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indigo eyes story  作者: 前川 クニコ
1/3

前編

Act.1


窓の外は雪だ。

カーテンを開けてガラス越しに見える景色は、ただただ真っ白に染まっている。

今年の冬は雪ばかりだ。地球温暖化なんて嘘だと言いたいところだが、雪が多いこと自体、異常気象と言える。

イジュンはカーディガンの前を寄せて身震いをすると、キッチンへ向かった。

コーヒーを入れて一口飲む。暖かい液体が凍える身体を芯から温めてくれる。朝食を用意しながら、つい癖で、今日のスケジュールを確認したが、特にない。ため息をついて、宙を見上げる。

もうどれくらい自粛しているんだろう・・・・・

最後にドラマに出演してから、ずいぶん時間が経ってしまった。今ではゴシップ紙にも名前が載らない。契約期間はまだ1年ほど残っているが、会社も自分を持てあましているのがわかる。

イジュンは部屋に重ねてある段ボールを横目に、ソファにゴロンと寝転がった。

以前住んでいた4LDKの大きなマンションから退去するように連絡がきたのは、一週間ほど前だ。スマホ越しに事務所のスタッフが社長の言葉を伝えてきた。

「悪いんだけど・・・・会社としても家賃に負担がかかるのを抑えたいんだ。仕事があれば別だけど・・・・」

「・・・・自分で仕事を探せと?」

スタッフが慌てて言葉を遮る

「いや、そういうことじゃないけど・・・・・難しいんだよ。色々・・・・」

電話口の向こうで何人かのスタッフが顔を合わせて苦笑いをしているのが見えるようだ。イジュンは電話を切った。会社はイジュンの契約が終わったら切るつもりでいるのだろう。抵抗出来るわけがない。部屋は1LDKの小さなマンションに変わった。

「掃除しやすいからいいよ・・・・」

独り言ちて、ソファから立ち上がる。今日は何をしよう。とりあえず、荷物は片付けなくちゃ・・・。


あの事件が起こった後、イジュンの周りから何もかもが消えるのは早かった。

CMの契約も、主役をやるはずだったドラマも、友人と言っていた奴らも、あっと言う間にイジュンから離れて行った。それまでやった仕事分の蓄えはまだあるが、示談金にかなり使っているので、贅沢はできない。


_______あの事件・・・・・


そのことを思い出すと、イジュンは息苦しくなる。誰にも言えずに自分を殺しているしかない。いっそ・・・本当に殺してしまおうか・・・・自分が死んでも、今ならニュースにもならないだろう。

ふと、泣くかと思ったが、涙は出てこなかった。もう枯れてしまったのかもしれない。

あんなに望んでいた俳優と言う夢を、もう持ち続けていられなくなっていた。未来はもっと明るいと思っていたのに・・・・。あの時、あの場所へいかなければ・・・・

イジュンは頭を抱えて目を瞑った。今更考えてもしょうがない。これが現実なのだ。

インタフォンが鳴った。そのまま無視しようとソファの上で寝返りを打つ。しかし、無情にもドアは空いた。

”元”マネージャーのオ・ガンホがずかずかと入って来た。相変わらず無神経な男だ。

ソファーに寝ころんで背中を見せているイジュンにため息をつきながら、ガンホは言った。

「いつまで寝てるんだよ。やることないにしろ、ちゃんと生活しろよな。」

意味がない小言をぶつぶつ言う。イジュンは無視していた。その背中をいきなり強く叩かれた。

「何すんだよ!」

「さっさと起きろよ、俺は忙しいんだ。おまえと違って。」

稼げなくなったらどれだけぞんざいに扱っても良いと思っているらしい。ほんの1年前とは全く態度が違う。だが、ガンホにも理由があることをイジュンは知っている。だから黙っていた。

「荷物もそのままだし、飯食ってんのか?」

少し語気を弱めてガンホが言った。イジュンの状況を一番良く知っているのがこの男だ。もちろん、こうなった理由も解っているはずだが、そのことについては言及しなかった。つまり、自分の身を護ったというわけだ。

イジュンは顔をそむけたまま、ソファに座りなおした。その様を苦々しく見ながらガンホが言った。

「今日は会社からの通達を持って来たんだ。おい、入ってくれ。」

ガンホが一人じゃなかったことに、イジュンは驚く。玄関の方を見ると、ひとりの男がのっそりと入ってくるのが見えた。

「今日からお前のマネージャーになる人だ。自己紹介して。」

「カン・テヨンです。」

男は頭を下げた。随分とトーンが低い。イジュンはその声に惹かれて彼を見た。いや、正しくは”見上げた”のだ。

背が高い。イジュンも決して低い方ではないが、それでも頭半分は彼の方が高そうだ。肩幅が広くしっかりした体躯は、スポーツ選手を思わせる。目を上げていくと、眼鏡の奥の瞳が見えた。

「あ・・・・・」

思わず声が出る。カン・テヨンは特にリアクションをすることもなく、超然と立っている。眼鏡の奥に見える彼の瞳は・・・・深い藍色だったのだ。

「イケメンだろ?元はモデルだ。この業界にも詳しいから何でも話せ。」

「よろしくお願いします。」

テヨンが握手を求めて手を差し出した。イジュンは彼の瞳から目が離せずに、ただ見つめている。

「おい!」

ガンホがイジュンの肩を叩く。ハッとして、イジュンは慌ててテヨンの手を握った。大きな手のひらにイジュンの手が余る。軽く握手をすると、すぐにテヨンは手を引いた。

「じゃ、顔合わせは済んだってことで、俺は行くぞ。あとはよろしく」

「ヒョン・・・」

「お前との仕事も楽しかったよ。ま、頑張って起死回生を狙えよ。おまえは・・・・」

少し言いよどんで、それでもガンホは最後に言った。

「結構良い俳優なんだから。」

それから直ぐに踵を返すと、テヨンの肩を叩いて玄関へ消えて行った。

居間には、テヨンとイジュンが残された。イジュンは呆然とこの状況を受け止めようとしている。

しばらく時間を待った後、テヨンがコートと背広の上着を脱いで腕まくりを始めた。イジュンは展開についていけず、彼を見たままだ。テヨンはテーブルの上にカッターナイフを見つけると、積み上げてあった段ボールに手を添える。

「片づけます。」

「え?・・・・」

イジュンが驚いている間に、どんどん段ボールが開けられてく。

「これは、どちらへ?」

「あ・・・・・ああ、寝室に・・・・いや、あの・・・・」

彼が段ボールを運ぶ後ろを慌てて追いかける。

「ちょっと待って、ええと・・・・」

「カン・テヨン」

「あ、テヨンさん。ちょっと・・・・」

もとより、そんなに荷物もない。30個ほどあった段ボールはあっという間に振り分けられ、中身が見えるように開けられた。

「出しますか?」

「自分でやります。とりあえず・・・・」

「では、わかるものだけ。」

そう言いながら、食器を出そうとする手を掴んで、イジュンはやっと彼を止めた。

「とにかく、座ってください。」

テヨンは少しイジュンを見てから、大人しくソファに座った。



Act.2

コーヒーだけはいつでも飲みたかったので、一番最初に段ボールから出しておいた。

イジュンはドリップコーヒーの準備をして、その間、カン・テヨンは上着を着なおし、大人しくソファで待っていた。


_______いったい何が起こったんだっけ?


イジュンはさっきのやり取りを整理する。

つまり、オ・ガンホは自分の代わりに、この得体のしれない大きな男をマネージャーとして連れてきた。会社からは何も通達は無かったから、もしかしたらガンホが個人的にイジュンを押し付けたのかもしれない。

いずれにしても、これから契約が切れる1年の間に、カン・テヨンがイジュンのマネージャーになったことは理解した。

コーヒーをテーブルに置く。40分くらいで段ボールは寝室とバスルーム、ダイニングにきっちりと分けられていた。

「美味しいですね。」

テヨンの口元が緩んだ。確かに美男だ。ガンホが元モデルだと言っていたが、いくつなんだろう。

「30です。」

「え?・・・・」

「俺の年齢です。30歳になりました。」

イジュンは目を丸くした。たった今、年齢のことを考えたからだ。

「・・・・まさか?」

「え?」

今度はテヨンがイジュンの予期せぬ反応に戸惑ってる。

「いえ、すみません。いま、丁度年齢のことを聞こうかと・・・」

「ああ・・・・」

テヨンがにっこりと笑う。その笑顔が意外と子供っぽくて、眼を奪われる。

それきり会話は途絶えた。

お互いに人見知りもあるようだった。もっともイジュンは、自分の立場をまた思い知ったばかりで素直に話をする気にはなれない。

「イジュンさんは?」

先にテヨンが沈黙を破る。

「25です。」

「お若いんですね。」

イジュンが頷く。そうだ。まだ25なんだ。デビューが6年前で、あの事件が起こる前に出演したドラマがヒットしてライジングスターとなったばかりだったのに・・・・・

「僕のマネージャーになっても、仕事はありませんよ。」

ふいに腹立たしくなって、そう言い放った。テヨンの青い瞳がイジュンを見つめている。

「モデルの仕事、今からでもやった方が儲かります。会社も僕には投資しないし、もちろん期待もありません。契約もあと1年です。マネージャーが良いなら、他の俳優かタレントを紹介します。僕には関わらないでください。そうだ、その方が良い。その方が・・・きっとあなたのためだ・・・・」

最後の方は独り言のように口の中でつぶやく。情けなさに心が潰れそうだった。

あんなに憧れてた俳優と言う職業・・・・役を掴んだ時は本当に嬉しかった。自分でも本当に頑張ったと自負している。どんなに大変でも辞めたいと思ったことは一度もなかった。何本目かのドラマが大ヒットした時、これからもっともっと色んな役をやって、一生俳優を続けられると思ったのに・・・・

泣きそうなのに、やっぱり涙は出なかった。もう、辛いと言う言葉にも何も感じない。イジュンは無意識にソファに身体を沈めた。その時・・・・

「イジュンさんが悪いんですか?」

テヨンが静かに言った。

「・・・・・・・え?・・・」

もう一度、テヨンが言う。

「イジュンさんが、悪いんですか?」

イジュンの瞳が大きく見開いてテヨンを見た。今まで聞いたことのない文章が耳に残った。


_____イジュンさんが、悪いんですか?


テヨンの海のような青い瞳がじっとイジュンを見つめている。その瞳を見ていた時、ふいにイジュンは自分が正しいと強く思った。心のそこで何かが動くのを感じる。

彼はしっかりと首を横に振ると言った。

「俺は、悪くないです。」

強く言い切ると、テヨンを見る。イジュンの瞳が真っすぐに自分を見つめている。テヨンは微笑んだ。

「じゃあ良いです。俺はあなたのマネージャーをやります。給料は会社から出ますから、心配いりません。モデルをするには歳を取り過ぎてますよ。」

テヨンは笑ってコーヒーを飲み干すと、立ち上がってコートを羽織った。

「残りは明日、片づけます。」

イジュンはただテヨンを見つめている。自分が口に出した言葉が耳に残っている。その言葉をもう一度つぶやいた。

「俺は、悪くないです・・・。」

ふいに、手を包まれた。驚いて見上げると、テヨンがイジュンの手をしっかりと握っていた。

「そうです。あなたは悪くない。あなた自身がそれをわかっているのなら、何も問題はありません。俺は、役者としてのあなたが好きですよ。ドラマも全部観ました。」

「全部?・・・・」

テヨンが頷く。

「だから、あなたと仕事が出来ることを心から喜んでいます。頑張りましょう。きっと復帰できますから。いや・・・・」

テヨンは強い口調できっぱりと言った。

「俺が絶対に復帰させますから。信じますか?」

「しん・・・・」

「信じてください。」

しばらくテヨンの瞳に見入っていたイジュンは、やがてその言葉に誘われるように頷いた。

テヨンはにっこり笑うと、鞄を持って玄関へ向かう。

「明日は9時に来ます。荷物を片付けましょう。今日はゆっくり休んでください。では・・・。」

イジュンは、しばらく呆然とテヨンが消えた玄関を見つめていたが、やがて決心したように、バスルームの前に置いてある段ボールから浴槽洗剤を取り出すと、洗面所から掃除を始めた。


マンションの駐車場に降りると、キーのスイッチを押した。まるで待っていたかのように、一台の車が反応してドアの鍵を開ける。

テヨンは車に乗り込むと、鞄を助手席に置いてスマホを取り出した。

”チェ・イジュン事件”と検索してみる。

あっという間にページ一杯の記事が出て来た。

”ライジングスター、チェ・イジュン、暴行事件に巻き込まれる”

”共演俳優を恐喝か。全治4ヵ月。”

動画もあった。

確かにイジュンがとある俳優に馬乗りになり、何度も殴っている。傍にも何人か男がいたが、誰も止めていなかった。記事によると、彼らの話はこうだ。

酒に酔ったイジュンが、たまたま言い合いになった共演俳優に暴行した。

”イジュンさんが狂ったように殴りかかって・・・・”

”怖くて呆然としてました”

イジュンは泣きながら、ただ殴っている。動画はそこで切れた。

その後イジュンには、懲役1年、執行猶予2年の判決が出たが、後に示談金を支払い放免されている。謝罪会見では彼は一言も喋らず、会社社長が状況を説明した。イジュンの虚ろな瞳が画面いっぱいに映っていた。

テヨンはスマホを弄びながら、しばらく考えに耽った。

この事件をきっかけに、イジュンは全てのキャリアを閉ざされてしまった。決まっていた主演ドラマは降板となり、CMやアンバサダーの話もキャンセルとなった。違約金として億単位の金額も示唆されていたが、全て支払ったのだろうか・・・売れたとはいえ・・・・?


__________俺は、悪くないです。


小さな声だったが、強い意志があった。

テヨンはスマホを取り出すと、電話を掛ける。相手に繋がった。

「ヒョン、俺だ。調べて欲しいことがある」

要件を伝え終わると、テヨンの車は雪の街へ走り出した。



Act.3

カーテン越しでも朝日が眩しい。

昨日の雪とは打って変わって、今日は晴天らしい。

時計を見るとまだ7時前だ。イジュンはうめき声をあげて、寝返りを打った。

「いて・・・・・」

腰が軋む。

「あれくらいで・・・・」

苦笑した。

昨日はバスルームを掃除してからスイッチが入ってしまい、片づけを始めてしまったのだ。結局寝たのは明け方だった。久しぶりに何も考えずに身体を動かした感じだ。部屋はまだまだ片付かないが、気分が良かった。


_______イジュンさんが、悪いんですか?


ふと、テヨンの低音ボイスが耳に聴こえた。

イジュンはぼんやり目を開ける。

事件が起きてから、初めて受けた質問だった。

記者会見でも、最初からイジュンが悪者だった。事の顛末を説明するガンホでさえ、事件を起こしたのはイジュン、という前提だった。誰しもが、イジュンに非があると信じて疑わなかった。

「俺は・・・・悪くない。」

もう一度口に出して答えてみる。身体が浄化されるような気がして、何度も繰り返す。

イジュンの言葉はやがて、静かな寝息に変わっていった。


「おはようございます。」

いきなりカーテンが開けられて、日の光が部屋中に入り込んできた。

「まぶし・・・・」

「良い天気ですよ。飯を食いましょう。」

うっすらと目を開ける。目の前に深い藍色の瞳が被さった。イジュンは寝ぼけながらその瞳に手を伸ばした。

「綺麗・・・・藍の・・・・」

いきなりその手が引き上げられ、頬が大きな掌に包まれた。そのままパチパチと軽く叩かれて、イジュンは慌てた。

「ちょっ・・・・何・・・」

目の前にテヨンの笑顔があった。

「朝飯、食べましょう。」

テヨンはベッドから立ち上がると、寝室を出た。イジュンは呆然とそれを見送る。時計をみると9時30分だ。ほっぺたを叩かれた腹いせに文句を言おうと、イジュンは勢いよく立ち上がると寝室を出る。

「30分遅刻ですよ。マネージャーが遅刻なんてあり得ない・・・」

そのままキッチンの食卓に座ろうとして、言葉を失った。そこには定食屋のごとく、数品の料理が並べられていたからだ。思わずテヨンを見る。テヨンは振り向くとニッコリと笑った。

「9時に来ましたよ。でも意外と片付けてあったので、先に朝食が良いかと。30分頂きました。」

「あ・・・はあ・・・・」

味噌チゲの良い匂いが鼻をくすぐる。椅子に座りながら思わず感嘆の声が出た。おかずはどれもイジュンの好きな物ばかりだ。なぜわかったんだろう。

「これ・・・・全部テヨンさんが作ったんですか?・・・30分で?」

テヨンは卵焼きを皿に移しながら言った。

「まさか・・・とりあえず家にあった常備菜をいくつか持ってきたので、作ったのはチゲと卵焼きです。食べましょう。」

イジュンの前に卵焼きも置く。

「ご飯はパックのもので。次回からは炊きますよ。」

最後にお茶を淹れて、テヨンも向かい側に座った。

イジュンはもう一度味噌チゲの匂いを嗅ぐ。手作りの料理は久しぶりだ。スプーンですくってスープを飲んだ。

「美味しい・・・・」

「ありがとうございます。」

テヨンがニッコリと笑う。つられてイジュンも微笑むが、それに気づいて思わず下を向く。テヨンは笑いをかみ殺すと、黙って食事を始めた。


____変な感じだ・・・。


誰かと食卓を囲むことが、こんなに穏やかな気持ちになるなんて考えたこともなかった。イジュンは湯気が立っているチゲを見つめながら、久しぶりに落ち着いている自分を感じていた。


今朝方、テヨンは9時前にはマンションの駐車場に居た。

時間前だったために、待機していたのだ。その時、向かいの駐車スペースから一人の男が降りて来るのを見た。その顔に見覚えがあった。確か・・・・動画に映っていた男だ・・・。

テヨンは静かに車を降りて、その男の後を追った。

男がエレベーターに乗った後からテヨンも乗り込む、イジュンの階のボタンを押したのを確認すると、その一階下の階のボタンを押して、テヨンは男の後ろに立った。

中肉中背だが、背中の筋肉がスーツの上からもわかるくらい頑強だ。首も太い。鍛えてある身体だが、曲がっている。どちらかの肩か腕に故障があるのだろう。乗る時に顔は見たが、サングラスを掛けていて眼が見えない。だが・・・・

テヨンはそっとジャケットの胸の辺りに手を入れた。前に立って居る男の身体が硬くなる。

明らかにカタギじゃない・・・・

エレベーターが止まった。何食わぬ顔をしてエレベーターを降りると、廊下を歩きながらドアが閉まるのを待って、非常階段に走った。


「料理上手なんですね。常備菜まで・・・・」

「美味しかったですか?」

イジュンが素直に頷く。

「良かったです。果物は?」

「いえ、もうお腹いっぱいで・・・」

「もう?小食ですね。」

「ああ・・・・」

イジュンが笑った。

「ダイエットの癖がついてて・・・」

「そうですか。」

それが言い訳だとテヨンには解った。明らかに食欲が減退している。食べる気力を失っているようだった。

「しばらくはダイエットも必要ないし、しっかり食べて体力を戻しましょう。」

「あ・・・ええ・・・」

イジュンは自分の身体のことを言われて戸惑っている。長い間、誰からも注意さえ受けなかったのだ。自分の体形にも興味が無くなっていた。

「食べないで痩せるよりは、運動で痩せた方がカメラ映りも良いですから。」

「カメラ・・・・」

予期せぬ言葉は続く。カメラ映りなんて、しばらく考えたこともない。

テヨンは立ち上がると、テーブルの皿を片付けて流しに運んだ。その後を追うようにイジュンも自分の食べた分を運ぶ。テヨンが食器を受け取り頭を下げた。

「ありがとうございます。」

横に並ぶと、本当に背が高い。イジュンは183cmだから、その頭半分くらいは高いとして・・・下手したら190cm越えかも・・・・。

「背、高いですね。」

素直に感嘆する。

「ハーフなんで。」

「あ・・・すみません。」

テヨンが食器を洗っている手を止めて、イジュンを見る。

「謝らなくても良いですよ。事実ですし。」

「・・・・・そうですね。つい・・・」

言った途端にまた失敗したような気がして、口を押える。テヨンと話していると、何故か委縮してしまう。決して威圧的ではないのに、自分の全てを見透かされているような気がするのだ。

