ハレの日【後編】
〈敷島 美笠〉義妹。
〈深山 優依〉幼馴染。
〈彩雲 宗也〉友人。
〈桐島 榛名〉クラスメイト。
〈天城 雨〉 想い人。
〈敷島 綾人〉主人公。
私は懐かしい街を歩いていた。遠い土地の中学を卒業し、懐かしいあの人にまた会うために帰ってきた街。
こちらでの生活にも少しずつ慣れてきて、余裕もできて、学校もないこの時期。私がこの街にいた頃からある祭は今でも続いているようだった。
──アヤト、来てるかなぁ……
人混みの中に愛しい人を探す。きっと大人っぽくなっているだろうが、私ならこの目に捉えた瞬間にわかる。そんな確信があった。
しっとりした裏路地を抜けて、賑やかな大通りに出ると懐かしい顔の少女が私と同じくらいの年齢の少年に衝突していた。
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すっかり意気消沈した俺は、ぼんやりとアスファルトが流れていくのを眺めながらとぼとぼと歩いていた。
心が痛い。胸が痛い。だが不思議にすっきりとしていた。結局のところは自由が一番なのだ。俺の心は俺のものだ。
そう強がってみたところで胸は痛む。しかも胸の痛みは強くなっている。涙が引っ込んでしまうような痛みだ。
ずきずきと鳴る胸を抱いて進む。痛みはどんどん大きくなっていく。どうにか堪えて歩く俺は、鳩尾の一際大きな痛みとともに意識が裏返りかけた。
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今年は珍しく兄も予定があるようで、私は友達と街に繰り出していた。談笑を広げながら屋台を巡っていると、全身が栗立つような感覚を覚えた。
空気というか、雰囲気というか、そんなものを尽く脅かす不快なオーラ。
腰まで伸びた荒れた黒髪と、夢を見ているかのようなどろりとした目。深山優依。私の敵。
お兄ちゃんが桐島さんの話をしていたときに覚悟は決めたつもりでいたけれど、いざ相対すると心まで震える。最悪のシナリオを回避するためだ。お兄ちゃんを、桐島さんを殺させないために。私が彼女を止めなければならない。
この箱庭の登場人物ではない、私にしかできないことなのだから。
「あ、美笠ちゃん前っ!」
「ひぇ?」
決意を抱いた小さな体はあっさりと弾き飛ばされた。深山にではなく、よく鍛えられた男子にだったが。
その後のことはよく覚えていない。男子の手を借りて立ち上がったときには深山は見当たらなかった。私の友人たちにかなりの威嚇を受けたようで、男子は謝罪もそこそこに撃退された。少し可哀想。
結構かっこよかったなぁ……なんて考える余裕は全くなく、どうにかしてあの女を排除しなくてはとそればかり考えていた。
「ねぇねぇ、あの男財布落としてったよ」
「…………えっ?」
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帰宅した俺のズボンのポケットが妙に軽いと思ったら、小銭ばかり入った財布が無くなっていた。
小銭の他にも学生証やらレシートやらが入っているが、肝心なものはそれじゃない。
中学の時、彼女と仲が良かった──今思うとそれすら怪しいものだ──女友達がくれたプリクラ。それを学生証の裏というベタなところに御守り代わりとして仕込んでいた。気持ち悪いと自分でも思う。
ついさっきまでは大切な宝物だったはずの紙切れと思い出。無力感とやるせなさが混ざってうねり、全身から濁々と力が抜けていく。
俺は洗面所に向かった。薄っすらと水垢の付き始めた金属製のレバーを引き上げ、シャワーに火照った頭を突っ込む。
髪の隙間を冷水が走って汗と油、焦燥を攫っていく。それでも頭はクリアにならない。
言葉にもならない思いを削り出そうとするかのように頭を掻き毟った。傷がついた皮膚に水が入り込み、ぴりぴりとした痛みをもたらすようになると俺はシャワーを止めた。
ふと顔を上げると、しょぼくれた辛気臭い顔が目に写った。
──誰だよ、お前。
拳を固めてそいつを殴った。甲高い悲鳴を上げたガラスにヒビが入り、皮膚が裂けた。ある破片には澄んだ笑顔の俺が、あるものには泣き顔が、またある物には──
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この辺りから少し離れたところにある有名な寺の階段は、一段登るごとに煩悩が除かれていくらしい。
そんな物があったら千段近くある階段を登っていく間、頭の中を誰かに覗かれているようだし、煩悩を全て取り払ったら自分が自分ではなくなるようで怖い。
本能も残らないかもしれない。
ぼくは今、さして大きいわけでもない寂れた神社の階段を登っている。寺と神社とでは全く違うが、ぼくはヒトならざる存在の棲む場所特有の静けさ襲われていた。そんな平常ではない脳が記憶から引き出した情報はさして役に立たなかった。
