1日 母は変わった人だった
高校一年の春。
膳所高校の制服のまま玄関を開けると、家の中が妙に静かだった。
リビングのドアが、ほんの少しだけ開いている。
父の靴はある。なのにテレビの音がしない。
「……お父さん?」
返事はない。
胸の奥が、嫌な形でざわついた。
そっと扉を押し開けた瞬間――
リビングに、少女が立っていた。
肩までの栗色の髪。宝石みたいに光る瞳。
十歳くらいの、小さな体。絵本から抜け出したみたいに整った顔立ち。
淡い青と白の刺繍が入った服は、どう見てもこの国の服じゃない。
少女は、私を見るなり、ゆっくり口角を上げた。
その笑い方が、――嫌になるほど懐かしい。
……そんなはずない。
だって母は。
私の母は、変わった人だった。
「ちょっと琵琶湖を一日で一周しようと思う」
ある日の朝食。
味噌汁をすすりながら、母は当たり前みたいに言った。
「……は? 本気で? 一周だよ?」
「本気だ。自転車ならいける」
滋賀県民の私(松本ほのか)は知っている。
琵琶湖一周=二百キロ超。普通は一日じゃ無理だ。
それなのに母・千尋は、ノートにルートと時間配分を細かく書き込み、古びたママチャリに水筒を括りつけて――
本当に出発してしまった。
「どうせ途中で帰ってくる」
そう思っていた夕方、母は全身汗だくで帰宅した。
サイクルメーターは二百キロを超え、母は玄関の床に倒れ込みながら笑った。
「やってみれば、案外できるもんだな」
私の母は、いつもこうだ。
人目なんて気にしない。やりたいことはやり切る。
そのめちゃくちゃさに、私は何度も恥をかき、何度も呆れた。
小学生の頃、私が給食の牛乳をこぼされて男子と喧嘩になったときもそうだ。
呼び出された母は、相手の派手なギャルママと先生の前で言い放った。
「牛乳を粗末にしたら怒るのは当然だな」
「え、当然って……いや、お母さん、掴み合いの喧嘩ですよ?」
「しかし、牛乳で遊んでいたのだから、そこは両方が反省すべきだ」
「いや、悪ふざけでしょう?」
「悪ふざけで人に迷惑かけたら、それは悪ふざけじゃなくて迷惑そのものだろう!」
論点はどんどんずれていき、なぜか「牛乳を粗末にしたこと」が一番の問題になっていた。
相手の男の子までが(大変だなお前の母ちゃん……)と私に哀れみの視線を送ってくる始末。
私は机の下で縮こまり、顔から火が出そうだった。
(なんでやねん……)
またある時は、「ママさんバレーで優勝したい」と言い出した。
経験もないのに。背も低いのに。
「セッターは空を支配する役割だ。だから私は“天空の司令塔”を目指す」
市の広報誌にそんな大言壮語が掲載され、私は恥ずかしさで頭を抱えた。
けれど母は、家のリビングで天井に向かって何百回もトスを繰り返した。
指先が赤く腫れても、やめなかった。
人目なんて気にしない。やりたいことをやりきる。
それが、私の母・千尋だった。
「やりたいことはまだまだある。だから私は長生きする」
そう言っていた母。
ひょっとしたら百歳まで生きるかもしれない、と思っていた母。
けれど。
中学二年の夏。
母は、交通事故であっけなくこの世を去った。
いつもの朝が、その日を境に永遠に帰ってこなかった。
家の中は驚くほど静かで、時計の針の音だけがやけに大きく響いた。
「もう、恥をかかなくていい」
そう自分に言い聞かせてみても、胸の奥はぽっかり空いたままだった。
通夜の夜、そう自分に言い聞かせてみても、胸の奥はぽっかり空いたままだった。
母がいなくなった世界は、音も色も抜け落ちたみたいに味気ない。
病院で冷たくなった母と対面したとき、記憶が洪水のように押し寄せた。
琵琶湖を一周したあの日。
ママさんバレーの練習で天井に何百回もボールをトスしていた姿。
給食の牛乳で先生を黙らせたあのとき。
全部、恥ずかしくて嫌いだった。
でも今は違う。
あのときの母が、世界でいちばん輝いて見えた。
――私は、母が大好きだったんだ。
遺品を整理していると、机の引き出しから一冊のノートが出てきた。
表紙にはボールペンで大きく「やりたいことリスト」と書かれている。
ページを開くと、一番最初の行にこうあった。
《滋賀県立膳所高校に合格する》
「……嘘でしょ」
スマホで検索した偏差値は全国屈指。県内トップの進学校だ。
その数字を見て、思わずため息が漏れる。勉強なんて好きじゃない。私には無理だ。
だけど、頭の奥で母の声が聞こえた。
――「やればできる!」
胸の奥に火が灯った気がした。
母ができなかった夢を、私が叶えよう。
それが、私にできる唯一の、そして最後の“恩返し”だ。
その日から、机に向かう時間が増えた。
夜遅く、リビングの灯りだけが点いた静かな家で、鉛筆を走らせる音が唯一の生活のリズムになった。
指の節が赤くなっても、眠気で目が痛くても、私はノートを閉じなかった。
父は何も言わず、夜食のうどんの湯気だけをそっと差し出してくれた。
その温かさに救われながら、季節がいくつも過ぎていった。
そして春。
合格発表の掲示板の前で、自分の受験番号を見つけた瞬間、膝の力が抜けた。
涙があふれて止まらない。
春風の中に、母の声が聞こえた気がした。
――「ほのか、やったな」
私は、母の夢を継いで膳所高校に合格した。
高校での生活は想像以上に厳しかった。
課題も、周囲のレベルも、どれも私の限界を試してくる。
でも、くじけそうになるたびに母の姿が浮かんだ。「挑戦し続ける姿」を思い出すたびに、また前を向けた。
家では父と二人。
料理は私、ゴミ出しは父。
静かな食卓に笑い声が戻ることは少なかったけれど、少しずつ、私たちは“母のいない生活”に慣れていった。
母のいない時間が、新しい日常になりつつあった。
――その日までは。
高校からの帰り道。
玄関のドアを開けた瞬間、私の鼻先をふわりと甘い香りがかすめた。
(……え?)
リビングから香る、季節外れの金木犀の匂い。
母の好きだった花の匂いだ。
窓は閉め切っているはずなのに。
胸騒ぎを覚えながら、私はそっとリビングの扉を押し開けた。
(……なんで?)
思考が、一瞬で凍りついた。
そこには、見知らぬ少女がいた。
透き通るような銀色の髪。
人形のように整った顔立ち。
赤い瞳。
どこかこの世界のものではないような、浮世離れした美しさを持つ少女が、母の定位置だったソファにちょこんと座っていた。
泥棒? 不審者?
違う。そんな恐怖よりも先に、もっと根本的な「何か」が私の全身を駆け巡った。
少女が、私を見上げて言う。
「おかえり、ほのか」
その抑揚。
その、間。
その、当たり前のように私の名前を呼ぶ響き。
喉の奥が震えて、声が勝手に出そうになる。
(……ただいま)
言ってはいけない気がした。
それを認めて言った瞬間、私が必死に取り繕ってきた“普通”が、音を立てて壊れる気がした。
けれど、鼻孔をくすぐる金木犀の香りが、それを許さない。
金木犀の花言葉は「真実」。
私は、目の前のありえない“小さな真実”から、目を離せなかった。
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