後編
Act.19
ホン・ソンが休暇を取って旌善郡のスキー場へチェックインすると言う情報が入ったのは三日前だった。もちろんそれは表向きで、イジュンの消息を確かめるためだとわかっている。それから彼がどんな行動に出てくるのかは、未だ見当がつかない。
イジュンは一人で本の部屋に居た。窓の外はまた雪が降っている。だがログハウスは暖かく、静かに時が流れていた。久しぶりに手に障る本の感触は、イジュンを落ち着かせてくれるし、読んでいる間は何も考えなくて良い。イジュンはカップを手に取ると、温かいお茶を口に含んだ。
テヨンとイジュンはホン・ソンより一週間程早く旌善郡に入っていた。
GPSを開放している今はログハウスの位置も解るようになっていて、イジュンの行動は全てホン・ソンにも見張られているだろう。既成事実を作る必要があったのだ。それに韓屋はギジュの砦だ。侵入者が居てはならない。
「気を付けるんだよ。」
いくつものおかずをタッパに入れながら、ギジュは言った。
「考えがあってのことだと思うけど、危険なことは絶対にやらないこと。」
隣でタッパを布巾に包んでいるイジュンが頷ずく。
「例えテヨンが危ない目にあっても、自分のことを護るんだよ。」
「ヒョンを置いて逃げるの?」
「当たり前だろ?第一あの子は自分で自分の身ぐらい護れるよ。そうじゃなきゃ訓練した意味がない。」
それだけテヨンが経験した訓練が過酷だったということだ。イジュンが目を伏せたことをギジュは見逃さない。優しさだけでは乗り越えられないこともある。
「身体的にも精神的にもテヨンは強い。群を抜いているよ。そのテヨンの唯一の弱点が・・・」
イジュンの横腹を突く。ハッとしてイジュンがギジュを見た。
「イジュンだよ。」
真顔のギジュを受けて曖昧に笑う。イジュンにはそれもわかっていた。自分に対する過度な心配と不安がテヨンの感情を支配することも。
「俺は、どうしたらいい?」
「簡単だよ。」
ギジュは最後のおかずを詰め終わると、フタを閉めてイジュンに渡した。
「何もしないこと。」
「何も?・・・」
「普段通りのイジュンでいることだよ。なんとかって社長のことも、ほっとけば良い。高価な宝石を手に入れたいなら、傷つけないようにするだろ?イジュンを傷つけることはしないよ。」
「ハルモ二・・・TVドラマのセリフみたい・・・」
ギジュが笑って頭を掻く。
「ちょっ観過ぎかね・・・」
イジュンが吹き出して、二人はしばらく笑い合う。ギジュが改めて言った。
「それでいい。それで良いよ。イジュンの笑顔が一番テヨンを安心させるし、強くするんだ。」
「うん。わかってる。」
「テヨンが護りたいのは、変わらない二人の日々。イジュンと一緒に時を過ごして歳を重ねていく時間だよ。」
ギジュはイジュンの頬をそっと撫でると、手を握った。
「テヨンを頼むよ。30にもなってどこか子供みたいなところもあるからね。」
イジュンにウインクする。イジュンはニッコリ笑ってギジュを抱きしめた。背中をさすってくれる手が温かい。
_____変わらない二人の日々・・・
イジュンは少し微笑むと、本のページをめくる。その手に大きな手が重なった。
「ご機嫌かい?」
テヨンがイジュンの額にキスをして肩を抱いた。
「その言い方好きだね。俺が笑っていると、いつも言う。”ご機嫌かい?”って。」
「そうだね。」
テヨンが笑った。顔が少し疲れて見える。握った手が冷えているから外にいたのかもしれない。
ログハウスに来てからテヨンはほぼすべての時間、イジュンと一緒に過ごしている。時々、ナムからの連絡やイジュンにもわからないことで部屋を出る時以外は、ずっとこうしてイジュンの傍にいた。一瞬でも離れたら、誰かがイジュンをさらってしまうかのように、目の届くところにイジュンを置きたがった。
イジュンは本を閉じてテヨンの冷えた手をさする。
「どこに居たの?すごく冷たいよ。」
「冷凍庫。」
「え?」
「肉を片してたから。」
嘘に決まっている。だが、テヨンがそう言うならそれで良い。イジュンは笑って言った。
「今日、ステーキ?それとも・・・チャプチェ?あ・・・タッカルビだ!そうでしょ?」
テヨンが笑ってイジュンの頭を撫でる。
「当たり。鶏肉の良いのが入ったからな。手伝う?」
「もちろん!これでも一人暮らし歴は長いんだ。野菜は多めに入れたいな。俺、チョレギサラダなら作れる!」
「任せるよ。」
握っているテヨンの指がほんのり赤く、温かくなってきた。緊張していた身体が呼吸を取り戻す。イジュンはテヨンの顔を覗きこんで言った。
「ヒョンに何かあったら、俺はヒョンを置いて逃げるからね。」
「え?・・・・」
突拍子もない言葉に、テヨンが戸惑う。それを面白そうに見ながらイジュンが続ける。
「ハルモ二に言われたんだ。テヨンは自分の身は自分で護れるって。考えてみればそうだよね。」
「まあ・・・そうだけど・・・でも置いてかなくても・・・」
テヨンの頬が膨らんでくる。イジュンは笑ってそのふくらみを突っついた。風船が割れるみたいに、テヨンは唇をすぼめて息を吐きだした。その顔が可笑しくて吹き出す。二人の笑い声が部屋中に響いた。
「ハルモ二の言った通りだ。ほんとに30歳?」
「大人をからかうな!」
イジュンの頭をグシャグシャにしようと覆いかぶさって来るテヨンに抗いながら、二人はソファに倒れこんで、また笑った。しばらく笑った後、テヨンはイジュンの胸に頬を当てた。イジュンの鼓動を聴いていると安心する。そっとテヨンの髪に指先を絡ませながらイジュンが言った。
「だから・・・・安心してやっつけちゃって。俺はちゃんと逃げるから。その間にボコボコにするんだ。あんな奴・・・」
「イジュン・・・」
「ヒョンが俺を護りきれないかもしれないって心配しているなら、全然お門違いだ。」
テヨンが身体を起こして、イジュンを見た。
「あの社長にとって、俺はレアなんだよね?手に入らないものなんだよね?だから、躍起になってる。俺を手に入れたくて・・・」
イジュンは真っすぐにテヨンを見た。
「手に入るわけがない。俺はヒョンのものだもの。」
「イジュン・・・」
言いかけたテヨンの唇にキスをすると、イジュンは立ち上がった。
「さ、ご飯作ろう!ヒョンと料理するの、実は大好きなんだ。」
その笑顔に惹かれる。愛されることの喜びを知っている者が持っている自信。イジュンはどんどん綺麗になっていく。
テヨンは眩しそうにその笑顔を見ると、手を引かれるままに立ち上がった。
Act.20
太陽の光が雪に反射して、ゲレンデはキラキラと輝いていた。
イジュンはスキー場を歩きながら、スキー客たちの楽し気な様子を眺めていた。
「俺のスマホ・・・」
昨日食事を終えた後、イジュンの前にスマホが置かれた。初めて旌善郡に来た日、テヨンが預かってから一度も触ったことがなかった。イジュンが戸惑っていると、テヨンが電源を入れる。
ピッと音がしてLINEメッセージが入って来た。戸惑いながらスマホを手に取ると、ホン・ソンからだった。
「まだ既読にはしていない。他にもメッセージは入っていたが、それは全部削除した。勝手に見て悪かったが・・・」
恐らく行方をくらましていたイジュンを探そうと、記者たちが躍起になっていたのだろう。イジュンは黙ってスマホを観ていたが、やがてLINEを開けてホン・ソンのメッセージを見た。
≪あの放送以降、行方が分からず心配しています。旌善郡にいるとの情報を得ました。私もスキー場に来ています。お会いしましょう。君と話したい。≫
日付はホン・ソンが旌善郡入りした日となっていた。イジュンは考えあぐねてテヨンを見た。
「どう返信すれば良い?」
テヨンは黙って、イジュンの後ろに回ると首元に何かを付けた。
「ペンダント・・・?」
ヘッドを見ると、テヨンの背中にあるタトゥーと同じものだ。そのままイジュンを抱きしめる。
「このペンダントはお守りだ。絶対に外さないで。」
イジュンは頷いた。いよいよ敵の懐に入るのだ。心臓の鼓動が早くなる。テヨンの手にもその鼓動が伝わってきた。
「大丈夫。俺たちが見ているから。」
「うん。」
イジュンは微笑んでテヨンを見上げる。テヨンはイジュンの髪に唇を埋めると、しばらく抱きしめてから言った。
「明日の早朝、スキー場に行くとメッセージを返して欲しい。客が少ないし、朝は気持ち良いからって。」
言われた通りにメッセージを返す。直ぐに返信が来た。
≪わかりました。ゲレンデでお待ちしてます。≫
「スタンプ送っとく?」
「社長にかい?」
「そうだった。」
イジュンが笑いながら了解のメッセージを送った。
「しばらく電源は入れたままにしておいて。今までイジュンが使っていたみたいにね。」
「わかった。明日は俺一人で行くんだね?」
「うん。・・・・」
一時でもイジュンを一人にしたくない。テヨンの心はずっと揺れている。だが、そのことがイジュンを危険にさらすのだ。今は感情的に流されるわけにはいかない。
「大丈夫だ。ゲレンデはナムが張っているし、俺も観ているから。」
「わかった。」
それでもお互いに身体を離すことが出来ずに、二人はしばらくじっと抱き合っていた。
スキー場まではテヨンが車を走らせた。タレントを送り迎えすることもマネージャーの仕事だ。
車を降りる時も、普段と変わりなく笑顔で対応する。もちろん、車が走っている間、イジュンの手はテヨンの掌に包まれていたが。
暖かいコーヒーを手に、ゲレンデを散歩する。自分を見ているホン・ソンの視線を感じた気がして、背筋がぞっとした。周りを見るが姿はない。イジュンはそのまま広いゲレンデを歩いていた。
身を切るような寒さだが、清々しい。ベンチを見つけるとそこに座った。目の前に広がる雪山は壮大で、しばし現実を忘れさせる。
「元気そうですね。」
耳元で声がした。驚いて横を見ると、ホン・ソンが座っていた。
「お久しぶりです。」
そう言って、手を差し出してくる。イジュンは少し笑ってホン・ソンの手を握った。震えてはいないはず・・・
「ずっと連絡をせずにすみませんでした。」
ホン・ソンは満足気にイジュンを見つめた。まるで品定めでもされているような感覚になる。イジュンは出来るだけ顔を背けないように、注意深くホン・ソンを観ていた。
「身体の具合はどうですか?あの時はすみませんでした。珍しくヨンPDが暴走してしまって・・・まさかミンジュさんまで入って来るとは・・・・」
白々しい言い訳を話しながら、ホン・ソンはこの時間を楽しんでいた。
イジュンと二人きりでゲレンデに座っている。
______これはかなりプレミアだ。
これからの展開がホン・ソンのテンションを上げていた。背中がゾクゾクしてくる。
「どうみても変態だな・・・」
ナムが煙草を口に加えてボソッと呟く。
イジュンに渡したペンダントにはGPSとマイクが仕込まれていた。二人はゲレンデを囲む山肌の中に居る。イジュンとホン・ソンの姿は肉眼で見える位置にあった。指定したベンチにイジュンが座ったからだ。
「話している声が上ずってるぞ。」
テヨンは黙って会話に耳を澄ませている。拳を強く握っているせいで血の気がなくなり肌は白くなっていた。ナムがその手を軽くつつくとハッとしてナムを見る。
「力を抜けよ。頼むから。」
テヨンは目を伏せて、再び会話に集中した。
ここで会話を終わらせて次の機会を得るのか、このままイジュンを拉致するのか、出方をみるしかない。だが、何があってもイジュンをワンクッションにするしかないことが苦しかった。