小高い山の上、生い茂る針葉樹の影を映した石造りの階段は思いの外涼やかで、こんなときでなければじっくり空気に浸りながら登りたいがそうはいかない。
いっそ、足を滑らせてみようか。
ここまで来たんだ。成るようにしか成るまい。それに待ちぼうけさせちゃ可哀想だ。
橙と臙脂、紺碧のグラデーションに包まれながら石段を登る。
失せよ煩悩、消えよ邪念。色あって色は空なり、万法みな色あり、しかして空なり。
一段毎に上がらなくなる足の重りは、疲労か気負いか。
すっ、とポケットに手を入れる。痙攣する指先に小さな鉄の輪が当たった。前の女の人から貰ったものを持っていくのは桐島に失礼だろうが、ぼくにとっては大切な形のある想い出──しいては御守りだ。
これで最後だから。最後にもう一度、どうかぼくに力を貸してください。そう願った。
重い足を引きずって辿り着いた祭の主の社はひっそりと静まり返っていた。もしかしてぼくたちは非常に失礼な事をしているのではないか。顔を上げて目が合った彼女を見て、ぼくはそう思った。
今日の彼女は、普段は結わえている絹のような黒髪を下ろしていた。髪型というのはどうにも人の印象に強い影響を及ぼすようで、いつもとは違う姿に不覚にも胸が鳴った。ゆったりとした薄手のカーディガンを重ね着している様は羽衣を纒っているようで。夕日のスポットライトを浴びて鮮やかに舞うように、風に吹かれていた。
白状しよう。ぼくは今、彼女に見蕩れていた。
どちらから口を開けばいいのかも忘れたぼくたちは、しばらくそうして目を合わせたりそらしたりしていた。
いつもなら彼女が口を開き、ぼくが緩い相槌を打つ。ただそれだけのはずなのに。
「えっとー。こんにちわ?」
「こんばんわ…………?」
また、息が詰まる。息を止める。
「答え……出しに来た」
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「夢を見た」
『不明瞭な夢だった』
(確かな夢を見た)
[甘い夢だった]
「自分の隣に誰かがいてくれる夢だ」
『誰かが自分の心に触れる夢だ』
(自分が消えてしまう夢だ)
[ぼんやりとした輪郭を追う夢だ]
「並べた肩から温もりを感じた」
『ひんやりとした手は脳髄を掻き回した』
(どろりと溶け合ってしまいそうで)
[輪郭を掴んで捏ねて回して]
「何があってもそこに有ってくれて」
『全てが暴かれてしまいそうで』
(そうして一つになって)
[見えたのは美しい幻]
雨の降る朝に、夢から醒めたら。
──やっぱり、一人?
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「来て──くれたんだ」
「そりゃあ、ね」
沈黙。
蝉が水面に堕ちる音。
波紋。
「宗也に……話したよ」
「……全部?」
「──ごめん」
「そっ……かぁ…………」
──最低だ。自己満足でしか無い憐れみで、二人の人を傷つけた。
きっと、知られたくない話だったろうに。
きっと、知りたくもない話だったろうに。
「宗也は諦めたと思う」
ぼくは愚かだ。ただ舌の寂しさを潤すだけなら、大人しく弾除けでも人型使い捨て装甲板にでもなればいい。だがそれを、ぼくの心に刻まれた深い後悔は、断固としてそれを良しとしなかった。
ぼくは開き直ることにした。彼女にずぶずぶに入れ込んでしまう前に、彼女の気持ちをはっきりさせたかった。
どうしても必要なことだ。面倒だが、重かろうが、他の誰でもない。このぼく自身が納得するために、ただ自分の為のみに必要なのだ。
「それでも──ぼくは必要?」
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何を──言っているんだろう。
「必要に……決まってるじゃないっ…………」
喉を絞り、音を吐き出す。どうか届けと、どうか響けと願いながら。この世界でただ一人、私をわかってくれる人。私を否定しない人。
敷島なら私をわかってくれる。
だからは私が敷島をわかってあげる。
だから、だから私と一緒にいなければならない。
そんな簡単で大切なことのはずなのに、今は敷島のことがわからない。見えない。ぼやけてそのままフェードアウトしてしまいそうで。
「──ありがとう」
そう言って敷島は初めて私に笑顔を見せた。笑顔と呼ぶにはどうにも表情筋の動きのない、そんな程度の微笑みのようなものだったが、私を焦がすには十分な力を持っていた。
その瞬間、これまでの間に長いこと視界を鬱いでいた霧が光芒に曝され、晴れていくのを確かにこの胸は感じた。
私のことを受け入れてくれて。ただ、そこに居てくれる。なのに、それ以上を求めてしまった私に『ありがとう』、と。
「でも、ぼくはなにも持っていない」「この身一つぐらいしか上げられない」「ぼくは本当にたいした奴じゃないんだよ」
「教えてよ」
ぼくには何ができる?