テヨンは食器を洗いながら言った。

「拭いてもらえますか?ついでに片付けてしまいましょう。流しの上で良いですか?」

「はい。」

イジュンは言われたままに流しの上の棚を開けて、拭いた食器を片していった。


食後は引っ越し荷物と部屋の片づけに集中した。

4LDKの部屋から1LDKに引っ越すには、かなりのものを捨てて来る必要があった。だが、一週間しか猶予がなかったこともあり、ほとんどは会社に始末を頼んで前のマンションに置いてある。今のマンションも会社が用意した。イジュンに選択肢はない。持ってきたものも必要最低限のものだ。

「洋服が多いですね。作り付けのクローゼットだけでは無理かな。」

「今は、ほとんど着ないから・・・季節のものだけ出して、後は段ボールのままで良いです。」

クローゼットに仕舞う洋服を選ぶと、一旦段ボールはベランダに出す。二重ドアになっているので、室内のドアとの間にスペースがあるのだ。

違う段ボールを開けながら、テヨンが言った。

「このマンションの住所は、誰が知ってるんですか?」

「住所ですか?」

「ええ。」

イジュンはちょっと考えたが、直ぐに答える。

「会社と前のマネージャー。テヨンさんを連れて来た人です。それ以外は知らないと思うけど・・・基本的に会社のものなので、新人も使ったことあるんじゃないかな。」

「イジュンさんが住んでいる情報は?」

「う~ん・・・・どうだろう・・・正直わからないです。」

「わからない?」

「今の俺は、会社にとって価値がないから・・・」

こともなげに言うと、新しい段ボールを開ける。イジュンはその中身を見て手を止めた。

テヨンが近づいて、中を覗く。そこには、ファンからの贈り物と一緒にトロフィーが入っていた。

2年前のドラマで新人賞を取った時のものだった。

イジュンは直ぐにそのトロフィーを箱に仕舞いこもうとした。が、ふいにトロフィーが宙に浮いた。

「え?・・・」

「こういうのは一番目立つところに飾っておかないと、運が逃げますよ。」

テヨンがトロフィーをエプロンで磨いている。イジュンは居住まいが悪くなって、トロフィーを奪い返そうとした。しかしテヨンがそうさせない。むっとして、イジュンがトロフィーを持っているテヨンの手に自分の手を掛けると、ふいにテヨンが力を緩めてトロフィーが床に落ちた。

「ああ、すみません。」

「気を付けて!」

イジュンが急いで拾う。トロフィーは蓋の部分が開いて、中から何かが出てきた。テヨンは黙ってそれを拾ってポケットに入れた。イジュンはトロフィーに気を取られていて気が付かない。

「すみません。壊れましたか?」

申し訳なさそうにテヨンが言った。イジュンは首を振ると、トロフィーを元の段ボールに入れる。

「これも、ベランダで・・・・。ちょっと休みます。疲れちゃって・・・・」

イジュンはそれだけ言って、寝室に入っていった。

テヨンはイジュンの姿が見えなくなると、さっき拾ったものを改めて手に出した。

小型の盗聴器だ。誰かがイジュンの生活を監視している。

テヨンは静かにキッチン周りから監視機器を探し始めながら、今朝のことをもう一度思い出していた。


非常階段を上がってロビーに出る扉を静かに開けると、ちょうどエレベーターが止まったところだった。物陰に隠れて様子を見る。と、さっきの男が降りて来た。迷いなくイジュンの部屋に行く。

部屋の前で一旦周りを気にすると、ドアの暗証番号を入れる。しかしドアは開かなかった。男は何度か暗証番号を入れていたが、ドアは開かない。それもそのはず、テヨンが番号を変えていたからだ。

男の動向を見ながら、明け方の報告を思い出す。

「詳しいことはもう少し調べないとわからないが・・・・」

イ・ナムはスマホ越しにこう言った。

「あの事件には裏がありそうだ。少なくとも、チェ・イジュンはシロだな。誰かに嵌められたか、条件を出されたか。」

「根拠は?」

「映像を見ればわかる。」

「上から撮ってたな。顔は見えなかった。」

「そうだ。けど殴られている俳優の顔は見えただろ?画像処理が入っているようだが、これくらいは・・・」

スマホに処理を修正した画像が送られてきた。イジュンが殴っている俳優は、殴られながら、明らかに笑っている。そして、途中で後ろを見たイジュンの顔が見えた。そこで映像が止まった。

「ここだ。口が動いているのがわかる。」

「なんて言ってる?」

「”お願いです”」

「”お願い”?」

「カッとして殴ってる奴がそんなこと言うか?周りの奴らも笑ってるだけで、誰も止めないのもおかしい。」

その後また被害者を殴っているところで映像は切れた。

「確かに・・・」

「それと、男たちの後ろに影がある。」

「影?」

「これも修正を溶かしたら解った。明らかに誰かが指示を出してるんだ。イジュンに。」

「黒幕がいる?」

「可能性がある。イジュンが何も言えないくらいの大物か、弱みを握ってるか・・・。このまま抹消しようとしているくらいだからな。」

「殴られている男は誰なんだ?」

「ニュースでは、後輩の俳優だったよな。キム・ミンジュ。この事件のおかげでスターになった。イジュンの主演作に代役として出演したんだ。」

「キム・ミンジュか・・わかった。」


暗証番号が変わったことに気づいた男は、舌打ちをして部屋から離れた。念のため、イ・ナムにメッセージをいれるが、それより早く彼が動いていることは解っている。

昨日帰り際に、テヨンの部屋の暗証番号を変えておいて正解だった。

恐らくテヨンの引っ越しで、盗聴器が段ボールの中から出されてなかったために、マイクが入っていなかったんだろう。そういえば、ガンホが荷物をかたずけろと言っていた。奴もグルなのかもしれない。男がどういう奴かは、その内ナムから連絡が入るはずだ。

キッチンを探し終えて、居間に向かう。TVも置いていない部屋はがらんとしているが、天井に枠があるデザインだった。さすがにテヨンでもそこは届かない。

椅子を持ってきて、登ろうとしていたところへ、イジュンが寝室から出て来た。驚いてテヨンを見ている。

「あ、ちょっと掃除しようと思って・・・・雑巾を渡してもらっても?」

「・・・ちょっと待って」

バスルームにイジュンが消える。その間に手を滑らせてみたが、見つからなかった。

イジュンが戻って来てタオルを渡す。

「古い奴だから、使ってください。」

「ありがとうございます。」

テヨンは天井枠を掃除する羽目になったが、おかげで居間全体の隙間は探れた。

後は家具類だが、今はイジュンが傍にいる。さっきの男の行動を思うと、直ぐには盗聴されていないと判断した。

とりあえず椅子を片し、段ボールから本を出そうと屈みこむと、イジュンが自分を見ていた。

「寝室は終わりましたか?」

気にせずに本を出していく。意外と本の冊数が多い。イジュンが読書を楽しむ人間だと言うことがわかった。

「はい。・・・・あの・・・・」

イジュンの顔が少し赤くなった。テヨンは座ったまま彼を見る。

「さっきは・・・ごめんなさい。」

「はい?」

「トロフィー・・・」

「ああ・・・」

テヨンは笑った。彼の藍色の瞳が優しくイジュンを見る。イジュンはその瞳に引き込まれるように少し彼に近づいた。その肩をテヨンが軽く触った。

「大丈夫ですよ。こちらこそ、気に障ったなら失礼しました。」

「いえ・・・」

肩に置かれている手が温かい。テヨンとは昨日初めて会ったのに、もう何年も傍にいるような親近感を感じる。テヨンは段ボールに戻ると、何冊か本を出して重ねていった。

「本はどうしますか?本棚はないみたいだけど・・・・」

「ソファの傍に積んでおいてください。その内、本棚を買うので・・・」

イジュンは前のマンションに置いてきた、大量の本のことを思い出していた。

決して豊かではなかった幼少期、イジュンの世界は図書館の中にあった。内気で友達もあまりいなかったから、学校の休み時間もほとんど図書館で過ごしていた。好きが高じて、小学校からずっと図書委員もやった。芸能の世界に入ってお金に不自由が無くなってから、好きなだけ本を買えるようになったことが一番嬉しかった。

「本が好きなんですか?」

「ええ。ここは狭いから、あ、前のマンションに比べればですけど・・・。本当に好きな本だけを持ってきたんです。それでも選びきれなくて、段ボール2つになっちゃって・・・・」

「すごいな。好きな本は何度も読むタイプ?」

イジュンは頷いた。自然とその瞳が活気を帯びて来る。

「同じ本でも、年齢や季節や、その時の状況で感動するポイントが違うんです。この段ボールに入ってるのは、もう、ほんとに好きな奴で、そろそろ買い換えないと、表紙もボロボロだから・・・・」

愛おしそうに一冊の本を手に取った。

「これ・・・ファンにプレゼントしてもらった本なんです。子供の頃の想い出がある本で、いつのまにか絶版になってて・・・・それをラジオで話したら、見つけてくれた人がいたんです。ものすごく感動したな・・・・・。何度も読み返して手垢がついちゃったけど・・・」

イジュンがテヨンに本を渡す。テヨンはその本を大事そうに両手で受け取ると、表紙を開いた。


_______『藍の国の物語』


「きっと、その人も嬉しいでしょうね。子供の頃のイジュンさんと繋がったって思うから・・・」

イジュンが嬉しそうに微笑む。そして言った。

「この本、一番最初に読んだのが、小学校3年生の時でした。夏休みに図書館で仲良くなったヒョンがいて・・・・確か中学生くらいだったような気がする。そのヒョンがくれたんです。・・・・・休みが終わったら会えなくなったんだけど・・・・」

寂しそうに眼を伏せる。テヨンは丁寧に本を閉じて、イジュンに渡した。

「この本だけは、寝室に置いておきましょうか?ソファの横にただ並べるだけじゃ、可哀そうでしょ?」

イジュンは笑って頷くと、大切に本を抱えて寝室へ向かった。


_________忘れてなかった・・・・


テヨンは微笑むと、空になった段ボールを畳んで、次の段ボールの中身を取り出し始めた。



Act.4

遅い昼食に出前を取った後、夕方までかけて荷物は全て片付いた。

後は足りない収納家具などを準備すれば良かったが、仕事がない今は節約を心がけるのが賢明だった。

「今日はこれで終わりましょう。」

「そうですね。結構広いんだな・・・」

イジュンが居間を見回す。もっとも、イジュンが持ってきた家具はソファとベッドくらいしかない。荷物を整理すると途端に部屋の温度が下がった気がして、気持ちが落ち込み始める。テヨンを見ると、エプロンを取ってキッチンの椅子に掛けるところだ。帰り支度を始めているのだ。

「明日は・・・・」

「夕飯は?」

イジュンが慌ててテヨンの言葉を遮る。時刻は16時を回ったところだ。夕飯にはまだ早かったし、昼食が遅かった分、腹は減らない。だが・・・・

「お腹空きましたか?」

「あ・・・・そうじゃなくて・・・・あの・・・」

このまま一人になるのが辛かった。今日みたいに、誰かと一緒に一日中何かをやったのは、ほぼ1年ぶりだ。もう少しこのままで居たかった。

「お茶でも・・・・もう少し・・・」

「そうしましょう。」

「え?」

「その前に、買い物に行きませんか?」

「買い物・・・」

「はい。俺はイジュンさんが何が好きか、良く知らないし。さっき見たら冷蔵庫には何も入ってなかった。ついでに家具も観てきましょう。本棚は入れなくちゃ。」

「あ・・・あの・・・」

今のイジュンは外に出ることが出来ない。人前に出ることは恐怖だった。

「いえ・・・俺は・・・」

身がすくんでくる。とっさにイジュンが寝室に戻ろうとしたその時、頭に何かがふわりと乗った。

びっくりしてそれをどけようと上げた手を覆うようにして、テヨンが帽子を被せた。

「テヨンさん・・・」

「良く似合ってる。」

テヨンは笑うと、自分が着て来たパーカー付きのジャケットを脱ぐと、イジュンに着せた。

イジュンは声も無く、テヨンを見つめている。テヨンはフードを帽子の上から被せると言った。

「一生、この部屋にいるつもりですか?」

イジュンの瞳はテヨンを凝視した。

「まだ25年しか生きていないのに、この先どれくらいの時間を無駄にするんですか?」

「・・・・・・・」

「言ったでしょ?俺が絶対に復帰させるって。」

テヨンは、自分の鞄からサングラスを出すと、イジュンに掛けた。

「俺を信じてもらえるように、頑張らなきゃね。」

そう言って笑うと、イジュンの手を取って部屋を出た。


車が走り出した街は、もう薄暗かった。

雪が残っているためか、車道は渋滞している。

久しぶりに見る街の風景は、何も変わらない。信号待ちをしていると、すぐ横に車が止まる。はっとしてイジュンがシートに身を沈めた。運転手が自分を見ているような気がして、胸の鼓動が激しくなる。段々息が苦しくなって来て、イジュンは目を瞑った。

その時、彼の手を温かいものが包んだ。そっと目を開けると、テヨンが自分の手を握っている。

「息を吸って。」

言われるままに息を吸う。

「吐いて・・・・怖いですか?」

震える唇で息を吐くと、イジュンが頷いた。テヨンは、もう一度手を握り直して静かに言った。

「怖いなら、俺の手に集中してみてください。」

「手に・・・・?」

「この手は、イジュンさんの手を離しませんから。」

イジュンがテヨンの顔を見た。前を向いたままで表情は見えない。だが、しっかりと握られた掌は熱い意志を告げていた。イジュンは繋いだテヨンの手の上にもう一方の手も添えて、しっかりと彼に意識を向けた。


_____この人の手は俺から離れない。絶対に。


二人を乗せた車は街中を走り抜けた。


「着きましたよ。」

テヨンの声に、目を開ける。少し眠ったようだった。

イジュンはあたりを見回した。

「降りましょう。ここならレアものが発掘出来るかもしれません。」

テヨンがテンション高めに言う。

サングラス越しに見ると、大きな倉庫のような店構えだ。

「アウトレットですか?」

「ディスカウントショップですが、質が良いんです。食品も置いていますから、行きましょう。」

テヨンは車を降りると駐車場から店内に入るゲートの前で、カードを見せて眼鏡を取った。

「顔認証をします。」

「え?・・・」

驚いている間に、イジュンのサングラスを取って、小さなカメラの前に立たせた。それから自分が立って認証させると、『family』の表示が出た。

「family・・・?」

「行きましょう。」

戸惑っているイジュンの手を取って、テヨンは店に入っていく。


_____家族・・・・


テヨンは自分を家族として認証させたのだ。意味はないかもしれないけれど、イジュンは少し嬉しかった。親でさえ自分を見捨てて声も掛けてこない。もっともイジュンも自分の親とは関係を切っている。幼い頃から、居ないも同然だった。なのに、金だけは要求してくる。気持ちが落ち込んで来たその時、イジュンは目を見張った。

目の前のゲートが開くと、そこには明るく、煌びやかな世界が広がっていた。

「ここは・・・・」

駐車場からはわからなかったが、ここは巨大なショッピングモールで、まるで大聖堂のように天井が高い。イジュンは口を開けて天井を見上げた。耳元でテヨンの声がする。

「良いところでしょう?何を見ましょうか?」

「・・・・・」

答えられずに目を丸くしているイジュンの手を取って、テヨンはどんどん店内を進んでいく。目移りしながら店を眺めて行きながら、ふと、イジュンは違和感を感じた。営業中であるのに・・・人がいない。周りを見回しても買い物客が一人もいないのだ。それどころか店員の姿も無い。イジュンはテヨンの手を振り払って止まった。テヨンが振り向く。

「テヨンさん・・・・」

「人がいないと不安ですか?」

テヨンの大きな身体がイジュンの前に立って居る。眼鏡の奥の藍色の瞳が優しくイジュンを見ていて、”大丈夫だ”と言われているようだ。

「なぜ誰もいないんですか?」

「実は・・・・」

「実は・・・・?」

「クーポンが当たって」

「へ?・・・・」

いきなりテヨンが高笑いする。びっくりしてイジュンの目が丸くなった。

「いや~、俺もこんなの初めてなんですけど、年に一度の感謝祭っつーのに応募したら、店舗貸し切りクーポンが当たっちゃったんですよ!もう、びっくりですよ~!」

「はあ・・・・・」

「で、今日はショップ自体は定休日で、店舗を貸し切り出来るんです。すごいでしょ?会計はスマホでやって、後日入金。遠慮なく店をみてください。何でも好きなものを。俺がマネージャーで良かったでしょ?イジュンさん?」

イジュンの背中をバンバン叩いて笑うと、テヨンは歩き出した。慌ててその後を追うと、イジュンの手を握ってくれる。

「子供じゃないのに・・・」

「迷ったら大変だ。あそこの家具はどうかな・・・本棚を見ますか?」

イジュンは頷くと、嬉しそうに店舗に入っていった。


その夜は本当に楽しかった。

誰も居ない店内を思う存分歩き回り買い物をした。顔を見られたり、陰口に怯えることもない。新居に必要なものは当たり前だが、洋服や食材、大好きな本屋まで、色んなものが揃っていて、イジュンは始終興奮していた。

フードコートに座ると、テヨンがメニュー画面を開く。

「ここもスマホで?」

「さあ、何を食べますか?」

「え~っと、トッポッキ!それと・・・ジャージャー麺!餃子も!それから・・・刺身!」

「そんなに?ダイエット中じゃ?」

「今日は良いんです!どうせ仕事もないし!」

イジュンが笑った。心の底からの笑顔だ。テヨンは頷いて注文を入れた。

「でも人がいないのに、どうやって料理が?・・・どこかで調理してるのかな・・・・」

「さあ、どうでしょうね」

テヨンが面白そうに言う。

一緒に笑っていたイジュンが、ふと真顔になった。テヨンは水を汲んでやりながら、黙っていた。何か言いたそうだと思ったからだ。

「テヨンさんは・・・どうして俺のマネージャーになったんですか?」

「やりたかったからですよ。イジュンさんのマネージャーが。」

即答だ。他に答えはいらないと言う感じだった。

「でも・・・・」

イジュンは言いよどんだ。未来のない自分に何を託したいんだろうか。答えを聴くのが怖い気もした。イジュンの気持ちを理解しているかのように、テヨンが言う。

「俺は、状況は変えられると思っています。」

テヨンの藍色の瞳がイジュンの瞳を捉えた。

「今のイジュンさんがどういう状況かは、俺も解っています。ただ俺は、事務所がタレントを抱えている限り、そのタレントの権限は護られるべきだと思っていますし、護るのはマネージャーしかいないとも思ってます。」

それから、少し照れくさそうに続けた。

「この話を頂いた時、条件を出したんです。チェ・イジュンのマネージャーならやると。」

「俺の?・・・・」

「お、来ましたよ。」

長い廊下を配膳ロボットがこちらにやって来る。

イジュンが目を見張った。

「初めて見ました!うわ~かわいい~!」

「ちゃんとテーブルの横まで来ますよ。」

イジュンがさっきまでの真剣な面持ちから、子供のような笑顔になった。この素直な可愛さに、テヨンが思わず笑う。料理をテーブルに乗せ終わると、ロボットは来た道を帰って行った。それを最後までニコニコ笑ってみている。

