母は変わった人だった
――「おかえり」を、もう一度聞きたい。
祈りにも似たその言葉が、私の青春を少しだけ特別なものに変えた。
これは、膳所高に通う私の三年間――その季節の隙間に起きた、不可思議で愛おしい物語。
当たり前の日常と、遥かな“異世界”が繋がっていた、最初の一日。
私の母は、変わった人だった。
「ちょっと琵琶湖を一日で一周しようと思う」
朝食の味噌汁をすすりながら、当たり前みたいに言う。
「……は? 本気で? 一周だよ?」
「本気だ。自転車ならいける」
滋賀県民の私(松本ほのか)は知っている。 琵琶湖一周=二百キロ超。普通は一日じゃ無理。
それなのに母・千尋は、 ノートにルートと時間配分を細かく書き込み、 古びたママチャリに水筒を括りつけて――
本当に出発した。
「どうせ途中で帰ってくる」 そう思っていた夕方、母は全身汗だくで帰宅。
サイクルメーターは二百キロを超え、 母は床に倒れ込みながら笑った。
「やってみれば、案外できるもんだな」
私の母は、いつもこうだ。 人目なんて気にしない。やりたいことはやり切る。
そのめちゃくちゃさに、 私は何度も恥をかき、何度も呆れた。
――でも、今なら分かる。 それが、母の強さだったのだと。
(このときの私はまだ知らない。 “おかえり”から、世界が動き出すことを)
小学生の頃、私は男の子と喧嘩したことがある。
きっかけは、給食の牛乳をふざけてこぼされたこと。
ついカッとなって掴みかかり、取っ組み合いになった。
放課後、呼び出され保護者面談になった。
相手の母は派手なメイクに巻き髪、どこかギャルっぽい人だった。
先生を挟んで座った途端、母は言った。
「ああ、確かに。牛乳を粗末にしたら怒るのは当然だな」
「え、当然って……いや、話はそこじゃなくて、掴み合いの喧嘩でしょ?」
「しかし、牛乳で遊んでいたのだから、そこは両方が反省すべきだ」
「そこは、ただ悪ふざけしただけでしょう?」
「悪ふざけで人に迷惑かけたら、それは悪ふざけじゃなくて迷惑そのものだろう」
論点はどんどんずれていく。
なぜか「牛乳を粗末にしたこと」が一番の問題になっていた。
先生は「まあまあ……お母さん」と言うしかない。
しばらく意味の無い話し合い
相手の母は腕を組んで「まあ……そういう言い方もあるけどさ」と困惑気味。
相手の男の子も私を見て
(大変だなお前の母ちゃん‥)
と哀れみの表情を私に向ける。
私は机の下で縮こまり、顔から火が出そうだった。
その後、不思議なことに相手の母と千尋は意気投合し、
やがて友達のように付き合うようになった。
(なんでやねん)
――――
「ママさんバレーで優勝したいと思う」
夕食の片付けをしながら、母は何気なく言った。
「……今度はなに?」
私は思わずため息をつく。
「ママさんバレーに誘われてな、どうせなら優勝しようと思う」
「お母さん……バレー経験あるの?」
「いや、まったく無い」
「いや! 無理だよ!」
私は激しくツッコミを入れた。
「無理なことは無い。世の中のバレー選手も始めは皆素人だ」
「その人たちは小さい頃からやってるの! 第一お母さん背が低いよ!」
「そうだな」
「ほら、無理だよ……やめようよ」
「背丈は足りなくてもバレーはできる。セッターだ!」
母は胸を張ってそう答えた。
「ほのか! 私はトスを極めたいと思う!」
母はそう言って空を指差した。
空は曇りで、星なんて見えなかった。
――――
それから母は一人で黙々と練習を始めた。
家のリビングで、天井に向かって何百回もトスを繰り返す。
黙って、黙って、ただひたすら。
指先が赤く腫れても、やめなかった。
数か月後、母は試合に出場した。
結果はもちろん優勝とはいかなかったけれど、
母は楽しそうに最後までコートを走り回っていた。
そして数日後、市の広報誌にその試合の記事が載った。
母の写真とともに、インタビューの言葉が掲載されていた。
『セッターは空を支配する役割だ。だから私は“天空の司令塔”を目指す』
……。
私は雑誌を読んだ瞬間、頭を抱えた。
(やめて……ほんとやめて……!)
学校で誰かに読まれたら、恥ずかしさで死ぬ。
でも父は笑っていた。
「千尋らしいじゃないか」
――人目なんて気にしない。やりたいことをやりきる。
それが、私の母だった。
母は言った。
「やりたいことはまだまだある。だから私は長生きする」
その言葉を聞いたとき、私は思った。
――この人は、絶対に私より長生きする。
ひょっとしたら百歳まで生きるかもしれない、と。
そして、そんな母が呆気なく死ぬなんて、
この時の私は思いもしなかった。
でも今なら、少しだけわかる気がする。
母の生き方は、ちゃんと私の中で息をしていたんだ。
次回:第2話「おかえり」/更新:金曜20:30
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