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「さしあたっては……一緒に屋台回るとか?」
「そんなんでいいの?」
「そんなんでいいんだよ」
なんとも言葉にしがたい感覚に襲われる。語り部としては敗北宣言に等しい。
「一緒に帰ったりさ」「なにも特別じゃないこと、いっぱいやろうよ」
「…………」
「私は、それでも満足だよ」
「……いや、でも──」
「逆に──私じゃ駄目なの?」
むんず、と桐島はぼくの手を取った。
「なんとか言ってよ」
「嬉しい……んだけど」
「けど?」
「本当に……ぼくで……いいのかなって……」
桐島の、肺の中の空気を全て吐き出すかのような大きな溜息。肩身が狭い。
「誰でもいいのかもしれないけど、私が選んだのは敷島だもの」
「なんで、なんでぼくなの?」
違う。嫌なわけじゃない。嫌なわけがない。むしろ嬉しいのだ。だがぼくが──こんなやつがいい思いをしていいのかと、そればかりを考えてしまう。
「好きみたい、だから?」
言われてしまった。これを待っていたような、聞きたくなかったような。苦虫を噛み潰し、食いしばった目を開ける。
「ほら、いこ?ぜーんぶ売り切れちゃうよ」
そう言って彼女は翼を羽撃かせるように上着を羽織った。繊維がきらりと輝いてぼくを灼く。
「何ができる?ってさっき聞いたでしょ、ひとまず私とデートぐらいしてよ」
そのために誘ったんだから、と彼女は零した。
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その後、半ば強引に私が敷島を引っ張る形で社を出た。最初のうちはお互いガチガチに固まっていたと思う。だが、いくつか出店を回るうちに口が潤ってきたようで普段通りには話せるようになってきた。
楽しかった。親のこと、勉強のこと、未来のこと。全部を置いて、好きな男の子と祭の熱気に魘される。きっと、今この瞬間だけは私達もどこにでもいる男女に見えただろう。
ちょっと丈の長い服を着て、ちょっと先のことが不安なで、たまに病んでしまう。ただ、それだけ。
甘味と塩味のループに嵌り、財布をすっかり軽くしてしまった私達は少し小高くなった丘の上の公園にいた。
敷島がずず、と最後に残ったタピオカと紅茶を吸い上げた。私も半分貰った。間接キスというものだろうに敷島の反応は薄かった。少しばかり──いや、かなり悔しい。
「あー、楽しかったぁ」
「なら……よかった」
「ね、敷島は……どうだった。その……しんどくなかった?」
「大丈夫。ぼくも楽しかったと思う」
「はは、なにそれ」
私が手首を掴む形で引っ張っていた手も自然に指が絡み合っていた。
ふと時計を見ると、もういい時間だ。そろそろ……そろそろ来るはず。
「敷島、上の方見てみて」
「……あんま出てないね、星」
「違うって」
敷島は首を傾げた。私は時計と記憶を照らし合わせ、やはり首を傾げた。
天気が良ければ天体ショーも見えたかも知れないと思うと少し残念。
「あ、一番星」
「えっ、どこどこ」
「ほら、あれ──」
敷島が指を指した方向を見上げると──
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ぼくの見つけた、今にも消えてしまいそうな弱々しい光を放つ小さな星は轟音と白煙に掻き消された。ずぅぅぅん、ずぅぅぅん、という腹に響く音を鳴らして夜空に花が咲く。それに続くように、ちりちりと金属片が艶やかに尾を引いて輝き、消える。
桐島の目が煌めいて見えるのは反射か高揚か……あるいはその両方。
ベタなシチュエーションだ。きっと、たった今桐島の口をぱくぱくさせている言葉をもう一度聞かせて欲しいと頼んだところで教えてはくれないだろう。きっとぼくの呟きも消えていく。
「まぁ……いいか」
これはこれで、悪くない。
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破裂音の合間に、ぱらぱらという音が聞こえ始めたかと思うと空はいっぺんに機嫌を悪くした。潮時だろうか。
