母は変わった人だった
朝食を片づけたあと、母・千尋はコップを置くみたいな軽さで言った。
「ちょっと琵琶湖を一日で一周しようと思う」
「……は? 本気で? 一周だよ?」
「本気だ。自転車ならいける」
滋賀に住む私、松本ほのかには、その無謀さがわかる。
琵琶湖の湖岸道路は二百キロ以上。普通は一日では無理だ。
それでも母は、机に広げたノートにルートと時間配分を細かく書きこんでいた。
その朝、古びたママチャリに水筒を括りつけ、母は本当に出発した。
私は「どうせ途中で帰ってくる」と思っていた――
――が、夕方。全身汗だくで、母は玄関に立っていた。
サイクルコンピュータの数字は、二百キロを超えていた。
「やってみれば、案外できるもんだな」
倒れ込む母を見ながら、私はただ呆れるしかなかった。
*
小学生の頃、私は男の子と喧嘩した。
きっかけは、給食の牛乳をふざけてこぼされたこと。
ついカッとなって掴みかかり、取っ組み合いになった。
放課後、呼び出されて保護者面談。
相手の母は、巻き髪に派手めのメイク。どこかギャルっぽい。
先生をはさんで座った途端、うちの母が言った。
「ああ、確かに。牛乳を粗末にしたら怒るのは当然だな」
相手の母が眉を上げる。「え、当然って……いや、話はそこじゃなくて、掴み合いの喧嘩でしょ?」
「しかし、牛乳で遊んでいたのだから、そこは両方が反省すべきだ」
「それは、ただの悪ふざけで……」
「悪ふざけで人に迷惑かけたら、それは“悪ふざけ”じゃなくて迷惑そのものだろう」
論点はどんどんずれていく。
気づけば話題は「牛乳で遊ぶのは悪い」に固定され、先生はタジタジで「まあまあ……」しか言えない。
相手の母は腕を組んで「まあ……そういう言い方もあるけどさ」と困惑気味。
私は机の下で縮こまり、顔から火が出そうだった。
……のに、そのあと不思議と二人は意気投合した。
連絡先を交換し、やがて友達のように付き合うようになった。
*
ある晩、皿を拭きながら母がさらっと言う。
「ママさんバレーで優勝したいと思う」
「……今度はなに?」
ため息が先に出る。
「ママさんバレーに誘われてな。どうせなら優勝しようと思う」
「お母さん、バレー経験あるの?」
「いや……全く無い」
「いや! 無理だよ!」
「無理なことは無い。世の中のバレー選手も始めは皆素人だ」
「その人たちは小さい頃からやってるの! 第一お母さん背が低いよ!」
「そうだな」
「ほら、無理だよ。やめよう」
「背丈は足りなくてもバレーはできる。セッターだ!」
母は胸を張った。
「ほのか! 私はトスを極めたいと思う」
そう言って空を指差す。――曇り空で、星なんて見えないのに。
それから母は、一人で黙々と練習を始めた。
リビングで、天井に向かって何百回もトスを繰り返す。
黙って、黙って、ただひたすら。
指先が赤く腫れても、やめなかった。
数か月後、母は試合に出た。
結果は優勝とはいかなかったけれど、最後まで楽しそうにコートを走っていた。
数日後。市の広報誌にその試合の記事が載った。
母の写真の横に、インタビューの言葉。
『セッターは空を支配する役割だ。だから私は“天空の司令塔”を目指す』
……。
雑誌を読んだ瞬間、私は頭を抱えた。
(やめて……ほんとやめて……!)
学校で誰かに読まれたら、恥ずかしさで死ぬ。
でも父は笑っていた。
「千尋らしいじゃないか」
――人目なんて気にしない。やりたいことをやりきる。
それが、私の母だった。
母は言った。
「やりたいことはまだまだある。だから私は長生きする」
その言葉を聞いたとき、私は思った。
――この人は絶対に私より長生きする。
ひょっとしたら百歳まで生きるかもしれない、と。
そして、そんな母が呆気なく死ぬなんて。
この時の私は、まだ思いもしなかった。
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