「ミンジュのことは、残念でした・・・」
本心からイジュンが言った。涙は出ないが、少なくとも最初は一緒に活動した後輩だったからだ。
「そうですね。だが、自業自得でもある。」
サラッと言い放ってホン・ソンは核心を突いた。
「そろそろ復帰しましょう。」
イジュンが驚いてホン・ソンを見る。ホン・ソンはニッコリと笑ってイジュンの手を取った。一瞬、引きそうになるのを堪えて、イジュンが唇を噛み締める。心臓の鼓動が早くなってきた。
落ち着かなければ・・・・・小さく深呼吸をする。
ホン・ソンは手を握ったまま、面白そうにイジュンの様子を見ている。まるで小動物を弄んでいるかのようだ。
「復帰ですか・・・?」
「そうです。」
イジュンの手の感触を楽しみながら両手で包むとホン・ソンは続けた。手袋をしていても彼の指の動きが伝わってイジュンは嫌悪感に目を瞑る。
「君は1年待ったし、濡れ衣も晴れた。ファンは復帰を待っていますよ。それにしても、君のファンは頭が良い。ミンジュの口の動きを読むなんて・・・」
クスクスと笑う。イジュンは耐えかねてそっと手を離そうとした。
「ダメですよ。」
「え?・・・」
「手を離しちゃダメです。」
「・・・・・」
ホン・ソンはイジュンの耳元で囁いた。
「どうせどこかで私たちの会話を聴いている彼のためにも、このままで居ましょう。」
ぞっとしてイジュンが手を振り払った。ホン・ソンの笑い声がゲレンデに響く。そしてスマホを取り出すと、写真をイジュンに見せた。
「これは・・・」
駐車場のエレベーターで抱き合っているテヨンとイジュンだ。イジュンは顔を背けた。
「悔しそうな君の顔もかなり良いですね。」
「俺とヒョンは、良くHugをしますから。防犯カメラに映るくらいなんでも無いです。」
「Hugをね・・・」
いきなりイジュンの身体が抱きしめられた。咄嗟に離そうともがくがホン・ソンの強い力に動きを封じ込められる。
「離してください!」
「君とカン・テヨンが特別な仲だと言うことはわかっていますよ。だが、そんなことはどうでも良い。私が欲しいのは君だけだからね。」
そういうと、いきなりイジュンの耳を噛んだ。
「う・・・!」
イジュンは痛みに顔をしかめた。耳元にホン・ソンの含み笑いが聴こえる。体中の血の気が引いて身体が震えた。その時・・・
ふいにホン・ソンの身体が宙に浮いた。
「え?」
言葉が出る前に身体が落とされ、ホン・ソンは雪に埋まった。
「いたずらが過ぎますよ。社長」
深く埋もれたホン・ソンの身体を引き上げようとシウが走ってくるより先に、テヨンがその手を取って引き上げた。イジュンはベンチに伏せて目を瞑っている。テヨンの声は聴こえているが、身体が震えて動くことが出来ない。
「ああ・・・・確かに。雪の中に落とされるなんて子供の時以来です。面白いな」
ホン・ソンが笑いながら起き上がって、身体から雪を払う。シウがそれを手伝った。
「やっと出てきましたね。イジュンを囮に使うのは可哀そうじゃないですか?もっとも・・・」
にやりと笑ってイジュンを見る。
「私は楽しかった。」
テヨンの腹の底にドス黒い怒りが沸いてきくる。忍耐の糸が切れそうになったその時、テヨンの手にそっとイジュンが触れたのがわかった。もちろんホン・ソンは見逃さない。嫉妬はエネルギーに変わるのだ。卑劣な笑いを浮かべてイジュンを見ると言った。
「また会いましょう、イジュンさん。今度は本当に邪魔が入らないところで、じっくりと。」
そしてテヨンに視線を移すと面白そうに続ける。
「覚悟してください。今度はあなたに譲らない。イジュンは・・・・」
そっとテヨンの耳元に唇を寄せる。
「私のものですから。」
瞬時に出た拳は、シウが避けた。鋼のような身体はホン・ソンを隠すと、テヨンを阻止する。二人は睨み合ったまま微動だにしない。ホン・ソンは満足そうにシウを見ると、歩き出した。
「行きましょう。シウさん。」
それ以上拳を戦わせずに、シウはホン・ソンと共にゲレンデを去って行った。その後ろ姿を見送ることもせずテヨンはイジュンを抱き上げた。
「イジュン!」
「大丈夫・・・ちょっと・・・待って・・・」
血の気が引いた顔でイジュンが静かに目を開ける。涙がこぼれていたが、声はしっかりしていた。
テヨンは強くイジュンを抱きしめる。その時、イジュンの耳が赤く染まっているのが目に入った。さっき、ホン・ソンが噛んだ後だ。瞬間、怒りに体中が焼かれそうになり、その傷跡に唇を押し付けた。
____俺のイジュンを・・・・よくも!
「ヒョン・・・・苦しい・・・」
「・・・ごめん。」
心の底から謝罪する。これしか方法が無いと思いたくない。
そうしている内にゲレンデには人が増え始めている。イジュンの顔がわかる前にゲレンデを出なくては。
テヨンはゆっくりとイジュンを立たせると、身体を支えながら歩き出した。
Act.21
二人は黙って歩いていた。ゲレンデは緩やかで、家族連れや仲間同士でスキーを楽しむ客たちが増えて来て
スキー場は活気を帯び始めている。駐車場に向かう方向に歩いていくと、途中にリフト乗り場があった。上っていくリフトが見える。それまで黙っていたイジュンの足がふと止まった。
「ヒョン・・・」
「ん?・・・」
「リフトに乗ってみたい。」
「リフト?」
予期せぬ要望に一瞬戸惑ったが、憧れが宿っているイジュンの瞳にテヨンは頷いた。
チケットを買ってリフトに乗り込む。
「初めて乗るんだ」
嬉しそうに眼を細める。職員がイジュンに気付いたようで、笑顔で頭を下げてくれた。
「頑張ってください。」
小さな声でガッツポーズを見せてくれる。イジュンは思わぬ応援に嬉しくなって、ガッツポーズを返した。
「ありがとうございます。」
満足そうな職員の笑顔とイジュンの笑顔が、テヨンの心まで温かくしてくれた。
イジュンがどれだけファンを大切にしてきたか。彼を取り囲む人たちは、皆誠実で愛に満ちているようだ。
二人はリフトに乗り込むと、黙って手を繋いだ。まだ上まで行く客は少ない。目の前に広がる雪景色に魅せられてイジュンが息を吐いた。
「綺麗だね・・・・」
「うん・・・・」
針葉樹の木立の間を、朝早く滑りに来たスキーヤーが線を描きながら降りていく。木々に積もった雪に太陽が反射してキラキラ光った。今日は本当に良い天気だった。
「俺・・・どうだった?」
ふいにイジュンがテヨンに言った。テヨンは真意を測りかねて戸惑うが、素直に言う。
「・・・・・よく我慢してくれた。ありがとう。」
「そうじゃなくて・・・」
イジュンが少し言い澱んだ。
「そうじゃないんだ・・・」
テヨンの手を借りながらリフトを降りると、どこか不機嫌な顔になったイジュンが黙って歩き出す。そのまま二人はゆっくりと雪道を歩いた。サクサクと雪を踏む音しか聴こえない。
「俺は頭に来た。」
やがてイジュンが吐き出すように言った。
「イジュン・・・・?」
「何も出来なかったこと・・・・」
イジュンが立ち止まってテヨンを見た。
「触られたら身体が固まって・・・・抵抗も出来なかった。耳・・・・気持ち悪い!」
しゃがんで雪を掴むと、自分の耳にこすりつける。テヨンがその手を抑えて雪を払うと、自分の手に包み込みこみ、もう一度イジュンの耳にキスをする。
「綺麗になった。だろ?」
優しいテヨンの笑顔を見ると、心が落ち着いてくる。だがその笑顔を見ていると、今日は悲しくなった。
「それじゃだめなんだ。」
「イジュン・・・」
イジュンは怒ったように再び歩き出す。テヨンは肩をすくめてその後に続いた。
「ちゃんと強くならなきゃだめなんだ。いつもヒョンに護られて、子犬とかヒヨコみたいに・・・」
「ああ・・・確かにヒヨコみたいで可愛いかな・・・」
「ヒョン!真面目に・・・」
その唇はテヨンが塞いだ。温かい、そして懐かしい唇がイジュンの心を慰めてくれる。
そっと唇を離すと、イジュンが呟いた。
「今度は・・・もっとちゃんと抵抗するから・・・」
テヨンは笑いながらイジュンを抱きしめた。
「人が見るよ・・・」
「ただのHugだろ?俺たちは良くやるから問題ないって言ってたし・・・」
「聴いてたの?」
「嬉しかったよ。」
イジュンの身体を離して肩を抱くと、ゆっくりと歩き出す。
「イジュンは強いよ。俺よりも何十倍も。」
「ヒョン・・・・」
「身体的なことはしょうがない。相手は狂人だ。でも、心が強いんだ。イジュンは。例えホン・ソンが君を・・・・」
言葉には出来ない。テヨンは唇を噛んだ。
「例え奴が何をしようと、君は自分の心を護ることが出来る。」
「・・・・・・・」
「もう少し、耐えなくちゃいけない。大丈夫かい?」
イジュンは笑顔で頷いた。
二人はまた黙って歩いていく。誰も滑っていない雪山は、二人の息遣いしか聴こえない。イジュンはテヨンの少し荒い息を聴きながら、彼が生きていることを実感する。そのことがとても大切なことなのだ。これから二人が生きていく長い時間。その時間を護りたい。
しばらく歩くと、頂に出た。景色が開けて空気が澄んでいる。イジュンとテヨンは黙って息を整えながらその景色を見ていた。
「ヒョン・・・」
「うん?・・・」
「もう一つお願いがある。」
「うん・・・・」
眼の前の景色は雄大で、眼下に鳥が飛んでいる。大きな羽根を広げて悠々と円を描いていた。彼らはただ生きるために飛んでいるのだ。自分も生きるために翼を広げる時が来たと思った。
「父さんと母さんを病院へ入れて欲しい。」
思わぬ提案であった。イジュンが自分の親に言及したことは、今まで一度もなかったからだ。親の借金のために窮地に立たされた時でさえ、彼らを責めたりしなかった。少し驚いてテヨンはイジュンを見た。
「入院させるの?」
「更生させる。」
「イジュン・・・・」
イジュンは小さく息を吐くと、そのまま雪の上に座り込んだ。テヨンも黙って隣に座る。
「お尻が冷えない?」
テヨンが真剣に小声で囁く。思わずイジュンが吹き出した。
「もう、ヒョン!」
そのまま二人でしばらく笑った。笑い終えると静かにイジュンが言った。
「俺は、今まで親のことはほったらかしにしてたんだ。お金さえ払えばおとなしかったし、どんな親でも親だから・・・・」
「・・・・・」
「でも、今度は違う。あの時みたいに我慢をしないことにしたんだ。金を渡すことも止める。その代わり、ちゃんと治療して人間に戻ってもらいたい。それに・・・」
イジュンは自分の手をギュッと握った。
「社長がまた両親を盾にしないとも限らない。それも怖い。やっぱり・・・・」
テヨンにはイジュンの気持ちが良くわかった。自分が父親を捨てきれない気持ちと変わりなかったからだ。
「わかった。強制入院にはなるが手配するよ。」
「ごめん。・・・」
「それでも・・・イジュンを産んでくれたんだ。俺には感謝しかないよ。」
そういうと、テヨンが立ち上がってイジュンに手を差し出す。
「お尻が冷たいだろ?」
イジュンが笑ってその手を取った、その時・・・
一瞬、何が起こっているのかわからなかった。いきなり爆音が聴こえて強い風に吹き飛ばされたからだ。地面に身体が叩きつけられて思わず声が出る。だが咄嗟に体制を整えながら風をよけて前を見ると、イジュンの姿が無い。その代わり目の前にヘリコプターが止まっていた。そこからロープ降下したシウがイジュンの身体を抱えてぶら下がっている。ロープは少しずつ機体へ吸い込まれていく。
