雷鳴⋯そして
我が家の朝は、小さな戦場だ。
「お父さん! 鞄、玄関に置きっぱなし!」
「え、本当だ。危ない危ない」
「あとネクタイ、それ冠婚葬祭用! 黒はやめて!」
「助かった。行ってくる」
父・大輔を玄関から押し出すと、扉が閉まる音に重なって、台所の甘い匂いがふわりと戻ってきた。
……パンケーキの匂い。
エプロン姿の少年――フランは、無言でタブレットをこちらに向ける。
画面では海外の料理人が、薄い生地を鉄板に流し、表面の泡の色で火加減を見極めている。
ホットプレートの上で、金色の生地がぷくぷくと膨らんだ。
「ねえ、三食パンケーキは、そろそろ限界かも……」
私が両手を合わせると、フランは首を小さく傾げ、動画をスワイプ。
塩と胡椒、ベーコン、刻みハーブが映るサムネイルで指を止める。
視線で「これ?」と訊いてくる。
「そう、それ。しょっぱいやつ。助かる」
言葉はほとんど通じない。
それでもこの数日で、彼はこの家に馴染んだ。
“マリーゴールドの匂い”を連れて現れた不穏は、日常の端っこに腰を下ろし、家の匂いに少しずつ混ざっていく。
私は鞄を肩にかけ、靴を突っかけた。
「行ってきます」
フランは、指先で空気を小さくなぞる。
――“良い風を”。言葉の代わりの、向こうの挨拶。
JR琵琶湖線の朝は、人の波に身を任せるしかない。
吊り革の冷たさに指先を引っかけながら、私は一週間前の会話を思い返していた。
京都駅。星乃珈琲。
氷がグラスの内側を叩く音。シロップの甘い匂い。
「この前の子の話や」
新道ヒカルは砂糖の小袋を指でいじり、視線を窓の外に逃がしてから、私に戻した。
「……はい」
「ミステリー作家の血が言うねん」
「ミステリー作家だったんですか?」
「なんやと思ってたんや?」
「いや…えへへ」
「笑って誤魔化すなや、ほんまに。それでな、本題や」
「はい」
「――“帰れへん”やない。“帰ってこれへん”のとちゃうか?と俺は思うねん」
「同じじゃないんですか?」
「ちゃう。“帰れへん”は本人の事情。“帰ってこれへん”は――“誰か”が戻さんようにしとる」
喉の奥が、音を出すのを忘れた。
「監禁か、もしくは――」
「やめて!」
思わずテーブルを叩いた。
店内が一瞬だけ静まり、視線が私たちに集まる。
ヒカルは両手で「すまん」とジェスチャーした。
涙が勝手にこぼれる。
肩に、ぽん、と軽い感触。
フランの指先が、ただそこにある。
「……ごめんなさい」
私はヒカルに頭を下げた。
ヒカルは銀色の硬貨を、私の掌に握らせる。
「験担ぎや。“ルク”。向こうのコインや。ええ風が吹くようにな」
掌の冷たさが、心臓にまで伝わる。
(お母さん、無事でいて)
私は硬貨を強く握った。
膳所駅で降り、ときめき坂を歩き
膳所高校へ向う
空を見上げると、雲が信じられない速さで流れていた。
季節外れの冷たい風が、制服の襟もとを抜ける。
風に紛れてくるのは、微かな――マリーゴールドの匂い。
帰宅し、玄関を開けると、今日の匂いは甘くなかった。
ベーコンを焼く脂の匂い、刻んだハーブの青い匂い、胡椒の尖り。
台所の空気がいつもより立体的だ。
フランは薄焼きパンケーキにベーコンと野菜を載せ、くるりと巻いて見せる。
どう? と、目が訊く。
「革命、起きてる」
冷奴とサラダ、そして“塩味パンケーキ”。
テレビは台風の進路を繰り返し映していた。
『強い勢力を保ったまま、今夜、近畿に接近――』
父はベランダからプランターを家の中へ運び、物干し竿を外す。
母が育てた金木犀の鉢植えは、玄関脇に避難。
「夜に、風が強くなるな。停電にも備えよう」
「私、懐中電灯の電池、替えておくね」
午後九時。
窓の外で、風が一段深い音を鳴らしはじめた。
雨の線が太くなり、ガラスを叩く指の数が増える。
――ふ、と、灯りが落ちる。
「停電か」
「ブレーカーは落ちてない。外だね」
遠くの雷鳴が、間隔を詰めながら近づいてくる。
