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母は、異世界で天下を取る   作者: 松本 蛇
第一章『ただいま』編~ プロローグ ~

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2日 言えなかった言葉

いつもの朝。

 いつもの休日。

 何気ない退屈な日が、今思えば、その全てが愛おしい宝石のようだった。


 その日、私は近所にあるスーパーに、切らした薄口醤油と娘の要望だったプリン買いに行く。ただ⋯それだけだった。


 娘のほのかに玄関で見送られ、私はサンダル履きで外に出た。


 休日ということもあって、県道は平日に比べて車も人も多い。


 生ぬるい風が吹いていた。どこかの家の換気扇から、朝食の魚を焼く匂いがする。

 平和な、あまりにも平和な滋賀の朝だった。

 横断歩道の前で止まる。

 信号は赤。

 私はスマホで「今日のやることリスト」を脳内で整理しながら、信号が変わるのを待っていた。


 醤油を買う。プリンを見る。帰ったらシーツを洗う。午後は録画したドラマを消化する。


 そんな未来が、当たり前に続くと信じていた。


 信号が青に変わる。

 私は一歩、アスファルトに足を踏み出す。


 ――キキキキキキッ!!!


 鼓膜を引き裂くような摩擦音。

 首を巡らせる暇もなかった。


 ドンッ、という鈍い衝撃ですらない。

 世界そのものが横から殴りつけてきたような、圧倒的な暴力。


 視界が反転した。

 空が下になり、地面が上になる。

 自分の体がボールのように弾き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられる感触だけが、スローモーションのように伝わった。


「が、はっ……」


 肺の中の空気がすべて強制的に吐き出される。

 何が起きたのか分からない。


 起き上がろうとして――命令が、どこにも届かないことに気づく。


 視線だけを、ぎぎ、と動かす。

 そこにあるはずの私の足が、あらぬ方向へ折れ曲がっていた。


 鼻の奥にツンとくる、タイヤの焼けたゴムの臭い。

 そして、口の中いっぱいに広がる、錆びた鉄の味。


 ドクン、ドクン、ドクン。


 心臓が、早鐘を打っているのではない。

 まるで壊れたスピーカーのように、耳の奥で不快なノイズとして響いている。


「キャァァァァッ!!」

「誰か! 救急車! 早く!」


 遠くで誰かが叫んでいる。

 サイレンの音が、水の中にいるように歪んで聞こえる。


 視界の縁から、急速に黒い闇が侵食してくる。寒い。熱いのに、寒い。


 ――だめだ。


「……い、き……」


 唇が震え、ヒューヒューと空気が漏れる。


 声にならない。喉が血で塞がっている。


(生きたい)

 魂が叫んだ。

(生きたい、生きたい、生きたい……!)


 痛い。痛いなんて言葉じゃ足りない。全身を焼かれたような激痛を、私は必死に掴んだ。


 痛覚があるということは、まだ生きているということだ。


 舌を噛む。じわりと熱い血が広がる。その熱さだけを頼りに、薄れゆく意識を現世に縫い止める。


「大丈夫ですか!」


 誰かが駆け寄ってきた。サラリーマン風の男の人だ。


 けれど彼は、私の姿を覗き込んだ瞬間、青ざめて口元を手で覆い、視線を背けた。


 ああ、見ないでくれ。そんな顔をしないでくれ。

 それはまるで、もう助からないモノを見る目じゃないか。


 ――嫌だ。


 ほのかを一人にするわけにはいかない。

 あの子は私がいないと、すぐに弱気になって、背中を丸めてしまうから。


(約束、したのに……)


 百歳まで生きると。やりたいことをやりきると。

 誰とした約束だったか。自分自身か、それとも娘とか。

 思考が泥のように重くなる。


 ドクン……ドクン…………ト……。


 心音が、遠ざかる。

 あれほど鮮やかだった赤色が、セピア色に褪せていく。


 最後に残った感覚は、強烈な吐き気と、ねっとりと体にまとわりつく湿った鉄――血の匂いだけだった。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
エピソード1では、母親の性格が。エピソード2では、主人公ほのかの人柄が分かるようになっており、しかもそれが母親のやりたかったことを受け継ぐという形で表現されているのがとても素敵だと思いました!ストーリ…
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