「さ、食べましょう。」

「はい!」

テーブル一杯に並べられた料理からは湯気が立っていて、イジュンは今までにない幸せな気分になった。

「・・・今日が一番幸せです・・」

イジュンが料理を楽しみながら、嬉しそうにテヨンを見る。心からそう思っているのがわかった。

彼にとって、この一年は本当に地獄のような日々だったのだろう。このまま契約が切れるまで生殺しにされると思っていたのだ。テヨンは、餃子をイジュンの皿に置いてやりながら言った。

「俺は、今日が幸せへの一歩です。」

「一歩・・・」

「過去形にしないで、これから新しく始めましょう。今日はその前祝ですから思いっきり食べてください。」

イジュンはテヨンの顔をマジマジと見た。藍色の瞳がしっかりとイジュンを見つめている。嘘はない。この瞳を信じてみようと思った。

「テヨンさん・・・」

「はい。」

「俺は、あなたを信じます。」

イジュンは箸をおいて、テヨンに手を差し出した。

「手をください。」

「・・・・」

テヨンが両手を差し出す。それをしっかりと包み込むと、イジュンは言った。

「俺はずっと、このまま死んでいくんだと思っていました。それでも良いとやけにもなってた。 でも、テヨンさんが状況を変えると言ってくれたから・・・・。」

イジュンは真っすぐにテヨンを見た。

「あなたを信じます。俺をあなたに任せます。」

そういうと手を離し、立ち上がって頭を下げる。テヨンは驚いてイジュンを見ていたが、やがて自分も立ち上がって、頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いしいます。」

そして、顔を上げたイジュンに笑って言った。

「信じてくれて、ありがとう。」

イジュンは満面の笑みをテヨンに返す。

「さあ、食べてしまいましょう!冷めるともったいない。」

「はい!」

二人は箸を持ち直すと、全力で料理に向かった。


「全く、俺の苦労も汲んで欲しいぜ・・・」

厨房で皿洗いに勤しむイ・ナムの隣で、テヨンは皿を拭いている。

「配膳ロボットってかわいいよな。イジュンが喜んでた。部屋に置こうかな」

「ニヤニヤすんな、全く。配膳ロボットがあるのに、なんで食器洗浄機がないんだ、ここは!」

「あるけど、二人分じゃもったいないだろ?もう終わったし。」

テヨンはナムの肩を叩いた。

食事を終えてイジュンをマンションに送ると、テヨンは店に戻った。

からくりは簡単だ。スマホ決済は通常店でやっていることだし、食事はイ・ナムが腕を振るった。ミシュラン三ツ星シェフと言っても過言ではない腕前だ。しかも彼は・・・・・

「あの男はただのチンピラだ。」

テヨンの影の部分を全て担っている。

「動画にも顔があったぞ。関わりがないと?」

「もちろんあるさ。チンピラの仕事はな。ただ、心臓じゃない。」

「やっぱりそうか・・・」

「身体が曲がってたろ?あれはヤキだ。つまり、奴を使っている人物はかなり残虐なことをやるってことだな。歩ける程度には身体を残して、後はぼこぼこにする。」

「それが、奴らの後ろに座ってた男か?」

「可能性はある。あ、あのチンピラは逃がしたぞ。」

「サンキュ。どこに泳いでいった?」

「今のところはチンピラ事務所だ。不動産の看板が出てる。」

「なるほど。今日のところはそこまでか。」

イ・ナムは換気扇を付けて、煙草を口にくわえ、テヨンに勧めた。

「今はパス。」

「なんだよ、王子様が嫌がるか?」

テヨンは笑って手を振った。

「理解できないが、あの俳優はお前のなんなんだ?」

「別に・・・ファンなんだ。」

「そんな話を信じるとでも?こんなでかい店、あいつのためだけに開けるほどだぞ。筆頭株主の職権乱用にもほどがある。」

テヨンは再びナムの肩を叩いて笑った。

「信じてくれよな。俺は毎日嬉しいんだから。」

そのまま彼を抱きしめる。いつものように、イ・ナムはテヨンの背中を叩きながら言った。

「気を付けろよ。まだ面は割れないが・・・どうもやばい感じしかしない。ただの勘だけどな。」

だが、その”勘”は鋭い。

「肝に銘じるよ。じゃな。」

テヨンは厨房を出た。

駐車場で車に乗り込むと、スマホが鳴った。メッセージが入っている。

”今日はありがとうございました。明日また。おやすみなさい”

テヨンは笑って、メッセージの宛先を登録する。

登録名は『王子様』。

”おやすみなさい。明日また。”

スタンプは忘れない。しもべは常に、王子のことを楽しませる義務がある。

テヨンは車のエンジンを掛けると、口笛を吹きながら夜の街に出て行った。



Act.5

次の日から本格的に、イジュンの復帰に向けての準備が始まった。

「先ずは運動です。ジムは?」

今朝も朝食はテヨンの手作りだ。昨日ちゃんと買い物をしたので、朝から新鮮な果物と焼き魚にキムチチゲ。イジュンは焼き魚の身を取るのに苦戦しながら、答えた。

「今は全然・・・・ジムの契約も切れているので・・・お金もあんまり残っていないし・・・。」

テヨンがイジュンの皿を手元に引き取って、魚をほぐしてやる。あっという間に骨と身が綺麗に分かれた。

「うわ・・・何でも出来るんですね。」

イジュンが感嘆する。

「魚を綺麗に食べるのは訓練みたいなものですよ。沢山食べれば、必然的に上手になります。」

「そうなんだ・・・魚が好きなんですか?」

「好き嫌いがないんです。食べたら出かけましょう。」

「・・・・・どこへ?」

外出すると聞くと、途端に不安になる。

車でイジュンが見せた呼吸困難は、パニック障害の典型的な症状だ。今日は朝から食べているが、恐らく食事もあまり出来ていなかったのだろう。筋肉が落ちた身体は、手足も細い。

「今日は果物も食べてください。少しでも良いから。あと、サプリも。ちゃんとした食事をして運動をすれば、健康を取り戻せますよ。」

「・・・・・はい・・・」

「大丈夫。昨日のようにしっかりガードして出かけましょう。」

「ジムに行くんですか?」

「もっと良いところです。」

テヨンがにっこりと笑う。イジュンはテヨンの笑顔に安心して、また食事を続けた。


朝食の後、テヨンがキッチンでキンパプを作り始めた。

食器を洗いながら、イジュンが不思議そうに見ている。

「お弁当ですか?」

テヨンが頷いた。

「ちょっと遠出をするので。そうだ、お茶を淹れてもらえますか?昨日ポットも買ったから、それに好きなお茶を淹れてください。」

言われた通りにお湯を沸かす。

「テヨンさんって、結婚してるんですか?」

「意外な質問ですね。」

テヨンが笑う。イジュンは焦ってチグハグな答えを返してしまう。

「いえ・・・何でも出来るから。料理も、掃除も・・・」

「だから独りもんなんです。おかげで家事一般は何でもできます。」

「あ・・・そうか・・・そうですね・・・・」

生活感があまりない人ではあるが・・・。もっと色々と聞きたかった。

「以前はモデルをやってたんですよね?辞めちゃったんですか?」

「はい。モデルは20代の真ん中くらい、丁度イジュンさんの歳までやっていました。金が欲しかったので。」

「お金?」

「稼ぎたかったんです。さ、できた。」

タッパにキンパプを詰めると、イジュンが淹れたお茶と、リンゴを袋に入れながら彼を見た。

「ほかに質問は?」

真っすぐな藍色の瞳にドキッとする。

「あ・・・・ハーフって・・・どこの国の?」

また変な質問をしたと思った。怒らせたかもしれない。

だがイジュンの心配をよそに、テヨンは笑って答えてくれる。

「北欧です。スゥエーデン。ムーミンの国ですね。」

「へえ・・・・行ったことない。でも良く動画を見るんだけど、すごく綺麗ですよね。デザインも面白いし・・・『長靴下のピッピ』だ!」

やはり本の話になると、イジュンのテンションは上がる。テヨンは頷いた。

「スゥエーデン語・・・・喋れるんですよね?」

「もちろん、後は英語と今喋ってる韓国語。さあ、着替えて。運動しに行きますよ。」

「やっぱり運動?・・・だからテヨンさんはスエット上下で?。」

「これがいつもの恰好なんで。さあ、行って。」

その背中を押し出すように寝室に向かわせると、テヨンはさっとソファやテーブル下に手を這わせた。とりあえず、今のところ、盗聴されてはいないようだ。

「出来ました。これで良いかな・・・」

イジュンもジャージの上下に着替えて出て来る。

「寒くないようにダウンを来てください。」

昨日のように、帽子の上にフードを被らせ、サングラスをかけてやる。

「テヨンさんの瞳は・・・」

「行きましょうか。」

イジュンの手をしっかりと握ると、テヨンは玄関に向かう。

「サングラスで見ても、藍色がわかりますね。」

スニーカーを履きながらイジュンが言った。

「そうですか?それはイジュンさんの目が良いんだな。」

「敬語・・・・」

「はい?」

イジュンがサングラス越しにテヨンの目を見て行った。

「敬語・・・やめませんか?テヨンさんはヒョンだし。俺のこともイジュンって呼んでほしい。」

そう言うと、唇を嚙み締めた。勇気がいったようだった。テヨンはイジュンのサングラスを少し下げてやり、しっかりと目を見ていった。

「・・・・・・そうしましょうか?」

イジュンが嬉しそうに頷くとサングラスを戻してやる。そして手を差し出した。イジュンはその手を握ると、彼のために未来に繋がるドアをあけた。


Act.6

「うわ・・・・・綺麗・・・・」

車窓の景色に目が奪われる。窓の外は一面の雪景色だ。イジュンはいつの間にかサングラスを外して夢中になっていた。

「どこに向かってるんですか?」

旌善郡チョンソングン。行った事は?」

「初めてです・・・。」

テヨンがクスっと笑った。

「敬語・・・・」

「あ・・・そうだ・・・」

イジュンも照れくさそうに笑う。

「慣れなくて・・・・」

「ゆっくりで良いですよ。俺もまだ慣れない。何か飲みますか?淹れてくれたお茶もあるし、後ろのクーラーボックスにもジュースがあるから・・・」

イジュンはホルダーに置いてあるタンブラーを手に取った。少し考えてから、テヨンに声を掛ける。

「ヒョンは?・・・・」

「ん?・・・」

「飲み物・・・」

「ああ、俺は良いです。後で飲むから。」

イジュンは頷くと、タンブラーから温かいお茶を飲んだ。

旌善郡は雪の多いところだ。冬は常にマイナスの気温だが、スキー場などで人気のエリアでもあった。

「寒くないですか?」

「うん。大丈夫。」

「もう少しだから。」

「はい。」

イジュンはまた窓の景色を見る。

「雪って良いな・・・。」

独り言のように呟いた。

「どんどん降り積もって、汚いものや見たくないものを隠してくれる・・・」

テヨンは黙って、イジュンの言葉を聴いている。そういえば、事件が起こったのも冬だったか。

イジュンは何を隠しているのだろう。見たくないものは、なんなんだろうか・・・。

それ以上イジュンの言葉は聞けなかった。テヨンはイジュンが置いたボトルを取って、一口含んだ。イジュンはそれには気づかず、窓に息を吹きかけて何か絵を描いている。穏やかな空気が流れていることを感じながら、テヨンはバックミラーをチラと見た。

二人を乗せた車は、真っ白の雪道に轍をつけながら走る。その轍の後に、重ねて走っている車が見えた。


__________今度は尾行か・・・


「ちょっと歩いてみる?」

「え?・・・」

そういうと、テヨンは車道を外れて森林道に少し入ったところで車を止める。それを追い越して、一台の車が走って行った。いきなり襲ってくるような乱暴者ではないらしい。

「しっかりジャケットを着て、手袋も。」

イジュンが頷いた。先にテヨンが車を降りる。足元が雪に埋もれた。

「すごい!綺麗な雪!」

降りて来たイジュンが雪を触って感動している。テヨンは車の中から取り出したマフラーを、イジュンの首に掛けると、彼の手を取った。

「大丈夫だけど・・・」

「こけると危ないでしょ。」

先に歩き出したテヨンの背中を見る。

イジュンが手を繋ぐのは、安心感からだった。小さい時からの癖で、信頼している人には自然と手を差し出した。大人になった今でも癖が抜けないのは恥ずかしいが、不安になった時や、緊張した時など、誰かと手を繋ぐことが一番気持ちを落ち着かせた。

だが、この世界へ入ってからは、誰にもそれを言わずにやり過ごして来た。自分を取り巻く環境に、いつまで経っても警戒心は解けなかった。そして事件が起こってからは、イジュンの傍から誰もいなくなったのだ。誰かの手を求めたくても、もう誰も手を差し伸べてはくれなかった。


_______俺の手に集中して・・・・


テヨンが初めてそう言ってくれた。どうしてわかったんだろう・・・・

それからテヨンは自然に手を差し出してくれる。まだ出会って3日目なのに・・・自分はテヨンを信頼し、頼り始めている。


______大丈夫だろうか・・・こんなに信じて・・・


この現実が嘘で、再び自分の周りから何もかもが消えて無くなるかもしれない。見上げると、ちらちらと雪が降っている。この雪が、テヨンも隠してしまうかもしれない・・・・

ふいに、後ろから抱きしめられてテヨンの足が止まった。

「イジュン?・・・」

はっとして、イジュンが身を離す。テヨンが振り向いてイジュンを見つめた。

「どうしたの?」

イジュンの瞳が大きく見開いて、今にも泣きそうに自分を見つめている。

「ごめんなさい・・・なんでもな・・・」

テヨンがそっとイジュンの頬を両手で包み込んだ。

「大丈夫ですか?」

テヨンの声は、低くて暖かい。それを聞いているだけでも、イジュンの心は落ち着いてくる。彼がイジュンの手を離すことは、絶対にない。そう信じよう。俺が信じなきゃ・・・。

「うん。大丈夫。」

イジュンは微笑んだ。テヨンが笑って、イジュンの頭をポンと叩く。

「こんな雪の中で運動するの?」

「歩くだけでも十分筋力つくでしょ?」

「ほんとに、歩くだけ?」

「そう。歩くだけ。」

「嘘だよね?ね?」

子犬のようにテヨンにまとわりつくイジュンをかわしながら、そのまま30分ほど歩く。段々イジュンの口数も少なくなってきたその時、テヨンは立ち止まった。危うく、その背中にぶつかりそうになる。

「見てごらん。」

「え?・・・・あ・・・・」

イジュンは声も無く目の前の風景に目を奪われた。

雪原の中に真っすぐそびえ立つ白樺の並木。

圧倒的な美しさと大きさ。イジュンは言葉を飲んだ。見渡すと、白い雪が舞っていて、ただ静かだ。声を出してはいけないような気さえする。

立ち尽くすイジュンの身体をテヨンが後ろから抱きすくめた。温かい。

出会って3日間の間、テヨンはいつもイジュンを一番に考えてくれた。そのことがとても嬉しかった。

「ヒョン・・・」

「うん。」

「俺、話したいことがある・・・」

イジュンが身体の向きを変えようとした時、テヨンがそれを許さずに耳元で言った。

「ちょっとこのままで居よう。」

「え?・・・」

「多分、すぐ済むから・・」

「済むって・・・・」

「しっ・・・」

テヨンがイジュンの唇をそっと掌で包んだ。

「じっとして。」

耳を澄ますと、白樺の奥で息遣いが聴こえる。人影がチラチラと木々の間に見えた。イジュンが身を固くしてテヨンの身体に自分を押し付けてきた。

「大丈夫だ。行こう。」

そのままイジュンを抱きかかえるようにして、テヨンは歩き出した。


車に戻ると、イジュンを助手席に座らせてしっかりシートベルトを付ける。イジュンは不安気にテヨンを見ているが、何も言わない。声をだしてはいけないと思っているようだった。

ふいにスマホが鳴ってその振動音にイジュンが動揺する。

「大丈夫。連絡だから。」

テヨンが笑って言う。その笑顔に少し気が緩むのか、イジュンはタンブラーを手に取ってお茶を飲んだ。


______『完了』


テヨンはスマホをポケットに仕舞うと、車のエンジンを掛ける。

「今日は泊まるよ。」

「え?」

それ以上は語らず、テヨンはイジュンの手を握ると車を出した。



Act.7

運転している間、ずっとテヨンは黙っていた。雪道なのにスピードは速く、何かに追い立てられているようで、イジュンは怖くなった。さっきの物音はなんだったんだろう。

誰か人が争っているような・・・・息が苦しくなって来る。落ち着こうと息を吸って吐くことを繰り返すが、どんどん呼吸が荒くなる。イジュンはテヨンを見た。

「テヨンさん・・・・」

「俺を見て。」

前をみたまま、テヨンが言う。イジュンの手を握っている手に力が入った。

「苦しくなったら俺を見て、俺の手を感じて。それでもだめなら・・・・」

イジュンは、じっとテヨンを見つめた。

「俺を抱きしめても良い。」

「・・・・・・」

やがてイジュンはゆっくりと、テヨンの肩に寄り掛かった。

「運転・・・大丈夫?俺・・・邪魔じゃない?」

「そのために俺は技術を磨いてるんだ。」

前をみたままテヨンが微笑むと、イジュンの頬に手を当てる。その温もりに誘われるように、イジュンは目を瞑った。


車はかなり森の中に入って止まった。

イジュンはずっと目を瞑ってテヨンの肩に寄り掛かっている。眠っているわけではないようだ。

テヨンは、そっとその頬にふれると声を掛けた。

「着いたよ。」

ゆっくりイジュンが目を開ける。

「ここは?」

「俺たちのアジトだ。」

「アジト?」

テヨンは微笑むと、シートベルトを外して車を降りた。イジュンも後に従う。

「ここ?」

目の前には古いログハウスが建っていた。どれくらい古い建物なんだろうか、木肌がアンティークの色合いを帯びていて、懐かしい感じがした。

「ログハウスは初めてだ・・・・」

「カッコいいだろ?」

「うん。」

「さ、これ持って。」

イジュンの荷物を渡すと、テヨンが先に立ってログハウスに入る。

玄関を開けて中に入ると、イジュンが思わず感嘆の声を上げた。

外観もかなり大きいと感じたが、天井が高くしっかりした梁が通っている。大きな階段が部屋の中心にあり、客を迎える執事のようだ。テヨンは感動しているイジュンを置いて、暖炉に火を入れた。

