瘢痕
天城 雨(あましろ-あめ) 故人。
天城 晴陽(あまぎ-はるひ) 妹。
天城 楓香(あまぎ-ふうか) 担任。
敷島 綾人(しきしま-あやと) 主人公。
桐島 榛名(きりしま-はるな) クラスメイト。
敷島 美笠(しきしま-みかさ) 義妹。
深山 優依(みやま-ゆい) 幼馴染。
『それを口にしてから三十分も経っただろうか。身体が重い。血液を丸ごと鉛に入れ替えられたような感じがする。なんだかとても息苦しくて、気持ち悪くて。少しでも多くの空気を求めて、間抜けにあんぐりと口を開けて、喘ぐ。私は隣にいる子の肩に縋って膝を着いた。』
※ ※ ※
坂道を登る。荒れた息を吐いて捨てる。盆の日の日差しを吸い込んだアスファルトが、じっくりとぼくを焼く。
少し前にもこんなことをしてたっけ。そのときはただ遊びに行こうというだけのことなのに、酷く回りくどい道を歩んでいたように思えた。その時に登っていた石畳の階段は寂れた神社に繋がっていたが、今度の坂道は切り開かれた山に棚田のように広がる墓地に続いていた。
自分が死んだら、たまには墓参りに来てほしいと。そう言っていた雨さんとの約束を、ようやく実行しようと思ったのだ。あれはほとんど冗談みたいなものだったのだろうけれど、区切りには丁度良いだろう。
『もしも一緒にイけなかったらさ。たまにははウチのお墓に来てね。あんなところでずっと四面楚歌でいたらそれこそ死にそうだよ』
そう言った声を文字に起こすのは簡単だった。しかし、それを語ってくれた声そのものを、音を思い出せなかった。確実に自分の中から消えていっている。それを思い知らされて、寂しいやら悲しいやらで久しぶりに泣きそうになった。
違う。涙が出そうなのは足の痛みのせいだ。それか、汗が傷口に沁みるからだ。そう思うことにした。
「敷島じゃん。お墓参り?」
新聞紙の包みとペットボトル、それと小さなバックを肩から下げた先生が現れた。なるべく人が少ないであろう時間帯を選んだつもりだったが無駄だったようだ。
「ぁ……先生。それ以外にあるんですか。こんなところ」
「ただの散歩かもしれないでしょ?」
そう言って先生はぼくの斜め後ろに付いて歩き始めた。左手に持ったペットボトルは重そうだが、それを感じさせない足取りだった。
「趣味の悪いっすよ、それ。あと流石にその荷物でそれは無理あります」
「ひっど。上の方、眺めだけなら結構いいところなのに……私こっちだけど、敷島は?……そう、もしかしたら近いのかもね」
先生の苗字はアマギで……。あの人の苗字がアマシロで……。確か漢字は同じだったはずだ。それぞれレアな苗字ではあるけれど、地名姓ならば二人の先祖は案外とご近所さんだったのかもしれない。墓も近所とは奇妙な縁もあったものだ。
「調子どうよ。宿題進んでる?」
そこでぼくは、宿題を初日に少しやってから進めていなかったのを思い出した。
「半分くらいは……」と、サバを読んでみる。
「えぇ、もう夏休み半分以上終わったよ?」
「しょうがないじゃないですか、風邪引いて寝てたんですから」
ある程度は本当だ。桐島と二人で薬を飲んで潰れ、何もしないで過ごした日もあるのは黙っておこう。桐島のためにも。
「はは、そりゃあ災難だったね。中間登校日には元気に来れるようになさいな」
そういえばそんなものもあったなぁ、と思い出して少し憂鬱になった。高校というのはつまり、社会なり大学なりに子供を送り出すために存在している機関なわけで。そこに行くと嫌でも先のことを意識してしまう。
考えたくなかった。特にこのモラトリアムの期間くらいは。それに、ぼくは未来なんていらないと思っていた。ずっと生きた心地がしなかった。だが、いまのぼくはそれを終わらせに来たのだ。いい加減に天城雨という人が死んだ、という事実を受け入れるための禊をしに来たのだ。
それが終わったら。ぼくの中で、彼女が終われば。ぼくはようやく明日のことを考えることができる。
「言われなくても、きっちり行きます」
「うん、よろしい」
その後にもクラスには馴染めているかだの、勉強でわからないところはないかだのを根掘り葉掘り聞かれながら歩いた。
老夫婦や家族三世代の大所帯、そして数え切れないほどの羽虫とすれ違いながら進んでいくと「天城」と刻まれた墓石が見えてきた。目印と聞いていた大木は見当たらないが、幾重にもなる年輪の真ん中から若木を芽吹かせている切株を見つけた。きっとこれがその木だったのだろう。
「先生。ぼくはここで……」
「敷島。あたしはここで……」
「「えっ?」」
※ ※ ※
