、たぶん。どっちにしても当たったら終わり」


「終わり……」


「皮膚は分厚い。普通の刃物はまず通らない。けど――」


フランは一度だけ私を抱える腕に力を込めた。


「白の魔力で強化した剣なら、通る。必ず“無垢(白)の魔力”で武器を覆うこと。最悪、素手でもいい」


氷の床の終わりが近づく。フランはスピードを落とさず、指先だけで床を延長しながら滑っていく。


魔法が効かない時点で、魔法使いにとってはほぼ詰みだ。

なのに、説明の内容はどれも“近寄れ”“殴れ”“斬れ”ばかり。


(……無理だ。こんなの、絶対……)


胸の奥でエマがうずくまりかける。


『大丈夫。突破口は必ずある』


フランが、私ではなく、胸の中の“千尋”に向けて言うみたいに、ぼそりと呟いた。


「――だから、その突破口を、君に探してほしい。エマ」


そう言うと、フランは私の靴だけを氷から解放した。


「君の速さを、少しだけ速くしたよ」


「え?」


「滑り方とかは、身体で覚えて」


腕の中からそっと私を離し、自分だけヌシの方へ向かって滑っていく。


私はその場に取り残された。



氷の床の上に、心もとない足が二本。


「……っ」


恐る恐る体重をかけると、靴底がツルリと滑った。

バランスが崩れ、尻もちをつきかける。


(これは……スケートの要領だな)


千尋の声が、すっと前に出てくる。


頭の片隅に、地球の冬の日の映像が浮かんだ。

大輔と二人で行ったスケートリンク。

最初は壁から離れられなかったのに、何度も転んでいるうちに滑れるようになった、あの感じ。


私は一度、深く息を吸う。


「……できる」


片足を少し前に出し、氷の面をそっと蹴る。


すべる――けれど、思ったほど怖くない。

いや、身体が軽い。空気の抵抗が薄くなったみたいに、すうっと前に出る。



ヌシの動きが、さっきより少しだけ“遅く”見えた。


尻尾の軌道も、巨体の重心の移動も、ほんのわずかだが読める。


(いける!)


そう思った瞬間だった。


それまでフランだけを追っていたヌシの赤い結晶の目が、ふいにこちらを向いた。


「エマ!」


フランの叫びが飛ぶ。


ヌシの喉奥が、溶岩みたいな赤色に光った。


「っ――」


ほとんど反射的に身をひねる。

だが、間に合わないと理解したのは、熱がまだ届いていないのに皮膚が焼ける予感だけ先に走ったからだ。


次の瞬間、目の前に“壁”が生えた。


透明な氷の壁。

分厚く、滑らかな表面に、轟音とともに火の玉が叩きつけられる。


爆ぜた炎が壁全体を真紅に染め、ひびが蜘蛛の巣のように走った。


「……フラン!」


振り向くと、フランはすでに別方向からヌシに肉薄していた。

無数の尻尾を紙一重で避けながら、私の方へちらりとも目を向けない。


(このままだと、私は……本当に足手まといだ)


焦りが喉までせり上がる。

何か、何かできることは――。


ヌシは再びフランへ意識を戻し、尾の嵐をたたきつける。

一本がフランの側頭部をかすめ、彼の身体が横に弾き飛ばされた。


石壁に激突する音。氷が砕ける音。

その直後、そこを狙いすましたかのように、残りの尻尾が一斉に襲いかかる。


「フラン!」


思わず叫んでいた。


尻尾が刺し貫いたのは――フラン“らしきもの”だった。


氷の像だ、と気づいたのは、その身体が粉々に砕け散ったあとだ。


(いつ入れ替わった……?)


気づけば、私のすぐ近くに、本物のフランが立っていた。


「危なかったあ」


額から汗をだらだら流しながら、いつもの調子で笑う。


「エマ、弱点を探して。ぼくも無限には避けられない。このままだと……分かるよね?」


最後の一言だけが、やけに現実的だった。


フランは再びヌシへ向かって滑り出す。

彼が前線を引き受けているその間に、私は必死で“突破口”を探した。




何度も迂回し、背後に回ろうと試みる。

だが、扇状に広がる尻尾が、必ずその道を塞いだ。


(くそ……)


体勢を低くして速度を上げる。

氷の床を蹴るたびに、身体は思った以上のスピードで前に出た。


ヌシの死角を探す。

尻尾の基部。足の裏。顎の下。胸の中心。


どれも分厚い甲殻に守られている。

無垢の魔力で強化した短剣を握りしめるが、このまま突っ込んだところで尾の餌食だ。


前に回ろうとしても、尻尾が壁のように降ってくる。

側面を狙えば、今度は液体が飛んでくる。床に落ちた滴が、石を灰色に変えながら固めていく。


圧倒的不利な状況


(でもこういう時に、いつも突破口を見つけるのは――)


千尋がぼそりと呟く。


(強い奴じゃなくて、弱い方だ)