「すぐに温まると思うけど、ちょっと待ってて。荷物を持ってくるから。」

「あ・・・うん。」

イジュンをハウスに残し、テヨンは車に向かった。

車のトランクを開けて荷物を降ろしていると、傍にイ・ナムがやって来た。

「今日は焼肉か?」

「良い肉だぞ。一緒に食うか?」

「馬鹿言うな、面が割れる。」

荷物の中の袋を一つをナムに渡す。ナムは中身を見ながら口笛を吹いた。

「や~韓牛か?」

「最高級。何かわかったか?」

「尾行してたのは、この間の奴だ。今回はあからさまに邪魔をしたからな。今頃会社に報告してるだろ。」

「イジュンの全ての動きを監視してるってことか。なんでだ?」

「一つは事件のことを喋らせないため。一つは・・・・・おまえだろ?」

「俺?なんで俺を直接監視しない?」

「いまんとこ、独りの時はないからな」

テヨンは笑った。

「まあな・・・・。つまり、今日は俺がターゲットだったわけだ。」

「お前が只者じゃないってことはあっちにも解ったぞ。俺が奴を止めたからな。それも狙いだろ?」

「良くおわかりで。取り合えず、しばらくここに居るから、その間に策を練るよ」

「ほんとか?初恋に身を焦がして終わるんじゃ・・・・・」

もちろん、テヨンのパンチなど軽くあしらわれる。ナムは笑いながら消えていった。

とにかくこのログハウスは安全圏だ。ナムがセキュリティを張っている。

しばらく雪の中に立って居ると、玄関の扉が開いてイジュンが不安気に外を覗いた。

「ヒョン・・・・」

テヨンは手を振ると、残った荷物を持ってログハウスに戻った。


荷ほどきを終えると、キッチンに昼食を並べた。

さっきのことがイジュンを不安にさせていることは解っている。テヨンは持ってきた来たキンパプを温めて、簡単なスープを作った。イジュンは着替えて部屋から出て来ると、テーブルに着く。

「今日はもう出かけないの?」

テーブルのキンパプを見て言う。

「ちょっとバタバタしたからね。お腹空いただろ?」

首を振る。

「食欲ない?」

イジュンが頷いた。まだ瞳に不安の影がある。テヨンはスープのお椀をイジュンの前に置いてスプーンを持たせる。

「少しでも口に入れて。その方が落ち着くから。」

イジュンはテヨンを見ると、素直にスープを口にした。パッと目を見開いて驚いたように言う。

「美味しい・・・・なんのスープ?」

「適当スープ」

テヨンが笑う。確かに美味しくて暖かいスープはイジュンの心を落ち着かせたようだった。キンパプも一つ口に入れる。後はどんどん入っていって、結局お皿は空になった。

「お腹いっぱい・・・」

「良かった。」

イジュンは恥ずかしそうに自分の食べた食器を流しに運ぶ。

「俺が洗うから。」

「じゃあコーヒーを淹れるよ。」

テヨンが自分の食器を流しにおくと、コーヒーを淹れるために豆を挽き始めた。

良い香りがキッチンを包む。イジュンは食器を洗いながら言った。

「今日のこと・・・・聞かない方が良い?」

テヨンはコーヒーを淹れながら、黙っている。答えがないことが答えなのだ。イジュンは黙った。

「二階で飲もう。」

テヨンが二人分のカップを持って大階段を上がる。その後にイジュンも着いていった。

「わあ・・・・」

二階はワンフロアのトレーニングルームになっていた。ログハウスは三角形になっていて、上に行くほど面積は狭くなっており、それを上手く利用してトレーニング器具が置いてある。窓は大きく、その景色を見ながらのトレーニングは解放的で気持ちよさそうだった。

「明日からしばらくは、ここを使ってトレーニングをやるつもりなんだ。」

イジュンが意外そうな顔をして言った。

「・・・・ここで?」

テヨンが頷く。

「帰らないの?」

「うん。」

窓の外は雪がまた降っている。少し吹雪いているようだ。その時、イジュンのスマホが鳴った。宛先を見ようとスマホを取り出した時、ふいにテヨンがそれを取り上げた。そして、電源を落とす。

「テヨンさん・・・・」

「ここにいる間は、スマホ禁止。」

そして自分のスマホも取り出して電源を落としてみせる。

「どうして・・・・」

「イジュン。」

テヨンはイジュンの手を取ってソファに座らせた。

「これから言うことをよく聞いてほしい。」

イジュンは混乱した頭でテヨンの藍色の瞳をじっと見つめた。



Act8.

「行方不明・・・・?」

「・・・はい・・・」

オ・ガンホが身を固くして立ち尽くしている。『社長 ホン・ソン』と入ったプレートのデスクに居る人物は、書類を見ながらガンホの次の言葉を待っていた。

「なぜそう思うんです?」

「は・・・・。」

ガンホは覚悟を決めて言葉を発した。

「一週間、まったく連絡が取れません。どこにいるかもわかりません。手を尽くしましたが・・・・。」

「カン・テヨンは?」

尚更緊張が高まる。自分がイジュンから離れるために、カン・テヨンを押したのはガンホだ。こんなことになるとは思ってもみなかった。そんなに頭の回る人間に見えなかったし・・・・

「とにかく二人を見つけてください。まだ契約が残っていて給料は払っているわけだから。」

ホン・ソンが書類から顔を上げてガンホを見た。

「もちろんです。」

「それから・・・」

再び新しい書類を広げてホン・ソンは言った。

「キム・ミンジュのこともよろしく。最近、仕事がうまく進んでいないようですから支えてやってください。」

「もちろんです。全身全霊で・・・」

社長は笑いながら手を挙げた。それ以上話は聞かないという意味だ。ガンホは頭を下げて部屋を出た。ほっと胸をなでおろす。


_______いったいどこに消えたんだ。


今のイジュンに行くところはない。カン・テヨンが拉致したとしか思えないが、理由がわからない。なんの得にもならない俳優を・・・・。とにかく、探さなくては・・・・社長より先に・・・・


「どういたしましょうか?」

社長の後ろでじっと顛末を見ていた男が声を掛けた。社長秘書のジェイだ。

「もちろん探してください。ガンホより先に見つけたい。」

そう言いながら見ているのは、カン・テヨンの履歴書と職務経歴書だ。

年齢、30歳。国籍、スゥエーデン、10歳で養子に出ている。大学在住からモデルとしてランウエイにも立っているが、その後会社を興して独立。俳優とモデルのマネージメントとコンサルタントをやっている。

経歴は問題ない。言語にもたけている。これから世界を目指すタレントには必要な人材だ。

だが、何故チェ・イジュンなのだ。

「カン・テヨンについて、もっと調べてください。どうも只者ではないらしい。」

「わかりました。」

その時、ドアが開いて一人の男が入って来た。

「ヒョン!」

ためらいもせずに、社長デスクへやってくる。ホン・ソンが手を上げると、ジェイが入れ替わりに部屋を出た。

「何事ですか?キム・ミンジュくん。」

「あの役は気に入らない!」

「あの役?」

「今度のドラマの!」

言い放ってソファに乱暴に座る。ダイエットのせいか、顔の線が細く、シャープだが神経質に見える。彼は苛々と貧乏ゆすりをして親指の爪を噛んでいる。ホン・ソンはその指を掴むと、口から離した。

「手を汚さないで。」

きまり悪そうにミンジュが横を向く。ホン・ソンは上座のソファに座った。

「悪い役じゃないと思うけど・・・」

「準主役だろ?!」

「問題が?」

「俺が主役!」

ホン・ソンはため息をついた。

「何を荒れてるんです?ドラマの出演は続いているし、どれも話題作だ。脚本家と監督の名前だけでもヒット確実なものばかりだし、何が不満なんですか?」

「不満じゃない・・・不安なんだ・・・」

ミンジュは立ち上がると、ドアの鍵をかけて再びソファに座るとホン・ソンに詰めよる。

「イジュンが行方不明だって?」

「誰に聞きました?」

「誰だって良いだろ!」

また激しく足をゆする。

「あいつがいる限り、俺の足元は危ない。早く契約を切ってくれれば良かったのに・・・・もしくはムショに・・」

いきなりホン・ソンがミンジュの襟首をつかんで締め上げた。慌ててその手を引き離そうとミンジュがもがく。だが、びくともしない。ホン・ソンはミンジュの血走った眼を見て言った。

「そうだ・・・お前の足元はいつでもすくわれる砂の上だ。」

ミンジュの身体をソファに投げる。ミンジュが呼吸を求めて激しくせき込んだ。

「だから文句を言わずに実力を付けろ。勘違いするなよ。最初のドラマはイジュンの後釜だからやれたんだ。お前の実力じゃない。メッキは直ぐに剥がれる。肝に銘じろ。」

ホン・ソンが受話器を取った。

「ああ、ガンホさん。キム・ミンジュが来ているんです。もうすぐ出ますから迎えに来て下さい。よろしく」

受話器を置くと、立ち上がったミンジュのシャツを整えてやる。ミンジュは身を固くして目をそらした。

「お前とイジュンの才能は比べ物にもならない。それでもお前を残してやった恩を忘れるな。いつでもお前を切ることが出来ることもな。」

ミンジュはヨロヨロと部屋を出ていく。そしてドアに手を掛けながら言った。

「でも、俺たちは一蓮托生ですよね。俺が生きている限り・・・」

ホン・ソンは書類に目を落とすふりをして、ドアが閉まる音を聞いていた。


「君は監視されていたんだ。」

「監視?」

テヨンは頷いた。初めて聞く言葉にイジュンが戸惑う。

「監視って・・・誰に?・・・なぜ?」

「恐らく会社に。何故かはまだわからない。」

イジュンのカップを持った手が震える。

「まさか・・・社長?」

「心当たりが?」

イジュンは首を振る。

「良くわからない・・・」

テヨンはイジュンの手を握る。イジュンがテヨンを見た。

「さっきの騒ぎは、君をつけてた奴を俺の部下が阻止して起きたんだ。すまない。怖かっただろ?」

テヨンが申し訳なさそうに、イジュンを見る。急に困ったような表情が子供っぽくて、思わずイジュンが笑った。

「ん?何か変?」

「そうじゃないけど・・・・」

テヨンの大きな掌が、そっとイジュンの首筋を撫でる。冷えていた首元が温かさで包まれて、イジュンは安心した。

「テヨンさんには部下がいるの?護衛みたいな人?」

「まあ、そうだな。」

「テヨンさんって・・・何者なの?」

「うん?・・・・マネージャーでしょ?イジュンさんの。」

一瞬イジュンの目が丸くなる。が、直ぐに声を出して笑った。

「それはそうだけど・・・」

しばらく二人で笑った後、テヨンが言う。

「俺のことはもう少ししたら、ちゃんと話すよ。それで良いかな。」

イジュンが頷く。テヨンはもう一度イジュンの首筋に手を当てながら言った。

「でも、これだけは言っておくよ。」

テヨンの藍色の瞳がまた光る。イジュンは宝石のようなその瞳から目が離せなかった。

「俺は君を護るために来た。」

「・・護る・・・・」

「信じてくれる?」

速攻でイジュンが頷いた。信じているから、今、ここに居る。イジュンが示せる精一杯の誠意だった。テヨンは微笑むと、イジュンの背中をかるくさする。

「もう一つ聞いて良いかい?」

「うん。なんでも。」

「あの事件のことを教えて欲しい。さっき話そうとしてたのは、そのことだよね?」

確かに、あの白樺の幻想的な世界の中で、全てを話してしまおうと思っていた。

「あの日、どうしてあの店にいたのか、そこで何があったのか、覚えていること全部聞かせて欲しい。」

「・・・・・・・・」

「話せるかい?」

しばらく考えてから、イジュンは意を決したように頷いた。


その時イジュンはグラビアの撮影を終えて、帰途についているところだった。

一昨年に新人賞を受賞してから、イジュンの認知度はかなり上がった。先月撮影を終えたドラマは海外出資の配信会社が制作をしたこともあり、世界中でヒットを飛ばしている。

19歳からこの世界へ入って遅咲きと言われたが、小さな役でも大切に演じてきた情熱と、イジュンが本来持っている人柄もあって、順調にキャリアを積んでいた矢先のビッグヒットだ。いまだに信じられないことでもあるが、これからの未来を約束されたようで嬉しかった。

「明日はやっと休みが取れるから、ゆっくりすると良い。この3年くらいは本当に頑張ったもんな。」

マネージャーのガンホも満足そうだ。二人で頑張って来た年月を噛みしめる。

「ヒョンもゆっくり休んでほしい。ヒョンがいなかったら今の俺はないから。」

ガンホがイジュンの肩を軽く叩いて笑った。その時、ガンホのスマホが鳴った。

「おいおい、まさか仕事じゃないだろうな・・・」

笑いながら車を寄せて電話を取る。

「お疲れ様です。」

助手席に座っているイジュンに口だけで「社長」と言う。イジュンが笑った。

「はい。帰る途中です。え?今からですか?」

ガンホの顔が曇る。イジュンは内容を予測してため息をついた。

「ちょっと飲みに来いって。」

時計を見ると、深夜0時はとっくに回っている。イジュンは笑って言った。

「しょうがないよ。社長に呼ばれたんじゃ。俺、大丈夫だから。」

「そうか?挨拶だけして、お前は帰らせてもらうから。」

「ありがと、店に着くまでちょっと寝るよ。」

「そうしろ。着いたら起こすから。」

イジュンは助手席に身を沈めると、眼を瞑った。

とある高級クラブの前で車は止まった。オ・ガンホがイジュンの肩をゆすって起こす。

「降りるぞ。」

「あ・・・うん。」

眠そうに目を擦る。助手席のドアが開いて、イジュンは肩をすくめて降りた。

煌びやかだが上品な店内は、いかにも社長が好みそうだ。酒もあまり強くないイジュンには居心地が良くない。だがこういう席も俳優には必要だということもわかっている。

クラブのマネージャーに通されて、VIP室に入った。

「ああ、お疲れ様。」

背広の上着を脱いで寛いでいる社長が座っている。イジュンたちがソファに座るのと同時に、ウィスキーが目の前に置かれた。手順が良いのも社長は好きだった。ソファの後ろには秘書のジェイが立って居る。イジュンはジェイに笑顔で頭を下げた。ジェイがそれを受ける。

社長は目を細めて言った。

「さすが、イジュンさんは礼儀が叶ってますね。秘書にまできちんと礼をする。ガンホさんの躾が良いのかな。」

「いやいや、恐れ入ります。」

ガンホが笑ってグラスを掲げる。イジュンもグラスを上げた。

一杯目は一気に飲み干すのが礼儀だ。開いたグラスは直ぐに満たされる。気を付けて飲まないと酔わされるな・・・・

イジュンの心を読んだように、社長が笑うと言った。

「イジュンさんはあんまり飲まないんですよね。ゆっくりやってください。ところで・・・次のドラマはどうですか?面白そうですか?」

「あ・・・ええ。まだ前半の台本読みですが、すごく面白いです。」

「そうですか。やれそうですか?」

イジュンは頷いた。

「作家の方が、僕を想定して書いてくださって・・・・出来ると思います。良い台本なんです。」

社長が笑顔で頷く。ガンホが横から割って入った。

「大丈夫ですよ。監督も大いに期待するって言ってくださってますし、会社にもいい結果報告しますから」

「ヒョン・・・」

イジュンがはにかんで、ガンホの袖を引っ張る。

「なんだよ、嘘じゃないだろ?こいつ、こういうところ引っ込み思案なんですよ」

酒が入っているからか、声が大きくなっていく。

その時、ガンホのスマホが鳴った。

「すみません・・・」

スマホに出ながらガンホが扉の外に出て行くと、ジェイが後を追った。

部屋はいつの間にか、社長とイジュンの二人きりになっている。

「もう一杯どうですか?」

「あ・・・・もう・・・お酒は強くなくて・・・」

社長が笑う。

「じゃあ、これで終わりということで・・・僕からの乾杯を受けてくれないんですか?」

そう言われては断れない。社長はイジュンのグラスにウイスキーを注ぐと、自分は一気に飲み干した。

「さあ、イジュンさんも飲んで。」

少し酔っていたからもあったと思う。イジュンは何も疑わずにグラスを空けた。


「そこから記憶がないんだ。」

「記憶がない?そんなに酒が弱いのか?」

イジュンは首を振る。

「強くはないけど、二杯で記憶が飛ぶなんて俺もびっくりした。強いお酒だったのかもしれないけど・・・・。気が付いたら自分の部屋で寝てたんだ。」

「じゃあ、あの事件のことは?」

「ニュースで知った。その後会社に呼び出されて記者会見をすることになって、その時全部聞かされたんだ・・・・」

イジュンが目を伏せた。

「信じられなかった。でも、目が覚めて、確かに拳に血が付いてたし、時々フラッシュバックのように、俺がミンジュを殴っている絵が浮かんでくるんだ。ミンジュは全治4週間の大怪我だった。ほんとに自分が彼をあそこまで殴ったのか・・・・まるでドラマを観ているみたいだった。フラッシュが眩しくて、熱くて・・・・何も答えられないんだ・・・怖くて・・・」

そのまま顔を覆う。テヨンはその身体を包み込むように抱き込んだ。イジュンの顔を覆った手からくぐもった声が聴こえて来た。

「俺の周りから何もかもが消えて無くなるのは、あっという間だった。ガンホ・ヒョンも友人も、親さえも・・・・。ドラマの監督も脚本家だって、黙って俺を見限った。・・・・」

ふいにイジュンが顔を上げてテヨンを見た。

「ミンジュがやったんだ・・・主役・・回復する時間を待ってまで・・・・そんなにミンジュが良かったなら、最初から俺をキャスティングしなきゃよかったのに・・・・」

後は声にならなかった。テヨンはイジュンの震える身体を抱きしめて黙って聞いていた。


_____つまり・・・イジュンは嵌められた。


大麻か薬かわからないが、何かが酒に入っていたはず。朦朧とした意識の中で、あの芝居が打たれた。どうりでキム・ミンジュが笑っているはずだ。それでも、イジュンは許しを乞うたのに・・・・

静かな怒りがテヨンを支配した。藍色の瞳に光が帯びる。

やがてテヨンは静かにイジュンの身体を起こすと、涙で濡れている頬を拭ってやった。イジュンは目を開けられずに、泣き続けている。

「俺を見て・・・。」

泣きはらした目がゆっくりと開いてテヨンを見る。

「イジュンは悪くない。そう言ったよね。」

小さくイジュンが頷いた。

「俺もそう思っているよ。イジュンは悪くない。」

「・・・・・ほんと?・・・・」

答える前に、イジュンを強く抱きしめた。その瞳から涙があふれ出て来て、イジュンは初めて声を出して泣いた。テヨンの胸に自分の身を預けて号泣する。これまで耐えて来た様々なものを一気に吐き出すかのように、ただ泣いた。テヨンは自分の身をイジュンに与えながら、じっと窓の外の雪を睨んでいた。


目を覚ますと、窓の外はもう暗くなっていた。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったらしい。個室のベッドに寝ていて、テヨンの姿はなかった。イジュンはベッドから降りると、部屋を出てみた。広いエントランスには間接照明が灯っていて、幻想的な雰囲気を醸し出している。窓にはアンゴラ織りの重厚なカーテンが掛かっていた。明るい時に観た感じとは違って、まるでイギリスの古城のようだ。

ふと見ると、大階段の裏側に暖炉が見えた。温かそうな炎に惹かれて近づいてみると、暖炉の前に座るスペースがある。イジュンは炎が上がっている暖炉の前に座った。ふかふかの絨毯が気持ち良かった。

炎を見ていると、昼間のことを思い出した。テヨンの腕の中で、何もかも吐き出して泣いたこと。

彼が本当に自分を信じてくれているとわかる。自分に触れるその手の温かさが証拠だった。


_____俺は君を護るために来た。


テヨンがどういう人物で、なぜイジュンを護ってくれるのかは、今は考えないでおこう。でも、嘘ではないと信じられる。テヨンといれば、自分は生まれ変われるかもしれない。イジュンは微笑んだ。