『その子の舌にはまだ、ごく少量ではあるが唾液が残っていた。唾液に含まれる酸が乾いた唇に触れ、ヒリヒリとした痛みが私の中を走った。どうせならもう少しコンディションよく死にたかったなぁ、なんて思った。薄い色の、やはり薄く塗った口紅はきっと落ちてしまっているだろう。』
※ ※ ※
天城家の敷地の最外端。黒光りする石板に刻まれた日付と戒名の列の右端には、二〇二二年没と掘られていた。その下の戒名はぼくには読めなかった。
「先生は、なんでここに来たんですか」
「妹に会いに来た」
ぼくを背中に、花を替える準備をしながら先生は答えた。
「一緒にやる?」
振り向いた先生にぼくは何も言わずに頷く。先生のところまで行くと、新聞紙から取り出された花を渡された。花立には強烈な悪臭を放つ汚水、そしてそれに浸された腐った白い花が生けられて──死んでいた。
「その、先生の妹さんの、名前は」
「アマシロアメ。本名──アマギハルヒ。晴れに陽向で、晴陽」
腐った花を花立から引き抜く。悪臭が鼻を刺して、軽い吐き気に襲われた。
「ぼくも、その人に会いに来たんですよ」
「ありがとう……。うん、ありがとうね。私の妹のこと、ずっと覚えててくれて」
ぽつり、ぽつり、と元は瑞々しい緑色をしていたであろう茎から、汚水を垂らす花をゴミ袋に放り込む。
「ぼくと雨さんのこと、ずっと知ってたんですか」
「うん。晴陽──雨から聞いてた」
「恨まないんすか……ぼくのこと」
また視界が滲んできた。喉に空気がつっかえてうまく出てこない。
「恨む?まさか。」
元は焼酎でも入っていたのだろうか。ぼくが取っ手付きの大きなペットボトルから水を花立に注ぐと、汚水が溢れてきた。そしてその水は砂利の下の砂地に吸われて消えていく。
「私こそ、君に謝らなくちゃならないんだよ。あの子は君のメンタルにたくさん負担を掛けただろうし、傷を残したと思う。そして君の命まで危険にさらした」
先生は古新聞を丸めて火種にし、バックから取り出した線香の束に火をつけるべくマッチを取り出した。硫黄の匂いが花のそれと混じって広がる。
新聞に広がった火が線香に移り、先生がその線香を軽く上下に振って落ち着かせた頃には墨と焦げたコンクリートだけがそこに残っていた。
「あの子を追い詰めた原因は、勿論私にもある。謝って許されることでも無いだろうけど……私は……私は君に謝るのが怖かったんだ。駄目な大人でしょ?」
「ぼくは後悔してないですから、絶対。会えて、よかったんです」
会えてよかった。せめてぼくだけでもそう言えなければ、あまりにもあの人が浮かばれない。
「そっか。ところでこれ、母さんたちの分もってことで持ってきてたんだけどさ。敷島も、供えてあげて?」
ぼくはまた黙ってそれを受け取る。線香の香りはぼくにはあまり馴染みのないもので、手元から漂う煙に少し咽てしまった。
石組みの箱のようなところに置かれた、受皿に乗った金網に足がついたような台の前に屈む。先端が灰になって散り、ほんの少し短くなった線香を慎重に置いてぼくは手を合わせた。
※ ※ ※
「吐いた。五臓六腑を裏返すほどの吐き気をとうとう堪えきれなくなったぼくは、ぼくにもたれかかる身体をどうにか寝かせ、お世辞にも広いとは言えないアパートの壁を伝ってトイレを目指した。胃が空になるまで吐いた。便器にはうっすらと色づいた半透明の汁と、得体の知れないどろっとしたものが散らばっていた。」
※ ※ ※
両手を離し、死人の眠りを妨げないようにゆっくりと立ち上がる。下を見ると、ぼくが住んでいる街一体が高い山に囲まれて浮かんでいた。駅を中心に大通りが走り、山の麓に近づくにつれ黒いアスファルトが薄れていく。だだっ広く、それでいて閉塞感のある街に散りばめられた、人の営みを感じさせる細かなディティールの一つ一つが、ぼくにはとても重々しく見えた。
生暖かい空気を山を駆け上った風が攫っていく。目から零れてしまった涙が夕日を乱反射して消えた。
「ぜんっぜん変わらないよね、この街」
先生が呟く。
「なんですか急に。そんなキャラじゃないでしょう」
えづきそうになりながらぼくも呟く。
「キャラ、でしょ。根っこじゃないもの」
ぼくの根はどこに絡まって、しがみついているんだろうか。もう薄々わかってはいる……いや、わかっていた。ずっとずっと、もうとっくの昔にぼくは気づいていた。目を背けていただけだ。
そして目を背けていた自分を見て、情けなくてまた逃げたくなった。同じことだ。逃げても逃げても、疲れ果てて倒れた隙にそれは追いついてくる。
「毎年、ちゃんとやってたんですか」
「まさか。ウチで真面目にやってたのは両親ぐらいよ」
過去形。深く触れない方がいいだろう。
どうして、ぼくたちは苦い昔話を噛み潰し続けるのだろう。噛み潰す。咀嚼する。飲み込んで、溶かすか、吐き出すかして、また咀嚼を始める。
