3-2
汽笛が鳴る五分前に目が覚めるようになった。
「ねっむ......」
あまり睡眠が足りてないような気がする。
重たい頭を起こし、防水ブーツに足を差し込んでベルトを締め付け、二、三回踵を床板に打ち付けて気分も整える。
わざと前歯の隙からスーッと音をさせて息を吸い込み、深呼吸をする。
「よし、今日も大漁でありますように」
歯を磨いて、鏡の中の自分に謎の合掌。
……いや、この朝のルーティンは実は元の世界でもやってたけどさ。自動車部品を製造するラインで働いていた、これまでの日々。
正直、仕事が楽しいなんて感じた事なかったし、ワクワクすることも……………………あー、ボーナス前日くらいしかなかったなぁ......どうだろう。
もう元の世界に未練なんて無いかな。うん。
「おはようございます、雑務長」
工員の一人が話しかけてきた。
「おはよう~ギヴァン。あれ? 髭剃っちゃったの?」
「ええ、イメチェンしようかなと。娯楽の無い船の上じゃ、自分自身を玩具にするしかなくて」
「含蓄のある言葉だねえ。手帳にメモさせてもらうよ」
「ははは。そういえば、かれこれ二週間くらい経ちますよね。慣れましたか? こっちの
世界の感覚には」
「なんだろ。たぶん、ようやく準備体操が終わったところって感じかな~。正直、まだもう少し
時間が欲しいわ」
「ははは。そうですか、そうですか。若いんですから、焦らずに。今日もよろしくお願い
しますね」
「うん、お気遣いありがとう――あ、そうそう」
「はい?」
「髭が無い今のほうが、イケメンだよ」
「ふっ。またまた。人を褒めるの本当に上手ですよね」
こうして親し気に話しかけてくれる部下の工員らの名前も少しずつ覚えてきた。
この船での俺はモブの作業員ではなく役職もあって(これに関してはチートみたいなもんだけどさ、もらえるものはもらっときゃいいじゃんね)みんなが俺を気遣い、認め、一個の存在としてしっかり扱ってくれる。
代替え可能な歯車でしかなかったこれまでの――ああもう〝前世〟と呼んでもいいかなここまできたら――あの頃からは想像もつかない、バラ色の日々が今、目の前に、俺の中に確かにあるんだ。
この実感を夢で無いとしたら、一体なんと言う?
「さぁ~て、仕事仕事。今日もしっかりやりますか~っと」
監務室の自分のデスクについて日誌の記入を始めたところでドアがノックされ、「ちょっといいですか」と来客があった。
作業服に防水エプロンを掛けたレックス職長と、同じ格好の上に、まだ型の崩れてない真新しい上級船員の帽子をかぶって息を弾ませているのはギョロ目のマードック漁撈長。
俺が「おはよ、どうしたの」と声を掛けるも、双方の表情が優れないので、俺も眉間と下腹にぐっと力が入る。嫌なニュースか。悲報か。
「潮流が、悪いんです」と開口一番、声が重いマードック。
「そうか……」
「…………」
「あ、あの、了解」
歯切れ悪いなw
報告? 相談? 連絡? どれ?
レックス職長がマードックの腰を突っつき、「いつもと違う流れ方をしてるから、こういう日は漁はお預けだ。刺し網が悪くなる可能性があるから、控える。今日は内務に切り替えになる」
俺に助け船を出してくれた。手にはクリップボード。そして俺が返事をするより前に、マードックも慌てて「船長にもこの旨、確認済みですので」と付け加えた。
ここではそういうやり方らしい。
難しく考えなくていいだろう、中高の部活でも雨の日は体育館で筋トレしたり、旧校舎で階段ダッシュしたり、自習室で勉強会になったりしたから、それと同じような感じだと思う。
「おっけー。ん~っと。船長がそう言うのなら仕方ないな。日誌にも書いとくよ。今日はグモアは一度も飛ばさないんだね?」
「ええ、今日は漁師も工員らもみんな内務に回します。うちの連中には修繕をさせようかと思うんですが」
「了解。ごめんね、打診を受けた上でこんな質問して悪いんだけど内務って、いったい何をするの?」
「まあ船内部品の修理とか掃除、整理整頓とかですかねえ。環境改善的な」
なる~ほど~。
前の世界でも月に一回あったわ。型落ちのボロい社用車の洗車とか、敷地内の草むしりとかの、実質パシリング・ダルビッシュボーンな活動が。
査定を人質にしてさ。やらされるのよ。都合よく。
「なるほど、それはいいね。ちょうど飲料水タンクを修理する必要もあるし」という俺はたぶん遠い目をしていた。気がする。
「ええ。それとは別ですいませんが、ハルキさんだけ船長に個別に呼ばれてます。船長室までお願いできますか?」
「俺が? うん、いいけど」
二人は以上の伝達を終えて報告書関連を俺のデスクに提出すると、扉を閉めて、それぞれの持ち場へ戻っていった。
俺はとりあえず水を飲んで気分を切り替えた。
なんだろう、船長に直々に呼び出されるなんて。
ばちくり緊張する。
もしかして、一気に副船長への昇進とかだったりして?
極秘の宝の地図が網に絡まって見つかったから、こっそり私と山分けしないか?
船に美人の芸人が来るから私と接待を受けて腰を鳴らしてみないか?
「ぐぃっふ。ぬくぬくぱああ......」
なんてウキウキしながら、艦橋のすぐ下にあるひときわ豪華な扉の前に立つ。表札部分には『船長 イアン・ヴェルトハイマー』とある。なんかすごい格式高い感じの響きだな。
「はぁあ。緊張」
深呼吸してドアをノックして、返事があり、十五秒くらいして扉が開いた。