ハレの日【前編】
〈登場人物〉
敷島 美笠 妹。
敷島 綾人 主人公。
深山 優依 幼馴染。
彩雲 宗也 クラスメイト。
桐島 榛名 クラスメイト。
天城 楓香 担任。
天城 雨 故人。
朝起きた私が、いい匂いにつられてリビングに行くと、お兄ちゃんが酷く窶れた顔をしていた。こんな顔をしているときは大抵切った後だ。
「おはよーございます。」
「……おはよう…………」
いつにも増して覇気がない。鬱々とした空気がお兄ちゃんの周りから漂っている。こんな家だけれど、お兄ちゃんが一緒に笑っていてくれればそこまで悪いところじゃない。住めば都、というわけだ。私達を殴る人も最近はめっきり家に顔を出さないし。
私とお父さんがこの家に来てからお兄ちゃんにはずっと良くしてもらったし、気も合った。血の繋がりがある母息子、あるいは父娘よりもお互いをわかっているという自信もある。
「傷の処置はちゃんとしましたか?」
「…………一応。」
「なにがあったかは、聞かないほうがいいんでしょうか。」
「んー。まぁ、うん」
こうなってしまうとお兄ちゃんは中々口を割らない。深く踏み込まないほうがいいということはわかっている。子供じゃないから。
それでも踏み込まずにはいられない。子供だから。
トースターのじじじ、という音だけが耳障りだ。
目は合わせてくれないけれど、顔を覗き込んでみる。
「当てましょうか。」
「何を」
「お兄の悩みのタネをです」
「わかるのか。」
もう一緒に暮らした期間のほうが長いくらいだ。それに、私は人の悩み、愚痴、陰口、そういったものを聞くのは慣れている。社交的なのだ。私は。
この顔ならずばり──
「恋愛関係でしょう」
「んー。恋煩いってわけじゃあないけどねぇ」
「あれ、あたし間違えちゃいました?」
「大体合ってるよ」
暗い顔でも口調だけはいつものように答えてくれる。痛ましい。
お兄ちゃんはぼんやりとした表情で床を見つめている。
すぅっ、とお兄ちゃんの座る椅子の前に滑り込み、膝に飛び込む。するとお兄ちゃんも腕を回して背中を撫でてくれる。私はこの時間が好きだ。心も体も芯から暖まる、私の大切な居場所。
「付き合って欲しいって、言われたんだ」
ちん、と音がなってトースターが止まった。
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「それで『恋煩いではない』と。」
可愛い可愛い妹は言った。年頃だし、きっとこの手の話には興味津々なのだろう。
「面白い話じゃないよ?」
「聞きます。」
うん、食い気味だ。ぼくは語り部らしく、語り始めた。付き合って欲しいと言われた事。それは男避けの為である事。まだ自分は「雨」を忘れられない事。
美笠は暫く考えた後、「その人、多分お兄のこと好きですよ。」と言った。
「そうかなぁ。好きになる要素あるか、ぼく」
「話を聞く限り、今までよほど理解を得られなかった人なんだろうなと。」そしてそれをくれるかもしれない人──つまりは似たような空気を感じたお兄に惹かれた、みたいなところでしょうかね。理解ある優しい彼くん……みたいな。」
なんでそんなに解像度高いんだ。というか男避けだって言われちゃってるんですよ美笠さん。
「でも少しも『いいなー』って思わない人にそんなこと言わないですよー。少なくとも私はそうです。」
それにお兄ちゃんはそろそろ雨さん以外にも目を向けるべきなのです、と耳の痛い台詞が続いた。
「そうでなければ何かの罰ゲームとか。」
「あぁ、そういう。」
「そこから始まるラブコメだってあるじゃないですか。あとえっちな漫画」
「どこでそんなもん見るんだよ」
「友達の部屋のベットの下」
「男じゃないだろうな」
「私、百合かもしれませんよ?」
「そういうことじゃなくてだなぁ……」
「あー、LGBTの配慮がないお兄ちゃんがいて苦労するなー。」
「……悪かったな」
美笠はぼくの両頬をてで挟むとにぃっと笑った。
「ツッコミ担当のほうが元気そうですね」
「ぼくはちょっとばかし疲れたよ……」
「さて、お兄ちゃん。お兄ちゃんにとって大事な思い出なのはわかります。でも、私は前を向いて欲しいんです。」
ぼくの妹は、ぼくには眩しすぎる程に真っ直ぐだ。つくづく血の繋がりがなくてよかった。一体全体どうやったらあの男からこの子が生まれるんだ。
うまく誤魔化されたような気もするがまぁいいだろう。
