ていうかWho are you?
母が帰ってきた――そう思って父の寝室の扉を開けたら、そこに立っていたのは知らない少年だった。
私と父は顔を見合わせる。
(だれ?)――小声で父に聞く。
(知らない)――父は眉を寄せ、小さく首を振った。
少年はうちの畳の上に裸足で立っていた。
服は裂け、ところどころ焦げて、乾いた血で黒ずんでいる。
右の二の腕には複数の打撲痕に切り傷、膝は砂利で削ったみたいにボロボロ。呼吸は浅く速いのに、目だけはやけにこちらをはっきり見ていた。
「どちら様でしょうか?」と父が恐る恐る声をかける。
少年はビクッと視線をこちらへ向け、驚いたように目を見開いた。そして――
「……ヴェルナ、サリ? ロウ・オルデ……?」
まったく、わからない。
地球の言葉じゃない。私と父は再び顔を見合わせる。
「千尋の友達かな?」と父が今度は日本語で少年に聞く。
(なぜ日本語で通じると思うの……)心の中で突っ込みつつ、私は一歩だけ近づいた。
少年は私たちの顔を順番に見て、なにか考えるように部屋を歩く。棚、窓、ベッド、時計――見慣れないものを小声でぶつぶつつぶやきながら確認して、やがて指を向けた。
「……ダイスケ?」
父を指さす。
「……ホノカ?」
今度は私を。
急に名前を呼ばれて、反射で頷く。少年はその様子を見て、ふいに吹き出すように笑った。
(怖いんですけど‥)
でも、うちの名前を知っているのだから、母の知り合い――なのかもしれない。じゃあ、母は? どうしてこの少年だけが?
「お母さんは一緒じゃ――」と言いかけて、私は止める。
そうだ、向こうでは母は“千尋”じゃない。
(たしか……“エマ”)
「エマ?」と口にすると、少年の反応が弾けた。
「エマ!」
「そう、エマ!」
「エマ! エマ!」
その言葉だけ通じたのが嬉しくて、私と少年は思わずハイタッチをした。
ぱちん――すぐに痛みに顔をしかめ、少年は手を引っ込める。よく見ると掌にも細かい切り傷、指の関節は腫れて皮膚が裂けていた。
「まずは手当てだ」と父。
私も頷く。
父は少年に身ぶり手ぶりで伝える
「傷痛い。いっぱい血でてる。傷痛い。すぐ手当て」
何故…父がカタコト
少年は怪しい父のジェスチャーを見て不思議そうな顔をするが
こくりと首を縦にふる。
(通じたの?マジで)
父は私を見てドヤ顔
「お父さんの上司はインドの人なんだ」
(シランガナ)と私は心で突っ込みをいれた。
父は浴室へ連れていき、ぬるま湯で砂と血を流す。シャワーの水滴が赤くなって、排水口に吸い込まれていく。
上がってきたとき――私と父は息をのんだ。
さっきまで開いていたはずの傷口が、ほとんどふさがっている。ささくれていた皮膚はきれいに寄り、赤味だけが残っていた。少年自身もおどろいているみたいに、腕を見ては指で確かめている。
父のジャージ(M)を着せる。袖は少し長いけれど、変ではない。私のは……さすがに無理。
台所で、昨夜の残りを温め直して出す。最初は恐る恐る口に運んでいた少年が、一口、二口――やがて無言で完食した。
その速さに、ちょっとだけ笑ってしまう。
「今日はうちで休もう。客間はないから、父さんの部屋に布団敷くぞ」
父の提案に、少年は言葉はわからないまま、こくこくと首を縦に振る。目の下の影は濃いけれど、どこか表情がやわらいだ。
翌朝。カレンダーの赤丸が目に入る。月曜日だけど祝日なので、私は学校が休み。父は仕事で早々に出ていった。
少年はテレビの前に正座して、目をまんまるにしていた。ニュースのアナウンサーに合わせて、知らない言葉を少しだけ真似する。
(異世界の子、で間違いないよね……でも、言葉が通じない)
辞書も、翻訳アプリも、たぶん役に立たない。悩んで、私はスマホを取り出す。
――胡散臭い小説家。新道ヒカル。
私は深呼吸して、文字を打つ。
《至急会いたい。例の“本”の件で、進展があります。こちらに迷子が来ました。——異世界帰りの主婦より》
送信。画面に「送信しました」の表示。心臓の音が、指先にまで響く。
テレビの天気予報は、夕方から雨だと言っている。
何かが動くとき、決まって空気は同じ匂いになる。
私はポケットにハンカチを入れ直し、少年の横に腰を下ろした。
「お母さん‥無事だよね」
彼は私の顔を見て、少しだけ笑った。
その瞬間、隣に座っていた少年から、ふわっといい匂いがした。金木犀――母が好きだった、あの甘くやさしい秋の香りに、よく似ていた。
私はスマホを握り直す。
風向きが、ほんの少し変わった気がした。
次回 土曜日更新
次回『京都駅星乃珈琲にて—迷子と作家と1枚のコイン』
京都駅の景色に少年は目を丸くして興奮。
相変わらず胡散臭い新道ヒカルは、平然と「喫茶」で待っています。
湯気と珈琲の香りのなか――
「いったい君は誰なのか?」を三人でほどいていく時間。
ほのかが、ヒカルに“おじいさん”の話をそっと引き出すと、
ヒカルはふと思い出したように、財布から一枚のコインを取り出す。
卓上で、それがかすかに鳴った瞬間――物語は加速します。
次の一杯は、どちらの世界の風が冷ましてくれるのか。
どうぞお楽しみに。
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