「イジュン!」
咄嗟に崖から飛び移ろうとして、身体が引き戻された。その間にヘリコプターが動き始める。
「離せ!」
「死ぬ気かよ!」
ナムが必死にテヨンを押さえつけた。
「イジュン!」
テヨンの襟首を掴んでスノーモービルに突っ込むと、ナムはエンジンを掛けて走り出した。
「しっかり捕まってろ!」
まるで雲の上を走るように、ナムとテヨンの身体が浮いたまま一気に滑走していく。
_____俺としたことが!
怒りと焦り、焦燥感が一気に押し寄せて来て、テヨンは身体の底から雄叫びを上げた。
碧い瞳が光を放ち、背中の鷲が吠える。イ・ナムはその声に潜む殺意を知っている。祈りに似た想いでスノーモービルを爆走させて行った。
Act.21
いきなり眩い光に晒されて、イジュンは目を覚ました。
身体を動かそうとしたが、動かない。助けを呼ぼうとして声が出ないことに気付いた。横たわっているのか、座っているのかもわからない。
いっきに恐怖に突き落とされる。イジュンは必死に目を閉じて、考えてみた。いったい何が起こったのか・・・爆風に飛ばされた後、記憶がない。テヨンは、無事だろうか・・・
その時聴きなれた声がした。
目の前にホン・ソンの笑顔がある。イジュンは大きく目を見開いた。
「目が覚めましたか?」
ホン・ソンは大切な宝物ののように、イジュンの頬に手を当てた。イジュンの目が見開いたまま、何かを問いかけているようだ。
「今の状態に戸惑っているようですね。」
ホン・ソンは笑いながらコーヒーを口に含むとイジュンの唇に移した。
だが、上手く入らずにこぼれていく。イジュンは嫌悪感に目を瞑る。
「おやおや、こぼれてしまいました。すみません。キスにも慣れなくては・・」
面白そうに言うと、こぼれたコーヒーを拭きとっていく。どうやら自分はソファに座らされているとイジュンは理解した。
「身体が自由にならないでしょう?これはね、筋肉弛緩剤のせいなんです。」
ホン・ソンがイジュンの足元に跪いて目線を合わせた。
「良くサスペンスドラマで使うでしょ?大丈夫。時間が経てば自由になります。だが・・・・」
ホン・ソンが嬉しそうに笑った。
「君はそうやって座っているだけで美しい。」
そういうとイジュンの腕をまくり上げ、消毒剤を塗る。
イジュンの瞳が恐怖に見開く。
「やっと手に入れた。私の人形。」
_____ヒョン・・・!
イジュンの瞳がテヨンを呼んだ。その瞳に向かって言う。
「テヨンを愛していますか?心から?」
そう言って、目の前にテヨンがくれたペンダントをかざす。イジュンの目が絶望の色を灯した。
「確かに彼は君を愛しているでしょうね。まだ希望を捨ててはいけません。今頃君を助けるために必死で案を練っているはず。」
イジュンは目を瞑った。他に意志を伝える方法がない。自分が狭い箱の中に閉じ込められている感覚になって怯える。だが、ここで屈してはならないのだ。テヨンを護るためにも。
「君と初めて会った時、一目でわかりました。君こそ、私が求めていた主人公だって。」
注射器から液体が身体に入って行く。
「君は美しく、純粋で、両親に虐げられている。貧乏の中で必死に這い上がって来たストーリーも持っている。何より、誰しもが君を護りたがる庇護者だ。もちろん。私もそうですよ。」
だんだん意識が朦朧としていく。見上げるとシウの姿が目に入った。その瞳が一瞬自分を見た。
何か言いたげだが、良くわからない。
「だからこそ、このドラマを書き上げた。君は本当に完璧な主人公ですよ。」
やがてイジュンは意識を失った。
「奴らは?」
イジュンの頬を撫でながらホン・ソンが言った。
「スノーモービルで下山途中、姿を消しました。想定内ですが。」
頷きながら立ち上がると、ホン・ソンは小さなカプセルを取り出す。シウの瞳が揺らいで、身体が震えて来た。
「お前は本当に我慢強いな。薬を目の前にしても、飛びついてくるなんてことはしない・・・そこは褒めてやる。だがこれが欲しければ、もっと成果を出さなくちゃ。」
ホン・ソンにとって、ジェイと同じく薬漬けにしたシウを弄ぶのはおやつの時間と同じだ。楽しいが、食べれば終わる。しかも、ホン・ソンくらいのお金持ちの子供には、おやつは与えられこそすれ取り上げられることはない。
「お前は、私のために何をしてくれる?」
シウの唇が震えて、目が虚ろになってきた。ホン・ソンの手にある小さなカプセルに全神経が集中する。
「何でも・・・」
ホン・ソンは高笑いをすると、シウの足を蹴り上げ跪かせた。
「それでいい。期待していますよ。」
そういうと、シウの口にカプセルをねじ込ませる。シウは頭を下げて立ち上がり、部屋を出て行った。
残されたイジュンと自分。
____それこそ最良の結果だ。
ホン・ソンはイジュンを椅子から抱き上げると、寝室に向かった。
その身体をベッドに横たわらせ、しばらく見つめる。
この美しい宝石が自分のものだとは・・・・どれだけ待たされたか・・・・自分の脚本は完璧だった。それを書き上げた褒美をもらってしかるべきだ。
ホン・ソンはイジュンの身体をまたぐようにして、上からそっと手を滑らせた。
髪も、頬も、唇も、そして身体中・・・・イジュンへの愛おしさに心が満ち溢れて涙が出そうだ。
やがてゆっくりと自分の身体をイジュンの身体の傍において添い寝をしてみる。その瞬間、あまりの幸せにホン・ソンは打ち震えた。
_____なんて素晴らしいんだ!
イジュンの身体を抱きながら、そっと目を閉じてみる。これから始まる二人だけの時間に、自分はいったい何をすれば良いんだろうか。考えるだけでも贅沢だ。幸せに身悶えし、満喫する。
「夕飯まではしばらくある。今はこのままでいよう・・・」
そういうと、イジュンの唇を舐めるように口づけをした。何度も何度も・・・。
興奮は止まることなく、ホン・ソンは一人満たされていった。
Act.22
イジュンは夢を観ていた。
暗い箱の中に響いてくる、ホン・ソンの声。イジュンは耳をふさいだ。
事務所に所属が決まった時に気付くべきだった。オーディションを受けてセリフを言った時のホン・ソンの顔を忘れない。蛇が舌なめずりをするような・・・・獲物をじっくりと品定めする目・・・・
「あなたはどんな役者になりたいですか?」
「人も自分も、癒したいです。」
「癒す・・・・?」
「はい。」
ホン・ソンが静かに笑った。
「私も癒していただけますか?」
妙な質問だと思った。だが、大手事務所のオーディションを逃したくはなかったのだ。イジュンは頷いた。
「そうですか。良いですね。」
会話はそれだけだった。
それからイジュンは小さな役をもらい、ドラマの出演を増やして行った。ホン・ソンが直接自分に関わることはないと思っていたのに・・・・
テヨンの顔が浮かんだ。
「ヒョン・・・・」
手を伸ばしてその頬に触れたかった。だが、動かない。
自分はこのまま動きを封じ込められて、人形のようにただホン・ソンに抱かれて生きて行くのだろうか・・・・果てしない恐怖に襲われて、イジュンは叫んだ。だが本当は声が出ていないのかもしれない。・・・・・怖い・・・・怖い・・・ヒョン!助けて!
「目が覚めましたか?」
だが、答えたのはホン・ソンだった。
イジュンは目を開ける。目の前にホン・ソンの冷酷な笑顔があった。ぞっとしてまた目を瞑る。
「い・・・・や・・・・・」
声が出た。イジュンは驚いてもっと声を出そうとしたが、ただ音が出ているだけのようだ。
白いテーブルには次々に夕飯が用意されている。
「う・・・あ・・・・」
ホン・ソンはワインをグラスに注ぎながら笑った。
「いえね、君の声が聴きたくなって、少し薬を薄めたんです。せっかく愛おしい人が目の前にいるのに、ただ肉の塊ではね・・・」
そう言いながら、皿の肉を切って口に入れた。どうやらホン・ソン自身は夕食を楽しんでいるようだった。
「ああ・・・これは美味いね。君は料理の腕も確かなんだ。」
「恐れ入ります。」
答えているのはパク・シウだとわかった。と、言うことは自分の頭は少しはハッキリしていると言うことだ。イジュンは気を落ち着けようと目を瞑って再び開けた。
「目を瞑ったり開けたりするのは、何かのサインですか?」
面白そうにホン・ソンが言う。
「君は頭も良いから、きっと何か伝えたいことがあるんだと思うんだけど・・・・」
イジュンはジッとホン・ソンを見る。
「私には君の意見は必要ない。君は・・・・」
口元が薄く笑った。
「私の大切な人形だから。」
身体が動かなくても、鳥肌は立つのか・・・
「君を初めて見た時、あのオーディションの時、正に理想の主人公がそこに居たと感激したよ。」
イジュンは冷酷な笑いを続けるホン・ソンから目を離さない。今のイジュンに出来ることはそれくらいしかないからだ。ホン・ソンがイジュンの瞳を受けて言った。
「何故私をジッと見ている?」
そして、またゆっくりと食事を味わう。だが、気は直ぐにそがれた。
ホン・ソンは改めて自分を見ているイジュンの瞳を見た。今まで誰も自分を直視はしたことはない。だが、ただの人形の癖に、イジュンは自分から目をそらさない。急に心がざわついてホン・ソンは立ち上がると、イジュンの後ろに回った。
「私を見るな。無礼だぞ。」
「く・・・・ふ・・・・」
イジュンが笑った。正しくは、思わず噴き出したのだが、口が動かないのでおかしな息が出たのだ。ホン・ソンはそれを見逃さない。イジュンの髪の毛を後ろから掴んで、顔を上げさせる。どうせ痛みも感じない。イジュンは目を細めた。
「私を笑ったのか?」
「ふ・・・ふ・・・・」
「笑うな・・・・」
「ふ・・・・」
ホン・ソンは段々苛ついて来ている。ただの躯と同じこの男に笑われているかと思うと、怒りが湧いてくる。イジュンは精一杯の嘲笑を込めて、ホン・ソンを見た。思わずホン・ソンがイジュンの身体を椅子から引き落とした。大きな音を立てて、椅子ごと倒れこむ。
