迷宮ダンジョン
それは、まるで生き物のように呼吸していた。
洞窟の奥から、かすかな“脈動”が響く。
ゴウ、ゴウ――心臓が鼓動を打つみたいな重い音。湿った空気。壁面にびっしり生えた苔が、吸う息に合わせて微かに震える。
「……ここ、ほんとに“生きてる”みたいだ」
私は足を止めてつぶやく。声はすぐ闇に溶けた。
夕焼けが石畳にのび、尖塔の影が足もとを切り取る。
「いつからダンジョンに通ってるの?」と尋ねると、フランは肩をすくめ、昔話の最初のページをひらりと開くみたいに語り出した。
「昔――つまらない話だよ。家が燃えてね。両親も家臣も。ぼくは捕まって、刺されて、沈められて、折られて。まったく教育熱心な人たちで」
言い方は軽いのに、声の温度だけが一瞬下がる。
「目が覚めたら皆死んでた。ぼくを誘拐した人たちも、両親を殺した人たちも。追ったら、黒幕は兄だった。兄は泣いてた。“お前の力は呪いだ”って、ね。だから――」
私は息をのむ。
「殺したよ。兄は最後に“ごめんな、フラン”って。強い力を持つと、全部失うんだって、そのとき思った」
言葉をなくす私に、フランはふっと笑って話を閉じる。
「瀕死で転がってたら、冒険者の人たちに拾われてね。ご飯くれて、笑って、嘘つかない人たち。いい人たちだった。でもA級のダンジョンで、ぼく以外は皆死んだ。ぼくは逃げた――いや、逃がされたかな。力、まだコントロールできなかったし、子どもだったから。だからまた通うことにした。いつか、ちゃんと終わらせるために」
「……フラン」
「はい。――今日は入口だけ。手ほどき」
“手ほどき”。彼の口から出ると、心臓が急に忙しくなる。
王都の外れ。ギルド標柱に「A級」と刻まれた坑口が口を開けていた。
洞口の風は冷たく、内側の空気は澄みすぎている。フランが掌に水を集め、ふっと息を吹く。水は薄い板になり、次の瞬間、霜の花を咲かせた。
「氷は、水七・風三。割合で性質が変わる。風が少なければ凍らない、逆に多いと砕ける。絵の具みたいで楽しいでしょう?」
氷花は静かにきらめき、指先の合図で霧にほどける。
「……綺麗」
「ぼくは水と風が得意。で、“虹”はもう一つ固有を持てる」
さらりと言う。
「エマにも、エマの固有がある。だから、今日の“手ほどき”」
「私の固有……?」
「さ、置いていくよ。急いで」
灯りも持たず先を歩く背中。私は短剣の柄を確かめて、あとを追った。
下る。石段はやがて湿った土に変わり、回廊は狭く、天井は低い。遠くで水の落ちる音。
やがて通路は巨大な扉で途切れる。鉄ではない。圧縮した骨のような白。継ぎ目から微かな冷気。
フランが扉に指を当てる。
「この先、ギルド地図では空白。名前のない場所」
扉が音もなく開いた。
「力の使い方――方法は簡単さ」
真っ黒な空洞。冷たい風。
「死にかけること、さ」
ひらひらと手を振る。子どもが遊びの続きを誘うみたいに。
背中を軽く押された気がして、私は一歩、二歩――闇に踏み込む。
直後、扉は静かに閉まった。
「フラン!」
返事はない。代わりに、擦れる音。無数。
壁から剥がれた影が地を這い、立ち上がる。
目が慣れる。四肢が長すぎる獣。骨が外に出たまま乾いた皮で覆われたもの。牙の間で小さな舌が笑う。
(――怖い)
喉が鳴り、膝が震え、心臓がのどへ上がってくる。
その瞬間、胸の奥で誰かが小さく息を吸った。
(大丈夫、交代する)
――千尋が前に出る。
芯がすっと定まる。視界の輪郭が鋭くなる。