「ご機嫌かい?」

目の前に、テヨンの顔が逆さに降りて来た。びっくりして振り返る。テヨンが後ろから屈んでイジュンの顔を見たのだ。

「ヒョン・・・・」

「腹は?夕飯、もう少しで出来るから、ちょっと待ってて。」

「うん・・・。」

「あ、そうだ・・・」

テヨンはそう言うと、イジュンを立たせて階段奥の部屋に連れて行った。

「ここで待っていると良い。出来たら呼びに来るから。」

そういうと、部屋の明かりをつける。パッと現れた部屋の光景にイジュンが息を飲んだ。

「・・・・・・・ここ・・・」

「ごゆっくり。」

テヨンはニヤニヤしながらイジュンの頭をクシャクシャにすると、キッチンへ向かった。

残されたイジュンは、呆然と部屋を見回している。

そこには、部屋の壁いっぱいに書棚が並んでいた。どれだけの本があるのか、見当もつかない。イジュンは導かれるように、一番近い書棚から近づいていった。棚に並んでいる本の背表紙を次々に読んでいく。ファンタジー、ミステリー、エッセイ、歴史・・・・・

「百科事典?」

思わず笑う。

「こんなものまで?」

本の匂いがする。自分を俳優に導いてくれた沢山の物語たち。まるで親友に会ったような懐かしさを感じて、イジュンは胸が一杯になった。棚を上から下まで見てみると、新しい本ばかりではないようだ。特に棚の上の方には読み古した本が沢山あった。イジュンは棚に付いている梯子に昇って、上の棚を見た。そこにも様々なジャンルの本があったが、ふと奥にあった一冊の本が目に留まった。

「・・・・これ・・・・」

背表紙を見ると『藍の国の物語』とある。

「持ってきてくれたのかな・・・?」

だが、イジュンがもらった本は、絶版になった出版社にファンが掛け合ってくれて在庫を送ってくれたから、新しかった。

「ここに置いてある本なんだ。初版本かな?」

確かめようと本を手に取ろうとした時、テヨンがドアを開けて声を掛けた。

「出来たよ。食べよう。」

イジュンは出しかけた本を置いて、テヨンに頷くと梯子を下りた。



Act.9

ホン・ソンがテヨンと会うのは初めてだった。

取締役社長が一介のマネージャーの入職に関わることはほとんどない。なので、最初、社長室に立って居るこの男が誰か解らなかった。目の前の長身の男は、眼鏡の奥の藍色の瞳を自分に向けて頭を下げた。

「はじめまして。カン・テヨンです。」

ホン・ソンは後ろに付いているジェイに少し首を傾けると、ジェイは黙って部屋を出た。

「ああ、君がカン・テヨンさんですか。初めまして。」

手を差し伸べる。テヨンは笑顔でその手を握った。ソファに座ると立ったままのテヨンに合図をした。テヨンもソファに座る。

「どうしました・・・いや、どうやってこの部屋に入ったのか、と聞くべきですね。」

「ああ・・・」

テヨンが笑った。

「開いていたので。」

「そんな訳はない。」

「そうですね。」

「カン・テヨンさん。ふざけている時間はありません。要件は?」

「チェ・イジュンの報告です。」

「イジュンの?」

「ええ。まだ契約が残っている限りは義務ですから。」

ホン・ソンは眼鏡の奥の藍色の瞳を見た。何を考えているか測れない。

「では、手短に・・・・」

ジェイが部屋に入って来た。ホン・ソンが横目でジェイの顔を見る。テヨンが笑った。

「尾行は失敗でしたか?」

ホン・ソンの眉が吊り上がる。

「報告を。」

「イジュンは今僕の別荘にいます。旌善郡にありますが。」

「旌善郡・・・・」

「ソウルは人の目もあるので、運動もしにくいですし、何よりイジュンの精神的な問題もあります。パニック障害を患っているのはご存じですよね?あの事件のせいで・・・・」

「パニック障害・・・」

テヨンはホン・ソンの表情を見る。

ホン・ソンは38歳の若きトップだ。父親が興した芸能事務所を大企業に成長させ、ニューヨーク・タイムズの韓国版で記事が上がったこともある。今や彼の会社である『カイザー』は韓国エンタメ業界の看板ともなっていた。

「そうでしたか・・・」

「しばらくは休養も兼ねて、旌善郡に居ます。復帰に向けて本格的に準備を始めるためにも。」

「・・・・・復帰?」

「ええ、そのおつもりでは?」

ホン・ソンが笑う。

「出来ると?」

「もちろん。出来ないと思っているんですか?もしくは・・・・」

「いえ、復帰できるならそれが喜ばしい。」

「ですよね?」

テヨンが立ち上がった。

「今日の報告はこんなものです。契約は後1年。その間にチェ・イジュンは濡れ衣を晴らし、復帰します。」

「濡れ衣?・・・・」

テヨンはニッと笑うと、ホン・ソンに頭を下げた。

「君は・・・何者なんですか?」

「何者とは?・・・」

「いえ、今までにないタイプなんで。興味がわいて・・・」

「それは良い。お見知りおきを。」

テヨンは自分を暗い瞳で見ているジェイに向かっても、軽く頭を下げた。背広の袖口に向けて指が一本折れている。そこに何が隠されているか、テヨンは知っている。

「それではまたご報告に来ます。あ・・・・」

テヨンは立ち止まって言った。

「鍵は閉まっていました。そういえば・・・」

そのまま頭を下げると、ホン・ソンの前でドアは閉まった。


しばらく『本の部屋』___・・・・とイジュンが名付けた___で読書に没頭していた。ふと時計をみると、15時を回っている。イジュンは飲みかけのお茶を口に含んだが、冷めていた。

「会社に報告に行ってくるよ。」

今朝のウォーキングを終えて朝食を取った後、イジュンは珍しく外出着に着替えてカバンを持った。髪を整えて眼鏡を掛けた姿は、まるで貴族のようだ。

「カッコいい・・・テヨンさん。」

「ん?ヒョンと呼べないくらい?」

鏡の前で身なりを確認しているテヨンが笑った。

このログハウスには何でもそろっている。着の身着のままで出て来たイジュンの服も、下着や靴までそろえてあった。よほどのお金持ちなんだろうか・・・疑問は投げられないままに終わっている。

「何時に帰って来るの?」

「そんなに遅くはならないと思う。昼食は作ってあるから、チゲをあっためて総菜と一緒に食べてくれる?サプリは忘れずに。」

「お母さんみたいだ。」

イジュンがからかった。

旌善郡に来てから二週間が経つ。その間にイジュンはかなり健康を取り戻し始めていた。

最初は30分でばてていた雪のトレッキングも、今は2時間弱頑張れるし、ウェイトトレーニングも、少しずつ持ち上げられる重量が増えていた。ウォーキングマシーンの時間はかなり伸びている。

それに伴って食欲も増していき、体重も確実に増えていた。

テヨンが料理上手なこともある。韓国料理はさることながら、洋食、和食、デザートまで、なんでも一流シェフ並みに作ることが出来た。

「もしかして・・・ヒョンの正体は・・・・」

「ん?・・・」

「三ツ星シェフ?」

本気で言ってみた。テヨンは大笑いしてイジュンの背中をバンバン叩く。

さっき、テヨンの作ってくれたチゲを温めてご飯と一緒に食べた。深い味わい。隠し味は何なんだろう?

それからもう一度本を読むのに没頭していて、いつの間にか窓の景色は夕方になろうとしている。イジュンは本を置いて、玄関に向かった。


ドアを開けると、外は暗くなり始めていた。持ってきたダウンを羽織って外に出てる。テヨンの車はない。まだ時間が掛かるんだろうか・・・・

少し躊躇したが、イジュンは敷地外へ向かって歩き出した。

ログハウスの周辺は、テヨンが持っている敷地だと以前に聞いた。ここは森の奥地にあるようで、正確な地理はわからなかったが、私有地はかなり広範囲であるらしい。

歩いていると夕日が落ち始める。暗闇を歩くのは嫌だった。イジュンは諦めて元来た道を帰ろうとしたその時・・・・

「いたたた・・・」

誰かの声がする。

びっくりしてイジュンが周りを見回した。だが姿は見えない。空耳かと歩き出した時、再び声がした。

「すみません、ちょっと・・・・手を貸して・・・」

もう一度周りを探す。周りは暗くなっていたが、少し歩いた先に何か赤いものが見えた。イジュンは急いで雪道を走ってそこに行ってみた。すると・・・・・

「ああ、よかった・・・こけてしまって・・・」

一人の老婆が雪にうずもれて居る。目に入った赤い色は老婆の着ていたコートだとわかった。

「ハルモ二!大丈夫ですか?」

びっくりして、イジュンが老婆を引き上げた。周りに荷物が散乱している。

「どうやってここに?歩いてきたんですか?」

雪を払ってやると、イジュンは荷物を取りに動いた。

「孫にオカズを持ってきたんだけど、こけちゃって・・・ありがとう・・・」

「お孫さんのおうち、どこですか?この辺りに家は見当たらないけど・・・」

「あいたた・・・」

老婆は歩き出そうとして、よろける。足をケガしているらしい。

「ハルモ二!とにかく、僕のいるところへ行きましょう。おんぶしますから。」

イジュンは荷物を手に持つと、老婆に背中を向けてしゃがんだ。老婆はニコニコとその背中に乗る。

「悪いわねえ・・・」

「大丈夫です。行きますよ。」

立ち上がってログハウスに向かって歩き出そうとした時、一台の車が入って来た。

車のライトに照らされて、イジュンが目を瞑る。車はすぐ傍で止まると、運転席の窓があいた。

「イジュン?」

「あ、テヨンさん・・・」

「ハルメ?(おばあちゃん)・・・」

イジュンの背中の老婆が手を振った。

「ハルメ?」

イジュンが繰り返す。運転席から降りて来たテヨンが、イジュンの背中から老婆を下ろして呆れたように言った。

「何してるの?こんなところで・・・」

「何って、孫の顔見に来たんだよ。ほら、入れて。」

そう言いながらテヨンに後部座席のドアを開けさせると、自分はさっさと乗り込んでいく。

「あ、ハルモ二・・・足・・・・」

テヨンはため息をついて、イジュンの肩を抱いた。

「紹介するよ。俺の最愛なるハルモ二。カン・ギジュだ。」

「ヒョンのハルモ二?!」

老婆は満足そうに手をふると、イジュンを手招いている。

二人は顔を見合わせると、とりあえず車に乗り込んだ。


「韓国に来てるって早く教えてくれれば良いのに・・・ほら、これ好物だろ?イカの佃煮。後、山菜も・・・持って来るのに難儀したわ・・・」

とりあえず、足に湿布をしてもらい元気を取り戻したのか、カン・ギジュはイジュンに荷物を開けてもらって、持ってきたものを披露している。

「わ~すごい!全部手作りですか?」

イジュンが好反応を示してくれるのが嬉しそうだ。テヨンはスーツから室内着に着替えると、ギジュが持ってきた柚子茶を淹れた。

「美味しい。柚子茶なんて久しぶりだ。」

イジュンが嬉しそうに笑う。さっきまで一人でテヨンを待っていたのに・・・・テヨンだけでなく、ギジュも一緒になった。嬉しくて一気にテンションが上がる。テヨンはその笑顔を見つめた。

さすがに車に尾行は付かなかった。社長室で一度ジェイが部屋を抜けたのは、誰も部屋に入れないためもあっただろうが、状況を確かめに行ったはず・・・。

社長の顔が目に浮かぶ。

何故イジュンを嵌めたのか。理由がわからない。

「奴らの後ろにいたのは社長秘書だ。」

カイザーの駐車場で車の助手席に乗り込んで来たナムが動画を観せる。

フィルターを全て取った画像には、男たちの後ろに座っている最後の男の顔が見えた。確かにジェイだ。飲み始めた時、社長が居てジェイはガンホを追って部屋を出たと、イジュンは言っていた。

「社長はこの事件が起こる前に、店を出ている。それは裏が取れてるんだ。だが、アリバイがきちんとしすぎだな。」

「イジュンの親は?」

「ああ・・・」

ナムは書類袋をテヨンの膝に置いた。

「ありがちな話だ。父親はアル中で、母親は依存症の上借金地獄。イジュンは養護施設を出たり入ったりして育っている。良くあんなに優しい人間に育ったよな。」

「今は?」

「両親とも健在だ。イジュンが建てた家で悠々自適に暮らしている。あの事件があった後でもだ。つまり・・・」

「イジュンのギャラは親の口座に振り込まれている。」

「あたり。契約は後1年ある。その後がどうなるかはわからないが、イジュンのことだ。親の金はどこかで工面するだろうな・・・。」

「理由があるか?」

「調べてみるが・・・。」

「なんだよ・・・」

「ああ・・・まあ・・・じゃな。検討を祈る」

お茶を濁してナムが降りた。お茶を濁した理由が、”大奥様”だったとは。

ギジュは柚子茶を口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。

「ああ、美味しい。」

イジュンが笑って相手をしている。

テヨンは隣でお茶を飲みながら、イジュンに言った。

「イジュン、ちょっと走っておいで。今日はずっと『本の部屋』にいたんだろ?」

「あ・・・ばれちゃった?」

イジュンは頭を掻きながら立ち上がると、ギジュに言う。

「ここへは合宿に来てるんです。僕、俳優をやっているので。」

自然にイジュンの口から”俳優”と言う言葉が出ていた。不意を突かれてテヨンがイジュンを見ると、イジュンが微笑んで自分を見ている。その瞳に力があった。

「今は休んでいるんですが、復帰するので体力を戻してるんです。・・・・ちょっと行ってきますね。晩御飯の時にまた。」

「うんうん。行っといで」

イジュンは満足そうに頭を下げて二階のトレーニングルームへ上がっていった。その後ろ姿を目で追いながら、テヨンがギジュに言った。

「で?」

「で?って?」

「ハルメ。」

ギジュを睨む。

「怖い顔でも瞳は綺麗だこと・・・」

「誤魔化さないで。なんでこんなとこまで来たんだよ。」

「孫の顔を見に来るのに、理由がいるのかい?会えて嬉しいよ。」

テヨンに向かって手を差し伸べる。

「・・・ったっく・・・」

テヨンは立ち上がると、祖母の身体を抱きしめた。たくましい祖母ではあるが、年々身体が小さくなる。

「ハルメ、いくつになったんだっけ?」

「女に年を聞くもんじゃないよ。」

テヨンの背中を思いっきり叩いて言う。憎まれ口も愛があると痛くない。

「ゆっくりしてて。ちょっと上に行ってくる。」

テヨンはギジュの額に軽くキスすると、柚子茶を持ってイジュンの後を追った。

独りになると、ギジュは新しく、一杯の柚子茶を淹れる。

「ナム。」

影のように一人の男がギジュの側に立った。

「全く・・・俺の気配を感じるのは大奥様だけですよ。頂きます。」

「お前は私が育てた子供だからね。美味しいだろ?」

ナムが笑顔で頷く。

「テヨンはどうだい?」

「今のところは・・・。」

ギジュは二階に意識を向ける。

「あの子は・・・・危険だね。」

「はい・・・。」

「テヨンを頼むよ。あの子はテヨンのアキレス腱になる。」

「わかっています。」

ギジュは満足そうにうなずいた。

「何か食べていくかい?しばらく二人は降りてこないと思うよ。」

「いえ。ここでは・・・」

「そうだね。」

ギジュは頷くと、ナムの身体を抱きしめて背中を叩いた。

「無理はしないように・・・・と言う約束の方が無理だろうね。」

ナムもギジュの小さな身体をしっかりと抱きしめて言った。

「行きますね。ごちそうさまでした。」

ナムの気配が消えるとギジュはあくびをして、ひと眠りするために自分の部屋へ入って行った。


イジュンはウォーキングマシンの速度を上げて、ランニングに切り替えた。今までよりも身体が軽い。40分に設定して走り出した。


______僕、俳優をやっているので・・・


自分でもびっくりするくらい、自然とその言葉が口から出た。

自分が本来何者で、何を欲していて、何を言いたいか・・・考えることすらしていなかったのに・・・・口に出してみると、自分がどれほど”俳優”と言う言葉を渇望していたか、痛いほど実感すした。


______俳優のチェ・イジュンです


確かにそう挨拶していた。名前の前に、必ず”俳優”と言う看板を上げていた。19歳からずっと・・・・。

今、改めて自分の存在を認めた気がする。芝居をやりたい。セリフを喋りたい。あの世界へ戻りたい・・・・イジュンの足が止まった。

「イジュン!」

マシーンの動きに逆らって倒れこんで来たイジュンの身体をテヨンが抱き込んだ。そのままマシーンから下ろす。足元にテヨンが持ってきた柚子茶が落ちてカップが割れていた。

「踏むなよ。」

テヨンはイジュンを抱えたままソファに連れていくと、マシーンを止めて割れたカップを片付ける。

「ごめん・・・俺が・・・」

「もう、終わるよ。」

肩を落としてイジュンはソファに座り込む。気持ちが落ち着かない。考えがまとまらなかった。テヨンは割れたカップをゴミ箱に入れて、代わりにミネラルウォーターのペットボトルをイジュンに渡すと隣に座った。

「考え事?」

イジュンが頷く。

「さっき、俳優って自分のことを言ったから?」

テヨンには隠しても解る。イジュンはペットボトルを両手で握った。

「それも割る気かい?」

イジュンが首を振る。テヨンは彼の手からペットボトルを取ると、蓋を開けて渡した。イジュンは水を一気に飲んだ。

「ヒョン・・・」

「うん。」

「俺、俳優だった。」

「うん。」

「ずっと夢だったんだ・・・」

「うん・・・。」

イジュンはテヨンの方を向いた。

「俺、もう一度やりたい。」

イジュンの瞳が強い意志を持って、テヨンを見ている。

「もう一度、芝居がしたい。セリフを喋りたい。もう一度・・・・」

「・・・・・・」

「俳優をやりたい。」

イジュンの真っすぐな想いが痛いくらい伝わって来た。テヨンは上気しているイジュンの頬にそっと手を当てると言った。

「言ったろ?俺が必ず復帰させるって・・・」

イジュンはテヨンの手に自分の手を重ねて頷いた。

「俺、何でもやる。頑張るから・・・・負けないから・・・・」

そういうと、立ち上がって再びマシーンに乗る。テヨンは時間と走る速度を調整してやり、スイッチを入れた。

イジュンは再び走り出したのだ。



Act.10

「休憩します!」

現場のあちこちから声が聴こえる。キム・ミンジュは立ち上がって楽屋に消えた。後をガンホが追う。今日一日、ミンジュの出番はないかもしれない。最近、こういうことが多かった。部屋に入ると、案の定ミンジュが荒れていた。

「一体何なんだよ!」

オ・ガンホはコーヒーを入れたカップをミンジュに渡す。

「いらないよ。もう何杯目だよ!」

持っていた台本を床に投げ捨てると、ソファに座った。

「こういうことは日常茶飯事だろ?前が押したら後が詰まる。俳優の仕事は待つことだって教えたろ?」

ミンジュが苛々と煙草を口にくわえる。その煙草を取り上げて潰す。

「吸うな。」

「この状態で?!」

「衣装にタバコの匂いが付くだろ!そんなこと当たり前だぞ!」

「あんたは誰のマネージャーなんだよ!」

いきり立ってガンホの襟首をつかむ。それを払ってガンホは言った。

「キム・ミンジュ様に決まってんだろ!」

そう言うと、部屋を出た。楽屋の中ではミンジュが椅子を蹴ってわめいている音が聴こえる。これでまた損害賠償金額が増える。ガンホは頭を抱えた。今が一番大事な時だというのに・・・プライドだけが高くなって、自分の立場が見えていない。最近はミンジュを攻撃してくるインフルエンサーまで現れて、あることないこと発信されているのに・・・・・

手に持った台本の汚れを丁寧に払う。イジュンなら・・・・

ガンホはセットの外に出て行った。

イジュンは決して台本を粗末に扱わなかった。待ちの時間が長くなっても、その日出番が無くても、文句ひとつ言わずに、黙って台本を読んでいた。それが俳優にとってどれだけ大切なことか、教えなくても知っていた。おかげで共演俳優にも可愛がられて、誰もがイジュンを良い奴だと言ったのに・・・