「おまえごときが!私を誰だと思っている!」
_____もっと怒れ・・・・!
イジュンはまだ目を離さない。その瞳がホン・ソンを断罪しているようだ。
「俺を見るな!」
ホン・ソンはイジュンを突き放すと背を向け、傍に立って居るパク・シウに向かって叫ぶ。
「こいつをどこかへ連れて行け!殺しても良い!」
シウは静かに頷き、イジュンの身体を抱え上げようとした。
「いや、待て!」
シウがイジュンの身体から手を離す。ホン・ソンは冷静さを取り戻すかのように、軽く深呼吸をした。
「どうしたんです?あなたはもっとか弱くて、優しい人でなければなりません。」
横たわっているイジュンの髪の毛を梳きながら、ホン・ソン言う。
「何故なら、あなたは私のドラマの主人公だから。」
____主人公?・・・
「完璧でしたよ。親の犠牲になり、自分の夢を追いながら力も無く、弱くて優しくて・・・・」
梳いた髪の毛をひとつかみにして、イジュンの顔を上げさせる。
「美しい。」
そして、唇を嚙むようにキスをする。イジュンの目が嫌悪感に大きく開き、また閉じる。
ホン・ソンはその様を見ながら心から笑った。
「ドラマの主人公をやるなら、もう少し色を付ける必要がありました。あなたが新人賞を取ることは、その実力からわかっていたので、そこまでは我慢しましたよ。その後は、御存じのように最悪の展開でしたよね?」
イジュンの瞳から、涙がこぼれる。
「おや、悔しいですか?それとも嬉し涙?」
ホン・ソンが笑う。この上なく、優しい笑顔で。
「このドラマには必要だったんですよ。あなたがどん底を経験して、そこから這い上がる。そのためにミンジュも良い終わり方をしてくれたました。もっとも、突き落とされた瞬間でさえ、何が起こったかはわからなかったと思いますけどね。」
イジュンの目が大きく見開いた。
「ええ、そうですよ。私が落としました。」
その瞬間、部屋の明かりが消えた。
一瞬、何が起こったのか理解できずに、ホン・ソンは身を固くした。
「長い人生の中で、人は誰しもある転機を迎えます。こんばんわ。『あの日、あの時』あなたはどんな時を過ごしていましたか?」
同時にスポットがホン・ソンに当てられ、一瞬目つぶしを食らう。照明が明るすぎて周りが見えない。
「なんだ!これは!」
ホン・ソンの焦る様子が壁いっぱいに映し出された。その顔を背に、ヨンPDが立っている。
「・・・・・ヨン・ガンソン?」
「お久しぶりです。ホン・ソン代表。」
そう言って頭を下げると、改めてカメラに向かって手を挙げた。
「皆さん、ご紹介しましょう。今や時の人となりました。世界が誇る韓国エンターテーメント総合会社、カイザーのホン・ソン代表です。」
カメラが自分を狙っている。周りを見ると、何台かのカメラと照明が設置されており、自分がスポットの中にいるのがわかった。その瞬間、ホン・ソンのスイッチが入った。
彼は、ヨンPDに向かって微笑むと、イジュンを自分の手の中に入れようと周りを見た。だが、イジュンの姿はない。
「誰かをお探しですか?ホン代表」
ヨンPDが静かに近寄って来た。
「あなたの俳優、チェ・イジュンですか?」
「私の俳優?」
「ええ。あなただけのドラマの主人公ですからね。」
ヨンPDはカメラに向かって言った。
「のちほどイジュンさんには登場していただくとして、まずは簡単にホン代表の経歴をご紹介しましょう。」
その手の温かさと強さはイジュンの動かない身体をしっかりと包み込んだ。
「良く頑張った。」
懐かしい匂いに包まれて、イジュンは目を閉じる。その時、痛みを感じた。だが、身体のどこに痛みがあるのかわからない。
「う・・・・」
「大丈夫だ。解毒剤を打ったから、少しすれば自由になるよ。」
テヨンはイジュンの額にキスをすると、もう一度しっかりと抱きしめる。安堵と愛しさで気が狂いそうだった。
イジュンが拉致された後、スノーモービルに乗って下山したテヨンとナムは、直ぐに車に乗りこんでイジュンを追跡した。持たせているGPSはまだ外されていなかったからだ。だがそれも時間の問題だ。直ぐにホン・ソンは気づくだろう。しかもイジュンはシウの手の中にある。
唇をギリギリと噛みながら、テヨンの瞳がほぼ金色の光彩を放っている。
「落ち着け。これも計画のうちだ。」
その言葉がテヨンの怒りを増長した。いきなり自分の首に腕が食い込んできて、ナムは思わずハンドルを離しそうになる。
「落ち着けって!」
今のテヨンは獣と一緒だ。話して理解できる段階を超えている。ナムはとっさにハンドルを切って車を路肩に寄せた。気を失うギリギリでテヨンの腕を引き離そうとするが、びくともしない。
「ここで俺を絞め殺す時間はないぞ!目を覚ませ!」
自分の首を絞め上げているテヨンの力がぐっと増して気を失いそうになる。馬乗りになってくるテヨンの腹を膝で蹴り上げた。テヨンはうめき声をあげるが手は離れない。
「イジュンが提案したんだ!」
一瞬テヨンの手が緩んだ空きに、もう一度腹を蹴り上げた。今度は身体が思いっきり窓ガラスに打ち付けられて、テヨンは気を失った。激しく咳き込みながらもすぐに体制を整えると、ナムは再び車を走らせる。
スマホが鳴った。イヤホンを耳につけボタンを押す。
「整ったか?」
答えを聞くより早く、ナムはスマホを切って更にスピードを上げた。
「さあ、今ご紹介したのがホン・ソン社長の経歴です。前会長であるお父様の影響で早くからこの業界で苦労されました。海外支社で何年か一社員として勤務されたんですよね。」
「ええ・・・まあ・・・」
苦々しい顔をしてホン・ソンは答えた。
自分の姿が全国に流れていることは直ぐにスマホで確認できた。どうやってその権利を買ったのかわからないが、どの放送局にも同じ映像が流れている。だがこれは逆にホン・ソンのテンションを上げた。
_____これこそ自分が望んでいた状況だ。
今や韓国中の国民が自分の姿を観ているのだ。興奮で身体が震えているが、口元は絶えず静かな笑みをたたえているようにした。冷静さを欠いてはいけない。イメージがある。
ああ・・・今、イジュンを横に置いておきたい。かなり視聴率が上がるだろう。綺麗なお人形さんと化したイジュン。ホン・ソンは食事をするつもりで軽装にした自分を呪った。最高のスーツがあったのに・・・。
だが、こんな姿も視聴者は喜ぶはず。とにかく、イジュンを探さなければ・・・
「ホン・ソン社長、お聞きしたいのですが・・・」
「え?ああ、どうぞ。」
ワイングラスを手に持って優雅に答える。
食事の用意をしておいて良かった。いつも食事だけは手を抜かずに食卓も綺麗にセットする。これは唯一父が遺してくれた遺産のようなものだった。
「前会長・・・つまり社長のお父様は事故死でした。お聞きになった時はどんなお気持ちでしたか?」
「ああ・・・」
これには当然答えが用意してある。何度となく記者会見で語った内容だ。
「ショックでした。」
グラスをテーブルに置くと、両手を組んで目を伏せる。自分はこういう影のある表情が似合っていると思う。実際、ホン・ソンが憂いの帯びた顔をすると、誰しもが心を打たれて寄り添ってきた。父親以外は・・・
「私と父の関係は、言ってしまえば部下と上司でした。父は幼いころから跡取りとして必要なことを、全て叩き込んでくれた・・・。」
そうだ・・・・”しつけ”と言う名のもとに行われた暴力と精神的虐待。それから逃れるには、自分か父親を殺すしかない。だが、幼い自分が父親を殺すまでには長い時間が必要で、自分はそれに耐えなければならなかったのだ。
「ある日、父が私を渓谷に誘いました。仕事以外で父から誘われたことは初めてだったので、私は心から楽しんでいました。それが・・・・」
「滑落事故が起こったのですね。」
「ええ・・・・」
実際、渓谷へ向かったのは、ホン・ソンが父親を拉致したからだ。
毎日会社へはホン・ソンが送迎していた。会社の役職は副社長と言う名前がついていたが、実際は社長兼、会長である父親の下僕であった。父親のやった様々なことの後始末や身代わりを、全てホン・ソンが引き受け、揉み消していたのだ。おかげで裏社会ともつながりが出来、父親を崖に落とした後も、ホン・ソンの力と存在を必要としている者たちのおかげで、何一つ疑われることもなくホン・ソンは今の地位を得ることが出来た。
「父は自然の中にいるのが好きでしたから、その時も少し高台まで登りました。昼食を取って休んでいる時、 父の帽子が風に吹かれて飛んだんです。それを取ろうとして・・・・」
車のトランクに詰め込まれた父を引っ張り出すと、猿轡を噛んでいても罵詈雑言を浴びせながら父はもがいた。その口を自由にしたところで、放つ言葉の汚さは変わらない。
「俺にこんなことをして無事に済むと思うなよ!お前ごときに!」
その父親を殴りつけて黙らせると、ゆっくりと崖のふちに引っ張っていく。その間も父はホン・ソンを罵倒し続けた。
「お前が生まれた時に直ぐに殺せばよかった。あの時の一瞬の躊躇がいらなかった。お前の母親と一緒に殺すべきだったんだ。俺を脅かしやがって・・・・」
母親は誰かわからない。最初からいなかった。恐らくどこかの女を手籠めにしてはらませたのだろう。だが、そんなことはどうでも良い。さっさと仕事を終わらせて、午後からの打ち合わせに出たかった。父親を不慮の事故で失った、悲劇の社長として・・・。
「あっと言うまでした。足を滑らせて・・・・。直ぐに山岳警察に連絡して崖下に降りたんですが、思ったより高台に上ってきていたみたいで、残念ながら・・・・」
その時、父の声が聴こえた。
「おまえ・・・・やめろ・・・本当に俺を殺すのか・・・?ソン!・・・」
聴こえるはずのないその声が理解できなかった。ホン・ソンは声がどこから聴こえてくるのか、顔を上げて周りを見た。目の前の壁に、崖の淵を必死につかんでいる父親の顔があった。
「・・・・・社長・・・?」
文字通り、あんぐりと口を開けてホン・ソンは画面を見つめた。画面から疑問に答える自分の声が聴こえてくる。
「そうですよ。有言実行は、あなたが教えてくれた言葉です。」
蒼白な顔をしている父親の頭をそっと撫でる自分の指が見えた。
「ソン・・・俺を今殺したら、おまえが得るものはないぞ・・・自動的に・・・」
父親の悲鳴が聞こえた。崖を掴んでいる小指にナイフが刺さったのだ。だが、さすがにしぶとい。小指が切り落とされても、まだ他の指を離さない。
「さすがですね、社長。」
ホン・ソンは嬉しくなって手を叩くと、崖にしがみついている父の指を一本ずつ引きはがし始めた。父親の顔が恐怖に歪む。
「良い顔ですよ。これは私のために撮っておくんです。私を支配していたあなたの最期ですから。」
片手は小型のビデオカメラで父を撮影し、片手は指をはがしていく。この時のために握力も鍛えてあった。
「自動的に、全てが私のものになります。昨日弁護士が書類を作り直したんで。社長は思ったより人を信用するんですね。彼らが掌を返すことは簡単なことなんですよ。」
父親は指が外される度に、歯を食いしばってうめき声をあげる。
「すごくいい顔ですよ。社長。ああ・・・・これが最後の指です。残念だな・・・。」
そう言いながら苦しむ父親と自分の顔を寄せて自撮りをした。ホン・ソンの笑顔が画面に映る。
「記念写真も撮ったし、何か言い残すことはありませんか?」
父親は残った一本の指に精一杯の力を込めて、ホン・ソンを見上げた。
「た・・・助けてくれ・・・」
ホン・ソンの目が狂気の光を帯びた。
「助けてくれ、何でもやる。金でも会社でも、何でもやる・・・たす・・・助けてくれ・・・」
画面の父は涙と鼻水と今にも力尽きていくという恐怖に顔がこわばっていた。
「ソン・・・・」
「それが最期の言葉とは・・・がっかりです。」
ホン・ソンは心底残念だという顔をして、父の最後の指をナイフで切り落とした。絶望と恐怖の絶叫が聴こえ、画面は真っ暗になった。
