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「おかえり」

中学二年の夏。

母は、交通事故で突然いなくなった。


いつもの朝が、その日を境に永遠に帰ってこなかった。

家の中は驚くほど静かで、時計の針の音だけがやけに大きく響いた。


「もう、恥をかかなくていい」

そう自分に言い聞かせてみても、胸の奥はぽっかり空いたままだった。

母がいなくなった世界は、音も色も抜け落ちたみたいに味気ない。


病院で冷たくなった母と対面したとき、記憶が洪水のように押し寄せた。

琵琶湖を一周したあの日。

ママさんバレーの練習で天井に何百回もボールをトスしていた姿。

給食の牛乳で先生を黙らせたあのとき。


全部、恥ずかしくて嫌いだった。

でも今は違う。

あのときの母が、世界でいちばん輝いて見えた。


――私は、母が大好きだった。


遺品を整理していると、机の引き出しから一冊のノートが出てきた。

表紙にはボールペンで大きく「やりたいことリスト」と書かれている。

ページを開くと、一番最初の行にこうあった。


《滋賀県立膳所高校に合格する》


「……嘘でしょ」


スマホで検索した偏差値は全国屈指。

その数字を見て、思わずため息が漏れる。


だけど、頭の奥で母の声が聞こえた。

――「やればできる!」


胸の奥に火が灯った気がした。

母ができなかった夢を、私が叶えよう。

それが、私にできる唯一の“おかえし”だ。


その日から、机に向かう時間が増えた。

夜遅く、リビングの灯りだけが点いた静かな家で、

鉛筆を走らせる音が唯一の生活のリズムになった。

指の節が赤くなっても、眠気で目が痛くても、私はノートを閉じなかった。


父は何も言わず、夜食の湯気だけをそっと差し出してくれた。

その温かさに救われながら、季節がいくつも過ぎていった。


そして春。

掲示板の前で、自分の受験番号を見つけた瞬間、膝の力が抜けた。

涙があふれて止まらない。

母の声が、また聞こえた気がした。

――「ほのか、やったな」


私は、母の夢を継いで膳所高校に合格した。



膳所高校の生活は想像以上に厳しかった。

課題も、周囲のレベルも、どれも私の限界を試してくる。

でも、くじけそうになるたびに母の姿が浮かんだ。

「挑戦し続ける姿」を思い出すたびに、また前を向けた。


家では父と二人。

料理は私、ゴミ出しは父。

静かな食卓に笑い声が戻ることは少なかったけれど、

少しずつ、私たちは“母のいない生活”に慣れていった。


――その日までは。


放課後、学校から帰ると、

リビングのドアがわずかに開いていた。

胸騒ぎを覚えながら、私はそっと扉を押し開けた。


そこに、見知らぬ少女がいた。


肩までの栗色の髪。

宝石のように光る瞳。

十歳ほどの、小さな体。

まるで絵本から抜け出したような、人形めいた美しさ。


淡い青と白の刺繍チュニックに、小さな肩ケープ。

見たこともないデザイン――まるで異世界の服。


少女はゆっくりと私を見上げ、微笑んだ。


「おかえり」


一瞬、時が止まった。

声の響きが、あまりにも母に似ていた。


息をのむ私をよそに、窓から夏の風がカーテンを揺らした。

遠くで蝉が鳴き始める。

世界が静かに、確かに動き出そうとしていた。


次回:第3話「エマは魔法が使いたい」/更新:金曜20:30

挿絵(By みてみん)

玄関の「おかえり」、どんな印象でしたか?

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