「どうせお兄のことだから、どうにか助けてあげたいなぁなんて、自惚れているのでしょう?身の程を弁えてついでにお兄も救われてしまえばいいのです。」
それでもお兄の一番近くにいられるのは私なんですけどねと、妹は悪戯っぽく笑った。
「それ共依存とか言うんじゃないのかな」
「ヒトなんてそんなもんですよ」
「そうかな」
「そうなんです。」
少し顔を上げてみると、胸にうずまっていた妹の顔も上がった。丁度目と目が合う。
依存。助け合ってとか、支え合ってとか、なにか他に言いようはないものか。互いが互いにとってなくてはならない者であることならば、もしも失ってしまったらぼくはどうすればいいんだろう。
「捕らぬ狸の皮算用」「そういうことは手に入れてからうじうじ考えればいいんです」
「それもそうだねぇ」
もう一度腕を回して頭を撫でてやると、美笠は心地よさそうに目を細めた。
「もう少し、自分で考えてみるよ」
よろしい、とでも言いたげに妹は頷いた。
「ところで、なんて名前なんです?その人」
「植物の桐に島、榛名山のハルナで桐島 榛名」
妹の肩がぴくん、と跳ねる。
「知り合い?」
「いえ……なんでもないです。それより早く食べましょ。私、お腹ペコペコです。」
確かにそうだ。今朝起きた頃には黙っていた胃袋が空腹を訴えている。飢え死にしたら悩むこともできない。
「「いただきます」」
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腹は満たした。眠気も醒めた。思う存分悩もう。
美笠の考察を鵜呑みにするなら、彼女が欲しいのは弾除けではなく理解者。果たしてぼくにそれが出来るのか。言ってしまえば共通項が一つあるだけなのだ。彼女はぼくの知らない人生を歩んできたのだろうし、ぼくは彼女が知らない道を通ってきたつもりだ。
全部を全部理解して受け止めようなんてぼくにはきっとできないだろう。一欠片の共感ぐらいなら、こんなぼくにも或いは──。
悩むべき事はまだまだある。ぼくは桐島も彩雲も、とてもじゃないが「よく知っている」なんて言えない。これはその二人の問題じゃないのか。ぼくが入っていっていいのだろうか。
ぼくは悩みに悩んだ。何度も何度も、堂々巡りになりながら考えた。その間、桐島と少しだけ話をした。彩雲に好意を寄せられていることに嫉妬している人達にいじめられてた、なんて話を聞いたときには心底人は恐ろしいと思った。
なんでぼくが。なんで。お前は今まさに、同じことを他の人間にしようとしているというのに。
そうこうしている内に、約束の日は明日。ぼくは心を決めた。腹を括った。
「明日、大事な話がある」
送ったメッセージには、間を置かずに既読はついた。しかし返事はなかった。
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『境内の裏』
『あそこなら人少ないから』
『そこで待ってる』
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ひぐらしがメインボーカルを務める夕暮れ時、ぼくは家を出た。妹は友人たちと回るようで、ひと足先に出発した。
白状しよう。ぼくは少しだけ、ほんの少しだけ浮ついていた。一回だけ父さんと来たっけ。どんな顔だったかな──。頭に浮かぶのは肩車から見た景色と大きな手。顔はどうにも思い浮かばなかった。
「あ」
「お……よぉ。」
彩雲がいた。寄りにもよって、一番嫌な奴に会った。
「……んな化物でも見たような顔すんなよ」
傷つくじゃん、と彩雲は笑った。そうだよ。住む世界が違いすぎるとバケモンに見えんだよ一軍。
「なんか、用?」
「あぁ、友達と祭り行こうかなって」
「……なるほど。」
「お前も行くのか?」
「悪いかよ……」
「そういうわけじゃねぇけどよ。意外だなって」
「お一人様?」
「桐島が──いる。」
へぇ、と彩雲は続ける。何かを見透かそうとするように、何かを探すかのように。
「ちょうどいいや。お前、榛名とどんな関係?」
「友達だよ……多分」
「なんだそれ。」
少し拍子抜けしたような顔で彩雲は歩き始めた。ぼくも歩き始めた。
「俺、さ。あいつの事、好きなんだ。」
「ふぅん……」
「もう長いこと、片思いしてる。」
「…………」
「だから、お前が憎い。」