一本の映画を観たような感覚になって、ホン・ソンはしばし暗闇になった壁を見ていた。あたりは物音一つしない。ヨンPDの声も姿もない。やがてホン・ソンが拍手を始めた。
「素晴らしい。」
立ち上がって更に拍手をする。
「ここまで手を掛けてくれて感謝しますよ。ヨンPD。そして・・・」
目の前にぼんやりと姿が見えて来る人影に向かって言った。
「カン・テヨン」
テヨンの瞳が金色に光った。
「全ては私を主人公にするための策だったこと、褒めてあげます。愛しいイジュンを盾にしてまで・・・」
ホン・ソンが笑った。テヨンは静かに立っている。もしかしたら映像なのかもしれない、と思うくらいに。
「イジュンは美しい。その唇も、まるで熟れた果実のように甘い。最上の宝石だ。」
「そうだな・・・。おまえにはもったいない。ただの石ころにはな・・・」
テヨンの静かな声がした。どうやら映像ではないらしい。と、言うことはイジュンは彼の手の中にあるのか・・・ホン・ソンは急に腹正しくなった。せっかく苦労して手に入れたのに、また振り出しに戻っているとは・・・しかもこいつは、私を”石ころ”と言ったか?・・・
暗闇の中、ホン・ソンはテヨンには気づかれずにポケットにあるスマホの起動ボタンを押した。
爆発と閃光。
部屋の中は一瞬にして火の海になった。
Act.23
目を覚ますと病院にベッドに寝かされていた。目の前に見慣れた顔がある。
「ハルモニ・・・」
ギジュは大きく息を吐いて、イジュンの手を握りしめた。
「良かった。本当に良かった・・・身体は動くかい?痛いところはない?」
イジュンは頷くと、ぼんやりしている頭で周りを見回す。ギジュが察してイジュンの頭を撫でた。
「テヨンは別の部屋にいるよ・・・・少し・・・」
言いにくそうに間を開けて、決心したように言う。
「怪我をしたんだ。」
「怪我・・・?」
言葉の意味を理解した途端、イジュンは起き上がろうとしたが身体は動かなかった。まだ筋肉弛緩剤が抜けきっていない。不安げにギジュを見る。
「ヒョンは?怪我が酷いの?」
どんどん涙が溢れて来る。ギジュはその涙をぬぐってやりながら、静かに言った。
「あの子は強いから大丈夫だよ。ただ、今は二人とも休まないといけない。」
「会いたいよ・・・ハルモニ・・・」
「直ぐに会えるから・・・わかるね?」
イジュンはただ泣いていた。
ホン・ソンの父親殺害の映像が流れた後、部屋は真っ暗になった。イジュンは解毒剤のおかげで少し身体が動くようになっていたが、依然として思うようにはならない。それまで自分を抱いていたテヨンが、耳元で囁いた。
「愛しているよ」
そして誰かの手にイジュンを渡すと、その手が離された。イジュンはそこで気を失ったのだった。
ぼんやりと覚えていることは、部屋の中が火に包まれていたこと。そこにテヨンとホン・ソンが向かい合っていたこと。そして・・・
爆発とともに、壁の一部が開いてホン・ソンは部屋を抜け出した。そこにはパク・シウが待っていてヘリコプターまで誘導されるはずだった。が、実際にそこに居たのは・・・
「初めまして、だな。」
イ・ナムだ。
「おまえは・・・・?」
その身体を羽交い絞めにする腕があった。声を出してその方を観ようと顔を上げると、パク・シウだ。
「シウ?・・・」
遠くからパトカーのサイレンの音が聴こえてくる。一瞬のうちにホン・ソンは状況を理解した。だがこのまま大人しく捕まるわけにはいかない。
「シウ・・・おまえは薬が・・・」
シウは首を振った。
「残念ながら、私の身体は薬を解毒できるようになっているんです。ただ、飲み続けないとあなたを騙すせませんでしたから・・・」
ホン・ソンが目を見張る。そしてナムを観た。
「おまえたちは、何者なんだ・・・・」
「それを知っても得にはならない。」
出てきた部屋は炎に包まれていた。ドカドカと人が入ってくる音が聴こえてくる。恐らく警察だろう。今の映像は全国に流された。
「わかった。手を離せ。自分で歩く。」
シウとナムの目が重なる。少しの隙間が出来たその時だ。一瞬の隙間をついてホン・ソンがシウの手から離れた。わき目も降らずに元居た部屋に入って行く。そしてドアを閉めた。
炎は部屋を覆いつくしており、煙が充満していた。
咳き込みながら寝室へと向かおうとした時、思いっきり頬を殴られてホン・ソンの身体が吹っ飛んだ。そこへ火に包まれた家具が倒れこんでくる。慌てて交わすと再び自分の身体が宙に浮かんだ。
「なに・・・・」
首を締め上げられ、もがき乍ら目を開けると、そこには黄金に光った瞳があった。
「カン・テヨン・・・」
「良く戻った。待っていたぞ。」
ホン・ソンは見たこともない化け物をみるような顔をしていた。
自分を締め上げて身体を持ち上げているカン・テヨンは、もはや人間ではない。金色の瞳を持った鬼と化していた。テヨンはホン・ソンの身体を床にたたきつけるようにして落とすと、その上に馬乗りになった。
「よくもイジュンを・・・」
首に両手を掛けて力を入れる。ホン・ソンの呼吸が止まる。手足をばたつかせながら必死にその手を首から離そうとするが、ビクともしない。
部屋の外では、一度閉まった扉を開けるためにナムが身体を打ち付けていた。
「隊長、俺が・・・」
「おまえはまだ無理だ、薬が抜けてない。」
銃を構えてドアの形に撃つ。まるで抜型のクッキーのようになった壁を身体ごとぶつかった。
ホン・ソンは段々息が止まるのを感じながら、抵抗していた手を放した。そして笑い始める。
「笑うな・・・」
テヨンの瞳の光が徐々に収まってくる。だがホン・ソンはやめない。最期の力を振り絞って笑っている。
「笑うな!」
「おまえごときが!」
ホン・ソンが叫んだ。一瞬テヨンの力が止まる。
「おまえごときに、イジュンが手に入るわけがない!」
「黙れ・・・・。」
「あの宝石は、俺だから輝く!俺だから磨きを掛けることが出来る!」
「黙れ・・・・!」
「ヒョン!」
その声を聴いた時、テヨンの瞳があり得ない採光を放った。それはホン・ソンでさえ、一瞬見とれるくらいに鮮やかな虹色だった。声のした方に目を向ける。そこにはナムに支えられたイジュンが立っていた。
「ヒョン!だめだ!」
「イジュン・・・?」
まだ手は緩めていない。ホン・ソンの顔から血の気が引き始めている。
「手を離して、殺さないで・・・ヒョン!」
「・・・殺す・・・」
「ヒョン!」
最期の力を入れようとテヨンの肩が上がった瞬間、イジュンがナムの手を離れてテヨンに向かって走り出した。
その手がテヨンの身体に触れたのと、警察が飛び込んで来た瞬間起きたバッグドラフトによって爆風が起こったのとほぼ同時だった。二人の身体は炎の中に吹き飛ばされていった。
そこからの記憶はない。
後でナムに聞いたところ、テヨンがイジュンを抱き込んで炎を受け止める形で倒れこんでおり、彼は背中に酷いやけどを負った。皮膚の表面が全て焼ける二度熱傷だった。
ホン・ソンはやけどを免れ、病院治療を受けた後、二件の殺人で起訴となった。のちに調べたところ、キム・ミンジュ殺害時にも、映像が撮影されていたのだ。人格障害との診断が下されるかが焦点となっていたが、例え精神鑑定により結果が出されても、恐らく精神科からは一生出られないのではないかと憶測が立った。
イジュンは立ち上がれるようになると、すぐにテヨンの病室へ向かった。
酸素マスクをつけ、静かにうつぶせになっているテヨンの顔を見ると、安堵と、申し訳なさと、そして愛情と、色んな感情が混ざり合って涙が止まらない。ずっとついていたイ・ナムがボソッと言った。
「背中の入れ墨は全滅だ。綺麗に真っ黒こげになった。」
「ナム・ヒョン・・・・」
ナムはイジュンの肩を抱いて笑った。
「皮膚も弱くなるし、再び入れるのは無理だと思うよ。これで少しは自由になれるのかもしれないな・・・」
イジュンは自分の肩を抱いているナムの背中をさすりながら頷いた。
「シウさんは?」
「軍の施設にいる。あれだけの薬を毎日服用してたんだ。身体も精神もかなり参っているが・・・・恐らく薬が抜ければ復帰できるだろう。」
テヨンの傭兵にはどんな訓練がなされているのか想像もつかない。麻薬を服用しても中毒を最低限に抑えることが出来る身体なんて・・・
「ナム・ヒョンは、ずっとテヨンさんを護っていくの?」
「言わずもがなだろ・・・・だが、変わらないとな・・・・」
ナムはイジュンに答えながら、心の中でつぶやいた。
_____早く目を覚ませ。俺たちは、運命に逆らうぞ・・・
もうその時が来たんだ。ナムは祈るような気持ちでテヨンを見つめていた。
Act.24
テヨンは中々目を覚まさなかった。背中の火傷は少しずつ治癒しているが、ただ滾々と眠っている。
「テヨンさんから話があった時は、正直迷いました。」
テヨンの病室で見舞いの品を渡しながら、ヨンPDが言った。
ホン・ソンの部屋で行われたTVショーは、もちろんテヨンの案ではあったが、そこにはヨンPDが必須だった。結果的に息子を死なせてしまったことに、ヨンPDはひどく自分を責めていたのだ。そこへテヨンが赴いた。
「息子のためと言う大義名分だけではなく、ホン・ソンのしたことを私の力で告発してほしいと言われました。私には影響力があると。私の番組制作を高く評価してくれた。あなたを貶めたのに。」
そう言って、ヨン・ガンソンはイジュンに頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。ミンジュを人質に取られていて従うしかなかったんです。私は…ミンジュを俳優にしてやりたかった。彼が私を親だと知っていても、知らなくても・・・」
イジュンはすっかりやせ細ったヨンPDの姿を観ながら、改めてホン・ソンの罪を憎んだ。人の情を利用するそのやり方が許せなかったのだ。
「ヨンPD。」
「はい・・・」
イジュンは彼の手を取って言った。
「もう一度、番組を作ってください。」
「番組を・・・」
イジュンは頷いた。
「あなただから、出来ることがあると思います。僕で良ければいつでもお手伝いできますし・・・」
テヨンの手にそっと触れながら言う。
「テヨンさんも、それを望んでいると思いますから。」
カイザーは新しい取締役を迎えると、全てを一新してもう一度歩き始めていた。
オ・ガンホは再びイジュンのマネージャーとなり、復帰の準備に奔走していた。何もかもがもとに戻りつつある。ただ一つ、テヨンが目覚めていないことを覗けば・・・・
イジュンは眠っているテヨンの枕元に座ると、本を開いた。
しばらく休んでいたポッドキャストも再開し、イジュンが読んでいることを公表もした。
登録数は毎日上がっており、人気番組の一つとなった。録音はスタジオでやったが、今は俳優の仕事にはまだ二の足を踏んでいる。
「ヒョンが目覚めてからにする。」
次から次へとオファーが入ってくるが、イジュンは頑なだった。
背中の火傷もほとんど回復しているのに、テヨンは一向に目覚めなかった。何か身体に支障が起きたのかと、色んな検査もやったが、事故からほぼ三週間、ただ懇々と眠っていた。
すごく疲れているのだろうか・・・・それとも、テヨンの中で、何かが変わりつつあるのだろうか・・・・蝶に変わる蛹のように、今は目を瞑っていることがテヨンにとって大切なことなのだろうか・・・。
イジュンはそっとテヨンの鼻先に手を当てる。ただ眠っているだけだと解っているのに、呼吸を確認してしまう。死ぬわけはないのに・・・・。
一番最初に出会った時からテヨンはイジュンが復帰することを心待ちにしていたし、そのために力を尽くしてくれた。テヨンは絶対に目覚める。きっと・・・・
「若者は、藍色の瞳を持っていた。その瞳は漆黒で静かな光を称えている・・・・」
『藍の国の物語』を読み聞かせながら、イジュンは虹色の採光を放っていたテヨンの瞳を思い出した。
あの瞳は理性を失くしていた。もはや人間と言える領域を超えていたかもしれない。もしかしたら、それこそがテヨンの力かもしれないが、そのことについては考えるだけでも恐ろしかった。