イジュンのことを考えると、ガンホは酷い罪悪感に苛まれる。

どうしてあの時、イジュンを置いてバーを出たのか。いくら社長の命令だからって、急ぎの用でもなかったのに・・・ただ、あの時、少しでも早く帰れるなら有難かったのも事実だ。下の子の誕生日だったから・・・・。

喫煙場所に行くと、煙草に火をつける。思いっきり煙を吸って頭をすっきりさせる。

正直、ミンジュの出番は減らされている。問題は演技が下手だってことだが・・・そんなことオーディションを受けた時点で解っているはずだ。イジュンの代わりに主演を務めたドラマ以降、引き受けた役は軒並み不評だったし、毎回現場でトラブルを起こしている。全治4週間のケガの功名は1作品で終わりそうだった。

「再開します!」

メガホンで助監督が声を出した。ガンホはため息をつきながら煙草を消すと、自分のケースに入れる。


_____あのドラマが成功するのは当たり前だ。奴はイジュンのコピーをやっただけだったから

     な・・・。


「そういう意味なら物まね芸人の才能はあるか・・・・」

ガンホは通りすがりの女優に笑顔で頭を下げると、獣が暴れる楽屋に向かう。

その時、廊下を歩いている女性スタッフの会話が聴こえた。

「知ってる?『藍の国の物語』」

「あ、それ今話題になってるよね。ポットキャストでしょ?朗読の。」


____朗読?


気になってスタッフの後を何げなく一緒に歩いた。

「すごく良いよね。ただ読むだけなのに・・・声がすごく良いの。」

「名前わかんないんだよね。匿名なのもカッコいいけど・・・・」

「誰なんだろう・・・聴いたことあるような気もするんだけど・・・」

足を止めると、二人は現場に消えて行った。

「『藍の国の物語』・・・・」

ガンホはスマホを取り出すと、検索を掛けた。その名前を聴いたことがあるような気がしたからだ・・。その時、助監督から声が掛かった。

「ミンギュさん、お願いします!」

「あ、はい。少々お待ちを!」

ガンホはスマホをポケットにしまい、楽屋へ走った。


朝食後、軽く運動をしてからイジュンは『本の部屋』へ入った。身体を動かした後は、少し落ち着くために読書をするのが日課となっている。イジュンは昨日読みかけていた本を書棚から取り出すと、ソファに座った。そこへノックの音。

「お邪魔かい?」

ギジュがドアを開けて顔をのぞかせた。

「お茶を飲もうと思って。一緒にどう?」

イジュンが笑顔で頷くと、ドアを開けてギジュのお盆を持ってやった。

「今日は五味茶。ちょっと癖があるけど、美肌効果抜群だよ。」

ケラケラと笑いながらソファに座る。

「テヨンさんは?」

「仕事とかって部屋に籠ってるよ。マネージャーってそんなに忙しいの?」

五味茶をコップに注ぎながギジュが文句を言う。イジュンが笑った。

「俺もテヨンさんの仕事のこと、よく知らないから・・・・。」

一口お茶を飲む。少し苦みもあるが身体が温まって落ち着いてくる。

「美味しい・・・」

ギジュがまるで自分の孫のように、ニコニコとイジュンを見ている。イジュンもこの元気なハルモ二が好きになっていた。自分には祖母や祖父はいなかったから、余計に嬉しかったのだ。

「それにしても、すごい数だね。本が好きなのかい?」

イジュンが頷いた。

「ヒョンが用意してくれたんです。」

「あの子が?」

「はい。俺、小さい頃本当に貧乏だったから、絵本とか買ってもらえなくて・・・幼稚園も行ったり行かなかったり・・・施設に居たこともあったから・・・テヨンさんがこの部屋を準備してくれて、すごく嬉しかったんです。」

少し恥ずかしそうに話す。ギジュは笑顔のままイジュンの話を聞いている。

「小学生からは図書館にずっと通ってました。友達もいなかったし、家に帰っても・・・・」

父は飲んだくれて、いつも母と喧嘩していた。時には母が殴られて警察が呼ばれる騒ぎになったりして、その時はしばらく施設に預けられたけど、その方が安全だった。家には出来るだけ居たくなかったのだ。

「そういえば、小学校3年生の夏休みに一人だけ友達が出来たんです。俺よりだいぶ年上だったけど・・・そのヒョンが俺に本をくれて・・・でも、夏休みが終わったら会えなくなった。名前・・・聞いてなくて・・・・。」

「そうかい・・・思い出なんだね。」

イジュンは頷いた。

「そうだ、何か読みますか?気に入った本があったら・・・・」

「そうだねえ・・・・」

ギジュは本棚を見上げるが、首を振った。

「今は目があんまり見えなくてね・・・本を読むのは苦労なんだよ・・・」

少し肩が落ちる。

「昔は本を読むのが大好きだったんだけどね・・・」

イジュンは小さくなったギジュの肩をみて、少し考えてから立ち上がった。

「どんな本が好きですか?もしかして、覚えている本があります?そしたら、俺が読みますから。」

「読むの?」

「読み聞かせです。朗読。」

「ああ・・・なるほど・・・・え~と・・・・」

イジュンは期待してギジュを見る。ギジュがその瞳を受けて笑った。

「良くわからないから、お勧めの本を読んでくれる?」

「はい。どんなのが良いですか?ジャンルは?」

「ジャンル?ああ・・・・そうだね・・・」

ギジュの好みを聴きながら、イジュンは本棚を旅していった。


「お時間取っていただいて、ありがとうございました。」

テヨンは画面の向こうの相手に頭を下げた。

「いえ、お父様からもテヨンさんからの依頼は優先しろと言われています。ただ、意外と抜け穴がない。完璧な契約書でした。相手の弁護士も相当出来る人であることは間違いないですね。」

相手はカン家の顧問弁護士のパク・スンジェだった。彼がそう言うなら間違いはない。

「少し探ってみますが、今のところは契約を覆すものはありません。お役に立てずに申し訳ないです。」

「とんでもない。もう少し考えてみます。抜け穴がきっとどこかにあるはず・・」

パク・スンジェ弁護士が頷く。

「CMなどの違約金も会社の損害が大きかった分、簡単にはいかないでしょう。いつでもご連絡をお待ちしていますから。」

「わかりました。親父は?元気ですか?」

「ええ、相変わらず・・・・とお答えしておきます。」

テヨンは苦笑いして頭を下げた。PCを閉じて眼鏡を取ると、大きく伸びをする。

イジュンを復帰させたい。同時に会社との関わりも切りたい。契約書と言うやっかいな紙切れをどうにかして破棄したいのだが・・・・さすがに法の目をくぐるのは難しい。

時計を見ると、まだ昼前だ。イジュンはまた『本の部屋』に籠っているのだろうか・・・。

休憩がてら様子を見に部屋へ向かった。

ノックをしようとして、扉が少し開いているのに気づく。中から声がした。

そっと扉を開くと、イジュンとギジュが座って何か話しているようだ。

声を掛けようとして、留まった。雑談ではなさそうだ。

「・・・・・・・それが全ての始まりだった。英雄は剣を抜き、一振りすると、藪の中に入って行く・・・・」

イジュンが本を読んでいるのだ。その声に惹かれて、テヨンは黙ってドア口に立ち尽くした。

聞いていると、イジュンの声は色んな色を帯びている。大きくなったり小さくなったり、明るくなったり暗くなったり、少女の声も、男の声も、犬の泣き声さえ演じて見せた。

テヨンはすっかり聞き入っていた。まるでイジュンの声が魔法の呪文でも唱えているかのように・・・。

「ヒョン!」

ハッとして我に返る。

イジュンが嬉しそうにテヨンを見ていた。

「仕事終わったの?休憩にする?」

ギジュがニヤニヤしながらテヨンを見る。

「あ、ああそうなんだけど・・・何してたの?」

「イジュンに本を読んでもらってたんだよ。目が見えないって言ったら、面白そうなの選んでくれて。ものすごく上手だったよ。ドラマを観ているみたいだった」

イジュンが照れくさそうに笑う。

「お茶入れて来るね。ハルモ二、ちょっと待ってて。」

イジュンが急須を持ってキッチンへ行こうとしたその腕をテヨンが止めた。

「これだよ!」

びっくりしてイジュンの目が丸くなる。

「ハルメ、イジュンの朗読、上手だったろ?」

「うん。すごく良かったよ。」

テヨンは満足そうに笑うと、イジュンをもう一度ソファに座らせた。戸惑いながらもイジュンは急須をテーブルに置いてギジュを見る。ギジュは笑っている。

「イジュン・・・」

テヨンはイジュンの膝に手を置くと、跪いて言った。

「ポッドキャストってわかるかい?」

「うん。ラジオみたいな・・・・」

テヨンが頷いた。

「それをやらないか?」

「俺が?」

「ずっとイジュンをどうやって復帰させようか考えてたんだ。だけど、今の契約がある限り、名前を出して復帰するには会社が関わって来る。それは避けたい。」

「・・・・・・」

「演技も1年やっていないし、今のイジュンがどれだけリスナーに受け入れられるか、試してみようよ。今の朗読、俺は感動した。」

「感動・・・・?」

再びギジュを見ると、ギジュが親指を立てる。

「イジュンの声には人を魅了する力があると思うんだ。」

「ヒョン・・・・」

「良く考えてみて・・・。無理は言わない。けど・・・」

テヨンはしっかりとイジュンの手を握って言った。

「俺はイジュンの声がもっと聴きたい。」

「・・・・・・」

イジュンは自分の手をしっかりと握っているテヨンを見た。

テヨンが良いと言ってくれるなら、大丈夫だと思える。自分の声をテヨンが望んでいるなら、やってみたい。イジュンは意を決して言った。

「やってみる。」

テヨンの顔が明るくなった。そしてイジュンを抱きしめると心から言った。

「ありがとう。」

イジュンはテヨンの背中越しにギジュを再び見た。満足そうに笑っている顔を見て、イジュンも微笑みを返した。

新しい扉が開いたような気がした。もう少し頑張れば全部開けることが出来るかもしれない。イジュンはテヨンをギュッと抱きしめると、その肩に顔を埋めた。


Act.11

テヨンはその日、午後からずっと、収録の準備をするために色々調べたり機材を購入したりと忙しかった。当の本人より嬉しそうだ。

イジュンはあわただしいテヨンを横目で見ながら、ギジュと一緒に部屋の掃除をしたり洗濯をしたりして過ごしていた。

「何をバタバタしてるんだか・・・」

シャツを乱暴にはたきながら、ギジュが呆れたような顔をしている。それを受け取って干しながらイジュンが言う。

「俺も嬉しいですよ。テヨンさんがあんなに喜んでるの、初めて見るし・・・」

それは本心だった。

テヨンはいつも優しくて穏やかだが、感情的ではない。今日のような上気した顔は見たことが無かった。

「よっぽど嬉しいんだろうね。」

そういうと、イジュンの耳をちょっと引っ張って自分の口元に引き寄せる。

「実はあの変なテンションが、本来の姿だから・・・」

思わず吹き出す。ギジュも笑った。

「なに?二人して、楽しそうだけど・・・」

干場に顔を出してテヨンが声を掛ける。

「邪魔するんじゃないよ!」

ギジュがテヨンを追い払うのを見て、また笑う。テヨンがイジュンにウインクして慌ただしくその場を去って行く。それを見送りながらギジュが言った。

「あの子はね・・・一人で大きくなったの。」

「一人?ハルモ二は?」

「もちろん、一緒にいたよ。10歳までは。親の仕事が特殊でね。ずっと一人で暮らさないといけなかったんだ。」

「・・・・そうなんだ・・・」

「だから、テヨンには、イジュンがとても大切な存在なんだよ。」

「俺が・・・?」

ギジュが頷く。

「たった一人の弟のように、友達のように・・・あんたが大切なの。」

それからイジュンの背中をそっと撫でる。

「テヨンをよろしくおねがいします。」

「ハルモ二・・・・」

イジュンがギジュの手を握る。ギジュもそれに答えるように、イジュンの手を力強く握り返す。

「しっかり食べて、しっかり運動して、しっかり勉強して、必ず韓国を代表する俳優にならないとね。」

しわくちゃの顔が笑った。イジュンは胸が熱くなった。言葉もなく、そのままの思いでギジュを抱きしめる。ギジュはイジュンの背中を優しく撫で続けてくれた。


一通り家事を終えると、ギジュは昼寝をしに部屋へ行った。

テヨンはまだ忙しそうだったし、一人になりたくてイジュンは『本の部屋』へ入った。

一度部屋の中に入ると外の物音はあまり聞こえない。ほっとして窓に向かうとカーテンを開ける。見慣れた雪景色だが、今日は天気も良く、午後の陽射しを浴びて木々がキラキラ輝いていた。

ふと思い出して、イジュンは『藍の国の物語』を読もうと梯子を上った。いつでも手に取れると思って忘れていたのだ。階段状になっている梯子の途中に座り込んで表紙を開いた。

一ページずつ、丁寧に中身を読んでいく。

「懐かしい・・・」

イジュンは小さな声で文章を朗読した。


_____むかしむかし・・・・ある王国がありました。

     その国に住んでいる人たちの瞳が藍色で、その国は『藍の国』と呼ばれていまし 

     た。ある日、その国に一人の使者がやってきます。その使者は・・・・


「あれ?・・・・」

ページをめくったところで、本から何かが落ちた。

「なんだろう・・・しおりかな?」

イジュンは梯子を下りて床を探した。

「写真?」

子供が二人映っている。イジュンはその写真を持って窓際に行った。

「え?・・・・」

そこに映っている子供・・・・一人は小学校3年生のイジュンだった。

「俺・・・・?」

もう一人の子供は・・・・

「14歳の俺・・・」

いつの間にかイジュンの後ろにテヨンが立って居た。

「ヒョン・・・・」

「これに挟んでたのか・・・本があることさえ忘れていたよ・・・。」

イジュンが呆然とテヨンを見ている。テヨンはその表情に気付くと、イジュンの肩に手を置いた。

「やっと言える・・・・」

そう言うと、イジュンを強く抱きしめる。

「あの夏・・・友達になってくれて、ありがとう。」

イジュンは困惑したままだ。

「テヨンさんが・・・あの時のヒョン?・・・・」

テヨンが嬉しそうに頷いた。


小学校3年生の夏休み。イジュンは家にいるのが嫌で、毎日図書館へ通っていた。お腹が空いたけど、水道の水を飲めば我慢できたし、父親に殴られたり怒鳴られたりするよりはマシだった。

その日の朝も家から飛び出して図書館へ向かった。だが、あいにく図書館は閉まっていて、行き場所を失ったイジュンは、入り口に座っていた。

その時、声を掛けられたのだ。

「どうしたの?」

顔を上げると、中学生くらいのお兄さんが目の前にしゃがんでいた。清潔な白いシャツが眩しい。汚れた自分のTシャツが急に恥ずかしくなって、イジュンはうつむいた。

「暑くない?今日はお盆休みで図書館は開かないよ。」

イジュンは黙ってうつむいたままだ。

中学生は少し困ったようだったが、ポケットから何かを出してイジュンの手に握らせた。

「これを舐めてて」

そう言うと、その場を立ち去る。イジュンは掌に握らされた飴を見ると、包みを破って口に入れた。お腹が空いていたのだ。


________お盆休みなら、しばらくは開かないな・・・・


がっかりして、余計動けなくなる。イジュンは途方に暮れた。家に帰れば父は酒を飲んでいるだろう。母もまたイジュンに関心を向けてくれない。段々悲しくなって、イジュンの目に涙がたまって来た。

「泣いてるの?」

また声がした。顔を上げると、さっきの中学生だった。手に牛乳とパンを持っている。

「これ、食べて。お腹空いてるだろ?」

そう言って、牛乳とパンをイジュンに持たせようとした。イジュンは首を振って立ち上がる。

「知らな人から物をもらっちゃいけないって、母さんが・・・」

「お母さんいるの?」

イジュンが頷く。中学生は立ち上がると、再びイジュンの手に牛乳とパンを握らせて言った。

「良いな・・・・。」

イジュンはその言葉を少し考えてから聞いた。

「お母さん、いないの?」

中学生が頷く。

「お父さんは?」

「いるよ。でも、ちょっと怖いんだ。」

イジュンの目がパッと明るくなった。

「僕んちもだよ。お父さんが、殴るんだ・・・・」

「君を?」

驚いてイジュンを見る。そういえば、顔や腕にあざがある。中学生は困ったような顔になった。そのまま黙ってイジュンの手を取ると、図書館の外にあるベンチに座らせて、パンの袋を開ける。

「黙っててあげるから食べて。牛乳も。」

イジュンは頷くと、急いでパンを口に入れる。

「落ち着いて、喉に詰まるよ。」

中学生は笑ってイジュンがパンを食べる姿を見守った。ふと、イジュンが背負っていたリュックの蓋が開いているのが目に入った。中に本が入っている。

「本が好きなの?」

食べながらイジュンが頷く。

「そうか・・・僕も好きなんだ。」

「ほんと?」

「うん。」

「今までどんな本を読んだの?僕はね・・・」

二人はそのままずっと夕方になるまで、今まで読んだ本の話をした。


「どうして何も言わなかったの?言ってくれれば・・・・いや・・・・」

二人はソファに向かい合って座っていた。テヨンの藍色の瞳が深く輝いている。イジュンはその瞳を見つめた。

「わからなかったよね・・・・あの時、ヒョンの瞳は藍色じゃなかった・・・。でしょ?」

テヨンが頷いた。

「俺の瞳の色は、高校生くらいから変わっていったんだ。俺もびっくりしたよ。おかげで一族であることは証明されたんだけど・・・」

「一族?・・・」

「ずっと探していたんだ。突然別れなくちゃいけなくなって、君が可哀そうで。でも、中学生の俺には何も出来なかった。そのこと・・・謝りたかったんだ。」

「ヒョン・・・・」


楽しかった夏休み、突然別れは訪れた。

いつものように、朝、図書館へ走っていくと、入口にヒョンが立って居た。

「おはよう!」

イジュンが嬉しくて、ヒョンに飛びつく。ヒョンも嬉しそうにイジュンを抱き留めると、くるくると回してやった。

その日一日、ヒョンとイジュンは楽しく遊んだ。本を読んだり、ゲームをしたり、パンも沢山食べさせてくれた。そして、図書館が閉まった時、ヒョンが一冊の本をイジュンにくれたのだ。

「この本を上げる。僕が好きな本なんだ。」

「ほんと!?」

「読める?」

「『あいのくにのものがたり』どういう意味?」

「藍色の国のお話し。」

「藍色って?」

「青色より少し濃い青のこと。」

「ふ~ん・・・」

イジュンは直ぐに本のページをめくる。ヒョンは愛おしそうにイジュンを見た。

「イジュン・・・」

「うん。なに?」

ヒョンはしゃがむと、イジュンを抱きしめて言った。

「今日でお別れなんだ。」

イジュンは一瞬、何を言われているのか理解できなかった。

「お別れって?」

イジュンの身体を離し、彼の目を見つめる。

「僕、引っ越すんだ。遠くへ。」

イジュンの目が大きく開く。

「どこへ?遠くって?」

「外国。」

「外国?もう、会えないの?」

ヒョンが頷いた。イジュンはビックリしてヒョンに飛びつく。

「嫌だよ!嫌だ!いかないで!ずっと一緒に遊ぼうよ!まだ図書館の本、全部読んでないのに!」

ヒョンはイジュンの身体を抱きしめて黙っている。イジュンは泣いた。

「いかないで・・・お願い・・・・ヒョン・・・・僕を置いて行かないで・・・」

後は言葉にならない。ヒョンは泣いているイジュンをただ抱きしめるしかなかった。

「約束するよ。絶対にイジュンを忘れない。もう一度会いに来るから・・・」

二人は抱き合ったまま、ただ泣いた。テヨンもイジュンも、状況を変えるには幼過ぎたのだ。


「俺はずっと大人になるのを待っていた。自由になって、早くイジュンを探したかった。それがようやく叶ったのに・・・君は消えていた。」

「どうやって解ったの?探したの?」

「もちろん探したよ。だけど、以前住んでた家はとっくに無くなっていたし、君の親のおかげで学校も住む場所も点々としていたし・・・かなり時間がかかった。でも、見つけた。」

