第八話 反魂
「足原」
「はい」
「井上」
「はい」
「榎本」
「はい」
「大津」
「はい」
「桂」
「はい」
「桐島……あれ、桐島?」
誰も返事をしない。
ここまでずっと、教卓に置かれたファインダーに挟まれた名簿へ目線を落としていたぼくらの担任、天城楓香はようやっと顔を上げて教室を見渡した。
ぼくと先生の目が合う。ぼくは何も知りませんよ、という風に首を振った。そう。ぼくは知らないのだ。むしろぼくの方が知りたいくらいだった。
「せんせ、今日榛名ちゃん来てないよ」と、一学期は黒かった髪を脱色してきたクラスの女子が言う。名前は覚えていないがよく桐島と話している子だったはずだ。
そんな情報は教室を見渡せばわかることだ。事故に遭って来れないだとか、この暑さにやられただとか、何かしら具体的な状態が知りたかった。
「あ、そうなんだ。桐島ちゃんから、何かしら聞いてない?」
「いやぁ……昨日もLINEフツーだったよ」
そう言って、彼女は同意を求めるように目配せをし、それに気づいた数人が同調して頷く。当然、ぼくに目配せが飛ぶことはない。
「ん〜。ちょっとあたし電話掛けてくる。みんな時間なったら体育館に行ってて」
はぁとかふぅいとか、気の抜けた返事がちらほらと上がる中で、点呼を放り出した先生は教室から出て行く。生徒たちはある意味洗練された動きで、教卓からの死角に仕込んだスマホを取り出し始めた。
かくいうぼくも例外ではない。ぼくはスマホの画面をフリックし、適当に決めた四桁のPinを入力して鍵を開け、桐島にメッセージを送った。
だがその日は結局、ぼくが高校にいるうちにメッセージが返ってくることはなかった。
※ ※ ※
『はい──どうしても体調が悪いんだって……あの、これを休んで、単位に影響とかは……』
校内共用の、日焼けして黄ばんだ受話器から聞こえてくる声はそう言った。その声はどことなく、今日欠席している少女のそれに通ずる物を感じさせる。
「はい。何度も申し上げておりますが、本日は特に授業がないので単位、内申ともに大きな影響はありません。欠席扱いにはなってしまいますが、一日二日で進級や推薦がどうにかなってしまうことはないので……」
何度も。何度も。もう何回この流れをやったことだろうか。桐島が体調不良なのは理解した。母親はそれに伴う欠席で、娘の進路が危ぶまれることがないかと心配しているのだ。
『あぁ、そうですか……ご迷惑おかけしました、先生』
「いえ、それで今日は、欠席ということで──」
『確か、遅刻なら欠席にはならないんですよね?なら体調さえ回復すれば私が送迎します!』
「はぁ、そこは榛名さんの体調と相談していただいて……」
「でも、出ておかないと内申にも……」
こうしてまた振り出しに戻るのだ。
数分後。私は教室以上に冷房が良く効いた職員室で座り込んでいた。
「つ、疲れた……!」
まるで会話にならなかった。
私は桐島の母の、言葉尻は落ち着いているようでも、どこか浮ついてヒステリックな響きの声に頭を殴られ続けて気が変になりそうだった。私が可怪しいのか、相手が可笑しいのか分からなくなってくる。後者だったら後で思い切り笑ってやろう。その元気があれば、だが。
学期末の三者面談に来たのは父親の方だった。少しくたびれた顔をしていたが弱々しい印象は全くなく、パリッとしたスーツの良く似合うナイスミドルだったと記憶している。──私の父もああだったら素直に尊敬できたかも知れない──そんな男が、よくもまぁあんな女を選んだものだ、と私は本気で思った。
時計をみると、とうに全校集会が始まっている時刻になっていた。もう今更行く気にもなれない。暫くここで心身を休めてもバチは当たらないだろう。どうせ今日も部活を見なくてはならないし。
夏休みとは一体何なんだ、と今日学校に来てしまった生徒全員が思っているであろうことを──下手をしたらつまらない演説をしにきた校長も思っていそうなことが頭をよぎる。
少し離れたデスクでPCと睨み合っていた二つ上の先輩は、全てを察したような目で職員室を出ていった。
もういいだろう。私は久しぶりに「学校の机に突っ伏して寝る」という体験をした。学生時代の机とは随分違う机ではあったけれど、なんだか懐かしい硬さのそれに抱かれて、私はぐっすりと眠った。
※ ※ ※
「全く……最近の若い教師は駄目ね。社会にも出ていないくせに」
今朝から、私の様子を見に部屋を覗き込む度にこれだ。よほど天城先生が気に入らなかったのだろう。
私は、「社会にも出ていない」ということと「最近の若い教師」を結びつけることについて因果関係を見いだせなかったが、黙ってタオルケットを被っていた。
