(3)
比奈さんは、時々何もないところを見つめる。
元々ぽうっとした雰囲気の人なので、物思いにふけっているだけかも知れない。
しかし、天井の一点をずっと見つめられると、ちょっと怖い。
「くしっ」
お昼前のくしゃみが出た。最近、これを聞いたら仕事スイッチが自動的に切れる体質になってきた。
いつものように弁当を広げるのかと思いきや、彼女は急に席を立った。コートを羽織ってマフラーを巻いている。
「あれ、今日は午後休でしたっけ」
「コンタクトが破れちゃったから、買ってくる」
「大変ですね。お気をつけて」
視力は良さそうに思っていたが、コンタクトだったとは。比奈さんの背中を見送っていると、急に席に戻ってきて、バッグから何かを取り出した。
「結城君、食べて」
僕の席に二段重ねの弁当箱が置かれた。大きめだが、見た目は可愛い色合い。今日の中身はなんだろう。などと考えている場合ではない。またしても不意打ちを食らって、僕は思考がぐるぐる回ってしまった。
「まさか、僕のために」
「ううん、食べる時間がなさそうだから」
即座に否定されてちょっと悲しい。
「でも、いいんですか」
「悪くなっちゃうし、結城君、ろくなもの食べないだろうし」
「……まあ、否定はしませんが」
確かに、今日も買ってきた白あんぱんで済ますつもりだった。
「ありがたくいただきます。でも比奈さんは?」
「わたしは外で済ますよ」
比奈さんは軽く手を振ると、部屋を出ていった。
弁当箱を開けて、ひとまず拝んでおく。二度と食べられないだろう、ご馳走である。ミートボールに、卵焼き、きんぴらも入っている。味は美味しいに決まっている。
カメラに収めようかギリギリまで悩んだが、思い留まった。沈黙が支配するこの部屋では自殺行為だ。
幸せな時間はすぐに過ぎ去るもの。あっという間に頂いてしまった。せめてものお礼に綺麗に洗って返すことにする。
結局、比奈さんは昼休みが終わる五分前に戻ってきた。
「お昼食べそこねちゃった。弁当、美味しかった?」
「はい。至福のひとときでした。あの、白あんぱんならありますけど」
「じゃあ、貰おうかな」
比奈さんがあんぱんをかじっている。
小顔だからか、やたらあんぱんが大きく見える。その姿を見ているだけで、なんだか癒やされてしまうのだった。
比奈さんが獲物を狙っている。
物陰に隠れて、廊下の向こうの様子をうかがっているようだ。
「比奈さん、何してるんです?」
後ろから声をかけたせいか、彼女は飛び上がった。というのは、僕の誇張だが、とにかく驚かせてしまったようだ。彼女は少しむくれた顔をした。
「すみません、急に声をかけて」
「しっ」
比奈さんは人差し指を唇に当てた。ひとまず僕も同じように隠れる。
廊下の向こうで誰かと立ち話をしているのは、部長だ。声がやたらでかいのですぐわかる。
僕たちの部署を仕切る高橋部長。体育会系だが、切れ者でもある。ただ、身体も声も大きいので、怖がられ気味だ。
比奈さんも例に漏れず怖いのかと思ったが、そうでもなさそうだ。どちらかと言えば、じっくりと相手を観察しているように見える。
「じゃあ、よろしく」
部長が話を終えると、比奈さんは足音も立てずに素早く駆け寄っていく。
「うおっ、なんだ、比奈」
今度は忍び寄られた部長が驚いている。
「右脇のところ、破けてます。直しますから、貸して下さい」
部長は慌てて右腕を上げた。僕は目を凝らしてみるが、ここからではよくわからない。比奈さん、視力は悪いんじゃなかったっけ。それとも事前に察知して言い出すタイミングを計っていたのか。
「すまん、助かる」
比奈さんは部長からジャケットを受け取って、いつもの窓際の席に座った。縫い物も完璧な手際で、ものの三分で直してしまった。
「流石です。女子力高いってやつですね」
席に戻ってきた比奈さんに言うと、彼女はいきなり僕に耳打ちしてきた。
「パンツ脱いで」
いつもの如く不意打ちを食らって、鼓動が高鳴る。
「左ポケット、破れかかってるよ。ついでに直しちゃおう」
確認してみると、確かにつなぎ目のところがほつれているようだ。
「本当だ。でも、着替えとかないし」
「座ってればわからないよ」
「いやいや、それはちょっと」
「いいから、脱ぐ。こういうの、気になって仕方ないの」
「追い剥ぎじゃないですか」
結局脱がされた挙げ句、近くの同僚にからかわれてしまった。もしかして、驚かせた仕返しだろうか。