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3-5


 便所へ行った帰り、工場内や倉庫、漁具置き場、調理場などの見回りをしていた時、背後から声をかけられた。

 

 振り向くと、よくフレアと一緒にいる雑務工の女子が二人。一人はノートを大事そうに胸に抱えている。それと、金属か何かでできた、ボールペンみたいな筆記用具も持っている。この世界のメジャーなペンらしいけど、まるでシャープペンシルみたい

に定期的に頭をカチカチして、物理的にインクをペン先に送るという作業が必要な代物だった。


「おっと。どうしたの?」


 二人はやけに頬を赤らめながら「あの……今日の内務に関する事で、聞きたい事がありまして……」と片方が切り出す。俺はどこかなと聞く。

「四字熟語の(すい)(せい)無魚(むぎょ)という言葉についてです。どうしても気になるのですが、この言葉の解説で雑務長どのは、人間社会も戒令が厳し過ぎて悪人がいないようでは逆に生活がし

づらいとおっしゃいましたよね?」


 無垢な瞳だ。

 無垢であどけなくて、そして――。


「ああ、そうだったね。何か、異論かな?」


 ――鋭い。


 鋭利だ――。


「はい」


 ――純粋が故の、錆や曲がり、刃こぼれの無い澄み切った刃のように、

 清らかで真っすぐで、透き通っている――


「人々を管理してある程度の規律が無ければ、必ず人は抜け道を探して好き放題するので、秩序や成果の安定がなくなるんじゃないかと思います」


 なんだろう。上手く説明できないけど、

 ガチガチに凝り固まった考え方だな。十代のそれとはとても思えない。


「君は確か……」「リアナです。こっちは同期のケシャ。歳は私の二つ上ですけど」


 リアナの方が背が高く髪も長いが、年上のケシャは小柄でボブカット、そばかす顔だ。

 二人とも、黒に近い濃い紫色の髪色をしている。


「そうか、リアナ。規則は厳しければ厳しいほど、良いと思うかい?」

「はい。そうでないと、求められる結果が出ないのではと、私は思います」

「……おーけい。じゃあ、ケシャはどう思うの?」


 俺は、自分と同じくらいの高さにある両目を見つめて問いかける。真ん丸な目は一瞬、動揺したように左右に素早く揺れたあとに、リアナと同じく「私も、同じ意見です」と早口の回答。


 俺は傍にあったドラム缶を引き寄せてそれに凭れかかり、「そうか。その考え方は尊重するよ。じゃあ、悪は一切、必要無いという風に捉えている、って事でいいかな?」と尋ね

てみた。

 その問いに、二人が同時に頷く。


「じゃあ重ねて訊くよ。悪とは一体、何の事を差しているんだろ?」


 この質問は意外だったようで、二人は口元に力を入れた少し滑稽な表情のまま、しばし黙り込んでしまった。


「どんな意見でもいい、聞かせて」


 やがて、リアナがためらいがちに口を開いた。ちょっとぎこちない口調で「貧しい事」と言った。声に力が無いが、俺は「なるほど。どうして?」とそっとリードする。


「お、お金が無いと美味しいものを食べられないし、欲しいものも買えないし、心配がつきないし、生きることそのものに精一杯になってしまって、こうして本当は学業に打ち込むは

ずの時間を仕事につぎ込んだりいなければいけなくなるからです」


 ケシャもうんうん、と真剣な表情で頷いている。


 俺は正直、心を揺さぶられていた。


 こんな、自分よりも七つも八つも若い十代の女の子が、こんな考えを抱くくらいに追い詰められる貧富の格差が、この世界には横たわっている。

 世界が変わってもなお、こういう問題は人々を苦しめるのか。


 元の世界ではもう経済的な成功なんてさっくり諦めてたけど、そんな嫌な面が異世界にまで鉤爪を伸ばす。

 それでは、俺独自の見解を振るわせてもらおう。


「じゃあどうして貧富の差があると思う?」「それは、わかりません。考えても私にはきっとわからない」


「そうか。それはね、人間の本質だからだよ」


 二人、顔を見合わせる。


 外から響いてくるエンジン音や、プロペラが風を切る音が、風向きや船の速度の具合で大きくなったり、小さくなったり、変なリズムに聴こえたりした。

 老朽化したパイプのどこかからしきりなしにシューシューと音を立てて漏れる蒸気がたまに頬を撫でて、内容の重苦しさにも関わらず、この議論はどこか愉快で快感だった。


「貧しい人が出る事も、本質なんですか?」と首をかしげるケシャ。

「そうだよ。それに直面する事に意味がある。そこを切り開くために模索し、いろんな場所へ出ていこうとする者にはね。現に二人、経済的な問題を解決するために、こんな遠路は

るばる家を離れてきている。そして、こういう状況に直面して、自分でなんとかしようとしている。これに価値があるんだ。目の前の問題の、もう一個向こう側にあるものを見よ

うとしてごらん。きっと、いい風に捉えられるから」


 自分でもうまく説明なんてできない。

 俺だってまだまだ二十五年しか生きてないんだからさ。

 そこは勘弁してほしい。


 だけどね、これは本音だ。


 どうしても、二人に伝えたかった。


「わかりました。最後に、雑務長は悪と善、どちらを応援したいですか? その両方に、自分が本当に欲しいものがあるとして」


 今度は俺が考えさせられる番だった。


「それは……その時になってみないとわからないな」



 監務室に戻ってからも、暫くはさっきの会話と二人の様子が頭から離れなくて、目が冴

えてなかなか眠れなかった。


「俺の発言、支離滅裂だっただろうな。あー恥ずかしい。このまま海に飛び込んでしまいたいくらい恥ずかしい……今アデノ俺だたら絶対に言わない事ばっかり言っちゃった」


 俺自身がヒヨッコだというのに、まだまだ羽ばたく事を知らない、ましてや世界のまだほんの一部も知らない彼女ら未来の卵を割ってしまわないようにしないとな。



 人の上に立つ、ってのは、誰よりも神経を遣う事なんだな。


 かつて嫌いだった上司も、こういう気持ちを味わったりしていたのかなと思うと、なんともしんみりした気分になった。


 窓の外を見る。穏やかな月明かりに照らされた海面が、妙に騒がしく波が立っているように見えた。




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