「そのくせに、妙に上から物を言う」
何々のくせに、何々のくせに、と人を見下ろしているのはどっちだ。あんたの頭が悪いからバカにされるんだ。と思ったが、黙ってタオルケットを被っていた。
「今日しか許さないから。休み明けにはちゃんと行かないと、留年するからね」
そんなのどうでもいい、と反発したかったが、黙ってタオルケットを被っていた。
「それじゃ私、行ってくるから。お昼置いといたから食べなさいよ」
玄関の鍵が閉まる音を聞き、私はスマホを手に取った。
「家行っていい?」
これを、それまでの二桁程の未読メッセージを無視して綾人に送る。そうすると、暫くして『いいよ』と返信が送られてきた。
私は薄いタオルケットを放り投げ、顔を洗い、髪を整え、ゆったりとした長袖の服に着替えて外に出た。
まだ足に馴染まない硬いローファーではなく、履き慣れて柔らかいサンダルに覆われた足で自転車を漕ぐ。じっとりした日差しを蓄えた座席が焼けるように暑い。
空っぽの胃袋が揺さぶられて悲鳴を上げている。自分のことなのに、なぜだか「ざまぁみろ」と言ってやりたい気分だった。
熱風を受けながら、私は敷島家にたどり着いた。やはり熱されたインターホンを押すと、既に何度か顔を合わせた少女が私を出迎えてくれた。
「おはよ、美笠ちゃん」
「いらっしゃいませっ!そろそろお昼もできる頃ですよ!」
「お邪魔しまーす……あ~、ソースっぽい匂いする……?」
「へへ、いい匂いですよね!」
作っているのは兄だろうに、その義妹は妙に誇らしげに胸を張ってそう言った。私とは比べものにならないほど純粋な笑顔に圧倒されそうになった。
「お兄!榛名さん来ましたよ!」
「ぉ……いらっしゃーい。待って、今水出すから」
「ありがと」
綾人が出してくれた、氷がごろごろと入ったコップの水が喉を通して私に染み渡る。
リビングを見渡せる位置に備えられたキッチンから、じゅうじゅうという音とともに香ばしい香りが漂ってきた。そのジャンキーな香りに、朝から空っぽだった私の胃袋はとうとうやられてしまった。
※ ※ ※
「多めでいいよね?どうせ朝抜いてんでしょ」
「んー。ありがとー」
多めとは言ったものの、それは少食の彼女を基準にしたものである。そんな彼女にぼくが出せたのは残り物の野菜と肉を色々と炒めて作った在庫処理飯。本来人様に出せる様なものではないのだろうが、生憎誰かを饗すための料理の作り方なんてものは教わったことがない。
毎度こんなものしか出せない訳では無いが、上等なものを出せるわけでもない。それでもいつも、嫌な顔をしないで完食してくれるのは嬉しいものだ。
美笠の分の皿に盛り付けたそれより少ない程度の焼きそばを盛り付けた皿と、一回りお大きいサイズの自分の皿を持ってテーブルに付き、手を合わせた。
「「「頂きます」」」
※ ※ ※
「「御馳走様でした」」
清々しい食べっぷりで早々に完食し、やはり清々しい声で「行ってきます!」と叫んで遊びに行った美笠ちゃんを除いた私達二人は手を合わせた。
「前、薄味のが好きって言ってたから薄めにしてみたけど……どうだった?」
「覚えてたんだ。うん、良かったよ。」
なるべく声が弾まないように答える。クラスメイトの名前もロクに覚えていない綾人の海馬に、どうでもいい自分の情報が刻まれていたことでまた優越感を覚えた。
ここで「美味しいよ!」なんて笑顔で言えたら、私はもっといい女だったのだろうが、私の顔は動いてくれなかった。尤も、彼曰く「ごちゃごちゃした味を全部ソースで黙らせているだけ」とのことだけれど。
「ねぇ、あのラップかけたやつ、『綾人の』お母さんの?」
単に「お母さん」と呼べない──というより、私の良心がそう呼ぶべきでないと警鐘を鳴らしている──あたりにこの家の複雑さを感じるが、同時に私のほうがマシな家なんだろうとも思う。「甘えるな」と私を上から見下ろす私がそう言っていた。
「あんなでも家族だし、さ。残しとかないと。」
「へぇ、優しいじゃん。」
「そう。ぼくは優しいんだよ。」
綾人は柔らかい表情でそう言った。確かに前よりも優しそうに見えないこともない。
「はは、自分で言っちゃう?」
「ほんとに優しい人は、自分では言わないってんじゃん。」
「……めんどくさい人!」
「よく知ってるくせに。飽きないでしょ?」
「飽きる……はないけど呆れる!」
「それは困るなぁ。」
綾人はそう言って、慣れた手つきで食器をシンクに運び、洗い始めた。
「先シャワー浴びとくねー。」
「ん、ガスつけとく。」
水音が鳴り始めると話にならないし、私はリビングを離れてお風呂場に向かった。