私はヌシの動きを追うのをやめた。

代わりに、滑りながら、意識だけを“背中側”へ伸ばす。


ヌシが体をひねるたび、背筋の瘤がぐにゃりと動く。

その間から、何かがちらりと光った。


(……今の)


もう一度、角度を変えて滑る。

尻尾の雨を、ギリギリのところで身を伏せながらすり抜ける。

ヌシの横腹をかすめて――背後を、斜め上から覗き込む。


そこにあったのは、石とは違う硬質な輝きだった。


ヌシの背中の中央、盛り上がった瘤のあいだに、透明な塊が埋め込まれている。

内部で淡い光が脈打ち、まるで巨大な心臓のようにわずかに脈動していた。


(クリスタル……)


あの光は、知っている。

神殿にあった、魔力を測るためのクリスタル。

エマとして、千尋として。あの場所で、一度命を飲まれかけた


背中のクリスタルが、淡く明滅するたび、周囲の空気から何かが吸い上げられていく感覚があった。

魔力。

このダンジョンに満ちていたもの。


「――見つけた」


思わず立ち止まった瞬間、足の下の感触が変わる。

氷が途切れ、そのまま素の床を踏んでしまった。


身体ががくんと前に傾く。

姿勢を立て直す前に、尻尾の影が視界を覆った。


「まずい……!」


たいまつの炎が影に飲まれる。

尻尾が振り下ろされようとした、その瞬間――


透明な壁が、私と尻尾の間に割り込んだ。


「っ!」


尻尾が氷に触れた瞬間、壁は霧みたいに消える。

だが、その一瞬の猶予で、誰かの腕が私の身体を抱きかかえていた。


氷の床を滑る感覚。

勢いよく引き寄せられ、数メートル先まで運ばれる。


「今のは危なかった……ね」


フランが笑った。額の汗は、もう“冗談”では済まない量だ。


「……フラン」


「――なんか“掴んだ”顔だね、エマ」


「アイツの背中に、異様な光がある。神殿のクリスタルに似てる」


私は息を整えながら言った。


「恐らく、クリスタルが魔法を吸収している。あいつ自身が無効化しているんじゃなく」


「なるほど。……つまり、それを壊せば“無効化”は解ける、と」


フランの眼が細くなる。

その表情は、いつもの飄々(ひょうひょう)としたものとは違っていた。

何かを冷静に分解し、組み立て直す“戦い方を知っている人間”の顔だ



「じゃあ、ちょっと無茶するね。……期待してるよ、エマ」


そう言うと、フランは氷の床に片膝をつき、姿勢を低く構えた。

氷の上にうっすらと速度の線みたいなものが走る。

空気が鳴った。


ヌシの眼が、フランを見失う。

床を叩く尻尾の軌跡を、フランはぎりぎりでくぐり抜け、時に氷の刃で切り払いながら、円を描くように加速していく。



「……っ!」


目で追えない。

ヌシの方に向かったはずなのに、彼の残像しか見えない。


ヌシも追いつけていない。

巨大な頭が遅れて振り向き、尻尾が空を切る。


フランは一瞬でヌシの背後へ回り込んでいた。


「エマーーッ!!」


一瞬だけ、時間が伸びる。

フランが、ヌシの頭上――クリスタルの少し上へ向かって、何かを投げた。


銀色の鎖が、空中で光を反射する。


(アルクの……ネックレス)


それはゆっくりと、クリスタルの上空で回転しながら、落ち始めた。


「飛べーーッ!!」


フランの声と同時に、尻尾の一撃が彼の胴体をとらえた。

氷の破片と共に彼の身体が宙を舞い、ダンジョンの壁へ叩きつけられる。


「フラン!」


叫びかけた声を、千尋が内側から押しとどめた。


〈考えている時間はない〉


〈出来るか出来ないかじゃない。“やるんだ”〉



私はネックレスに向かって手を伸ばす。


そして目を閉じた。


アルクの顔を思い出す。

あの無邪気な笑顔。

見慣れた田舎町ルナフィールの川辺。

並んで座ったときの、肩の重さ。


アルクが、私に⋯何かを言う。


――右手を、出して。


すっと差し出される、少年の拳。


(頼むぞ、相棒)


そう聞こえた気がして、私は自分の右手を握りしめる。


「……ああ」








――任せろ、相棒。




拳と拳が、どこか遠い場所で重なった感触が走った。


世界が、音もなくひっくり返る。


まぶしい光が視界を埋め尽くし、足元の感覚がふっと消えた。


風が顔の横をちぎれるみたいに落ちていく。

自分がいま、どこにいるのか理解するのに数秒かかった。


目の前に、ヌシの背中。


黒鉄色の甲殻が割れ、そのあいだから埋め込まれていた巨大なクリスタルが姿を現している。


短剣の刃は、無垢(白)の魔力で包まれている。

身体強化で高めた筋力と、落下のスピード。

すべてを乗せて、私は叫びながら振り下ろしていた。


「はぁあああああああ――ッ!!」



巨大なガラスをハンマーで叩き割ったみたいな音が、ダンジョン全体に響き渡った。


挿絵(By みてみん)


次回「希望と‥」金曜日20:00

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