毒
忘れ物
〈敷島の場合〉3つで百円のカバー付き剃刀一つ、軟膏、安い包帯。
〈桐島の場合〉百均の瓶に入った金パブとカッターナイフ、中学の友人とのプリクラ、軟膏、ちょっといい包帯。
忘れ物に気づいた私が学校に戻る道には、隣の席の彼がいた。一学期の間、彼とは席が隣だった事もあってそれなりに会話はしていた。彼は不思議な人だ。端的に言うならば、どこにも属していない。彼が特定の誰かとつるむというのを見たことがない。部活にも入っていなければクラスラインでも浮上しない。かと言って全く誰とも関わらないというわけでもなかった。
私はクラスの中からはみ出さないように、居場所を作る為に──自分の存在を認めてもらう為に、私は愛想を振りまく。無難に。無様に。無惨に。私はこんなことをする自分が嫌いだ。でも可愛いのも自分だ。笑みの張り付いた面を付け、普通を演じ、社会生活を営んでいる自分が可哀想で愛おしい。さっさと死んでしまえ。
私は彼の生き方が羨ましかったのかもしれない。淡々と、黙々と。誰のことも顧みず、誰にも顧みられず。こんなに楽に生きてもいいんだ、と彼に言われているような気がした。だが、そう単純には行かないことは私がよく知っている。ある程度のグループに属することでクラス内での地位は保証される。
優先的に物事を選ぶ権利。
好きな異性を宣言し、アプローチする権利。
周りを気にせず、仲間内で笑い声を上げる権利。
グループに属さない、つまりは自分達が必死にしがみつく枠を、身を守る砦を否定した者を攻撃する権利。
その一切を、私は望んではいない。
私は彼を追いかけ、声を掛ける。
ねぇ、敷島。あなたも忘れ物?
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それから私達は連れ立って学校へ向かった。男子と肩を並べて歩くのは久しぶりのことだった。
少しの気まずさと、仲間を見つけた安心感があった。今思えば彼はそんなふうに思ってくれていた訳ではなかったのかもしれない。
ほんの少し、話をした。自傷のきっかけを少しづつ吐き出した。彼は何も言わなかった。自分の生い立ちを話した。彼は何も言わなかった。忘れ物の中身を彼に話した。彼は何も言なかった。リストカットの後処理について話した。彼は何も言わなかった。
誰にも話したことのない話を、彼はただ聞いていた。相槌はないが、彼は確かに耳を傾けてくれていた。
校門に辿り着く少し前、彼はようやっと口を開いた。
「お先にどうぞ。」
最初は意味がわからなかった。
「ぼくみたいなのと居て、勘違いされても嫌だろ。」
普段の私なら「勘違いさせておけばいいじゃん」と答えたはずだ。それに彼ならいいかもしれないとその時は思っていた。だが、それ以上に彼との間にある壁を感じた。
じゃあ、先に行くね。
少しの寂しさを抱えて私は校舎に向かった。
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彼女が昇降口に吸い込まれていくのを確認し、ぼくはしばらく時間を潰すことにした。
彼女を先に行かせて正解だった。同種の匂いがしたが、ぼくの鼻は曲がっていたようだ。彼女の自傷はぼくの自傷とは全く違うものだ。ぼくの八つ当たりのような傷跡と違い、彼女の傷は浅く清潔だ。少なくとも怨み辛みを自分にぶつけている傷ではない。もっと静かでおとなしいものだ。穏やかとはとても言えないが。
「お、敷島少年。この炎天下で何やってんのさ。」
ぼくが顔を上げるとそこには煙草を蒸した担任がいた。前言撤回。さっさと中に入ってりゃよかった。
彼女は天城。新米の教師特有の熱でぼくのような人間によく絡んでくる。そんなことをしても給料は上がらないのに。絡まれる方の気持ちくらい考えろ。というかなんで校門のすぐ側で煙草吸ってんだよ。なにやってんですかあなたは。
「ふふん、校門から出ちまえばあたしはオフだもん」
こんな大人にはなるまい。生きていればの事だがこうはなりたくない。というかいい年したレディーが「だもん」とか言うなよ。
「ねーねー、今の桐島ちゃんでしょ?なに〜付き合ってんの?」