何も、返せなかった。何かが喉から出かかって、飲み込まれた。
「俺なんて露骨に避けられるから最近は二人だけで話したことは疎か、あんな近間まで入らせてもらったこともないね。」
「…………」
「いろんな奴が言い触らしたからあいつも知ってるかもだけど、榛名とお前が会う前に伝えればよかったって思ってる。」
「…………」
「本当嫌になるぜ。中学で一緒にサッカーやってた連中も、最後の大会で皆で取った写真じゃなくて彼女とのツーショットばっかりプロフに貼ってくんだぜ?」
「ごめん……なさい…………」
「おう、ありがとな。お前は悪くないけど。」
ぼくは完全に竦み上がっていた。いざ顔を合わせてみると、弁明も嘘も真実も、何一つ言葉にならなかった。
「俺は別にお前に寝取られたなんて思っちゃいないんだぜ」「ただ、嫌われてんのかなぁって。なんか嫌なことしちまったのかなぁって。」
「あるもんか、そんなこと」
「いいんだぜ、気ィ遣わなくても……」
「彩雲は……彩雲は悪くないんだ」「全部、話すよ」
ぼくは大事な人の真意を知ることさえできずに失った。そして今のぼくは、誰かの大事な人の心をほんの少しだけ知っているかもしれない。このときのぼくにはこの可哀想な人を──尤も、憐れまれることを宗也は嫌がっていただろうが、放っておけなかった。
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なるほど、とすんなり納得できるほど俺は物分かりがよくなかった。否、頭は理解していた。心は追いついてこなかったが。
「それに、嘘だろ……あいついじめられてたって、そんな」
「桐島が重度の虚言癖じゃない限り、そうだと思う」
「っ……!」
情緒がおかしくなりそうだ。おかしくなりそうな俺の横で、パズルは出来上がっていく。
「なんなんだよ……訳わかんねぇ…………」
「……わかんないよ。他の人の腹づもりなんて」
「違いねぇ」
それでも、だ。
「それでも、お前はあいつを受け入れようってんだろ?」
「痛々しいんだよね……放っておけないってかさ」
「どっちの意味だよ、それ」
最悪だ。この世界は俺に恨みでもあるのか。折角昔の友達と会おうと言うのに、こんな調子じゃあ目も合わせられそうにない。
周りはどんどん賑やかに、華やかになっていく。今すぐこの場に隕石でも降ってこねぇかな。
「そっかぁ……」
「…………」
「何を見てたんだろうな、俺は。」
「……夢か…………幻か」
「やっぱ酷ぇな、お前。」
俺は、榛名の何を好きになったのだろう。何に焦がれたのだろう。何を愛おしいと思ったのだろう。俺は──榛名の何を知っていた?
ずっと、追いかけてた。夢を──幻を?そうでもしないと、今までが全部無駄になるような気がしていた。
もう、俺の片思いは引き時なのかもしれない。
「なんつーか……ありがとうな」
「ぼくも、話せてよかった」
「まぁ、そのぉ……なんだ。お幸せに、でいいのか?」
「……ありがとう、彩雲」
「水臭ぇな。宗也でいいぜ」
「ありがとう、宗也」
「おうよ」
このときには旧交を温めてわいわいやろうなんて気はどこかへ消えていた。いつからか心を蝕んでいた虚無が一気に広がったかのようだ。もう今日は帰ろう。ドタキャンして冷たい炭酸水を飲んで、冷たいシャワーを浴びて、エアコンをガンガンに効かせて寝よう。
「なぁ、敷島。」
焼け付いた灰のような喉から声を絞り出す。敗北者にできることはほんのささやかな祝福と妬みの表明。
「泣かせたら、お前が泣くまで殴るからな。だから……泣かせんなよ」
「……殺し文句だね。」
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髪を丁寧に櫛で梳かす。お気に入りの服を何着か並べてしばし睨み合う。
あんまり派手過ぎたり、あざとすぎたりして引かれるのも嫌だ。ここはなるべくシンプルに決めるべきだろうか。
「……これかなぁ」
すっと髪を後ろに束ねて、今度はお下がりのドレッサーと睨み合う。うっすらとファンデーションを塗り、アイシャドウを乗せ、口紅をつける。そして、しばし鏡を睨んで微調整。ヘアゴムを外し、姿見の前でくるりと回る。
「よし、可愛い」
今日の私は最強だ。
──ホントウに?
大丈夫。きっと大丈夫。
──なにが?
ちゃんと、言えるはずだ。
──言ってどうなるの?