結局あの後は深山を見つけることは叶わなかった。そして財布の主も。
あまり褒められたことではないけれど、財布の中を確認したときに見つけた学生証に、兄の学校の校章を認めた。恐らく同じ学校だろう。そんなこともあって財布は私が預かることにした。ネコババしないでよー、とみんなは笑った。警察を信用できるような人生を──たった十数年だが……歩んではいない。
自分がしっかりしないと。
雨の予報もあったので、花火見物もそこそこに解散した友達はそれぞれ家に向かった。自分も兄と合流して帰ろうかと思い、あまり期待せずに帰り道に向かう。
雨が折りたたみ式の華奢な傘を轟々と叩いている。少し身体が冷えてきた。早く帰らないと。
水を跳ね飛ばしながら小走りで進む。滑りそうになりながら見慣れた角を曲がると、そこには深山がいた。そしてその目の先には──
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EDで走る作品は名作だという。今回語る部分はそろそろ終いで、ぼくたちは今走っている。
急に降り始めた雨から逃げるように。
「雨止むまで……うち来る?」
「えっ」
気付いた時には遅かった。抵抗虚しくぼくは持ち帰られた。
知らない家の、知らない玄関。見慣れたクラスメイトの、知らない顔。
どうなんだ、これ。流石に不味いんじゃないのか。貞操観念が緩いのか警戒心が緩いのか。
「あはは、敷島びっしょびしょ」
外では常に張り巡らせている壁が消えているように思えた。きっとここは彼女にとって安心できる……というより安心していい場所なのだろう。そんな聖域にぼくのような異物が入り込んで良かったのだろうか。
リビングに通されて、柔らかいタオルを渡された。微かに柔軟剤の香りがする。彼女は長い髪を丁寧に絞るように撫でる。それに倣うようにぼくも髪を拭く。
「……服、透けてるよ」
「……えっち」
「バカ」
ぼくは明後日の方向を向いてだんまりを決め込むことにした。この光景を、喉から手が出る程見つかった奴は他にいるだろうに。ささやかな優越感と、その代償には重い罪の意識。
「へくちっ」
控えめなくしゃみが静かに響く。桐島をみると小刻みに揺れている。寒そうだ。
「シャワー浴びてきていい……?」
「……どうぞ?」
このタイミングで桐島の家族が帰ってきたらまずいことになりそうなものだが、流石に男を連れ込むのにそのあたりを警戒していないことは無いだろう。
軽やかに走っていく彼女を見送り、タオルを頭から被った。あまり短い方ではない髪も乾き始めている。初めての場所なのに、妙に落ち着くのは子守唄のような雨音のせいだろうか。
シャワーということで全く動じなかったわけではないが、ここで跳ねのけられないほど胆力が無い……なんてことにはならないことを祈る。
これで良かったんだろうか。寂しさを埋めたい。あの人を忘れたくない。そんな思いが身を削りながら戰っている。そんな状態で嵌っていくのはいいのだろうか。迷い込んでしまえばキリがない。
後を追いかけてしまおうか。何度そう思ったか知れない。一人で生きる世界に色は無かった。
もう一度。もう一度。
もう辞めよう。諦めよう。
死ぬに死ねず。生きるに生きれない。惰性と慣性でだらだらと進む。
ぼくは変われるのだろうか。
答えは無かった。それを知りうるのは未来の自分だけだから。
…………。面倒くさい。
今は考えるのを辞めてしまおう。
雨音も弱まってきた。ゲリラ豪雨だったのだろう。彼女が戻ってきたら帰らせて貰おう。あまり長居するのも気が引ける。
少しだけ体温を取り戻したぼくを薄っすらとした微睡みが襲った。
浮遊感と倦怠感。雨に打たれながら走ったのだ。体力を奪われないわけが無い。ぼくが意識を手放そうとしたその瞬間。
がちゃり、と鍵の開く音がした。
どうやら禄に警戒していなかったようだ。
なんとなく目安にしていた月一投稿がしっかりと崩れて悲しいHKです。
忙しいって嫌ですね。
ですが退屈でも自分は死んでしまいます。