2日 言えなかった言葉
いつもの朝。
いつもの休日。
何気ない退屈な日が、今思えば、その全てが愛おしい宝石のようだった。
その日、私は近所にあるスーパーに、切らした薄口醤油と娘の要望だったプリン買いに行く。ただ⋯それだけだった。
娘のほのかに玄関で見送られ、私はサンダル履きで外に出た。
休日ということもあって、県道は平日に比べて車も人も多い。
生ぬるい風が吹いていた。どこかの家の換気扇から、朝食の魚を焼く匂いがする。
平和な、あまりにも平和な滋賀の朝だった。
横断歩道の前で止まる。
信号は赤。
私はスマホで「今日のやることリスト」を脳内で整理しながら、信号が変わるのを待っていた。
醤油を買う。プリンを見る。帰ったらシーツを洗う。午後は録画したドラマを消化する。
そんな未来が、当たり前に続くと信じていた。
信号が青に変わる。
私は一歩、アスファルトに足を踏み出す。
――キキキキキキッ!!!
鼓膜を引き裂くような摩擦音。
首を巡らせる暇もなかった。
ドンッ、という鈍い衝撃ですらない。
世界そのものが横から殴りつけてきたような、圧倒的な暴力。
視界が反転した。
空が下になり、地面が上になる。
自分の体がボールのように弾き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられる感触だけが、スローモーションのように伝わった。
「が、はっ……」
肺の中の空気がすべて強制的に吐き出される。
何が起きたのか分からない。
起き上がろうとして――命令が、どこにも届かないことに気づく。
視線だけを、ぎぎ、と動かす。
そこにあるはずの私の足が、あらぬ方向へ折れ曲がっていた。
鼻の奥にツンとくる、タイヤの焼けたゴムの臭い。
そして、口の中いっぱいに広がる、錆びた鉄の味。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、早鐘を打っているのではない。
まるで壊れたスピーカーのように、耳の奥で不快なノイズとして響いている。
「キャァァァァッ!!」
「誰か! 救急車! 早く!」
遠くで誰かが叫んでいる。
サイレンの音が、水の中にいるように歪んで聞こえる。
視界の縁から、急速に黒い闇が侵食してくる。寒い。熱いのに、寒い。
――だめだ。
「……い、き……」
唇が震え、ヒューヒューと空気が漏れる。
声にならない。喉が血で塞がっている。
(生きたい)
魂が叫んだ。
(生きたい、生きたい、生きたい……!)
痛い。痛いなんて言葉じゃ足りない。全身を焼かれたような激痛を、私は必死に掴んだ。
痛覚があるということは、まだ生きているということだ。
舌を噛む。じわりと熱い血が広がる。その熱さだけを頼りに、薄れゆく意識を現世に縫い止める。
「大丈夫ですか!」
誰かが駆け寄ってきた。サラリーマン風の男の人だ。
けれど彼は、私の姿を覗き込んだ瞬間、青ざめて口元を手で覆い、視線を背けた。
ああ、見ないでくれ。そんな顔をしないでくれ。
それはまるで、もう助からないモノを見る目じゃないか。
――嫌だ。
ほのかを一人にするわけにはいかない。
あの子は私がいないと、すぐに弱気になって、背中を丸めてしまうから。
(約束、したのに……)
百歳まで生きると。やりたいことをやりきると。
誰とした約束だったか。自分自身か、それとも娘とか。
思考が泥のように重くなる。
ドクン……ドクン…………ト……。
心音が、遠ざかる。
あれほど鮮やかだった赤色が、セピア色に褪せていく。
最後に残った感覚は、強烈な吐き気と、ねっとりと体にまとわりつく湿った鉄――血の匂いだけだった。
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