(6)
比奈さんはオートロック付きのマンションに住んている。
ロビーで事前に聞いた部屋番号を押すと、聞き慣れた声が返ってきた。
「いらっしゃい。どうぞー」
僕は開いた自動ドアをくぐり、エレベーターに乗る。深呼吸をして、高鳴る鼓動をなんとか抑えつける。落ち着くのだ。これはあくまで〝試食会〟なのだ。
比奈さんは僕の何気ない言葉を受けて、フレンチに挑戦する気になったらしい。焚き付けた結果となった僕には、出来栄えを評価する義務があるというのが、彼女の主張だ。
八階の一番奥が、比奈さんが住む部屋だ。僕はドア前に立つと、もう一度大きく息を吐いて、インターホンを押した。
『開いてるよ。入ってきて』
「し、失礼します」
ドアを開けた瞬間、美味しそうな香りが漂ってくる。僕は緊張しながら靴を脱いだ。
「ようこそ」
僕を出迎えたのは、エプロン姿の比奈さんだった。申し訳ないが、お手伝いをしている子供にしか見えない。とにかく可愛い。
「なんだか、すみません」
「なんで謝るの」
反射的に謝ってしまい、咳払いで誤魔化す。
「こちらへどうぞ、お客様」
比奈さんにダイニングに通される。窓際に花柄のクロスがかけられた、小さめのテーブル。その中央には細めの花瓶にピンク色の花が生けて置いてある。ちょっとしたレストランといった雰囲気だ。
「へえ、お洒落ですね」
「でしょう。結構こだわったんだから」
比奈さんは嬉しそうに答えると、椅子を引いてくれた。
「お料理をお持ちしますね」
スキップしてキッチンへ向かう比奈さんの背中が微笑ましい。こんな幸せなひとときを過ごしていいのだろうか。今度こそ、帰り道で通り魔に刺されたりしないだろうか。
「くしっ」
キッチンからいつものくしゃみの音が聞こえてきた。時計を確認すると、十二時十四分。これはどういうタイミングだろう。いつもに比べるとちょっと中途半端だ。
しばらく待っていると、今度はキッチンタイマーの音がした。時刻は十二時十七分。僕は膝を打った。比奈さんは、何かに備える時にくしゃみをする癖があるのだ。どういう理屈でくしゃみが出るかは、結局よくわからないのだが。
「難しい顔して、どうしたの?」
時計を見つめて考え込んでいるうちに、比奈さんがトレーを持って隣に立っていた。
「ちょっと、人体の神秘について考えていました」
「前菜のマリネだけど、食べれる?」
比奈さんは不思議そうな顔をして、僕の前に皿を置いた。
「もちろんです! 皿ごといただかせていただきます」
「皿は残してね。あと、いただきますで大丈夫だよ」
比奈さんがクスクス笑っている。僕は何をテンパっているのだ。
「どうかな? この前の料理を、忠実に再現してみたんだけど」
比奈さんの期待の眼差しを感じる。正直、緊張で味どころではないが、ここで期待を裏切ってはいけない。
「口に入れた瞬間に、海の幸の豊かな味わいが広がりますね。はちみつの風味が魚の臭みを抑えていて、絶妙なバランス感が、もはや芸術の域ですね」
比奈さんはうつむいた。しばらくの沈黙の後、小刻みに震えだしたかと思うと、突然笑い出した。
「ダメ、無理」
比奈さんが盛大に笑っている。笑われた事よりも、比奈さんが遠慮なく笑ってくれたのが、なんだか嬉しかった。
「笑ってごめん。わたしが知りたいのは、美味しいか、そうじゃないかだけ」
「そんなの、美味しいに決まってるじゃないですか」
「よろしい」
比奈さんが嬉しそうに皿をキッチンに下げていく。その背中を見ながら、神に祈る。通り魔に刺されるなら、せめて事前に麻酔的なやつをお願いしますと。
比奈さんは、料理がプロ級だ。
前菜の後に出された料理は、彼女が独自に作り出したフレンチだった。見た目の色鮮やかさ、食欲をそそる香り、そして何より、食べて美味しい。いわゆる五感で楽しむ料理だ。僕はグルメというわけではないが、これはもう、こう言うしかなかった。
「大変、美味しゅうございました」
「お粗末様でした」
大天使比奈様の笑顔が弾ける。このまま永久に時間が止まればいいのにと思ってしまう。
「これ、お金取れますよ」
「ホントに? お世辞でも嬉しいな」
「マジです。なんなら払わせて頂きたい」
その時、気づいた。僕は比奈さん推しなのだ。これは推し活の一貫。必要経費の出し惜しみはしない。
「嬉しいけど、これはこの間のお礼だから。今度また、試食してくれればいいよ」
「こっ、今度があるんですか」
「結城君が付き合ってくれれば」
僕は思考停止した。付き合うとは。いくらなんでもいきなり過ぎないか。推しだと認識したばかりだというのに、なんという急展開。神様、僕はあとどれくらい生きられますか。
「あ、付き合うって、試食会にだからね?」
「もっ、もちろん心得ておりますとも」
小悪魔比奈さんがクスクス笑っている。天国から地獄に叩き落される。いや、結局比奈さんといられるのなら、やっぱり天国なのだろうか。