それでも、もしも、自分が彼の理性を引き留められるのならば、二人が運命を結んだ理由もわかるような気がする。
「彼には、愛しいものが必要だった。自分を愛し、癒し、その力を引き留める若者が・・・」
テヨンを愛し、癒し、その力を引き留めておきたい。その若者になりたい。
再び本に目を落とす。テヨンは解っていてこの本をイジュンに渡したのだろうか。まだ子供だったのに?・・・・
「”その若者は、何も持っていなかった。ただ一つ、全てを受け止める強さ以外は。そして、今眼の前に、その藍色の瞳が手を差し出している。”」
イジュンがテヨンの手を握って先を読んだ。
____はじめまして、カン・テヨンです。
テヨンが自分に差し出した手を憶えている。その手を取った時から、自分の運命は変わり始めたのだ。
____この本を上げる。
14歳のテヨンが差し出してくれた本・・・・。俺は、ヒョンが居てくれるのなら、それだけで良い・・・。
ページを捲る。
イジュンが拉致される前に頼んだことを、テヨンはきちんと果たしてくれていた。
父親はアル中を収監する病院へ強制入院させられ、今は治療を受けている。母親も同様に心療内科に入院させられ、今は一般病棟に移っていた。
「本当に、ごめんね・・・・」
何がいけなかったのか、母親にも少しは理解できているようだ。だが、長い間の父親への共依存と薬物接種は、結果的に彼女の精神を破壊していた。
「ごめんね・・・」
涙も出ない虚ろな瞳を見つめながら、イジュンはただ手をさすっていた。親子の情を断ち切るのは難しかった。
イジュンは再び本に目を落とす。
______ご機嫌かい?
テヨンの笑顔が欲しい。イジュンは唇を噛んで涙をこらえていたが、やがて先を読みだした。
「”僕が差し出すものを、受け入れてください。”と、若者は言った。」
その時・・・・
イジュンの手から本が落ちて、その身体が懐かしい匂いに包まれた。
「・・・・ヒョン・・・」
テヨンはイジュンの頬を包み込むと、その唇に唇を重ね、長い口づけをした。
これ以上二人を別つものは絶対に無い。まるで見えない鎖が二人をしっかりと結びつけて離さないかのようにお互いの身体を抱きしめる。
その時ドアがノックされる音がして、ギジュが入って来た。抱き合っている二人を見て、眼を丸くする。それに気づいたテヨンがギジュを見て微笑んだ。
「ハルメ・・・」
「もう、この子は!」
後は声にならない。大泣きをしながらテヨンを抱きしめてバンバン背中を叩いている。
「ハルメ、痛いよ。背中はまだやけどが・・・・」
「良いだろ!もう入れ墨も無いんだから!多少不細工になったって、なんの問題もないよ!」
イジュンが笑ってハルメを引き離してやる。ハルメは泣きじゃくりながら、今度はイジュンを抱きしめた。
「良かったね・・・頑張ったからだよ・・・」
「ハルモ二・・・」
イジュンの胸が一杯になった。テヨンを見る。いつもと変わらない藍色の瞳が自分を見つめている。
やっと全て終わった。イジュンは安堵してギジュをギュッと抱きしめた。
「そうか・・・入れ墨は焼けたんだな・・・」
イジュンから状況を全て聞いて、テヨンは頷いた。こんな風に自分の枷が無くなったことは想定外だった。イジュンがそっと背中に手を当てる。
「痛い?先生を呼ぶ?」
テヨンはイジュンに微笑むと、再び彼の身体を抱きしめる。
「これで十分。」
イジュンも微笑んだ。
「ハルメ・・・」
「うん?」
「ナムは?」
珍しくテヨンの側に気配を感じない。ハルメは静かに微笑むと言った。
「ある人を迎えに行ってる。」
「・・・・・そう・・・」
それが誰であるか知っている。テヨンは頷いた。
イジュンはテヨンの身体に身を預けたまま、明日になれば、全てが変わることを予感していた。そして、それはきっと良い知らせなんだと言うことも。だから、今はこのまま幸せな気分でいよう。テヨンは目覚めてくれた。
「ありがとう・・・」
イジュンが呟く。テヨンはイジュンの暖かさを感じながら
「俺も、ありがとう・・・」
そう呟いた。
イ・ナムは緊張した面持ちで到着ロビーに立っていた。
待っている人は、珍しく専用機を使用せずに来韓すると言う。もちろん、常に専用機で移動するわけではないが・・・だが、彼が何を考えているのかは、ナムには計り知れなかった。次々に乗客たちがロビーに出て来る。出迎えの家族や仕事関係者との対話をしている中に、ひときわ目立つ長身の姿が目に入った。
「お久しぶりです。」
ナムは90度腰を折って挨拶をする。恐らく誰でもこの人の前に立つと、自然とこうなってしまうだろう。目の前に大きな壁が立ちはだかっているような圧迫感だ。
美しく流れた銀髪にサングラスをかけた壮年の男性がナムを見下ろしていた。自分もそこそこ身長はあるが、彼の大きさは群を抜いている。成人しても尚、彼の前では緊張した。男性は軽く頷くと、スーツケースをナムに渡した。
「夜には帰る。」
「わかりました。」
そのままナムに誘われて空港の外に出た。
今日の韓国は少し曇っているようだ。PM2.5も少しは収まっているようだが、スゥエーデンの自然に比べれば空気は明らかに濁っているように感じる。最後に来たのは妻の葬儀の時だった。それ以来、この土地に足を踏み入れたことはない。
彼はシートに身を沈めると、眼を瞑った。ナムはミラーでそれを確認すると、主君の貴重な睡眠を護るかのように、静かに車を走らせた。
「お疲れさまでした!」
急いでヘッドフォンを外すと、笑顔で挨拶する。
「おい、ちょっと待て!」
スタジオを出て走り出そうとしたイジュンの腕を、オ・ガンホががっしりと掴んだ。
「なに?ヒョン!急いでるんだけど・・・」
昨日、やっとテヨンが目覚めてくれた。出来れば一晩中側に居たかったが、テヨンの身体がまだ治療を必要とすることと、今日がポッドキャストの録音日だったこともあり、後ろ髪をおもいっきり引かれながら、イジュンは病室を後にした。『藍の国の物語』を楽しみに待っていてくれる人たちをがっかりさせることも嫌だった。それに、もうテヨンは大丈夫だ。イジュンの心は逸っていた。
「とにかく、ちょっと待て。」
ガンホの苦い顔を観て、渋々楽屋に戻る。
「話があるの?」
「もちろん。」
そう言って、イジュンの目の前に台本を積み上げた。
「選べ」
「ヒョン・・・・」
「昨日、カン・テヨンは目覚めたんだろ?お前も目を覚ます時だ。」
「まだ無理だよ。やっと目が覚めたんだから、これからリハビリとか、ケアが必要なんだから・・・俺が・・・」
「いつまで待たすんだよ。」
「いつまでって・・・・テヨンさんが・・・」
「元気になるまでか?」
イジュンがしっかり頷いた。ガンホはため息をついて苦笑いをする。
「あのな、イジュン。待ってるのは俺じゃない。おまえを待ってる『Heaven's Door』のことは気にならないのか?」
『Heaven's Door』とは、イジュンのファンダムの名前だ。
「それは・・・・・」
イジュンの活動が停止していた期間も、ファンダムはずっと見守ってくれていた。もちろん、申し訳ない気持ちはある。きっと直ぐにでもファンミーティングやドラマへの復帰が行われると思っているだろう。ガンホの焦りも解っていた。今は時の人となっているからこそオファーも止まらないが、芸能界はそう甘くはない。このまま黙っていては復帰のタイミングが無くなる。
イジュンはため息をついて、台本を何冊か手に取った。有名な作家が書いているものもある。主役も準主役も、ダブル主演も、様々なメディアがそろっていた。これだけの制作会社から声が掛かることも、今のタイミングだからだ。イジュンはガンホを見ると、笑顔で言った。
「今日から読むよ。何冊か持って帰るから。」
ホッとしてオ・ガンホが頷いた。そのスマホが振動している。
「出来るだけ早く読めよ。頼むから。」
そう言い捨ててイジュンに手を振ると、ガンホは楽屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら感動する。こうやってまたガンホと一緒に仕事が出来ることも、まったく予測できなかった。少々騒がしく軽いガンホだが、自分の仕事は必ず護ってくれる。