「最近思い出しちゃってね。本当びっくりしたんだから、まさか妹の……その、会うなんて思ってもなかったし」
ごめんなさい。と鳴いてみる。
「それにしても、妹が未成年淫行に自殺幇助、おまけに未成年とお酒に煙草……改めて実感すると、教育者としてはなかなか胸に来るものがあるわね。頭痛がしてくる」
「……先生の場合、その頭痛は二日酔いがいいところでしょ。ほんと、どこまで聞いてたんですか」
「確か敷島、ビールと日本酒はダメなんでしょ?」
「そうです……」
「ははは、もうハタチまで飲んじゃ駄目だからねー」
そんな話をしながら、先生は見覚えのあるデザインの缶をぷしゅ、と音を立てて開封し、炭酸の弾ける液体を墓石にかけた。柔らかな苦い香りが墓をゆったりと包んでいく。それは昔のぼくがよく知っている香りだった。
※ ※ ※
『最期に目に映ったのは、おぼつかない足取りで部屋を出ていくアヤトだった。救急車がどうとか、電話がどうとかをふにゃふにゃと言っていた。私もふにゃふにゃと言いながら送り出した。多分。』
「うっすらと粉雪の舞う景色を横目に、隣の部屋のインターホンを押す。反応がない。また隣の部屋のインターホンを押す。反応がない。下の階へ。インターホンを押す。ようやく人がで出てきた。焦点の合わない目、重たい口で状況を伝えようとして──助けようとして、救急車。薬。死にそう。それと部屋番号。そんな単語をどうにか並べた。」
※ ※ ※
足が震えてきた。それが何に由来するものなのかは分からなかったが、とにかく身体が震えて震えて仕方がなかった。
「ぼくもう、帰ります。中間登校日にはちゃんと行きますから」
そう言って歩き出そうとしたぼくの頭の上に手が置かれた。その手はゆっくりとぼくの頭を撫で、そうしながら手の主がぼくの前に回り込んでくる。
頬のあたりまで移動した手の親指が、長い爪が当たらないよう慎重にぼくの目元を拭った。
とうとうぼくは膝から崩れ落ちた。先生に額を押し付けて泣いた。こんなに涙が溢れてくるのはいつぶりだろう。泣いているときに背中をさすってくれる人がいるのはいつぶりだろう。ぼくはただ先生に縋って泣いた。
少し懐かしいような感じがしたけれど、その人はぼくの知らない匂いをしていた。
その日、ぼくはぼくの中に弱々しく息づいていた彼女を殺した。
※ ※ ※
「部屋の住人に迎え入れられ、水を飲まされ、横にされ、そうしてサイレンの音が聞こえてきたあたりでぼくの意識は途絶えた。」
「ごぉー、という何かの音。視界の端には音の主であろうストーブがヤカンを乗せて鎮座していた。ぼくは目を閉じる。寝転がったまま硬いソファの上で身を捩って上を向き、また目を開く。目を覚ましたぼくを覗き込んでいたのは白衣の医者ではかった。そこにいたのは壮年の警官だった。」
「ぼくは補導されていた。」
「二〇二二年某日の出来事である。」
※ ※ ※
夏休み、なんて言ってみたところで部活はある。俺は今、部活を終えた部員たちと部室に屯っていた。みんな、コンクリート製の涼やかな部室を後にするのを惜しんでいる。
「彩雲さ、今日調子悪かったよな。体調大丈夫か?」
そう話しかけてきたのは二年生の先輩。彼は多少無茶なキラーパスを出してみても、強靭なフィジカルとヤケクソ染みた脚力を活かして拾ってくれるものだからとても頼もしい。正直、今度部活を辞めた三年よりも強かったのでは?とさえ思ってしまう程だ。
「熱中症じゃねぇの。俺口つけてないの一本あるけど要る?」
同期のロン毛がスポドリを勧めてきた。が、丁重にお断りした。悪い奴ではないのだろうが、遅刻も欠席も多いので俺はこいつが好きではない。
「あ、じゃあみんな塩分チャージ食います?俺袋で持ってきてますよ」
そう言ったのは坊主頭のクラスメイトだ。ロン毛の奴とは中学からの仲だそうで、よく揃って欠席する。そいつは手際よく全員に個包装の飴玉のようなそれを配り始めた。こちらは大人しく、一言感謝してそれを貰った。
「動き冴えないけど。悩みあるんなら聞くぜ」
先輩にそう言われてしまうほどだったのか、と思うと少し……いや、かなり凹んだ。高校の大会で会ったらあっさりぶっ潰してやるよ、と啖呵を切って、それはこっちのセリフだと返してきた、強豪校に入学していった昔の仲間にも申し訳ない気分だ。無論、一人でやるスポーツではないのだけれど。
「人間関係……っすかね」
失恋、なのだろうか。
告白して振られてというわけでは無いが。
負け惜しみのようではあるが、あれは俺の中だけで完結していたような気がしないでもない。……仮にそうならばどれだけ良かったことか!
