着信拒否
実際にホラーな存在がいたら怖いと思いますけど、作り話だったら現実の方が怖いと思います。
18時定時。
日本人の多くがこの定時というやつを守らない。狂ってやがる。
俺は守るぜ、定時ってやつを。
戦闘開始のゴングが鳴る。俺の机はすっかり綺麗だ。鞄の中に荷物も詰めたぜ。さぁ、あとは……。
作業を続ける部下や上司たち、その目を盗んで逃げるのだ。まずはアラームでバイブする携帯を取り出し、アラームを止めて耳に当てる。颯爽と鞄を手に取り、片手に資料を持ち、そして小走りで職場を後にする。
おっと、タイムカードを押さないとな。厄介なのは、こいつがオフィスの壁面、掲示物のない場所に保管されていることだ。手を伸ばせばあからさまに目立つ。俺は横目で課長の不在を確認し、係長と先輩の視線に気を配り、するりとタイムカードを取り上げた。
……タイムカードは勤怠打刻の時に音がする。周囲の視線と注意を逸らすために、通話を終えた風を装い、携帯をポケットにしまった。
その時、オフィスの電話が鳴り響く。俺はそのすきにタイムカードを打刻すると、ポケットの中に手を突っ込んで、早足でオフィスを出た。
「また無言電話かよ……」
「ワン切り流行ってんのかねぇ……」
そんな会話を背に受けて、携帯を開く。通話時間3秒の通知が入っている。
廊下に出てしまえば、あとは資料を読む素振りをしながら横切る人々に挨拶をするだけだ。他部署の人間はこちらを気に留める素振りもない。それどころか、一般通行人としか認識しないだろう。
この時間はエレベーターが混みあうので(同志諸君で!)、階段を小走りに歩いていくのが良い。ここで課長にぶつかると後々大変な目に遭うので、移動は迅速に、かつ細心の注意を払って。
ちょうど2階の踊り場で、見覚えのある顔とすれ違った。心臓がギュッと締め付けられ、全身に鳥肌が立つ。哀愁漂う丸い背中と、横向きのバーコードが顔の横を通り過ぎる。
幸い、敵は歩きスマホに夢中でこちらが視界に入らなかったようだ。仕事中にスマホを弄るのは、やめようね!
さて、職場を出てしまえば、あとは自宅に戻るだけだ。早歩きで会社から可能な限り遠ざかり、最寄りの駅まで急ぐ。時間によっては、敢えて逆方向の環状線に乗ることで、上司との不幸な接触事故を避けることも可能だ。『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』。定時に帰るためには、社員の勤務スケジュールを把握していなければならないのだ。
薄暗がりの洞窟の中から、二つの光が迫ってくる。四角い顔をした電車が駅のホームに停車した。額には名札のように行き先が記されている。顔を下ろし、前髪の隙間から伏兵を警戒する。ドアが開き、車体がはち切れんばかりに搭乗していた人の波が溢れ出す。続々と現れる見知った顔の赤の他人をやり過ごした後、行列は群がるように電車に入っていく。
車内のシートには老人と、若者、隣席に肩を預けて眠りこける人などがある。余談だが、皆は隣席の人が眠ってしまい、自分の肩に顔を預けてきた時どうする?静かに起こす?そのままにする?え、性別による?
いや、割と俺はそのままにするんだよ。気持ちよさそうに寝てるの起こすとかわいそうに思って。勿論おっさんでも、おばあちゃんでも。一回俺がやらかした時は肩で頭撥ね飛ばされたんだよなぁ。あの時は、こっちが悪いんだけどなんかもやっとした。
電車に乗ってしまえば、後は顔を隠してやり過ごせばいいだけだ。変に目立つ動きをしなくても良い。僅かに顔を擡げて、ポケットから取り出した携帯を弄るだけでいい。
しかし、ちょっと注意しなければならないことがあるんだな。
電話がバイブする。全身の血の気が引き、背筋が凍り付いた。
画面には、「西町課長」の文字が記されている。
(嫌だ!戻るのは嫌だ!!)
思わず周囲を見回した。こちらを発見されたわけではない。誰も俺に視線を合わせていない。俺にしかこの画面は見えていない。
このまま出ないでやり過ごすか?後日取引先に行ってましたって言う?いやいや、それで嘘ついたとき一回バレただろ。ダメダメ。
逡巡するうちに電話が切れた。ほっと胸を撫で下ろすのも束の間、今度はメールが寄越される。「稲美係長」からのメールだ。吐き気と眩暈が襲ってくる。この人自身は別に怒らないが、かえって恐ろしいのだ。なぜならば、白状してしまうと口が軽いのですぐに広まってしまうからだ。一番嘘をついちゃいけない人物で、以前取引先に行ったと嘯いたときも、この人にやられた。
ノリで敵といったが、悪い人じゃないんだよ……。素直で大仏みたいないい人なんだけど……こう、定時ダッシュするときだけは天敵なんだよ……!
流石に係長を無視するのは憚られるので、メールを開く。
『 飯にピザ頼んだけど要る?帰っちゃった?』
(帰っちゃったっ!!!)
つーかさ。タイムカード打刻したの確認した後にこのメールくるの普通に狂ってると思うんだよな。労基呼べ、労基。
未読の青ラインが消え、既読になる。さて、どう返したものか。素直に答えようものなら、ピザを囲んだ部下たちに、ぽろっと係長が口を滑らせるだろうし、かといって嘘を言えば係長経由で課長にバレて電話越しにど叱られるだろうし。とにかく素直だからかえって難しいんだよな……。あー、ピザ食いたい。
既読無視をしても特段問題はないとは思うが……。後日改めて答えてもそれはそれで気まずい。取り敢えず、ここは「もう食べちゃいました。ありがとうございます」と答えておこう。
小さくため息を零し、目的地まであと一駅。ここまでくれば電車もがらんどうで、空席も見られるようになる。空になった座席を睨みながら、僅かな時間を携帯を弄ってやり過ごす。検索履歴にいよいよ(自主規制)が並び始めるころ、二回目の着信があった。
「西町課長」だ。今度のは出ないと翌日に響く。朝礼終わりに最悪の気分で仕事を始めなければならない。思わず歯軋りをし、可能な限り引き延ばす。着信は止まらない。脂汗が鼻の上に浮き始め、周囲からじろじろと視線が向き始める。
着信を一旦拒否するか?改めて出直した時しっとりとした詰問が待っているんじゃないか?
車内アナウンスが響く。この状態で出るのはまずい!相手に現在地を晒すようなものだ!俺は高鳴る心臓の鼓動を抑えて、着信を拒否した。
車内がしん、と静まり返る。ゴールを告げるアナウンスが二度繰り返された後、車掌から案内が入る。そして、窓の向こうに、コンクリートの支柱で支えられた地下の摩天楼の姿が現れた。
眩いほどの蛍光灯の明かり、主張の強い自動販売機の光。電車が息を零して停車し、けたたましい電子音を奏でて扉が開かれる。
俺はその一歩を踏み出す。もう何も、怖くない!
三度目の着信は、荒々しい怒鳴り声から始まった。