イジュンは約束通り、何冊か台本を鞄に入れて楽屋を出た。入口で出待ちしているファンに笑顔で手を振ると、病院の前に止まっているタクシーに乗り込む。
街はそろそろ春めいている。きっと桜の季節には、テヨンと一緒に花見が出来るはず・・・自然と微笑みながらイジュンの心は満たされていた。
Act.25
病室のドアを開けると、横たわっているテヨンが目に入った。今は眠っているようだ。
久しぶりの息子の姿を病室で見るとは予測できなかったが、命があったことは神に感謝する。
病室へ入りコートを脱ぐと、椅子を引き寄せ枕元に座った。穏やかな寝息にホッとする。
テヨンがどうして怪我をしたかも知っていた。護る者がいるのだ。そのために命を懸けた。そのことをどう考えれば良いのか、答えが出ないまま韓国に来た。今も迷ったままだ。
ふと、耳元で鈴の音が聞こえたような気がした。
____私たちの息子は、私たちよりも愛することを知っているようよ。カスパル
聞き覚えのある声が耳をかすめる。
「そうか?・・・・だが、相手は男だ。子供が・・・」
_____まだそんなこと言ってるの?今は精子バンクの時代なのに?
鈴やかに笑う。つられてカスパル・エクルンド伯爵も笑った。
「君らしいな・・・」
そして再びテヨンに目を落とした。
目の前に横渡っている息子の顔は妻にそっくりだ。妻が無くなった頃は、テヨンの顔を見るのが辛くて避けた時期もあった。恐らく息子は傷ついただろうが、自分にも余裕がなかったのだ。申し訳なく思っている。
そっとテヨンの胸元に手を置き呟く。
「私は・・・・どうするべきかな・・・・」
ふと鈴の音が耳元をかすったような気がした。もう一度声が聴きたくて、エクルンド伯爵は何げなく振り返った。するとそこに一人の青年が立って居た。自分を見て目を丸くしている。
エクルンド伯爵はゆっくりと立ち上がった。
「チェ・イジュン君だね?」
名前を呼ばれて、ハッとする。イジュンは慌てて頭を下げた。
目の前に立って居る壮年の男性が、テヨンの父親であることは明白だった。美しい銀髪と長身で広い肩幅の偉丈夫は、まるで銅像のように神々しく思わず見とれてしまう。最初にテヨンと出会った時のようだ。その彫像の唇がもう一度言葉を発した。
「チェ・イジュン君だね?」
「あ・・・はい・・・あの・・・」
ハッとして口を押える。英語で話すべき?スゥエーデン語・・・は出来ない。
「・・・・Nice to meet you・・・My name is・・・」
さっき、自分の名前を言われたことを思い出した。顔が赤くなる。
エクルンド伯爵は笑って三度目の質問をした。
「チェ・イジュン君だね?はじめまして。」
そして、手を差し出した。
「カスパル・エクルンド伯爵だ。」
「韓国語・・」
「妻が韓国人だったのでね。」
イジュンは慌てて差し出された手を握った。肉厚で温かい掌は、テヨンの何倍も大きく感じる。
エクルンド伯爵は、イジュンの手を握ったまま、ベッドのテヨンを振り返った。眠りは深そうだった。
「少し話しても良いかね?」
イジュンは頷いた。伯爵はそっとイジュンの背を推すと、コートを取って病室を出た。
季節が変わって、外を歩いていても寒さは気にならなくなっていた。天気が良い庭は、色んな人たちが散歩を楽しんでいる。
イジュンに気付いて手を振ってくれる人や、握手を求めてくれる人もチラホラ居たが、それよりも群を抜いてエクルンド伯爵が目立っている。2メートルは越えているかもしれない長身と、仕立ての良いスーツがモデルのようだ。実際隣に立って居ると、イジュンよりも伯爵を見ている目の方が多かった。
「人に見られる商売は大変だろうね。」
自分のことは全く気にせず、イジュンに話しかける。
「時々、そういうこともありますけど・・・応援してくれる人たちなので。大切な存在です。」
握手を求められて笑顔で返しながらイジュンが答えた。真実だ。
二人は木の枝が多く、姿があまり見えない場所にあるベンチに座った。
そっと彼の横顔を伺ったが、テヨンと似たところはあまりなかった。きっとテヨンは母親似なのだろう。彼にはアジア人の風貌があった。
「一族の話はテヨンに聞いたかね?」
「はい。」
イジュンは素直に頷いた。嘘をつく理由はない。
「君は・・・どう思った?」
「どう・・・」
少し考えを巡らせる。
あの夜、母親の機織り機の前で聴いたテヨンの人生は、あまりにも過酷で悲しかった。だがそのことを責める権利はイジュンにはない。
「わかりません。僕が答えることは何もないと思います。」
「なぜだね?」
「それは・・・・」
イジュンは自分の手を握り締めて息を吐くように言った。
「その道を歩いてきたのはテヨンさんで、僕じゃない・・・。」
大きな枝ぶりの葉の間から木漏れ日が足元に揺れている。
「僕が何を感じたかなんて、無責任なことは言えません。彼は・・・」
耐えて来た時間、それを乗り越えた時間、自分は一緒に居なかった・・・居られれば良かったのに・・
イジュンは唇を噛んだ。
「一人切りで耐えていたので・・・・」
伯爵は静かに頷いた。
「テヨンを愛しているのかね?」
「はい。」
顔を上げて伯爵を見ると、はっきりと伝える。その瞳に揺らぎはない。
「今、私は君を殺すことが出来る。」
伯爵の藍色の瞳が暗く光った。イジュンはその瞳に目を奪われる。深い闇の中に殺意があった。
ぞっとして思わず自分の手を握り締める。伯爵はカエルを睨んでいる蛇のようにイジュンから目を離さずに言った。
「一族の宿命をここで断ち切るわけにはいかない。それは私への厳命だ。」
そう言いながら静かにイジュンの身体を引き寄せる。イジュンはまだ伯爵の瞳を見つめながら、首元に掛かる伯爵の掌を感じていた。段々力が入って来る。
「ヒョンは・・・」
息が苦しくなってきた。イジュンは声が出なくなる前に言いたかった。ちゃんと伝えなければいけない。
「ヒョンは・・・僕が居なくなったら・・・・獣になります・・・」
伯爵の手が止まった。イジュンは目を瞑ったまま、息が出来るようになることを祈っていた。
「見たのか・・・・?」
「虹色の・・・瞳・・・」
そういうと、咳き込んだ。喉から手が離れて、急に空気が通ったからだ。
まさか、そこまでとは思っていなかった。伯爵は苦しそうに咳き込んでいる若者を、信じられない思いで観ていた。
一族の中でもトランスフォーメーションを起こせる人間は稀だった。自分にも起こったことはない。それはただの伝説だとどこかで思っていた。だが、テヨンがそれを持っているとは。しかも・・・
<君は、何者なんだ・・・・>
母国の言葉はイジュンにはわからない。イジュンは、やっと咳が収まると伯爵の手を取って言った。
「僕を殺すことはいつでも出来ます。覚悟も出来ています。でも、もう少し待ってください。ヒョンが自分で解決するまで・・・。お願いです。」
伯爵はイジュンを見ながら、テヨンの”きっかけ”となる青年を受け入れるべきか、迷っていた。
ふと彼の首元に自分の指の痕が付いていることに気付く。伯爵は首元からスカーフ・タイを外して、イジュンの首に巻いた。イジュンは一瞬身を固くしたが、なすがままにしている。この青年には”受け入れる強さ”が備わっているのか・・・・
「イジュン君。」
「はい・・・」
巻き終わると伯爵はイジュンの手を取って言った。
「乱暴なことをしてすまなかった。」
イジュンは頷く。警戒心は取れていないが理解は出来ている。
「テヨンのことだが・・・・」
「・・・・・」
「君は、どうすれば良いと思うかね?」
「え?・・・・・」
一瞬、質問の意図が解らなかった。何をどうすれば・・・・イジュンは素直に伯爵に告げた。
「質問の意味が良く・・・」
「テヨンが使命から逃れるには、記憶を消す必要がある。」
「記憶を消す・・・・」
伯爵は頷いた。
「非合法な方法だが、使命の器が用途を果たさなくなった時、記憶が残ることは許されない。」
イジュンは口をつぐんだ。
「だが、それにはいくつかの後遺症も考えられる。」
「脳障害・・ですか?」
「そうだ。」
伯爵はため息をついた。
「正直、この使命をこの先一族が継続することには、既に意味がない。時代は変わり、王室も変化している。ならば私で終わらせたい。」
「記憶が残ったまま、テヨンさんが一生それをしまい込んだまま、生きてはダメなんですか?」
きっと彼なら出来ると思った。
「そこに記憶があることが、器として生きているということなんだ。その器がある限り、王室はテヨンを監視し続け、場合によっては・・・・抹殺出来る。」
「そんな・・・・」
そんな非人道的なことが現在もあるなんて・・・。イジュンはもどかしさに苛ついていた。
「僕が護ります。」
「君には無理だ。」
「でも、このままじゃヒョンが不幸だ・・・・」
「不幸・・・・」
イジュンが吐き出すように言った。
「生まれて来たなら、誰だって幸せになる権利があるでしょう?ヒョンだって・・・・それに・・・」
イジュンは大きく息を吸って吐いた。
「お父さんなんですよね?ヒョンの!」
伯爵の瞳が光を放った。聴いたことがない言葉が耳に入った。
”お父さん”
”ファル!(お父さん)”
テヨンの声が聴こえた。
”カスパル!”
鈴の声が自分を呼ぶ。
______そうだった・・・・私たちは、家族だった・・・。
一度も一緒に暮らすことを許されなかったが・・・・。
伯爵は改めて、今にも泣きそうなイジュンの顔を見た。この若者なら、本当にテヨンを護れるかもしれない。
全てを受け入れ、全身全霊で愛情を注ぎ、テヨンを人間に戻してくれるかもしれない。
<君は救世主か・・・>
「え?・・・・・」
伯爵は微笑むと、立ち上がった。
「今日はこのまま帰るよ。明日には戻らないといけない。」
「ヒョンに逢って行かないんですか?もう目覚めているかも・・・」
言いかけたイジュンの身体を、伯爵は静かに抱きしめた。すっぽりとイジュンの身体が隠されてしまう。大人しく抱きしめられながら、彼にも苦悩があることをイジュンは感じた。テヨンを愛しているのに黙っているのは、優しさでもあったと思う。
「また、会おう。君が気に入ったよ。」
そういうとイジュンに背を向けて伯爵は歩き出した。首元にはスカーフ・タイが残ったままだ。
伯爵の姿が見えなくなると、一気に身体の力が抜けた。まさか自分を殺しに来たとは・・・・
もちろん、本意かどうかはわからなかったが、身体の震えが止まらない。
「大丈夫ですか?」
「え?・・・・・ああ・・・」
目を上げると、パク・シウが立って居た。
「いつからそこに?お父さんの警護ですか?」
「いえ、診察に・・・」
ホン・ソンから薬漬けにされた後遺症は思ったよりも深刻で、パク・シウは長い間施設に居た。
「普通に診察を受けるんですね。」
イジュンが不思議そうに言う。シウは笑って答えなかった。彼らには秘密が多すぎるのだ。
「どうぞ。」
水のペットボトルを渡される。イジュンは頭を下げて蓋を開けると一機に飲み干した。さっき絞められた喉がやっと開いたようで、心から安堵する。
「ヒョンの使命は・・・」
「はい。」
「本当に記憶が無くなれば終わるんですか?」
「そう聞いています。」
「お父さんが言ったように・・・・・」
「カスパル・エクルンド伯爵です。」
イジュンはシウの真面目な顔を見る。彼らに取っては家族の称号は必要ないものなのだろうか。
「カスパル・エクルンド伯爵が言ったように、手術をするんですか?」
「イジュンさん。」
「はい・・・」
シウはイジュンに向き合うと、静かに言った。
「テヨンさんが生きて行くには、イジュンさんが必要です。例え何があろうと、イジュンさんの力があれば、大丈夫ですよ。」
「・・・・・・」
シウは頭を下げると、イジュンの前から姿を消した。
イジュンはそっとスカーフ・タイを手に取り、首から外してポケットにいれると立ち上がった。
Act.26
目を覚ますと、暗闇に佇んでいる影があった。
その影は窓を開けて、月を眺めている。後ろ姿に見覚えがあった。
「ファル・・・?」
その声にゆっくりと振り向くと、ファルは微笑んだ。
「起こしたな。」
テヨンは身体を起こしながら時間を確認する。深夜2時。こんな時間に病室に居ることの疑問は意味がない。彼はいつでも行きたい場所に行ける。