闇のなか、フランが短く息を吸い、低く何かを呟いた。
「……シャウラ」
稲光が、少年の横顔を白く切り抜く。
彼の視線が食卓へ流れる。私たちもそちらへ目をやる。
アルクのネックレス。風の紋。
ペンダントトップが、蛍みたいに淡く、脈打つ光を吐いていた。
「なんで……」
胸の鼓動が、雷鳴と同じリズムになる。
――窓を、風が叩いた。
――屋根の上で、何かが転がる。瓦か、枝か。
――壁の骨組みが、低く唸る。
――床の底から、突き上げるような一撃。
世界が、裏返る。
真っ暗だった居間が、一瞬だけ真昼みたいに白くなり、つづいて、ガシャーン、と鋭い破砕音。
「二階だ!」
階段を駆け上がる。
踏板が遠くなり、膝が笑う。心臓が速すぎて、息が擦れる。
二階の廊下は停電で灰色だ。
床に散ったガラス片が、稲光のたびに一瞬だけ閃いた。
父の寝室の前で、私は足を止めた。
(――嫌な予感がする)
手が空気を掴んだまま動かない。指先が冷たい。
ドアの向こうで、何の音もしない。
なのに、いる。
――そんな確信だけが、こちらへ歩いてくる。
外では風が唸り、屋根で何かが転げ、遠くの雷鳴が数を詰めて近づいている。
窓と壁の隙間から、雨と土と金属の匂いが細く入り込む。
開けたら、壊れる。
今はまだ「無事かもしれない」という形が、ここに残っている。
開けなければ、その“かもしれない”は割れないでいてくれる。
でも、開けなければ、助けが遅れる。
希望と恐怖は同じ重さで、私の両肩に座っている。
片方を選ぶと、もう片方が消える。
喉の奥で、何かが小さく音を立てた。名前のような、祈りのような
――(お母さん)
背中の後ろで、フランが息を呑む気配。言葉はない。
足音も立てずに近づき、私の肘の少し上に、そっと触れる。そこに“いる”とだけ伝える、静かな合図。
稲光が廊下を白く切り抜き、琥珀の瞳がまたたいた。
彼の肩越しに、アルクのネックレスが淡く脈打つのが見える。
金木犀の香りは――そこには無い。
喉に金属の味が滲む。嫌な予感は、いつも舌の先だ。
「大丈夫だ。俺が開ける。深呼吸して」
父の声は、いつも通りの落ち着いた口調だった。
私はうなずく。
吸って――肺が冷える。
吐いて――手の震えが、少しだけ収まる。
目を閉じる。台所の匂いが一瞬よぎる。
パンケーキ。ベーコン。刻んだハーブ。今夜の食卓。
そして、もっと昔の匂い。洗濯物、シャンプー。
帰ってきた日の、家じゅうに満ちる安堵。
私は目を開けた。父を見る。父はうなずいた。
「行くぞ」
父の手が、そっとノブにかかった。
金属が擦れる微かな音が、雷の間の静寂に吸い込まれていく。
きい、と蝶番が泣く。
ふっと、鼻を刺す匂いが流れ込む。
焦げた肉の匂い。金属みたいな味が、口の奥に広がる。
煙で目が痛い。涙がにじむ。
袖で口と鼻を押さえ、片目を細めた。
床に、ひとつの影。
小柄な、女の子の影が横たわっている。
服は焼けて裂け、布としての働きを失っている。
右腕は黒く炭化し、肌の色がどこにもない。
全身から血が滲み、床板が暗く濡れていく。
――知っている形だった。
視界が、にじんでほどける。
膝が落ち、掌が冷たい床を掴む。
握っていたルクが転がり、からん、と短く鳴った。
金木犀の香りは、どこにもない。
代わりに血の匂いとともに、濃い、濃い、マリーゴールドの気配が部屋を満たしていく。
私は、焦げ跡と血の隙間から、見慣れた眉の線を見つけた。
――雷鳴は遠のき、家の音だけが残る。
「――お母さん」
ほのか編は一旦、ここまでになります。
次の話からは異世界のターンエマ/千尋編。
一体何が起こったのか…少しづつ紐解いていきましょう。
良ければお付き合い下さい。
次回「コントロール」
更新日変更します(*´ω`*)
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