テヨンが微笑んだ。

「偶然、ドラマを観たんだ。韓国に戻って来た時に、ハルメが見ていて・・・。一目でわかった、君だって。俺がテレビを掴んで離さなかったら、画面が見えないだろって、ハルメが背中を箒でバンバン叩いてたっけ、痛くもかゆくもなかったよ。」

思わず二人で笑う。ハルモ二のやりそうなことだった。

「直ぐにコンタクトを取りたかった。だけど・・・」

「事件が・・・・」

「うん。」

「だから、マネージャーに?」

「そうだ。」

「そんなに簡単に?」

「オ・ガンホがね。」

「ガンホ・ヒョン?」

「彼は悪い奴じゃない。君を心配して俺を訪ねて来たんだ。」

「知り合いなの?」

「そうじゃないけど、俺はスウェーデンでモデルとアーティストのエージェントをしていたんだ。それをガンホに発信したら、食いついてきた。俺を雇い入れたのは、自分の手を楽にしたかったこともあるだろうけど、君のためでもあったんだ。」


_______お前は結構いい俳優なんだから


今のイジュンがあるのは、ガンホとの二人三脚の時代があったからだ。あの事件の後、ガンホも罪悪感に駆られているのを知っている。だからこそ、彼がミンジュのマネージャーになった時も責めなかったのだ。彼には護るべき家族があるし、感謝の気持ちも残っていた。

「一族って?・・・」

聞きたいことが沢山あった。テヨンがイジュンのほっぺたを軽く叩く。

「今日はここまでにしよう。情報過多になると過呼吸が起きるぞ」

「でも、知りたい・・・・」

イジュンはテヨンを見た。

「ヒョンのことは、全部知りたい。」

テヨンはイジュンの真剣な眼差しを受け止めて言った。

「じゃあ、一つだけ秘密を明かすよ。」

「・・・なに?」

緊張して唾を飲み込む。テヨンの顔が近づいてきた。

「俺は、マネージャーをやる時に条件を出したんだ。」

「条件?」

「うん。」

「どんなこと?」

「チェ・イジュンのマネージャーしかやらないって。」

イジュンがびっくりしてテヨンを見た。テヨンは笑って立ち上がった。

「さあ、先にトレーニングをしよう。録音の準備は整ったから、後は読む本を決めてくれれば良いよ。」

イジュンの肩を軽く叩くと、テヨンは立ち上がった。


Act.12

「ポッドキャスト?」

「こちらです。」

ジェイが差し出したタブレットを見る。そこには『藍の国の物語』と題したポッドキャストが開かれていた。

「これがイジュンだと?」

ジェイが頷く。

テヨンの庇護下にあるイジュンの情報は、基本入らない。マネージャーの原則をテヨンが守っているおかげで、文章での報告は上がっているが、ありきたりのものでしかない。ホン・ソンの苛立ちは増していた。サイトのボタンを押す。すると、静かな音楽が始まり、直ぐに声が聴こえた。

「こんにちは、『藍の国の物語』へようこそ。今日は詩を一つ・・・・作者は・・・。」

作品を紹介すると、直ぐに詩の朗読が始まる。だが、これがイジュンの声かどうかは不確かだった。似ているような気もするが・・・・

「何故、イジュンの声だと?」

「オ・ガンホが持ってきたので。」

「ガンホ?」

なるほど、3年間、イジュンの傍で成長を見ていた人物だ。声が耳についているだろう。

サイトの監修者も朗読者も匿名だ。コメント欄をみると、高評価ばかりだった。


”この声に癒されています”

”朝聴いても、夜聴いても、違う感じがする。

”入院しているんです。明日手術なんですが、時間まで聞いています。”


ホン・ソンは少し考えてから言った。

「ヨンPDを呼んでくれ。」

ジェイがデスクの受話器を取って電話を掛ける。ホン・ソンの神経質な眉が吊り上がった。

カン・テヨン・・・・

彼の顔が浮かんで来る。初めて自分を上から見た男。

「繋がりました。」

ジェイが受話器を渡した。

「お久しぶりです。ヨンPD。ちょっと提案があるんですが・・・」

口元が自然と笑みを作る。ホン・ソンの頭の中では、完璧なシナリオが動き出していた。


「それではまた・・・」

テヨンがマイクのスイッチをオフにする。イジュンはふ~っと息を吐いてヘッドフォンを取った。

「疲れた?」

「ううん。でも・・・」

「ん?」

「もっと上手く読めるのに・・・もう一度録っちゃだめ?」

テヨンが笑う。

「少し休んでからにしよう。」

イジュンが笑顔で頷いた。

ポッドキャスト『藍の国の物語』は、じわじわとリスナーを増やしていた。特に気の利いたコメントもしないで、ただ本を読んでいるだけなのに、イジュンの声に惹かれていつの間に人気が出ていた。コメントも嬉しいものが多い。

「あ、この人、いつも聴いてくれている人だ。この人は・・・・お母さんが娘さんに紹介したんだって・・・俺の声、色々変わって聴こえるって・・・面白いね。」

イジュンが嬉しそうにテヨンのスマホでコメントを読んでいる。姿は出せなくても、こんな風に誰かを楽しませている自分が嬉しかった。テヨンがカップを目の前に置く。

「ありがとう。」

一口飲むと、温かいコーヒーが喉を潤してくれた。

実際イジュンの声には魅力があった。役によって声色を変え、聴いているリスナーを別の世界へと没頭させる力がある。テヨンはそう確信していた。

「ハルモニは?」

「うん、仕事部屋でPCを見てる。」

「PC?」

「動画。ログハウスにはTVがないだろ?中毒なんだ。ドラマの」

イジュンが笑った。

自分が演技している姿も、再びハルモ二に観てもらいたかった。テヨンは少しずつ道を作ってくれている。ポッドキャストが話題に上がれば、次を考えているに違いなかった。今の自分に出来ることは、ただ一生懸命読むこと。イジュンは、今日の本にもう一度目を通した。その時、テヨンのスマホが鳴った。

「ごめんな。」

そう言って部屋を出る。イジュンはそれを見送ると再び本を読みだした。


「社長が?」

「イジュンさんとの合宿は3か月になりました。体力もついてきていると言うことですし、一度彼と一緒に報告に来てください。これは契約書にも入っている項目です。」

スマホの向こうで社長秘書のジェイが無機質に喋る。

「なるほど・・・。イジュンに意向を聴いてから・・・・。」

「これは社長命令です。」

ジェイが有無を言わさぬ力を言葉に込める。テヨンは思わずほくそ笑む。

「わかりました。けれど、ジェイさん。」

「なんでしょうか。」

「契約書を良くお読みください。アーティストの人権は守られています。特に社長命令に関しては、発令する事態が限定されていますよね?」

「・・・・・・・・」

「曰く、会社事案で緊急性があり、なおかつアーティストとのコンタクトが取れない場合。または・・・・・」

テヨンは一息置いて、無言の相手に警告する。

「社長個人の意向によって、アーティストの契約を無効にする場合。今回はどちらですか?」

スマホの向こうで、ジェイの静かな息遣いに殺気を感じる。彼もまた社長に命を預けている。この関係性がイジュンを貶める器を作ったと確信している。

「イジュンの体調を鑑みて、そちらに伺う日をご連絡します。」

テヨンは通話を終えた。


久しぶりのソウルは、相変わらず騒然として、エネルギーに満ちている。

まるで異世界のように感じて、イジュンは珍しそうに街並みを見ていた。

「大丈夫?」

「うん。不思議だね。」

イジュンはサングラス越しに微笑んだ。今日はテヨンの手を握ることもない。

旌善郡での生活がイジュンを健康にしているのは間違いない。ポッドキャストの成功で自信が取り戻されつつもあった。

「まだサングラスを取るのは怖いけど・・・前みたいに苦しくならない。」

「手を握らなくても?」

「うん。」

イジュンが悪戯っ子のような顔をしてテヨンを見る。

「寂しい?」

「うん。」

意外と真顔で返されて一瞬戸惑ったイジュンが思わず吹き出す。そして、テヨンの手を握った。

「これで良い?」

「うん。」

満足そうなテヨンの顔を見て、尚更笑う。これから起こることに予想がつかない。不安になっているのは、テヨンの方かもしれなかった。

「社長が?・・・・・」

会社からの呼び出しのことを伝えた時、イジュンは意外そうな顔をした。1年あまりも自分を無いものにしていたのだ。生存確認さえしなかったのに、いきなり呼び出される理由がわからなかった。

「なぜ?」

素朴な疑問をテヨンに向ける。その瞳に脅えがない。イジュンにも変化が起きていることをテヨンは確信した。

「ここで合宿していることは報告してるし、イジュンの健康状態も良くなっているだろ?契約はまだ残っているから、一度様子を見たいんじゃないかな。」

「そうなんだ・・・」

ここまで自分をネグレスト状態にしておいて・・・という気持ちもないわけではないが、自暴自棄になっていた1年ではあった。正直、健康にも気を使っていなかった。いつ辞めてもよかったのだ。だが、今は復帰に向けて自分でもエネルギーが湧いてきていると感じている。チャンスかもしれない、と、イジュンは思った。

「わかった。行く。」

その瞳に力がある。テヨンはうなずいた。

駐車場に入ると、イジュンは軽く深呼吸をした。単に緊張のためと見える。テヨンは車を降りてイジュン側のドアを開けた。

「行こう。」

「うん。」

イジュンは降りると、一呼吸して恥ずかしそうにテヨンの手を握る。

「今だけ・・・」

テヨンは微笑むとイジュンの手をしっかりと握りかえした。


社長室に入るのは三回目だった。

一回目は最初の契約を交わした時、二回目はあの事件が起きた時、そして、今日。

「お久しぶりですね。お元気そうだ。」

いつも社長は冷静で冷たく見える。バーで飲んだ時と変わらない。少し緊張してイジュンは頭を下げた。

「ご連絡もせずにすみませんでした。」

「いえ、ずっと体調がよくなかったとお聞きしています。テヨンさんから報告はありましたが、今日も来ていただけないかと、内心心配していました。」

ホン・ソンが静かに笑った。

「テヨンさんもお元気そうですね。」

「お陰様で。」

テヨンが笑う。テヨンの笑顔はいつも変わらない。彼の笑顔を見ると安心する。イジュンは小さく息を整えた。

「時間もないですし、本題にはいりましょう。」

その言葉を合図に、社長秘書のジェイが書類をテーブルに置く。

テヨンの前に彼が立った瞬間に、やはり鋭い殺気を感じる。ナイフを突きつけられているようだ。テヨンは気づかないフリをして、書類を手に取った。

「これは?・・・・」

「イジュンさんにトークショーの依頼が入っています。」

「トークショー?」

ホン・ソンは頷いた。

「懇意にしているヨン・ガンソンPDから、彼の番組である『あの時、そして今』への出演依頼があったんです。」

「ヨン・ガンソンPD・・・・」

M放送会社の看板PDで、『あの時、そして今』は、彼の代表番組だった。時事の様々な事件を扱い、当事者と対話をしていく内容で人気があった。

「番組の性質上、1年前の事件に焦点が当てられますが、そこが焦点ではなく、イジュンさんがどうやって事件を乗り越えて、復帰への道を歩んでいるかがメインになります。」

社長は淡々と話している。その表情からは真意が読めない。テヨンは黙って聞いていた。

「イジュンさんには辛い内容になるかもしれません。生放送ですし・・・」

イジュンの顔が少し曇る。”生放送”と言う言葉に敏感になっていた。それを踏まえて社長が続けた。

「しかし、事件に関してはちゃんと罪を償っています。何よりも今のイジュンさんに視聴者が興味を持ってくれれば、復帰への道筋もできるんじゃないかと思うんです。私は引き受けるべきだと思っていますが、どうでしょう?」

イジュンは書類に目を通しながら、考えているように見えた。社長はテヨンに矛先を向ける。

「テヨンさんはいかがですか?」

「そうですね・・・・」

イジュンの顔が少し明るくなる。テヨンはイジュンに微笑んで言った。

「今は健康も取り戻しているし、番組に出演することは出来ると思います。生放送が気になりますが、ヨンPDなら乱暴なことはしないでしょう。君は?出演したい?」

イジュンはテヨンの顔をじっと見ている。ホン・ソンはそのイジュンを注意深く見ている。やはり何を考えているのかわからない。良いことなのか、悪いことなのか、テヨンにも断言ができない。やがてイジュンはゆっくり頷いた。社長の顔がぱっと明るくなった。

「そうですか!出演OKですね?」

「はい。よろしくお願いします。」

「その代わり・・・」

テヨンがそのあとを引き取った。社長の顔に冷静さが戻る。

「どうぞ、おっしゃってください。」

「収録までの間、旌善郡でのトレーニングは続けさせてください。もう少し健康を取り戻す必要があります。」

社長が頷いた。

「もう一つ、番組出演にあたり、構成作家との打ち合わせをさせて頂きたい。あの事件はまだまだ新しい。イジュンを苦しめる意図があるものは避けたいのが本心です。社長もそうですよね?」

「もちろんです。今の条件は了解しました。他には?」

「今のところは。放送に関して会社として方針があればお知らせください。」

「わかりました。スケジュールを確認して秘書より連絡を入れさせます。」

社長が立ち上がる。打合せは終わりだ。イジュンもテヨンも同時に立ち上がった。

「元気になってきたこと、本当に喜ばしい。あの時、私の私用でオ・ガンホ氏を連れ出したことを後悔していました。あなたを一人にしたことは、私の失態でした。お詫びします。」

そういって、頭を下げる。イジュンは驚いて社長の身体を起こした。

「やめてください。僕は大丈夫ですから。」


______この猿芝居の意図はなんだ?


容姿端麗な人間には、誰でも一瞬騙される。特にイジュンのように純粋な人間など、簡単であろう。テヨンがじっと社長を見つめていると、同じように社長を見ているジェイの視線を感じた。そちらに視線を移すと、針のように鋭い目線が社長を見ていた。すぐに視線を戻す。

この二人の関係も調べる必要がありそうだった。

「テヨンさん。」

急に矛先が自分に向かう。その隙を逃さずに社長がいった。

「イジュンさんをよろしくお願いします。あなたにとっても、それが必要なことでしょうから。」

社長の瞳の奥に、邪悪な遊びを楽しんでいる光が見えた。

「もちろんです。社長に取っても、そうでしょう?」

テヨンは頭を下げると、イジュンを促して社長室を出た。

ホン・ソンは振り返ると、ジェイを見た。ジェイは無言のまま、ホン・ソンの傍に近づく。

一撃は避けようが無かった。床に倒れたジェイの腹を踏みつけ、ホン・ソンが言った。

「お前の嫉妬は私の神経を逆なでする」

ジェイは苦しそうに顔をしかめているが、言葉はない。足を外すと、激しく咳き込んだ。

その傍に座り込むと、苦しんでいるジェイの髪を撫でた。

「だからお前を傍に置きたい。」

そういうと立ち上がり、ジェイを蹴り上げる。低いうめき声がジェイの口から洩れた。

「ミンジュを呼べ。奴に最高の役を与えてやる。」

ホン・ソンはネクタイを締め直すと、社長席に座った。


思いもよらない展開だった。

あの事件のことをTVで話す機会が与えられるなんて、想像も出来なかったことだ。

イジュンは無意識にテヨンに手を差し出していた。テヨンも何も言わずに、その手を握ってやる。

ホン・ソンが何を考えているか、理解できない。だが、何かを考えていることは明らかだ。

探らなければ・・・イジュンが傷つく前に・・・・

「ヒョン・・・大丈夫?」

イジュンに不意を突かれて、テヨンは立ち止まった。

「俺が?」

「うん・・・・不安そうだから・・・」

そのことが、なおさらイジュンを不安にしているのが解った。テヨンは微笑んで見せた。

「イジュンに気を使われるなんてな・・・」

エレベーターのドアが開く。テヨンはイジュンの手を引いて中に入ると、その身体を包むように抱きしめた。背中にドアが閉まるのを感じる。

「不安だな・・・君が傷つくんじゃないかと思うと。」

イジュンが自分の腕の中で笑っているのを感じると、愛おしさで胸が一杯になる。誰であってもイジュンを傷つけることなど許さない。テヨンは少しだけ腕に力を入れた。

テヨンがいつも自分の気持ちを一番に考えていてくれることを知っている。申し訳ない気持ちと、ありがたい気持ちと、大好きな気持ちが混ざってきて幸せな気持ちになる。イジュンは顔を上げて言った。

「大丈夫だと思う。ヒョンがいてくれるし、ヨンPDの誠実さと平等さがあるから、あの番組がなりたっているって、聴いてるよ。きっと、ちゃんと話を聞いてくれると思う。」

「今日はイジュンに慰められてるな・・・・」

テヨンが笑った。エレベーターが地下に付いてドアが開くまで、二人は身体を寄せ合っていた。


Act.13

久しぶりに入るスタジオは別世界のようだ。

「おはようございます。よろしくお願いします。」

スタジオのスタッフはみな笑顔で接してくれる。さすがヨンPDのクルーだと思った。この業界でも評価の高いクルーだ。誰もイジュンのことを物見高に見ない。

「大丈夫かい?飲み物を用意しておく?」

テヨンの方が緊張しているように見える。イジュンは笑って頭を振った。

メイクをし、衣装を着けたイジュンは見違えるように綺麗だ。俳優が天性のものだとわかる。彼のマネージャーとして、テヨンも質が高く見える服装で傍にいる。二人が並んだ姿には、現場のスタッフも思わずため息を漏らすほどだった。だがテヨンは一人、自分が唯一入り込めない「放送」という時間に緊張を高ぶらせていった。


ヨンPDとの打ち合わせは放送一週間前に与えられた。

「もちろんイジュンさんに敬意を払い、最大限の注意を払ってインタビューをさせていただきます。」

ヨンPDは静かに言った。50代真ん中くらいだろうか、芸術性の高い作品を創っているだけあって、気品と知性が感じられた。収録時間もきっちりと収めるという噂だ。いくつも賞を取っている。