「具合はどうだ?もう、痛みはないか?」
「酷く火傷を負ったからね。痛みには慣れてはいるけど・・・・」
伯爵は頷くと、テヨンの枕元に立った。目の前の息子の頭をそっと撫でる。びっくりしたのはテヨンの方だ。今までこんな風にボディ・タッチをされたことは無かった。それも30歳の息子の頭を撫でるなんて・・・。
「どうした?ファル?もしかして具合悪いのか?」
伯爵は気まずそうに手を離して、ベッドの脇に座った。
「背中はどうだ?」
「ああ・・・」
テヨンは頭を掻くと申し訳なさそうに言った。
「真っ黒こげだ。紋章は跡形もないよ。おかげで肺が少しやられた。今は大丈夫だけど。」
「そうか・・・・。」
「うん・・・・」
暗闇に二人で座っているのは非現実的だった。
銀髪で偉丈夫の父親は見ているだけでもアニメの登場人物みたいで、まったくこの世の人物とは思えない。
「いつ来たの?今?」
「いや、昼間に。お前は寝ていた。」
「ああ・・・」
「その代わり、チェ・イジュンに逢ったよ。」
「え?・・・・」
一瞬、テヨンの瞳が光ったことを見逃さなかった。
伯爵はため息をついて、テヨンの肩を叩く。
「落ち着け。少し話をしただけだ。おまえが愛する人が、どんな人間なのか気になって・・・・」
予期せぬことが起こった。
自分の手首をあり得ない力で息子が掴んだのだ。その瞳が光彩を放ち、金色に変わろうとしている。指先の血の気が止まった。痛みより驚愕の方が伯爵を支配した。
____ヒョンは、僕がいないと獣になります。
嘘ではなかった。
トランスフォーメーションが起こるのだ。イジュンが危険にさらされると感じるだけで・・・。
「私の手首を折るつもりか?」
テヨンの瞳と自分の瞳がぶつかって一瞬火花が走った。やがてテヨンの瞳が深い藍色に変わり、伯爵の手首は自由になった。手首についた赤い筋が伯爵に覚悟をするよう宣告する。
いつの間にか、イ・ナムがテヨンの後ろに立っていた。恐らくそのまま手首が折られる前に、テヨンの意識を無くそうと姿を現したのだろう。再び姿を消そうと後ろを振り返ったナムに手を上げる。
「おまえも聞いておきなさい。」
ナムは黙って頭を下げると、テヨンの後ろに立った。テヨンは自分の中に現れた違う感情を初めて意識して、動揺していた。
「テヨン、おまえには獣神が宿っている。わかるか?」
「獣神・・・・・」
伯爵は大きく息を吐いた。
「まさか、おまえとは・・・・」
遠い昔、一族の中に獣と交わったものがいたと聞いたことがあるが・・・・迷信だとばかり思っていた。
器としての自分、獣神が宿っている自分・・・
「俺は、人間じゃない・・・・」
「いや、人間だ。」
「人間じゃない!」
伯爵はテヨンを抱きしめて言った。
「人間だ。私の息子よ。」
テヨンの心に痛みが走った。器として生きるだけでも精一杯の人生だった・・・・。これ以上の枷はいらない。
「ファル・・・俺は苦しい・・・・」
父親の胸に顔をうずめてテヨンは本音を吐き出した。
「これ以上は無理だ・・・・」
「無理じゃない・・・イジュンがいる。」
その名前に、テヨンの心が動く。もちろん、イジュンは一緒に生きてくれる。傍にいて、自分だけを心から愛してくれるだろう。だがあまりにも背負うものが大きすぎる。
伯爵は震えているテヨンの身体を離すと、その頬に手を当てて静かに言った。
「おまえの枷はイジュンに託す。」
「・・・・・ファル・・・?」
「全く・・・・とんだ番を見つけたな・・・」
そういって伯爵は笑った。
首に手を掛けても声を上げなかった。怯えて抵抗できないのかと思ったが、意識を失う前に一番大切なことを伝える強さがあった。こちらが気を抜く瞬間を待っていたのだ。愛のためならイジュンは恐れない。テヨンの身体には、自分の心臓とイジュンと言う心臓があることを伯爵は理解した。
「背中のタトゥーが無くなったことで、おまえの役目は終わった。だが、器は残っている。それはある意味彼らにとっては脅威だ。そこから逃れるには、おまえの記憶を消すか・・・・」
伯爵はまるで心臓が痛むかのように、顔をしかめた。実際心が痛かった。
「運命を受け入れるしかない。」
「記憶を消す・・・・脳を手術する?」
伯爵は頷いた。だが、同時にそれは全ての記憶を失うか、廃人になるかもしれないことを意味している。つまり、器として生きるか、生きる屍になるかを選べと言うことだ。
「俺は・・・・」
「今決めなくていい。」
伯爵は立ち上がった。
「今のおまえの状態は、もちろん国王もわかっている。彼らも人道的には無理強いはしない。だが、器が生きている限りは、おまえの運命は彼らの手の中にある。わかるな?」
テヨンは頷いた。ナムは黙って側にいる。伯爵はその彼にも笑って言った。
「ナム、おまえはこのまま私と来なさい。テヨンのことは大丈夫だ。」
ナムは黙って頭を下げようとした。だが、唇を噛んでうつ向いているテヨンを見ると、あってはならない感情に支配されて、思わず言葉を発していた。
「今回だけ・・・」
伯爵が鋭い視線をナムに向けた。ナムは深く頭を下げて言った。
「今回だけ、このままテヨンを護らせてください。彼は・・・」
テヨンはうつ向いたまま、ナムの言葉を聞いている。胸が熱くなって見ていられない。
「器である前に、弟なんです・・・」
伯爵は下を向いたままのテヨンと深く頭を下げたままのナムを見た。
自分自身も同じ運命を歩いてきた。心の傷みも、愛情も、全てを自分の胸に仕舞い込んで器として生きてきた。
それはもう繋げてはいけない運命なのだ。
伯爵は黙って立ち上がると、そのまま病室を出て行った。そこにパク・シウの影が沿う。
ドアが閉まって、足音が消えるまで、二人はそのままだった。
「は~!!」
しばらくして、ナムが膝を折った。べったりと床に座り込んで息を吐く。
「殺されるかと思った・・・・」
テヨンはその姿に思わず吹き出す。
「笑ってる場合かよ、まったく・・・・」
しかし、つられるようにナムも笑いだす。二人はそのまましばらく笑った。
「ヒョン・・・・」
しばし笑った後に、テヨンが言った。
「俺は・・・どうすれば良い?」
「俺にわかるわけないだろ。」
「ひどいな・・・」
再び笑う。だが、どこかスッキリしている。
「イジュンに聞けばわかるかもしれないな。」
自分の中に潜む獣心を収めることが出来るイジュンが何者かは、もうどうでも良い。きっと運命なんだろう。それで良い。明日の朝、きっとイジュンは病院へ走ってくる。一緒に朝食を食べよう。
話はその後で良い。テヨンは静かにベッドに横たわると眼を瞑る。いつの間にかイ・ナムの気配も消えていた。朝までにはもう少し時間ある。久しぶりに良い気分で眠れるような気がしてテヨンは微笑んだ。
Act.27
「おはよう!ヒョン!」
個室のカーテンが全部開けられ、明るい光が部屋に入ってくる。
テヨンは眩しそうに眼をしばたたかせて、イジュンの笑顔を見た。
_____・・・天使が来た・・・
そのままイジュンの手を引くと、ベッドに倒れこんできたイジュンの身体を抱きしめる。
「ヒョン・・・背中が・・・」
「もう痛くないよ。」
「うそばっかり・・・」
笑いながらテヨンの胸に顔をうずめる。その首筋が少し赤くなっていることに気づいた。昨日はシャツの襟首を止めていたからわからなかったのだ。テヨンはそっとその赤い筋に手を添えた。
「昨日、親父にあったんだね。」
イジュンは、一瞬、身を固くしたが直ぐに頷く。
「お父さんに会ったの?」
「うん・・・夜遅く。」
テヨンは彼の髪に指を絡ませながら、静かに言った。
「俺の中に獣がいるって、いつわかったの?」
イジュンは少し考えて言った。
「ホン・ソンの家で火が出た時・・・」
見たこともない光を帯びたテヨンの瞳を思い出す。あの時のテヨンは、確かに人間ではなかった。
「でも、なんてことない。ヒョンは直ぐに戻ったよ。」
「君が居たから・・・・」
「うん・・・」
テヨンはイジュンを抱きかかえるように、一緒に身体を起こした。
「朝ごはん、外で食べよう。」
イジュンは笑顔で頷いた。
朝早い病院は見舞客が居なくて少し穏やかに感じる。
イジュンはテヨンを車いすに乗せて外に出た。空気が澄んでいて気持ちが良い。
「寒くない?」
「うん。」
声を掛けておきながらイジュンが笑う。
「なに?」
「いつもと逆だから。いつもは、ヒョンが俺に聞くでしょ?寒くない?お腹空かない?」
そう言って可笑しそうに笑う。テヨンもつられて笑った。
木陰のベンチに車いすを止めると、二人は向き合って座った。テヨンの膝にのせてきたお盆をベンチに移し、イジュンが食器を渡していく。こんな風に二人の時間はこれからも続いていくのだ。
「イジュン・・・・」
「うん・・・」
「俺は手術はしない。」
イジュンが顔を上げてテヨンを見つめた。ホッとしたように笑って頷くと、ポットに入れてもらった汁物を器に移す。
「ちゃんと食べてね。もう少しリハビリしなくちゃいけないんでしょ?」
そう言いながら汁物を渡そうとすると、テヨンはそれを両手で受けてイジュンの手ごと包み込んだ。
「暖かいな・・・」
「お味噌汁、嫌いだった?」
「好きだよ。」
「じゃあちゃんと・・・」
イジュンの唇にテヨンの唇がそっと触れた。
「愛しているよ。イジュン。」
「ヒョン・・・」
テヨンはイジュンから汁物を受け取ると、美味しそうに飲んでいく。
「手術をしないと言うことは、器としての人生は終わらないと言うことだ。だが紋章が俺に無くなったからには、王家の庇護は期待は出来ない。」
「・・・・・・・」
テヨンは器をイジュンに戻して、食事を終えた。イジュンは黙って食器を片付ける。
「ただの器として生きると言う人生は、俺にも想像できない。俺の中の獣心がいつ、どうやって呼び起こされるのかも・・・・」
テヨンは手を差し出すと、イジュンの頬を撫でた。
「君は唯一、俺を護ることが出来る人だ。器としての俺も、獣としての俺も。」
「ヒョン・・・・」
テヨンはまるで壊れないかと心配しているかのように、イジュンの頬を撫でている。その瞳は敬愛と慈愛に満ちていた。神様はこんな瞳をしているのかもしれない。綺麗な、藍色の・・・・。
「君が選んで良い。」
「・・・・・・」
「俺は、君に従うよ。」
イジュンは自分の頬を撫でているテヨンの掌を、しばらく感じていた。小学校3年生の時に出会った運命の人は、長い間たった一人で戦ってきた。そして今、初めて自分に弱みを見せ、自分を乞うている。胸が一杯になった。ただ、”愛しているから傍にいろ”と言うことも出来たのだ。
イジュンはやがて静かに頷いた。
「じゃあ俺は、自分に従う。」
そういうと、イジュンはテヨンの頬を両手で包み込み、キスをした。
「これで契約終了。俺はヒョンと番になる。」
「イジュン・・・・」
「後、これだけは約束してほしいんだ。」
「言って・・・」
イジュンはテヨンの手を取って、力強く宣言した。
「もし俺が命を落としても、後を追わないって。」
「イジュン・・・・」
「俺の分まで命を繋げて欲しいんだ。」
イジュンの瞳が真っすぐにテヨンを見ている。
「俺もそう誓う。もしヒョンが命を落としても、俺は後を追わない。ヒョンの分まで生きるから。」
「・・・・・」
「だから、俺たちはずっと一緒に生きていこう。絶対に負けないで。」
テヨンの身体をイジュンの身体が覆い隠すように抱きしめる。まるでこの世の全てからテヨンを護るかのように。テヨンはその強さに圧倒されていた。イジュンは、本当に天使かもしれない。
______俺こそ、強くならなければ・・・・
テヨンの心に一筋の希望の光が生まれた。
「わかった。後追いはしない。大丈夫だ。俺たちはずっと二人で生き続けるんだから。」
イジュンが頷く。
「二人なら人生は楽しいよ!なんだって!」
「そうだ。人生は・・・二倍楽しい。二人なら。」
テヨンが笑うと、イジュンも笑った。
幸せで、少しほろ苦い、二人だけの物語の書き出しはこうだ。
____昔、藍色の瞳の若者が居ました・・・彼は、天使を探して長い旅に出ていたのです。
その天使に出会った時、彼はまだ小さな子供だったのです。・・・・・・・
イジュンとテヨンの物語が始まった。