(7)
比奈さんが眉間にしわを寄せている。
最近は僕の前で天使や小悪魔の顔を見せてくれる比奈さんだが、会社にいるときにこういう顔をすること自体は珍しい。そんな顔でも可愛いと思えてしまうのは、僕が比奈さん推しだからだろうか。
「比奈さん、具合悪いんですか?」
「ううん、目に何か入っちゃったみたいなの」
「まつ毛とか入りやすそうですもんね」
大きな目に、くりっとカールした長いまつ毛。目が細い僕と比べれば、十倍は入りやすいに違いない。
「ちょっと、見てもらえる? 右目なんだけど」
比奈さんに言われて、その目を確認する。黒目がはっきりとして大きく、少し潤んでいるせいか、キラキラして見える。なんて綺麗なのだろう。同じ人間とは思えない。
「どう?」
見とれてしまっていた僕は、比奈さんの声で我に返った。
「ち、ちょっと待ってくださいね」
僕もそれほど視力がいい方ではないので、細かいところまではよく見えない。近づいて確認すると、目の下側の端っこに、それらしきものが見えた。
「やっぱり、下の方にまつ毛が入ってますね」
と言ってから、どきりとした。比奈さんの顔が、眼前数センチのところにある。こんな間近で見たことなど、当然ない。
僕が慌てて離れると、クスリと比奈さんが笑った。
「ありがとう。取ってくるね」
席を離れる比奈さんの背中を見ながら、深呼吸をする。今、比奈さんが少しだけ小悪魔の表情を見せたような気がしたのは、気のせいだろうか。
「結城君さあ、比奈さんとどういう関係?」
給湯室でコーヒーを入れていると、市原が声をかけてきた。
「何、急に」
「最近、妙に仲良さげになってるって噂だよ」
頭の中が真っ白になる。いつの間にそんな噂が。
「同僚だから、話ぐらいするよ」
「さっきの、いちゃついてるように見えたけど」
比奈さんの目を確認していたところを見られたらしい。
「あれは、目に何か入ってないか見て欲しいって、お願いされただけだよ」
「ふーん?」
市原は完全に疑ってかかっている。比奈さんの為にも、妙な噂はかき消さなければならない。
「僕は比奈さん推しなので。そういう噂は困るんだよ」
一瞬の沈黙が訪れる。市原は眉をひそめてこちらを見た。
「……それって、好きってことよね?」
「スキ?」
僕は比奈さん推しだ。アイドルみたいなもので、応援したいと思える存在。もちろん、近くにいたいと思うのは本当だが、異性としてどうとか、恐れ多くて考えられない。
「比奈さんはそういうんじゃないって」
「くしっ」
最も聞きたくないタイミングで、くしゃみの音がした。恐る恐る隣を見ると、比奈さんがこちらを見上げていた。
「比奈さん、いつからそこに」
「呼ばれたかなと」
比奈さんが人に忍び寄るのはいつものことだが、よりにもよってこんな話をしている時に。
比奈さんはどこまで聞いていただろうか。いや、それよりも変な誤解を受けないためにはどう説明すればいいのか。
いよいよ頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。
「結城君が、比奈さん推しだって言うんですよ」
「推し?」
僕の様子を見かねた市原がフォローを入れてくれた。
「比奈さんに尽くすってことじゃないですか。こき使ってやってください。……ね、結城君?」
「え? まあ、はい」
急に振られて、空返事をしてしまう。
比奈さんは綺麗な瞳で真っ直ぐ見つめてくる。その表情からは、どんな感情なのかは読み取れない。
「……何か、やれることあります?」
「じゃあ、お願いがあるんだけど」
比奈さんに連れてこられたのは、備品庫だった。
「そこの棚の上に箱があると思うんだけど、高すぎて取れないの」
比奈さんが指差す棚を見上げる。確かに比奈さんの背丈では届かなさそうなところにダンボール箱が置いてある。
「了解です。任せて下さい」
とは言ったものの、思ったより高い。背は高い僕でも、踏み台が必要そうだ。隅から小さい脚立を持ってきて、棚の近くに置きながら、ちらりと比奈さんの顔をうかがう。
天使でも悪魔でもない、虚無の表情。普段通りといえばそうなのだが。
「あの、比奈さん。さっきの話、聞いてました?」
「聞いてないよ」
比奈さんは即答した。僕は少しほっとして、棚の上に手をかける。
「結城君、わたし推しなの?」
「聞いてたんじゃないですか」
危うくダンボール箱を落としかけた。地獄耳の比奈さんが聞き逃す訳はないのだ。僕は観念した。
「正直に言います。僕は比奈さんを推させて頂いております。比奈さんはとても可愛らしいので、その……」
猫みたいだ、と付け加えようとする前に、比奈さんが側に寄ってきた。
「他にはいる?」
「他と言いますと」
「推し」
比奈さんは変わらず虚無の表情だが、目が心なしか泳いでいる。
「……僕は比奈さん一筋です」
「そっか」
ほんの一瞬だけ、天使が現れたような気がしたが、すぐにいなくなってしまった。
「……ありがとう」
比奈さんは僕が抱えるダンボールからバインダーをいくつか取り出すと、そのまま出て行ってしまった。
ひとり取り残されて冷静になると、今の会話が脳裏に蘇る。僕はとんでもない宣言をしてしまったのでは。どさくさに紛れて可愛いとか言ってしまったし。
ふと、比奈さんが言った〝ありがとう〟がどういう意味かちょっと引っかかったが、多分考え過ぎだろう。