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母は変わった人だった

朝食を片づけたあと、母・千尋はコップを置くみたいな軽さで言った。


「ちょっと琵琶湖を一日で一周しようと思う」


「……は? 本気で? 一周だよ?」


「本気だ。自転車ならいける」


滋賀に住む私、松本ほのかには、その無謀さがわかる。

琵琶湖の湖岸道路は二百キロ以上。普通は一日では無理だ。

それでも母は、机に広げたノートにルートと時間配分を細かく書きこんでいた。


その朝、古びたママチャリに水筒を括りつけ、母は本当に出発した。

私は「どうせ途中で帰ってくる」と思っていた――


――が、夕方。全身汗だくで、母は玄関に立っていた。

サイクルコンピュータの数字は、二百キロを超えていた。


「やってみれば、案外できるもんだな」


倒れ込む母を見ながら、私はただ呆れるしかなかった。



小学生の頃、私は男の子と喧嘩した。

きっかけは、給食の牛乳をふざけてこぼされたこと。

ついカッとなって掴みかかり、取っ組み合いになった。


放課後、呼び出されて保護者面談。

相手の母は、巻き髪に派手めのメイク。どこかギャルっぽい。


先生をはさんで座った途端、うちの母が言った。


「ああ、確かに。牛乳を粗末にしたら怒るのは当然だな」


相手の母が眉を上げる。「え、当然って……いや、話はそこじゃなくて、掴み合いの喧嘩でしょ?」


「しかし、牛乳で遊んでいたのだから、そこは両方が反省すべきだ」


「それは、ただの悪ふざけで……」


「悪ふざけで人に迷惑かけたら、それは“悪ふざけ”じゃなくて迷惑そのものだろう」


論点はどんどんずれていく。

気づけば話題は「牛乳で遊ぶのは悪い」に固定され、先生はタジタジで「まあまあ……」しか言えない。

相手の母は腕を組んで「まあ……そういう言い方もあるけどさ」と困惑気味。

私は机の下で縮こまり、顔から火が出そうだった。


……のに、そのあと不思議と二人は意気投合した。

連絡先を交換し、やがて友達のように付き合うようになった。



ある晩、皿を拭きながら母がさらっと言う。


「ママさんバレーで優勝したいと思う」


「……今度はなに?」

ため息が先に出る。


「ママさんバレーに誘われてな。どうせなら優勝しようと思う」


「お母さん、バレー経験あるの?」


「いや……全く無い」


「いや! 無理だよ!」


「無理なことは無い。世の中のバレー選手も始めは皆素人だ」


「その人たちは小さい頃からやってるの! 第一お母さん背が低いよ!」


「そうだな」


「ほら、無理だよ。やめよう」


「背丈は足りなくてもバレーはできる。セッターだ!」


母は胸を張った。


「ほのか! 私はトスを極めたいと思う」


そう言って空を指差す。――曇り空で、星なんて見えないのに。


それから母は、一人で黙々と練習を始めた。

リビングで、天井に向かって何百回もトスを繰り返す。

黙って、黙って、ただひたすら。

指先が赤く腫れても、やめなかった。


数か月後、母は試合に出た。

結果は優勝とはいかなかったけれど、最後まで楽しそうにコートを走っていた。


数日後。市の広報誌にその試合の記事が載った。

母の写真の横に、インタビューの言葉。


『セッターは空を支配する役割だ。だから私は“天空の司令塔”を目指す』


……。


雑誌を読んだ瞬間、私は頭を抱えた。


(やめて……ほんとやめて……!)


学校で誰かに読まれたら、恥ずかしさで死ぬ。

でも父は笑っていた。


「千尋らしいじゃないか」


――人目なんて気にしない。やりたいことをやりきる。

それが、私の母だった。


母は言った。


「やりたいことはまだまだある。だから私は長生きする」


その言葉を聞いたとき、私は思った。

――この人は絶対に私より長生きする。

ひょっとしたら百歳まで生きるかもしれない、と。


そして、そんな母が呆気なく死ぬなんて。

この時の私は、まだ思いもしなかった。


読んでくれて有難うございます。

▶ 次へ(第2話):https://ncode.syosetu.com/n6439ld/2/

▶ 目次:https://ncode.syosetu.com/n6439ld/

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