(9)
比奈さんが仲間を呼んでいる。
帰り際、駐車場の端っこでしゃがんでいる比奈さんを見つけた。少し離れたところに白猫がいて、比奈さんと見つめ合っている。
比奈さんが手を出すと、白猫はゆっくり歩み寄って、頭を差し出した。なんだ、あの癒やしの空間は。
距離をとって見ていると、比奈さんがこちらに気づいて手招きした。僕が近づいて猫が逃げてしまわないか心配したが、比奈さんに撫でられるのに夢中のようだ。猫は僕に構わず、ゴロンと腹を見せた。
「比奈さん、猫が好きなんですか」
「うん。猫推し。結城君は?」
「もちろん、ひ……猫推しです」
危うく、比奈猫推しだと答えそうになる。これはもしや誘導尋問だったか。
「僕もちょっと前までキジトラの猫を飼ってたんですよ」
「そうなんだ。もう飼わないの?」
「ゴロウが亡くなってから、他の猫を飼う気になれなくて」
「大切な猫だったんだね、ゴロウちゃん」
ゴロウめ、比奈さんにちゃん付けされるとは。ちょっとだけ、あの世のゴロウに嫉妬してしまう。
「そう言えば、比奈さんのマンションには猫いなかったですよね」
「うちはペット禁止だし……」
と言いかけたところで、比奈さんの動きが止まった。
「比奈さん?」
もしや電池が切れたかと思うほどに、完全にフリーズしている。
「くしっ」
少しして比奈さんがくしゃみをした。時間を確認すると、午後五時四十三分。
「くしっ、くしっ」
くしゃみ二連発。新しいパターンに驚いていると、比奈さんは涙目になりながらマスクをかけた。
「わたし、猫アレルギーなの」
「それはなんというか……ご愁傷さまです」
「くしっ」
僕がもし、比奈猫アレルギーだったら、きっと神様を恨んでいたに違いない。もしや、いつもの比奈さんのくしゃみもアレルギーが原因だろうか。少なくとも、比奈猫アレルギーではないだろうが。
比奈さんがくしゃみをしない。
お昼だというのに。十二時を回ったというのに。僕にとっては大事件だ。ちょっと長めに彼女を見つめてしまう。
いつもなら、すぐに弁当を食べる比奈さんだが、ずっと座ったままぼうっとしている。
「比奈さん、お昼、食べないんですか」
「……うん、ちょっと食欲がなくて」
そう言うと、比奈さんはやっとバッグから弁当箱を取り出した。
「結城君、食べて」
比奈さんが弁当箱を僕に差し出す。前にも同じ事があったが、それよりも比奈さんが心配だ。
「大丈夫ですか? 具合が悪いんですか?」
「そんなことないけど」
「じゃあ、ダイエット……なわけないですね」
そんな話をしていると、比奈さんは急にぽやぽやした顔になって、そのまますとんと電池が切れた。
「比奈さん?」
結局、比奈さんは昼休みが終わる直前まで眠っていた。そして、目を覚ましても、いつも以上に虚無の表情になっている。
「本当に大丈夫ですか、比奈さん」
「……ちょっと寝不足なだけ」
「パンだけでも食べます?」
「……うん、ありがとう」
比奈さんにあんパンを渡すと、両手で持ってそのまま口を開けた。
「比奈さん、食べるなら、袋は開けた方が」
彼女は寝ぼけているのか、包装袋ごと食べそうになった。僕は袋を開けてもう一度渡す。なんだか子供に食べさせている気持ちになる。
普段テキパキと仕事をこなす比奈さんだが、午後は明らかに様子がおかしかった。目を覚ましてからも、手は動いているのだが、同時に頭もふらふら動いていた。
午後五時二十七分になっても、やはり、比奈さんがくしゃみをしない。
僕としては心配で仕方ない。比奈さんがいつもと違うのは明らかだ。定時就業のチャイムが鳴ると、比奈さんはまたしても、すとんと机に伏せて寝てしまった。
「比奈さん、寝るなら帰ってからの方が」
すやすや眠る比奈さんに、僕の声は届かない。放っておくわけにもいかず、僕はとりあえず見守るしかなかった。
「結城君、どうかした?」
席の後ろを通りかかった川島先輩が、僕らの様子に気づいて声をかけてきた。
「比奈さんが寝ちゃったんです。声を掛けても起きないし、どこか具合が悪いんでしょうか」
「たまにこうなるのよ、この子」
と、パシャリと一枚写真を撮りつつ、比奈さんの顔を覗き込む。
「昨日、なんか飲んじゃったかな」
「飲んじゃった?」
「この子、カフェインとか駄目なのよ。飲むと一睡も出来なくなるんだって」
言われてみると、比奈さんはいつもココアや麦茶を飲んでいるイメージだ。フレンチ試食会の時もお茶やコーヒーは出なかった。僕としたことがそんな事にも気づかないとは。推しとして先輩に負けた気がして悔しい。
「結城君、悪いんだけど、連れて帰ってあげてくれない?」
「はい?」
唐突に言われて声が裏返る。
「帰り道、あちこちにぶつかりそうで危ないから」
「それだったら、川島さんが」
「わたし、帰り道真逆だし、まだ仕事残ってるのよ。結城君なら大丈夫でしょ?」
「大丈夫って何がですか」
「比奈ちゃんの家、知ってるよね? よろしくね」
川島先輩は言うだけ言うと、立ち去ってしまった。連れ帰れと言われてもどうすればいいのか。僕は比奈さんの横顔を見つめて途方に暮れてしまった。