「どうしても答えたくない、或いは、聴いてほしくない質問があれば、おっしゃってください。

記者会見ではほとんど喋らなかった、イジュンさんの本当の気持ちを聴きたいだけですから。」

「・・・・・・・」

イジュンは下を向いて、少し考えているようだった。事件のことは覚えていない。そのことを伝えて良いかどうか、考えている。テヨンにはわかった。

「正直・・」

ヨンPDは言った。

「これでイジュンさんの誤解が解けるかどうかは、わかりません。視聴者の答えもわからない。だが、僕にはあの映像が不可思議に思えた。」

イジュンが顔を上げた。それを逃さずヨンPDが言った。

「本当に、あなたが、あなたの意志で殴ったんですか?」

「・・・・・・・・」

イジュンがテヨンを見る。テヨンは黙って頷いた。

「僕は・・・・覚えていないんです。」

「そんなにお酒を?」

素早い切り替えにイジュンが言葉を飲み込んだ。無意識に自分を防御している。

「イジュンは普段飲まないので。進められて断れなかったそうです。」

テヨンがその後を継いだ。イジュンがホッとして頷く。ヨンPDの視線が鋭くなった。

「わかりました。そのことは放送でも答えてくれますか?」

再びイジュンがテヨンを見た。今度はテヨンが頷いた。

「はい・・・。大丈夫です。」

「そうですが。ありがたい。マネージャーさん、他には何かありますか?」

イジュンがテヨンに頼っていることは、見ていればわかる。その上で”マネージャー”とテヨンを呼ぶのは”俳優に余計な操作をするな”、と言う無言の圧力でもあった。

「いえ、ヨンPDを信頼していますので。素晴らしい作品を制作してらっしゃるし、そんな方にイジュンをお任せ出来るとは思いませんでした。よろしくお願いいします。」

頭を下げる。ヨンPDは立ち上がるとイジュンに握手し、「では放送で」と言った。テヨンには、もちろん握手は求めない。そこに彼の人間性があった。テヨンはイジュンの肩を抱くと、会釈をして部屋を出た。


「本番行きます!スタンバイをお願いします!」

楽屋で待機していたイジュンにも声が掛かる。意を決したように立ち上がると、イジュンは鏡の前で自分の姿をチェックした。久しぶりのメイクも綺麗に乗っている。

旌善郡にはフォーマルな衣装も用意されていた。まるであつらえたかのようにイジュンの身体にピッタリ合ったスーツは、テヨンが選んでくれた。イジュンは軽く深呼吸した。

旌善郡での生活がイジュンを鍛え、健康にしてくれたことも自信に繋がっている。ポッドキャストはリスナーが増え続け、イジュンの声を待っている人たちが多くいることもありがたい。ここで、ちゃんと自分が起こした事件についての説明が出来れば、待ってくれているファンにも恩返しができる。

イジュンは横で見ているテヨンに聞いた。

「俺、大丈夫だよね?」

テヨンが微笑んで頷く。眼鏡の奥の藍色の瞳は明るく自分を包み込んでくれる。イジュンも安心して微笑み返した。

「何が起こっても、俺がいるから。」

イジュンを抱きしめると、背中を軽く叩く。

「うん。わかってる。」

楽屋のドアがノックされ、ADが顔を覗かせる。

「イジュンさん、お願いします。」

イジュンは頷くと、部屋を出た。テヨンは飲み物を持ってイジュンの後に続く。その背中にナムの気配を感じた。やはり来たか・・・・それにしてもTV局の楽屋に潜める身体を持っているとは・・・・どこにいるかはわからないが・・・テヨンはひそかにVサインを返した。


スタジオの入口の前に、ホン・ソン社長が立っていた。

イジュンが気づいて頭を下げる。

「わざわざ来ていただいたんですか?」

社長はニッコリ微笑むと、イジュンの肩を軽く叩いた。

「もちろん、我が社にとってもイジュンさんは大切な俳優です。今日が良いきっかけになることを望んでいますよ。」

「ありがとうございます。」

イジュンがもう一度頭を下げた。それ越しにテヨンと社長の目が合った。相変わらず闇が潜んでいる瞳だ。眼鏡の奥のテヨンの藍色の瞳が静かに光る。

「ご足労を頂き、ありがとうございます。」

テヨンも頭を下げた。それを受けて、ホン・ソンが多少ぞんざいに告げる。

「今日もイジュンさんをよろしくお願いします。大事な日になるでしょうから。」

「もちろんです。もっとも、放送中は見守ることしかできませんが・・・・」

社長はその言葉に笑った。

「ああ、そうですね。いかなあなたでも、放送中は・・・・」

そのままヨンPDをみつけて、テヨンとイジュンから離れて言った。嫌な言葉だ・・・。

”放送中は・・・”


「特に何もない。綺麗なもんだぜ」

深夜、ログハウスの駐車場で肉を焼きながらイ・ナムが言った。

「20歳からこの世界にいて、今やパイオニアだ。苦労もあっただろうが、不正はない。あれば、あんな番組作れないだろうからな。」

ヨン・ガンソンPDのことだ。

イ・ナムがとっくに動いているとは思っていたが、意外と収穫はなかったという顔だ。

「肉を食うなら店か、ハウスに入れよ。」

大雪に震えながらダウンを着込んでテヨンが言う。

「店はないし、ハウスで焼いたらバレるだろ?」

「ハルメは良いだろ?」

「イジュンもか?」

「うん、そろそろ良いよ。」

「おいおい・・・・」

肉をトングで返しながら、驚いて言う。

「本気でお前の素性をばらす気か?正気じゃないぞ。」

「この大雪の中、駐車場で肉食ってる俺たちの方が正気じゃない。」

テヨンは座り込んでビールをあおった。半分凍っている。

「俺も彼から不正の臭いは感じなかった。打ち合わせの時にはな。だけど、引っかかるんだ。」

「経歴が綺麗過ぎるか?」

「それはないけど・・・・逆にそんなに綺麗な奴が、なんで社長と組むんだ?」

「金だろ?番組制作には必要だ。そこは人情じゃない世界だし」

「そうだとしても、今、イジュンの事件を持ち出すメリットが彼にあるか?」

「・・・・放送屋の考えることは、俺にはわからんが・・・」

ナムは肉を口に入れて、もぐもぐと噛んでいる。考えてもいるようだった。

「メリットがあるから、やるんだろ?」

「まあな・・・」

そのメリットが何かを知りたい。生放送をしているスタジオの中で、イジュンをどうやったら守れるのか・・・手がかりが欲しい。

「ったく・・・」

ナムが軽く舌打ちする。

「王子様のこととなったら、途端に冷静じゃなくなるな・・。お前に取っても命とりだってわかってんのか?ハルメが心配してたぞ。」

「うん・・・・」

「いやに素直だな。それが怖い・・・」

自分でもそう思っている。が、ナムには隠せない。

「イジュンは特別なんだ・・・。知ってるだろ?」

「まあな・・・」

ナムが缶ビールを火にかざして溶かす。


_____氷の女王のカイもお嬢さんの涙で解けたよな・・・・


「もう少し調べてみるよ。俺にも消化不良だ。」

テヨンは頷くと、肉を追加した。


駐車場から立ち上がっている煙をエントランスの窓越しに見ながら、ギジュがため息をついた。

そこでどんな会話がなされているか、想像がつく。普段なら二人の会話に立ち入ることなどしないが、今はテヨンが心配だ。一族の跡取りであり、大切な孫なのだ。

テヨンのイジュンに対する愛情を否定はしない。人として誰かを愛することは必要なことだとわかっている。だが、余りにも深く想いすぎている。ギジュはため息をついた。ふと、背後に人の気配を感じる。

「ハルモ二?」

イジュンが立っていた。ギジュはカーテンを閉めると、笑顔でイジュンに近づいた。窓の外の煙を見せるわけにはいかない。

「どうしたの?真っ暗なところで・・・」

「イジュンはどうしたんだい?眠れないの?」

イジュンが苦笑いをする。

「・・・ミルクでも飲もうと思って・・・」

「ミルクティーにしたら?香りも良いし。美味しいのを入れてあげる。」

ギジュは微笑むと、イジュンを連れてキッチンへ向かった。棚から紅茶の葉を取ろうとつま先立ちする。慌ててイジュンが棚に手を伸ばした。

「ありがとうよ。後は大丈夫。」

ギジュの笑顔に誘われるように、イジュンは椅子に腰を下ろした。

ミルクも温めて、紅茶に入れる。たちまち良い匂いがキッチンを満たすと、イジュンの心も少し落ち着いてきた。

「ハルモ二も眠れなかったの?」

「ん?まあね。」

まさか、孫たちの会合を見張っていたとは言えない。

「この年になると、眠りも浅くてね。すぐに目が覚めるんだよ。」

ゆっくりとミルクティーをすする。イジュンもカップに口を付けた。

「イジュン・・・」

「はい・・・」

「ハルモ二は長く生きてるだろ?」

イジュンは頷いた。

「その時間の中では、色んな出来事が起こったんだ。楽しいことも、辛いことも・・・」

ギジュの声は柔らかく、静かだ。カップから湯気が立ち上がって、その中でギジュの声が響いているような気がして、イジュンは黙って湯気を見つめていた。

「どれだけの出来事があったか、もう覚えていない。何故だかわかるかい?」

イジュンは首を振った。ギジュがカップを持つイジュンの手に自分の手を重ねて言った。

「消えて行くからさ・・・・」

「消えて行く?」

ギジュが頷く。

「どんな出来事も、起こったら消えて行くんだよ。そして良い出来事だけが想い出として残っていく。」

「ハルモ二・・・・」

「それもエゴだけど、だから人は生きていけるんだ。」

「・・・・・・」

ギジュはイジュンの手をさすりながら続けた。

「私はね。」

無意識に駐車場へ意識を向ける。寒い中、お互いを心配して支え合う大切な者たちが、白い息を吐いていることを知っている。

「私の周りにいる者たちを、誰一人傷つけたくないし、護りたい。イジュンも同じだよ。」

イジュンが驚いてギジュを見た。まるで心の中を見透かされているようだ。

「明日も、何が起こるかわからない。でも、起こったとしても、それは消えていく。そのことを忘れないでくれるかい?」

イジュンは思わず立ち上がって、ギジュを後ろから抱きしめた。温かく小さな身体が愛おしくてたまらない。

「うん。約束する。大丈夫だから。俺は・・・」

ギジュは自分の胸の前にあるイジュンの手を撫でながら、静かな怒りに燃えていた。


_______誰も傷つけない。


明日がD-DAYであることはギジュにもわかっている。自分に出来ることは、愛情を与えるだけだ。

「さあ、飲んでしまって。身体が覚めないうちに布団に入るんだよ。寝不足じゃTV映りが悪いからね」

ほどいたイジュンの手を軽く叩くと、ギジュはイジュンにカップを手渡した。イジュンは笑って頷くと、手渡されたカップをしっかりと受け取った。


スタジオの照明が変わった。

緊張してはいるが、心はしっかりとしている。スタジオの袖の方にテヨンの姿が見えるた。

テヨンが静かに手を上げるとイジュンに顔がはっきり見えるように、眼鏡を取ってスーツの内側に収める。イジュンが微笑んだ。

「それでは参ります。」

カウントが始まる。

「キュー!」

カメラがヨンPDを捉えた。

「長い人生の中で、人は誰しもある転機を迎えます。」

落ち着いて威厳のある声が、オープニングのセリフを喋っていく。テヨンはほとんど表情を変えないヨンPDの顔をモニターで見ながら、いつの間にか拳を握りしめている。何が起こるかわからない緊張が苦しい。間もなくイジュンに照明が当たる。

「今日の主人公はこちら。皆さんも良くご存じでしょう。青龍演技新人賞を受賞した、俳優のチェ・イジュンさんです。」

イジュンは笑顔で立ち上がると頭を下げた。モニターにイジュンの出演ドラマや経歴のテロップが流される。

「ご無沙汰しています。丁度、1年ぶりですか?」

「はい。」

イジュンが頷いた。

ヨンPDが再びカメラに話し出す。

「今日お越しいただいたのは、1年前のあの事件・・・『キム・ミンジュ暴行事件』と世間では呼ばれていますが、その事件のことです。」

モニターに映るイジュンの表情は硬い。だが、瞳には意志が見えた。再びヨンPDの顔にカメラがパンする。

「事件から1年。どんな風に過ごされていましたか?」

台本通りに進められている。イジュンも内容は解っている。落ち着いて話し始めた。

「しばらくは現状を受け入れるのに時間が必要でした・・・・。何故なら・・・・」

少し間を取って、イジュンは決心したように話し始めた。

「僕には事件の記憶がほとんどなかったからです。」

「記憶がない?・・・・」

「はい・・・・」

「なるほど、そのことは後でお聞きするとして・・・」

ヨンPDが台本が記されているカードを変える。一瞬イジュンの瞳が揺れる。だが、生放送の常でMCの采配によって雰囲気も変わるのだ。それには慣れていた。

「今は、体調も良さそうですね。1年間、休息は取れていたと?」

「あ・・ええ。ずっと体調は良くなかったんですが、4ヵ月前から徐々に・・・」

「復帰の準備をしていたとお聞きしました。」

「具体的ではなかったのですが・・・出来ることから始めました。」

イジュンは上手に対応している。だが、テヨンの勘所がムズムズしていた。スタジオにナムの気配もしない。さすがにここまでは入れなかったのか・・・。

「話しを戻しましょう。」

ヨンPDがまた台本のカードを変えた。テヨンにはそれが気になった。手元に送って来た台本では、こんなに会話が変わる予定はない。何かが動いている。テヨンはゆっくりと副調整室に近づき始めた。その時、モニターに事件の映像が映った。テヨンは驚いてスタジオを出ると副調整室に向かう。

何が起こっているか一目瞭然だった。


_____これは社長の策略だ。イジュンが潰される!


スタジオの大型のモニターにあの事件の映像が流れる。イジュンは目を見開いたまま、言葉を失っていた。

「思い出しましたか?」

ヨンPDの冷たい声がイジュンの耳に届いた。イジュンはヨンPDを凝視した。

「先ほど、事件を憶えていないとおっしゃった。だが、これほど酷く殴っていて覚えてないとは俄かには信じがたい。どういうことか教えていただけますか?」

イジュンは震える指をどうにか握り締めて持ちこたえた。突発的に刺激的な内容にすることも、番組ではよくある。

「社長に呼ばれて・・・・バーに行きました・・そこでお酒を進められて・・・そこから記憶が・・・」

「そんなに飲んだんですか?」

「恐らく二杯ほど・・・」

「当事者にお聞きしましょう。ホン・ソン社長、どうぞ。」

イジュンの瞳が大きく見開いて固まった。ホン・ソンは用意されたイジュンの横の椅子に座って頭を下げた。


案の定副調整室のドアは開かない。そう言うこともあろうかと、テヨンは袖から細い鍵を出した。ドアノブに差し込み2秒で開ける。だが・・・・そこには誰もいなかった。


____しまった!


罠だと気づくのに1秒もいらなかった。テヨンはスタジオにとって帰りながらナムを探す。

だが、気配がない。

「頼むよ!ナム!」

口の端で呻きながら、再びスタジオを目指す。だがそこには、黒い服を着た社長秘書のジェイが立ちはだかっていた。

「どけ・・・!」

答えるよりも早く向かってくる拳を片手で受けると、もう片方の手でジェイの顔を殴った。

「お前ごときに殴られる俺じゃない!」

当然ジェイもただ殴られる器ではないことも知っている。すぐさま体制を整えた相手と四つに組みながらロビーのモニターに目が奪われた。

「本日はありがとうございました。こちらはチェ・イジュンさんの所属会社、カイザーのホン・ソン社長です。あの日もご一緒でしたよね?」

「お前ら・・・・・!!」

テヨンの一撃は更にジェイのみぞおちにハマった。低い声を漏らして、ジェイが吹っ飛ぶ。テヨンの耳に社長の声が入った。

「こんばんわ。ホン・ソンです。この度は、チェ・イジュンの事件を取り上げて頂いて、感謝しています。」

社長が頭を下げる。イジュンは状況を飲み込めずに、ただ社長を見ている。モニターにイジュンの顔がアップされた。

口の中が切れて流れた血をぬぐって、ジェイが掴みかかってくるのを交わし、背中を蹴り上げる。今度は声を上げてジェイが倒れた。その身体を起こして殴る。怒りに手が止まらない。その間もインタビューは続いている。早く行かねば・・・・こいつを殺して!テヨンの藍色の瞳が光を増す。

「イジュンさんは良く覚えていないようなんです。あの日のことを。社長からお聞きすることはできますか?」

「もちろんです。」

ホン・ソンはカメラの位置を確かめてから喋りだした。

「あの日はちょうど僕の時間が出来て、かねてから頑張っていたイジュンさんをご招待したいと、呼び出したんです。お疲れのところでしたが、快く来てくださって・・・」

イジュンを見て笑う。イジュンは曖昧な笑顔を返していた。指が震えて来る。テヨンを探してスタジオを視線が彷徨うが、見つからない。段々不安が押し寄せて来た。そのイジュンの手を社長が握った。思わず声を出しそうになって、イジュンがひきつった顔をする。

社長は申し訳なさそうな顔をしてヨンPDに言った。

「すみません。事件以来、パニック障害を起こしていて・・・大丈夫ですか?イジュンさん?」

テヨンの最後の一蹴り受けて、ジェイの身体が沈んだ。考えてみればロビーに人気がないのもおかしな話だ。完全に社長の手にハマった。イジュンの復帰に掛ける気持ちに寄り過ぎたのだ。

スタジオの扉にも鍵は掛かっている。だが、このままではイジュンが危ない。テヨンは袖から鍵を出した。

「パニック障害・・・と言うことは衝撃があったと言うことですね。イジュンさん?」

「それは・・・・」

「実はあの日はだいぶお酒を飲んでいて、私が席を立つときには立てないくらいでした。だからこそ、あんな事件を起こすことが不思議で・・・」

「飲んだ?・・・」

イジュンが社長に顔を向ける。

「ええ、だから覚えてなかったんじゃ?」

「キム・ミンジュさんはどうしてあなたを怒らせたんですか?」

「キム・ミンジュ?」

名前を聞き返す。呼吸が苦しくなって、イジュンは胸を触った。

「ええ、全治4ヵ月です。皆さん、写真をご覧ください。」

ヨンPDが視聴者に向かって言うと、画面に包帯をぐるぐる巻きにされたキム・ミンギュが映し出された。顔が腫れまくり、痛々しい。イジュンは呆然とその写真を見ている。その瞳から力が失われていく。カメラはそのイジュンの横顔に寄って来る。イジュンは目を瞑った。

「わかりません・・・・覚えていないんです・・・」

「覚えていない?先ほどもそう言いましたね。」

イジュンが頷いた。社長が申し訳なさそうに言葉を継ごうとしたその時・・・・・

「ヒョン!」

いきなり人がなだれ込んで来た。そしてイジュンの前に跪いたのだ。

「キム・・・ミンジュ?」


鍵が開いた途端、テヨンの頭を何かが直撃した。同時に頭の上からザーッと音がして粉上の物が振って来た。一瞬倒れこんで、直ぐに体制を整える。

「絶対にお前を入れない・・・・」

額から流れる血が目に入るのを防ぎながら、テヨンはもう一度ジェイの身体を蹴った。どこにそんな力が残っていたのか、ロビーにあった大きな鉢植えをテヨンの頭で叩き割ったのだ。

上着を脱ぎ、体中の土を払って血を拭うが止まらない。ジェイは起き上がれなくなっていた。

「お前ひとりで何とかなるとでも思ったのかよ。もっとも・・・」

ジェイの手下は、ナムが片付けていたらしい。テヨンにも気配を消すとは・・・・

「あきれた奴だ。」

テヨンはふらつきながら、スタジオのドアを開けた。その途端、スタジオが真っ暗になった。一瞬目つぶしにあって、テヨンがよろける。それをナムが抱き留めた。

「走るぞ!」

館内も真っ暗だ。

「待て、イジュンが」

「俺が抱えている。」

暗闇にかすかにイジュンの香りがする。

「俺が・・・」

「ばか言え!出血多量でぶっ倒れるぞ!二人も抱えられっかよ!地下まで走るからな!」

背中に人々のわめき声と、警報が響いている。テヨンは気を失っているイジュンの袖を握り締めて、やみくもに走った。



















































































































































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