(2)
比奈さんはお腹がよく鳴る。
「きゅるっ」
その音は、それほど大きくないので、多分僕にしか聞こえていない。僕は聞こえてませんよ、という雰囲気を出すため、キーボードを強めに叩いたりする。特に本人は気にする様子はないのだが。
「くしっ」
彼女がくしゃみをしたので時計を見る。お昼の三分前。もしかすると、お腹が空きやすいのだろうか。ご飯時が近くなると、それがくしゃみとなって現れたり。
どう理屈をこねてみても、ちょっと違うような気がする。
比奈さんはしっかり食べる。
いつも自身で作った二段の弁当を机に広げる。女性にしてはガッツリした量で、僕でもお腹いっぱいになりそうだ。
「欲しいの?」
「いえいえ、自分で作られたのかなと思って」
見ているのを彼女に気づかれ、慌てて誤魔化す。
「料理するの好きなの。結城君はいつもパンだよね」
「ああ、はい。なんだか面倒くさくなっちゃって」
「しっかり食べないと駄目だよ」
「そうですよね」
これは明日、僕にも作ってきてくれる流れかと思ったが、特にそんな事はなかった。
比奈さんが、じゃれている。
帰り際、自販機の前でかがみ込む比奈さんを見つけた。床との間のわずかな隙間に手を入れている。何かを落としたようだが、その姿が、逃げ込んだ虫を追いかける猫に見えてしまう。
「どうしたんですか?」
「指輪を落としたの」
彼女の手は小さいので隙間に簡単に入るが、同時にリーチが短いので奥まで届かない模様だ。
「僕がやりますよ」
スマホのライトで照らしてみると、奥の方に反射するものが落ちている。
僕は近くのトイレからホウキを持ってきて、掻き出してみた。金属的な音がして、銀色のリングと五百円が出てきた。ホコリにまみれていたのでウエットティッシュで拭く。
「ありがとう。大事にしてるものなの」
「五百円はどうしましょうかね」
「総務に預けた方がいいね」
総務の人に五百円を預けて、そのまま二人で会社を出る。何気に初めての事かも知れない。
「それじゃ、お疲れ様でした」
挨拶するが、比奈さんはこちらをじっと見たまま動かない。
「どうかしました?」
「お礼に、ご飯でも行かない?」
予想外の言葉に、今度は僕の方が固まってしまった。
比奈さんが、会社の外で隣りにいる。
ちょっとおしゃれな雰囲気のパスタ料理の店。僕は緊張で何を話したらいいのか、わからない。
「指輪、拾ってくれてありがとう」
「大したことじゃないですよ。というか、お礼なんていいんですよ。むしろ、僕が払いますから」
「ダメ。感謝の気持ちは素直に受け取りなさい」
「……はあ、なんだかすみません」
確かにあの指輪は結構高そうな代物だったが。そんなに感謝されるなんて思わなかった。
「比奈さん、指輪なんてしてましたっけ」
「ううん、あれは大きすぎて指に合わないから、いつもは財布に入れてるの」
「もしかして、婚約指輪ですか」
「まさか。お守り代わりだよ」
心底ホッとしてしまい、顔に出ていないか心配する。
「それより結城君、今日わたしのこと見てたでしょ」
「えっ」
不意打ちを食らって声がうわずる。これはまずい。比奈さんがくしゃみをするのを待ち構えて、チラチラ見てしまっていたのだ。
「……すみません、実はずっと気になっていて」
もう、くしゃみが聞けなくなるかも知れないが、正直に言うしかない。
「やっぱり気づいてたんだ」
「はい。でも、僕は可愛いと思いますけど」
「それ、本当かなぁ」
比奈さんが真っ直ぐ僕を見つめてくる。なんて綺麗な瞳だろう。ふと、その時、彼女の雰囲気がいつもと少し違うような気がして、視線を上げた。それに反応した比奈さんが、素早くおでこを隠す。
「今朝ね、前髪が伸びてきたから整えようとして、ちょっと切りすぎちゃったの。やっぱり変だよね」
「……ああ、そっちですか」
僕は拍子抜けしてしまい、つい笑ってしまった。
「どっちだと思ってたの」
「いえいえ、似合ってると思いますよ、本当に」
僕は慌てて誤魔化すと、パスタを口に詰め込んだ。
僕の名字は結城だが、女性の顔を真正面から観察する勇気はないのだ。むしろ、気づかなくてごめんなさい。
「くしっ」
彼女がくしゃみをしたので、反射的に時計を確認する。午後六時五十七分。これも定期的なものだろうか。
「なんか、ニヤニヤしてない?」
「いえいえ、僕はこういう顔です」
比奈さんが少し頬を膨らませている。その顔を見られただけで、凄く幸せな気持ちになってしまった。