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コントロール

トイレのドアを開けると、そこは異世界だった。


平和堂の通路。買い物カゴを抱えたほのかが「ちょっとトイレ」と駆けていく。私はその隣の個室に入り、用を足し、鍵を外し、ハンドルを回す――


――そして、扉の先に広がったのは、蛍光灯の白ではなく、麦畑の金色だった。


乾いた風。藁の匂い。遠くで土を起こす鈍いリズム。

私は自分の姿を見る

平和堂の買い物カゴとエコバッグ‥

サンダルに、ほのかのお下がりのプリントが剥がれかけたシャツ‥

「⋯⋯」


(しっかりコントロールできるようにならないとな)


私は、強く。強く。そう思った。


麦畑の畦道を歩く。父――アランの背中は、相変わらず大きい。鍬を担いだ肩が、土の匂いといっしょに上下している。もうひとつ、見慣れない影が寄り添っていた。


「……コール?」


王命騎士団の副団長が、麦の穂を一本抜いて光にかざしていた。二人は何かを話ている。


(いつからこの人は農家になったんだろう)


私の気配に気付き

同時にこちらを振り向く。次の瞬間、父は鍬を投げ出して走ってきた。


「エマ……! 無事か……よかった」


抱きしめられた胸元に、汗と土と家の匂いがまざる。

「うん。大丈夫。……ただいま、お父さん」


頬が勝手に熱くなる。

(良いものだな、“父親”というのは)

幼いころに父を亡くした千尋の温度が、私の涙腺をやさしく押す。


「よかった」

少し遅れてコールも駆け寄ってきて、掌で私の頭をポンと叩いた。

どこか兄の仕草に似ている。エマにも千尋にも、兄弟の記憶はないのに。


「ありがとう、コール。……でも、どうしてここに?」


「フラン殿から連絡があってね。『エマが急に消えた』と。ここへ戻ると思って先回りした」


フラン――ダンジョン。

(閉じ込めたのは殺意じゃない。速く掴ませる近道だと、あいつは本気で思っている)


その夜は、久しぶりに三人で食卓を囲んだ。母ナミの煮込みは少ししょっぱくて、でも箸が止まらない。笑い声のすき間に、私は心の中で小さくつぶやく。


(もう一度、彼に会う。ちゃんと向き合って、聞く)




翌日。私はコールとともに王都へ戻った。


城門をくぐるなり、陽光の直撃――ではなく、上半身裸の直撃が来た。


「おう! 帰ったかぁぁ!」

団長カインが、筋肉で挨拶してくる。短パン‥寒くないのかな?


「団長、上に何か着てください」

コールの眉間に、いつものしわ。


そして、その横。何事もなかった顔で椅子に座り、氷の水差しを回していたのは、アスガルド唯一の“虹”――フランだった。


「フラン……」

私を見つけると、彼は嬉しそうに指を振る。


「やあ、エマ。心配しましたよ。急に消えるんですから」


「……なんで“急に消えた”って知ってるの?」


「そりゃ、わかりますよ。僕も“そこ”にいたから」


心臓が小さく跳ねた。

「だって、扉を閉めたじゃ――」


「入ったあと、わからないように追ったんです。危なくなったら助けるつもりで。……ただ、びっくりしましたよ。君が、ぱっと“いなくなった”んですから。あれが君の固有なのかなあ?」


彼は悪びれず笑う。氷がグラスで鳴る音だけが、無駄に涼しい。


「フラン殿」

コールが一歩前に出て、言葉を切る。

「エマは今、疲れている。続きは後日に」


「ちぇ。わかりましたよ、コール副団長」

フランは肩をすくめ、私へ視線だけ残した。

「じゃあエマ、また――ルミナリアで」


軽い足取りで去っていく背中を、団長が後頭部をかきながら見送る。

「まったく。お前ら、もう少し仲良くできんのか」


「ねえ、さっきの“仲間”って?」

私は小声で問う。


コールは短く息を吐いて、団長を見る。団長が先に口を開いた。

「あいつ、王命騎士団に入った。しかも“王のお達し”つきだ」


「えっ……ほんとに?」


「ほんとだとも」

コールの横顔が硬い。

「さらに――“総長”の任に就いた。団長より上。……国唯一の虹だ。僕らは、もう容易に手出しできない」


喉の奥がひやりとする。


「エマ、気をつけるんだ。あいつの目的は読めない。接触には、注意と警戒を」


「……うん」




それから数日は、王都での検査と報告に費やされた。


「消える前、“何をしていた”?」

コールが簡潔に問う。机上には方眼の記録紙と倒れた砂時計。


「どのくらいで戻った?」

横から団長が身を乗り出す。上半身は相変わらず、空調より開放的だ。記録係の羽ペンが、紙の上でひっきりなしに鳴る。


私はできるだけ正確に、見たもの・匂い・音を話した。

「平和堂の洗剤の匂い、蛍光灯の白。トイレの鍵の金属の冷たさ。……扉の向こうは麦畑の風」

「ヘイワドウ?センザイ?わからない言葉ばかりだな…」


(地球の言葉では伝わり辛いな‥出来るだけこちらの言葉に言い換えよう)


千尋の助言で、私は同じ出来事を別の言い回しで重ねる。

「“家の匂い”じゃないけれど、落ち着く匂い。鍬の音、父の足音。それから――」


「父、か」

コールがメモに素早く線を引く。

「前回、こちら側へ帰ったときは?」


「向こうの家族がいる家。時計の針、“ただいま”の前の息づかい。……『おかえり』って言ったら、ちゃんと“戻った”感じがした」


「ほう、家族と家の匂いだな!」

団長が大きくうなずき、なぜか自分の胸筋を二回ほど鳴らす。

「結論は“筋――」

「団長、まだです」

コールがさらりと遮り、視線を私に戻す。


「エマ、どちらの世界でも、君の近くには“家族”がいた。こちらではアラン殿。向こうでは向こうの家族」

彼は砂時計を立て直し、指先で軽く弾いた。

「共通点は“家族”。転移の発火は、匂い・音・手触りといった“家のシグナル”に、家族という強い心理的アンカーが重なったときに起きている可能性が高い」


胸の中で、点が線で結ばれていくのがわかる。

(確かに――呼ばれている。いつも“家族”に)


コールは新しい紙を引き寄せる。書く音が落ち着いたテンポで室内を刻む。

「当面は“家族”というアンカーを意図的に用意し、匂い・音・言葉(合言葉)を固定する。偶然ではなく、選んで行き、選んで帰る訓練だ」


団長が腕を組み、にやりと笑う。

「つまりだ。お前が“行く”と決めたときに行き、“帰る”と決めたときに帰る。そういうことだろ、コール?」


コールは羽ペンの先で最後の一行をはっきりと記した。

「結論として……コントロールだな」


窓の外で鐘がひとつ、遅れて空気がふるえた。


次回「コントロール2」

毎週火曜日・金曜日 20:00更新

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