短剣を抜く。順手で握り、刃は相手の喉と目線を一本で結ぶ。肩の力を落とし、つま先と踵で三角を描く。
一頭が跳ぶ。首が伸びる瞬間、半歩内側へ。顎の付け根を斜め上へ切り上げる。軟骨の隙間を刃が滑り、血が霧になって散る。着地前に頸を断たれ、巨体は自分の勢いで転がった。
二頭目は低い。右へフェイント、左へすり足で抜け、後脚の腱を水平に払う。体重を失った後肢が折れ、横倒しになった喉へ突き。
柄尻まで沈めず、短く刺して短く抜く――血で刃を重くしない。
三頭目。壁沿いに回り込む爪。前脚の第二関節へ刃を当て、受け流す角度で滑らせる。爪が石を叩き、火花。懐に潜り、心窩部を斜め下からえぐる。鈍い悲鳴が腹の中で震え、崩れ落ちた。
(数えるな。線だけ見る)
視界の中心に一本の線。敵の重心がそこを越える瞬間だけを掴む。
足裏で地面を掴んで離す。前へ出る時は短く、引く時は長く。背を壁にしない。
群れが厚みを増す。目の数が増える。
背に重み。踏まれる。肩に歯が食い込む。視界が赤く点滅。巨体が覆いかぶさり、地面へ押し潰す。爪が肋骨をなぞる。
(まだ、だ)
短剣を逆手に持ち替え、肘を畳み、体を“コ”の字に丸める。首を守り、膝で相手の腹を支点に。
逆手の刃を頸動脈のラインへ差し上げ、手首だけで切る。
巨体が痙攣し、のしかかる重さが一瞬だけ増す。肺が潰れそうだ。肩の肉が裂ける音。視界の端が暗い。
牙が再び迫る。今度は避けきれない角度。死角――
そのとき。青白いテレビの光がぱっと点いた。
居間。高校生の私。ソファでコントローラーを握る大輔がのけぞる。
「うわぁー、やられたー!」
「どうしたんだ?」私は麦茶を置く。
「……ヤバい場所に飛ばされたー」
「なんだそれは?」
「罠だよ。モンスターを大量発生させて、プレイヤーを殺そうとするんだ」
「逃げればいいじゃないか?」
「逃げられないんだよ」
「じゃあ、どうする?」
大輔は画面から目を離さず、親指だけでボタンを連打する。
「道は二つ。モンスターを全部倒すか――」
「もう一つは?」
「死ぬしかない」
画面のキャラが光になって弾ける。大輔は苦笑して、また最初から。
――映像が途切れる。
(そうか。ここは――あの“ヤバい場所”と同じ理屈)
言葉にはしない。ただ理解が背骨を走る。
“二つ”に、私は三つ目を足す。
(帰る。生きて、帰る)
指先が熱い。鼓動が耳のそばで鳴る。視界の端で、時間が二重に重なる。
落ちてくる爪の軌跡が、薄膜の向こうに遅れて見える。
私はその“膜”を指で裂くみたいに、心の中で選んだ。
「――帰る」
世界が、真横に折れた。
音が戻る。時計の針。冷蔵庫の低い唸り。洗剤の匂い。
目の前は見慣れた木目のドア。少し剥げた畳。白い天井。蛍光灯カバーのひび。
そこは知っている場所――大輔の寝室だった。
膝が勝手に抜け、ベッドの端に手をつく。制服は破れ、血で重い。肩が焼けるように痛む。
「……っ!」
声のする方を見る。大輔と、娘のほのかが、信じられないものを見る目で立ち尽くしていた。
「……ただいま」
声は驚くほど小さかった。
でも、世界はたしかに“こちら側”だった。
次回:第14話「ただいまをもう一度」/更新:金曜20:30
読んでくださってありがとうございます。
感想・レビュー・ブクマ、いつも本当に励みになっています。
XやInstagramも初めました。
小説の挿絵や裏話など呟いてますのでお時間があれば是非!
「母は、異世界で天下をとる」と検索してください。