ドレッサーの鏡に、あの日学校に忘れたポーチが写った。あれがなければ二人で話すことなどなかっただろう。そういえば最近は薬にも刃物にもお世話になっていない。
(いってきまぁす)
私は無言で家を出た。あとは通知を切ってしまえば親はいないも同然だ。
OKを貰ったらなんと言おう。どう喜びを表そう。
いや、浮かれすぎだろ私。
あくまでも「彼氏のフリして欲しい」って言っただけだし。顔が紅くなっていくのが自分でもわかる。
「あ」
「お……桐島ちゃん。」
担任がいた。気合の入った和装と化粧。まさに大人の女性、といった趣きだ。
「こんにちは」
「先生、かわいい」
「そーお?褒めてもなんにも出ないよ。」
くるりと回って着物を見せて自慢気にはにかむ姿は、彼女が私達とそう齢の違わない若者だと思い出させた。
先生もお洒落をしているということは誰かに会うのだろうか。この姿が、誰か他の男に向けられていると知ってしまったら荒ぶるクラスメイトは少なくないだろう。
「そういう桐島ちゃんも気合い入ってるじゃない。かわいーよー」
「えへへへ」
「デート?」
「ふえっ!?」
「図星なのね……」
「……知りませんッ!」
敷島はどう思っているんだろう。ふと目をやると、中々頼りになりそうな──それでいて話しやすそうなちょうどいい人がそこにいた。
「ねぇ、先生は……私の味方?」
「んー。そうありたいと思っているよ」
「私は……誰かを好きになってもいいのかな」
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「ちょぉっち意味わかんないんだけど……どういうこと?」
「私、変なの。敷島といるとどうにかなっちゃいそうで。」「自分が自分じゃないように感じるっていうか──」
そっと触れただけで壊れて消えてしまいそうな宝物を、ひっそりと自慢するように。それでいて深刻そうな顔で彼女は言った。
「でも漫画とかで読むようなとも違う感じで……」
少女漫画ときた。大人びた風貌と、整った容姿からは想像もつかない初心さだ。笑いが溢れるのを少女は見逃さなかった。
「くだらないよね」
「そんなこと……」
「くだらないくだらない」
「くだらないくだらないくだらないくだらない」
そして、笑った。
「今の私にはとても大事なことだし、ちゃんと──ちゃんとやらなくちゃ絶対後悔する。でもいつか……これも『思い出』になっちゃうのは──」
「──悲しいね。」
私が言葉の続きを奪うと彼女は驚いたような顔をした。私はこの言葉を聞いたことがある。私の、妹の言葉だ。
「そう……ですね」
「そうだなぁ……『好きになっていいか』なんて悩むぐらいなら、もう好きになっちゃってると思うよ」
「…………」
「中学の先生から聞いてるよ。あなたがどんなに自分のことを嫌いでも、周りの人がそれを良しとしなくても。それは誰かを大事に思うことには関係ない……ってな感じで──説教臭かったかな」
いつか、妹に言われた。その時の私はなにをくだらないことをと、一笑に付した。雨がこの世を去ったのはその後のこと。
見れば見るほど、話せば──離せば?放すほど、彼女は雨に似ている。
「つまり、私は可愛い可愛い生徒を応援するってこと」
私は嘘をついた。生徒だからではない。きっと、妹に重ねてしまっている。そのことに若干の良心の呵責を覚えた。
「じゃあ先生、敷島といちゃいちゃしたいっていうのもふつうのこと?」
「そりゃそうよ」
「じゃあ他の女と口を効いてほしくないのも?」
「うんうん」
「私の全部を知って欲しいし、敷島のことを全部欲しいのも?」
「うんう……ん?」
「死ぬときは一緒がいいのも?」
「そう……だね…………?」
重たいよ桐島ちゃん。ものすごく重たいよ桐島ちゃん。これ以上ないぐらいに恋しちゃってるよ。
「幸せ者だね、敷島は」
「そうかな……」
そっぽを向いた彼女の耳が赤くなるのを、私は見逃さなかった。なんだか甘酸っぱくて、こっちまで足が浮き立ってくる。
「じゃあ、楽しんでおいで」
「うん……!」
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踵を返した俺は静かな方へ、静かな方へと向かっていた。今日は誰とも会いたくなかった。下を向いて、流れていくアスファルトをただただ眺めていた。
※ ※ ※
悲しい、というよりは喪失感が強かった。自分を支えていた柱が一つ、欠けてしまったかのようだ。
※ ※ ※
空っぽになって歩いていると、突然腹に──細かく言うならば鳩尾に激痛が走った。
「あ゛ぁ゛っ…………がぁ゛」
「いったぁ〜ッ!」
俺が顔を上げると、そこにはツインテールを揺らす中学生くらいの少女と、彼女に駆け寄っていく友人たちがいた。後で知ったことだが、この少女は綾人の義妹だったらしい。
そしてこれもまた後で知ったことだが、俺達の運命を大きく狂わせた人間も、ここにいたそうだ。
これにて主要メンバーは一人を除き、出揃いました。長い長いプロローグも、次でおしまいの予定です。
最初の方を読み返してみると実に説教臭くエンタメ性に欠けているという印象を受け、ここから読んでも話が理解できるように少し頑張って書きました。
どうか、どうか完結までお付き合いください。
それでは皆々様、良いお年を。