良き風を
物語が動きだす前触れは、決まっていい匂いがした。
待ち合わせは京都駅ポルタ前。現れた新道ヒカルは、噂どおり“胡散臭い”。ぼさぼさ頭に無精ひげ。だぼっとしたロングTにジーンズ。なのに目だけは妙にまっすぐだ。
「えっと、新道ヒカルさんですよね?」
「うん。そっちは――手紙くれた親子?」
私ほのかと小さい母――千尋はぺこりと会釈。私は肘で母の脇を小突き、耳打ちする。
(怪しいから。財布と心は固く閉じて)
(了解だ。あとでパンケーキ食べたい)
(今それ違う!)
近くのカフェに入る。三人で窓際の席。コーヒーが来るまでの沈黙を破ったのは、ヒカルだった。
「俺の本、読んだんやって?」
「『異世界ユノリアの歩き方』。ええ、全部」
「感想は?」
「……レビューで★2の理由が、少しだけわかりました」
「正直でええやん。星減るたびに胃に穴あくけどな、こっちは」
ヒカルはカップを持ち上げ、ふう、と息を吐いた。
「元ネタはな、うちのじいさんの“旅話”。親族はホラや言うて笑ろてた。俺も信じてへんのやけど――話としてはおもろかった。せやから書いた。それだけや」
「お祖父さん、どんな人?」
「頑固やな。よう食て、よう笑う。死ぬ直前まで『風は西から』やらブツブツ言うてたな」
「“風”……」
小さい母がカップの縁を指でなぞる。ヒカルは肩をすくめた。
「信じてへんよ。でもな、遺言だけは守るて、じいさんと約束してん」
「遺言?」
「『いつか誰かが来る。そのとき渡せ』やて」
どこか照れくさそうに言い、ヒカルはメニューを開いた。
「店員さん! パンケーキ三枚。生クリーム増量で」
「さっきの話の重さと注文の軽さのギャップ!」
「別にええやんか。糖分は正義って言うやろ?」
届いたパンケーキを、千尋が嬉しそうに切り分ける。私はバターが溶ける様子を見て、ツッコミを忘れそうになる。
「本、売れてます?」と私は聞いた。
「びっくりするほど売れてへん。ネットで殴られ、実家では黒歴史扱い。まあ、どっちも慣れたけどな」
苦笑い。だけど目の奥の火は、消えていない。――この人、嘘はつかない。面倒だけど、筋は通ってる。
ゆるい空気のまま、時間だけが過ぎる。そのとき、ヒカルが何気ない調子で言った。
「そういえば――メールにあった“異世界帰りの主婦”って、どっちや?」
「私」千尋が手を挙げる。
「子どもやん」
ヒカルは片眉を上げ、少し身を乗り出した。
「ほな、名前は?」
「名前か? 千尋だ」
「シブいなぁ……まあええか。向こうでは――名前、違うてたりせえへん?」
「向こう、とは?」
「向こうや。異世界。……『アルク』って、言わへんか?」
「アルク?」
――空気が、変わった。
今の声、お母さんじゃない。
呼吸のリズムが変わった。背筋がすっと伸び、言葉の選び方が一拍だけ幼くなる。私の知っている「小さい母・千尋」は、いつも大人の間合いで家事の手つきをして、台詞の端に余裕があった。けれど、目の前の子は反射で身を乗り出して、まっすぐ問う。
「アルクを――知ってるの?」
胸の奥で、二つの像が二重写しになる。朝に味噌汁の味を整えてくれた“母”と、いま目を見開き身を乗り出している“少女”。同じなのに、力の入り方が違う。手首の角度、瞬きの間隔、語尾の軽さ――ぜんぶ、知らない。
ヒカルは首を振る。だが、声はさっきより少しだけ柔らかい。
「知らん。せやけど、じいさんの遺言に“その名”があったんや。『いつかアルクが現れる。会えたら、これを渡せ』ってな」
ポケットから小さな革袋。からん、と乾いた音。取り出されたのは、古びた銀のネックレス――風の紋様が細く彫り込まれている、ペンダントトップ付きだ。
千尋――いや、少女の指先が、そっと触れた、その瞬間。
ビリッ。
小さな電気が跳ねるみたいに、指先から手首へ薄い光が走った。窓から吹く風に混じって、どこか知らない花の、甘くやさしい香りがふわりと滲む。ついでに、風鈴みたいな極小の音が、テーブルの上で一度だけ鳴った。
「……!」
少女は息を飲み、両手でネックレスを包む。胸元に押し当てると、波紋のように体温が広がっていく。目の奥に、遠い夕暮れの色――土の道、並んで走る小さな影――が、一瞬だけ灯った。
「アルクは、私の友達。……私の、生まれた町で一緒に育った。もう、いないけど」
――わかった。これは“異世界の友だちを失った子”の顔だ。
ヒカルは視線を落とし、ネックレスと少女の指の境界をじっと見た。その目は、異世界は信じないと言いながら、目の前の現象は否定しない目だ。
「異世界の話は、まだ信じひん。せやけど――“死んだ友だち”の話はな、信じるわ」
彼は小さく笑い、ネックレスを少女の掌に乗せ直す。
「渡す相手が“アルク本人”やなくても、今はそれがいちばん正しい気ぃする。……ええか?」
少女はこくんと頷いた。窓の外を、やわらかい風が通り過ぎる。花の香りが、ほんの少しだけ濃くなる。
(……良き風を)
誰の口から漏れたのか、はっきりしない。カップの表面の薄い泡がかすかに震え、私たちは同時に顔を上げた。
日常は、まだこちら側にある。
でも、物語の扉は、たしかに少し開いた。風の匂いが合図をくれるみたいに、ネックレスの紋様が一瞬だけかすかにきらめく。
――次に吹く風は、どっちの世界からだろう。
次回16話「燃費」金曜日20:30更新
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