※ ※ ※
「なんだか、全部諸々止めちゃいたくなるときってない?」
向き合って、お互いに寄りかかる用に抱き合っていた桐島がそう言った。お互いイったばかりで、しかも薬も入っているものだから口調は酷くふにゃふにゃとしている。上手く聞き取れないのだけれど、ぼくの脳が補完した彼女の声はそう言っていたのだ。
体勢的に目は合わないが、この声から彼女が焦点の定まらない目を泳がせている光景が目に浮かぶ。
「辞める、じゃなくて、止める。」
「そう、『止』める。」
面白そうだ。試しに読書感想文あたりを放り出して捨ててしまうのもいいかもしれない。
「桐島は、例えば何を止めようって?」
「まずは学校よね」
「マストだね」
なんて言いつつも、ぼくらももう10代も後半にさしかかる時期だ。現実的でないことは知っているし、そうしたらどんな末路が待っているかを想像できないほバカじゃない。
「学校止めて、何する?」
桐島は冗談交じりでそう聞いた。
「どうしようか……。高卒認定の勉強とか?」
ぼくは真面目に答えてみた。
「つまんないよ。」
「そっちは何したいのさ」
しばらくの空白。二人の深呼吸の音と心音だけはしつこく鳴っている。
「遠くまで行って……行けるとこまで行って、死んじゃいたい。」
「いいね。いつか、ね。」
ぼくはわからなくなっていた。先の不安はずっとつきまとっているのだけれど、ぼくは現状が嫌ではなくなっていた。一寸先の闇は照らせないけれど、手元くらいならうっすらと照らしてくれる熱を手に入れた気がする。
「やっぱり、首吊りがメジャーなのかな。」彼女はぼくから少し離れ、自分の細い首を撫でながら言った。
そこには内出血の跡がそこかしこに残っている。ぼくが噛んだり絞めたりしたやつだ。
「そこの跡……ごめん」
口が勝手に動いた。
「え、なんて?」
「なんでもないよ。」
ぼくの舌もまだまだばかになっているみたいだ。彼女よりかは体格に恵まれているぼくだから、薬の廻りは悪いだろうと高を括っていたのは間違いだったようだ。
「水、とってこようか。」
毒を抜くには別のものを入れるのが一番いい、と身体は覚えていたようで、僕は自然にそう提案した。
「あぁ……うん、お願い。」
ぼくは階段を降りて、リビングに向かった。
死ぬのが怖い。生物として正常な感覚だ。だがそれは、ことぼくにとっては、死にたいという気持ちとバランスを保って同居しているのが平生であったから、その片方がどこかに消えた今のぼくは、かえって異常で不安定になったようにも思われた。
※ ※ ※
「よぉ。お楽しみのところ失礼するぜ。」
リビングのちょうど真ん中に、半透明の赤い膜を纏った赤ん坊がいた。顔はくしゃくしゃと醜く歪み、座らない首でその顔をぼくに向けながらにやにや笑っている。
「なんだ……誰だ……いや、なんだ、お前は。」
幻、だろうか。今までオーバードーズで幻が見えたことなんてなかったけれど、僕はとうとう気が触れてしまったのだろうか。
「馬鹿言ってんじゃねぇ。」
赤ん坊はしゃがれた声で言った。
「お前はずぅっと、おかしいんだ。おかしくあるように、存在しているんだ。」
何がおかしいのか、赤ん坊はひっ、ひっ、と笑っている。
「あぁそうさ、お前は気が触れている。だがお前は悪くない。むしろお前自身はごくマトモかもしれん。でもなぁ、お前の輪郭がそう作られているんだ。お前の道筋と、お前の型がそうなってんのさ。」
なんて不愉快な声なんだろう。なんて醜い姿なんだろう。存在そのものがぼくの神経を逆撫でしているようだ。
けれど目を逸らすことができない。それが息をするたびに、あの赤い膜がぬるりぬるりと脈打つのが見えてしまう。
「ところで今……お前は幸せかい。」
ぼくの中で、なにかがざわりと蠢いた気がした。そのなにかはこの瞬間を待っていたかのようにゆっくりと鎌首をもたげ、ぼくの神経を這いずり始めた。
「わからない。……たぶん、違うと思う。でも、嫌いでもない。」
不快感を振り払うように、桐島の身体を思い出しながら言葉を吐き出した。その瞬間、ひやりとした感触が脳漿に走った。何か致命的な、取り返しのつかないミスをしてしまったような、そんな感覚。
「あっは。そうだよな。わかんねぇよな。でもお前はこう思っている。」
ぼくの口が勝手に動いて、喋った。
「「悪くない。」」
「そう、その通り……よくぞ言った!愛しい友よ!」
赤ん坊の目が爛々と輝いている。膜の脈動も早くなり、
「やっと俺も仕事を始められる。ささっと片付けちまわねぇとなぁ……へへっ。」
赤ん坊はふっと姿を消した。