無視したい。忘れ物なんて放っておいて今すぐ回れ右して全力疾走したい。だがここは彼女の名誉のためにも弁明するべきだ。
違いますよ。そもそも桐島とぼくとじゃ住む世界からして違いますから。それにあいつのことを好きな奴なんて他にいくらでもいますから。ぼくと桐島が付き合っているなんてことはありえません。
「すっごい早口じゃーん!なになに図星〜?」
我らが担任教師は、とても楽しそうな笑みで言った。ぼくの舌は見事な活躍を見せ、誤解は見事に深まった。普段からコミュニケーション能力を磨いてこなかったツケを今、払っている。嗚呼、苛つく。
あの、先生。ぼくも忘れ物を取って可及的かつ速やかに帰宅したいんですよ。というわけでさようなら。よい夏休みを。
桐島、ごめん。やっぱこの人苦手だわ。
「青春だねぇ〜。頑張れよ、しょーねん!」
そもそもぼくは彼女のことを見てはいない。重ね合わせたいつかのあの人を見ている。墓場まで持っていきたい話だ。上機嫌で愛車に乗り込む担任を尻目に、ぼくはさっさと校舎に駆け込んだ。
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青い春を駆け抜ける教え子を見送った私は、冷えたビールが待つ我が家へ車を走らせる。普段は発泡酒だがこんな日ぐらいはいいだろう。今日この日に限り、一切の残業、部活を禁じさっさと家に帰らせてくれる校長に感謝を捧げつつマンションの階段を駆け上り、愛しのワンルームのドアを開ける。
たっだいまー。
誰からも返事はない。私はチャチな冷蔵庫からビールを2つ取り出し、帰り道のスーパーマーケットで購入した刺身が乗ったトレーを折りたたみ式の机に載せた。ビールのうちの一本は小さな写真立ての前に置いた。
あるのかないのかわからない夏休みと少年少女の未来に乾杯。
写真立てに入った妹は「乾杯」の声を返すことはなかった。私は言葉を続ける。
敷島は立派にやってるよ。あんたのこともその内忘れちゃうかもねー。年下に妬いちゃだめだぞ妹よ。
そんな独り言を吐き、普段よりは上等な酒に呑まれる。
あんたも見たかった……?死んじゃうのが悪いんだよ…………。
どろりとした暑さは少しずつエアコンに流されていく。空っぽになったスチロールの隣の醤油皿は魚の脂が浮いていた。
妹。
私の、妹。
私が姉でなければ。
私さえ、いなければ。
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……………………………………。
四本目のビールを開けた後のことは覚えていない。
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校内の廊下を進むぼくの前に、忘れ物を回収したであろう桐島が現れた。手には何故かぼくが忘れた小さな手提げが入っていた。桐島はなかなかその手提げをぼくに渡してくれなかった。人質のようなものだろうと自分を納得させ、ぼくは彼女の横について行く。校門を出ると桐島は言った。
「ね、今週の土日って……空いてる、かな……?部活は入ってなかった……よね?」
天城とのやり取りで虫の居所がよろしくないぼくは、外部かもしれないだろうと嫌味を言った。彼女は申し訳なさそうにして「そっかぁー。外部ならしょうがないね。忘れて!」と言う。ぼくが悪いのに沈む桐島を見てこちらが申し訳なくなってきた。天城許さねぇ。……酷い八つ当たりだ。
ごめんごめん、空いてるよ。ぼくが悪かったからそんな顔すんな。彼女の顔は少しばかり明るくなった。小説の受け売りだが女子は笑うと三割増しで可愛くなる、というのは本当のことかもしれない。
「土日に花火大会あるじゃん。女子は私入れて三人なんだけどさ、男子が二人なの。敷島にも来てほしいなぁーって。」
大体そんなところだろうとは思っていたがまぁ、これもなにかの縁だろう。
わかった。行くよ。
「勘違いしないでよね。ただの数合わせだから」
彼女は本気なのか照れ隠しなのかわからないような顔で言った。
少しぐらいいい夢見たっていいですよね。
その後落ちていく場所を探すとより深くなっているのです。