「なんだ、振られたのか」とニヤニヤした顔でロン毛が話しかけてきた。そんなとこ。と俺が返すと、「あぁ、そういう」と先輩も納得したようだ。どうやら俺は振られたことになったらしい。
「今度飯でも奢ってやろうか」
先輩は哀れむような目でそう言った。どうやら俺は可哀想な後輩らしい。
「じゃあ、牛角の食べ放題の一番いいやつお願いします」
あまり期待しないで言ってみる。
「大きく出たなぁ、それなら今度の大会じゃあそれに相応しい活躍を期待してるぜ」
「え、先輩奢ってくれんすか!」
「あーズルいっすよ!俺も俺もぉ!」
「お前等はまず、きっちり顔を出すようになってからそういうことを言ってほしいんだがな」
先輩は苦笑いをして、ロン毛と坊主に言った。
「ウチは部員が少ないから、一年にも頑張ってもらわなぁ……」
部室の隅で別の部員たちと話していた、また別の先輩がそう零した。
そして帰り道。ある部員は家族の車へ、またあるものは駐輪場へ、そして俺は徒歩でバス停に向かった。
「あれ、先輩今日はバスなんすか。」
「親が夜勤で、さ」
「なるほど」
赤錆色の化粧をした、古びた椅子に腰掛ける。俺が座ると、それは虫の合唱の中にきしきしと嫌な音を混ぜて、また大人しくなった。
このいくつ居るかも知れないような虫も、番を見つけるために必死に鳴いているのだと思うと言い表しがたい心地になる。俺もさして変わらないのだ。きっと。
「一昨年の夏の大会のこと、覚えてるか」
「一昨年。なんかありましたっけ」
「覚えてないか。俺はあンときお前と戦ったんだよな」
菅原杯。俺たちの住んでいる地域で開催される中学生の大会だ。中学の時の俺は……というより「俺たち」は、この大会でなかなかいい線を行っていたりする。学校の二軍チームとして出場した二年のときも、表彰状はもらっている。一昨年というと丁度このときの話だ。
「びっくりしたよ。お前がもう強いのなんのって……」
「今の体たらくで、幻滅しましたか」
「まったくしていない、ってったらぁ……嘘だよなぁ」
そんなに買われていたのか、俺は。
「嬉しかったんだ。お前を入学式で見かけて勧誘しようと思ってたら、こっちから行く前に部室に来てくれたんだぜ」
それからしばらくこんな調子でおだてられていた。そろそろ俺は木に登ったほうがいいだろうかと思い始めた頃、バスが来た。
バスに乗ってからの先輩は、うって変わって静かになった。
俺たちが乗ってから二つ目のバス停で、女と男が降りていった。日光など生まれてこの方浴びたことが無いような、肌から鉄の匂いがする、絶望的に美しい容姿の二人組だった。
五つ目のバス停で、体格からして俺たちと同じくらいの少女が降りていった。大人びた雰囲気にはミスマッチな幼い目で横目に俺たちを眺め、降りていった。
バスにはドライバーと先輩、俺だけになった。
「俺は、お前が本気を出せば俺たちは全国の舞台も見られるような気がするよ」
「買いかぶりすぎっすよ、それ」
「俺は人を見る目だけはある。なんたって俺は、うちの顧問は恐ろしい悪魔のようなやつだって初見で見抜いたからな」
「ぷっ、それみんなわかりますって。だってもう、人相からしてヤクザのそれじゃないですか」
「お、ようやく笑ったな」
「あ……」
俺はすっかり腐っていた。中学のサッカー部の連中と一緒に強豪を受ける道を蹴って、身の丈に合わないような受験をして、あいつを追いかけて、勉強にはついていけないし、同期の部員はやる気はないし……。
「今度はさ、俺たちみんなで勝って、みんなで笑おう。負かした相手をたっぷり悔しがらせてやろう。坊主とロン毛も俺が焚き付けてやるよ」
失恋の喪失感もまた、俺の宝物には違いないけれど。
俺にはまだ、打ち込むべきことがあった。